転機
「こんにちは、平野君」
そう笑顔で挨拶をしてきたこの女こそが、数分間に渡るインターホン激押し魔の正体だった。
まだ若干の幼さを残しているが、整った目鼻立ちの顔。そよ風になびいているためか、より一層つやの際だつ長い黒髪。すらっとした細い体にはよく似合う学生服。胸の紋章を見ると、魁斗と同じ、鳶尾高校の生徒だと分かる。一言で言えば可愛い。
様々な感情が入り交じり、何も言えずに立ち尽くす魁斗を気にもせず、女子生徒は話を続ける。
「覚えてる? 野中佳恋だけど。高校のクラスメイトの」
そう言われても、魁斗は佳恋という女子生徒のことを思い出せないでいた。
「悪いんだけど、まったく覚えてない」
なんせ、三日しか学校に行っていないのだ。クラスメイトの名前など覚える前に引きこもってしまった魁斗。
「……。そっか。まあ、しょうがないね」
苦笑いをした佳恋は、背負っていたリュックから一枚のプリントを取り出して、魁斗に手渡す。
「なにこれ?」
そこに書かれていたのは、魁斗が想像だにしなかったものだった。
「任命証。第一学年平野魁斗。あなたを私立鳶尾学園高校、第五期、生徒会企画係に任命します。って書いてあるでしょ?」
魁斗に渡したプリント、もとい任命証の本文に当たる部分を抜粋し、暗唱した佳恋。確かに一言一句違わずにそう記載されている。付け加えれば、ちゃんと校長の名前と判子つきで。
「は、はい?」
いきなりすぎる展開について行けない魁斗。
「ようするに、平野君が生徒会の企画係に選ばれたってことだよ」
「いや、嘘だろ? だって俺立候補とかしてないし。第一、不登校だし」
平然と説明を続ける佳恋に、魁斗は必死で反論した。
「確かに立候補はしてない。でも、とある人に推薦されて手続きは全部終わってるんだよね。あとは、君の意志だけなんだよ」
誰かに推薦される心当たりなど、一切ないのだが。魁斗はようやく状況を把握し始めた頭をフル回転させる。
「とある人って誰? なんで俺なの? だいたい、こんな薄っぺらい紙見せられたくらいで信じられないんだけど」
「誰の推薦か、なんで推薦したかは、本人の希望で答えられないの。ごめんね。ちなみに、その任命証はコピーだから」
「随分身勝手な推薦人だな、おい。コピーってことは本物はどこにあるの?」
自分のことを棚に上げて、毒突く魁斗。それを気にする様子もなく、佳恋は質問に答える。
「学校にあるよ。取りに行く?」
「……行かない」
不登校生徒としての躊躇いが、魁斗にそう言わせた。
すると、佳恋はいままでの穏やかな声音から一転し、慌てた様子になる。
「な、なんで? 行こうよ、学校!」
形勢逆転といったふうに、今度は魁斗が落ち着き払う。
「なあ、お前今日さ、俺の意志を確認しに来たんだよな。なら、俺の意志はノーだ。その企画係とやらは引き受けない。じゃあな」
啖呵を切って、魁斗は開いていたドアを閉めた。
すると、佳恋は外側からドアを叩きながら大声で、開けろだの、出てこいだのと叫び始めた。
インターホン激押し魔の正体も分かったので、このまま放置するのも一つの手ではあるのだが……。ドアを叩く佳恋の叫び声がうるさくて仕方がない。声はそれほど大きくないのだが、なにせよく通る声なのだろう。ドアという防壁など無意味に思えてくる。
放っておくと近所迷惑で訴えられそうなので、とりあえずドアを開けることにした。
「なんでいきなり閉めるのよ!」
「悪かったから静かにしてくれ。で、なに?」
ようやく声のトーンを下げた佳恋は、今度は真面目な面持ちで繰り返す。
「お願いします! 生徒会に入って」
頭を下げる佳恋を見て、魁斗は怯む。
「……仮に俺が断ったら、どうなるんだ?」
「とても困る」
「そうじゃねえよ! 企画係には誰が就くんだってこと!」
天然なまさかの答えに笑いを堪えながら再度問い直す魁斗。
「……決まってない」
「…………」
さて困った、と魁斗は心で呟く。
目の前には、落ち込んだ様子の可愛い女子。その原因は、魁斗の手にある突然の任命証だろう。これを、魁斗が承諾すれば万事解決。佳恋の悩みもなくなり、魁斗自身も引きこもりの重圧から解放され、晴れて普通の高校生活を送れる身となる。だが、学校へ行けば今まで自分の恐れていた、自尊心の欠如や恐怖心といった感情と闘わねばならないわけで。
「あのー、大丈夫?」
考え込んでいた魁斗を気遣うように、佳恋が声をかけてきた。
「うん、大丈夫……。よし、企画係引き受けるよ」
口から飛び出したのは、とんでもない言葉だった。
すると、一気に表情を明るくした佳恋が捲し立てる。
「ほんとに!? ありがとう! じゃあ、早く制服に着替えてきて! あっ、ちゃんと寝癖も直してきてね」
嬉しそうな佳恋をみると、今更訂正することなどできなかった魁斗。
「い、今から行くの?もう昼過ぎだし明日でも……」
「ダーメ! 今すぐ行くの!」
ちょっとした抵抗ではもうビクともしない佳恋。魁斗は、仕方なく了解の意を示し支度をしに家の中へ戻った。
癖毛持ちのせいもあるのか、中々に手強かった寝癖を直し、まだ真新しい制服に袖を通す。ものの十分もしないうちに支度を終えた。
そして、魁斗は外へ出た。