登校
久々に外に出ることで感じた春の陽気は、とても心地よかった。
風に揺れる草木のざわめき、そこら中から聞こえる小鳥のさえずり。それらは、聴く者に癒しの効果をもたらしてくれる。
そんな環境の中、学校へ向かう魁斗は……。
汗だくで自転車をこいでいた。
勾配のそれほど高くない、普通の人ならば自転車でも立ってこいだら楽々上れる坂道。それを魁斗は、必死に、しかし亀のようなスピードで上っている。
引きこもり生活のツケが早速回ってきたのだろう。体力の低下は、確実に魁斗を苦しめる原因の一つになっていた。
しかし、最大の原因は他にあった。
「はぁ、はぁ」
息も絶え絶えになりながら、最大の原因を確認するため魁斗はちらっと後ろを見る。すると、そこには鼻歌交じりに自転車の後ろに腰掛ける、一人のお荷物の姿があった。
「お、重くないからね、私! 進まないのは平野君のせいだから」
視線に気付いた様子のお荷物、佳恋が、目で訴えかけていた魁斗の意図を読み取って反論してくる。さらに、
「秒速だいたい三十センチくらいだから、あと五分くらいで着くかな?」
などと、冷静な分析を飛ばしてくる。
一般的な男子高校生にとって、かわいい女の子と自転車二人乗りというイベントは、羨ましいシチュエーションランキングでも上位に食い込むはずなのだが、様々な付加価値が与えられたこの状況は、魁斗にとって苦行以外のなにものでもない。
そこからさらに、十メートルほど進んだところで体力の限界がきた。
「もう……無理……」
声の限りに叫び、地に足をつける。立ったまま重心を自転車に預け、呼吸を整え始めた魁斗に横へ並んだ佳恋が、冗談めかした顔で文句を言ってきた。
「もうちょっと頑張ってくれないとー」
「汗一滴かいてないお前に言われたくねえ!」
「まぁまぁ、そう怒らないの。さ、早く行くよ」
誤魔化すように言い捨てると、佳恋は魁斗を置いて陽気に歩き始めてしまった。
「あ、おい」
そう声をかけても、佳恋が足を止めることはない。
魁斗は仕方なく、回復仕切っていない体に鞭を打ち、自転車を押しつつ小走りで追いかけた。
前を歩く佳恋にようやく追いついた魁斗は、理不尽な現状に異を唱える。
「これ、お前の自転車だろ。なら、自分で押していけよ」
「嫌だ。疲れるもん。それに、その自転車私のじゃないし」
「は?」
訳が分からず歩みを遅らす魁斗に、一定の速度で歩き続ける佳恋が答える。
「ちょっと急いでたから、鍵のかかってないやつ借りて来たんだよ。お昼休みの間に返せば、大丈夫だと思って」
「それダメだろ!」
わざとらしく、てへっなどと言いつつ後ろを振り向く佳恋に、反射的に叫んでしまった魁斗だった。しかし、なるほどと思考を切り替える。
佳恋が何故、平日の真っ昼間に自分の家へ来たのか不思議で仕方なかった魁斗だが、今が昼休み中というのなら納得がいく。おそらく、この時間を利用して魁斗を連れ戻しに来た、ということなのだろう。
だがこのとき、ある疑念が魁斗の頭をよぎっていた。
「昼休みが終わるのって、いつだっけ?」
「ん? えっと、一時二十分かな?」
質問の意図が読み取れなかったのだろう。佳恋は、すこし戸惑った様子で答えを返した。
そこへ、魁斗が間髪入れずにもう一球質問を投げかける。
「じゃあ、今は?」
今度は、なるほど、といったふうでポケットからスマホを取り出し時間を見せてくる佳恋。
「昼休み終わってんじゃん!」
画面に表示されていた時刻は、一時三十分ジャスト。そう、これこそが魁斗の頭をよぎった疑念の正体だった。
学校から魁斗の家までは歩いて三十分ほど、自転車でも十五分はかかるだろう。つまり、往復三十分は下らないと見て、まず間違いはない。
それに対して、昼休みは四十分と定められている。ようするに、残りの十分で魁斗を連れ出す予定だったはずなのだ。
しかし実際に、佳恋が魁斗を連れ出すのに要した時間は約二十分。事実、超過分の十分が現在の遅れとなっているわけだが。
時間を確認した後も、特に変化もなく隣を歩く佳恋には、焦りの色がまったく見えない。
そんな考え事をしているうちに、ようやく魁斗にとっては一週間ぶりの懐かしき学校が見えてきた。
そして、
「さ、はやく!」
先に校門をくぐった佳恋が、急かすように、だが柔らかい笑顔で迎えてきた。
魁斗は、それに何故か懐かしさを感じながら小さく相槌を打ち、続くように校門をくぐった。