白露の候
残暑も未だ厳しく、暑気あたりを防ぐためにも御堂杜惟は常に水筒をぶら下げて歩いていた。
昔ながらの竹筒が粋と、そんなこだわりを理解してくれる友人は少ない。これが見知らぬ他人ともなれば、仮にも爵位持ちがなんとみすぼらしいものをと眉を顰められるのが常であった。
「伯父様、お出かけですか?」
床の間がある座敷から、姪の鏡子が顔を出す。
「おう。行ってくらあ」
格子戸を抜ければ、夏の盛りよりは幾分か落ち着いた蝉の声が杜惟を迎える。
「お気をつけて」
送り出す言葉に背を向けたまま顔だけ振り返って、杜惟はにかりと笑った。
妻のいない杜惟にとって、自分を送り出しその帰りを待つ人間がいるということは何となく面映ゆいものがある。ガラじゃあねえなとカンカン帽を押さえ、杜惟はくるりと一度、竹筒を回した。
杜惟は自身が好き勝手生きてきた自覚がある。小金持ちの家に生まれ、両親が見栄張りだったのをいいことに高等学校に進み、運よく大学にまで滑り込んで道楽をするように研究に溺れた。同輩どころか後輩までもが自身を追い越して社会に出、結婚し所帯を持っていくのを横目に、ひたすら好きなことばかり追い求めてきたのである。
好きなことを仕事にするのは難しい。杜惟は運良くその幸運と巡り合い、家督も親も面倒なことをすべて弟に放り投げて顧みなかった。その必要があるとすら思っていなかったのだ。
だが、時は巡る。つい先日尋常小学を卒業したばかりのように思っていた弟の結婚式の招待状が届き、長女と次女の誕生の知らせを受け取るに至って、ふと里心がついたことに気がついた。
十数年ぶりの故郷は杜惟に不愛想で、見知っていた町並みがどれもこれも彼から顔を背けているように感じた。
肩に担いで帰った鞄は父母にずた袋と酷評され、いつの間にか父そっくりになっていた弟が、これまた母そっくりの妻の隣で目の前に立つ男が兄なのか気がふれた浮浪者なのか、判じかねるといった表情をしていた。
姪は、長女が鏡子、次女が桜子といった。
まだ幼い子供たちには、お上品にお行儀よく澄ましている祖父母や父母よりも、そんな彼らに粗野だなんだと苦言を呈される杜惟の方が親しみやすかったらしい。うまく回らない舌でおじさま、おじさまと後をついて回る鏡子は子犬のようで、いつ行ってもにこにこ笑って迎えてくれる桜子は雛人形のようだった。
いつまでも妻を娶らずわけのわからない研究をしている杜惟は、ただその職業が帝大の教員であるというその一点だけで田舎の父母を鼻高々とするには十分だったが、それも当の杜惟本人が顔を出さなければの話である。田舎華族が地元の名士を気取り、名家だなんだと格式ばることが好きな父母にとって、洗いざらしで寸足らずな着流しとカンカン帽姿でどこへでもひょいひょい出かける長男は我慢ならぬ醜態を晒しているのだそうだ。
弟は弟で、地元に残らざるを得なかった鬱屈と都会で好き勝手生きている兄に対する羨望と嫉妬、劣等感などが絡まって、些細な会話すらぎくしゃくしてしまう。弟の妻に至っては、どうやら初対面で野卑な男だと見限られたらしく、猫の方が愛想が良いくらいの木で鼻を括ったような対応しか返ってこない。
そんな間違っても居心地が良いとは言えない実家にたびたび足が向いたのは、跡取りになれる男子ではないと本人たちにはどうにもならない理由で軽んじられ、窮屈そうに寄り添って生きる姪二人が気にかかって仕方なかったからだ。
姪たちへの土産を詰めるために、ずた袋と称された鞄は角をなめし革で保護した旅行鞄になり、鏡子を連れて歩く時にかどわかしと間違えられないよう寸法のあった着物を誂え、床に臥すことが多い桜子が暇を持て余すことがないよう、ガラじゃないとぼやきながら女児向けの雑誌や人形を買い求めた。
隠し子でもいたのかと驚く友人は拳で黙らせ、折を見て姪たちを見に田舎に戻るようになって何年か。女学校を卒業した後の未来に悩む鏡子に、いっそ思い切って自分のところに来てみるかと誘いをかけようと、いつもより落ち着きなく旅行支度をしている時のことだった。
杜惟の実家、御堂邸が焼け、鏡子ひとりを残して家人全員が焼け死んだとの電報が入ったのは。
取るものもとりあえず、ちょうど研究室に顔を出した学生の襟首を引っ掴んで杜惟は汽車に飛び乗った。
火は不審火とされた。原因は不明。放火の可能性も視野に入れて捜査しますという担当刑事の言葉とは裏腹に、捜査は早々に引き揚げられた。お上の方から何か声がかりがあったらしいとは風の噂。杜惟は独り残された鏡子を引き取り、幾ばくかの遺産を継ぐことになった彼女の後見人となった。
難しい手続きは連れて行った学生を使ってやらせた。政財界問わず子弟の類はどこにでもいて、ややこしく面倒なことは最小限で、父母や弟夫婦を墓に入れ、焼け跡からは簪しか見つからなかった桜子の葬儀を出した。
葬儀の後、鏡子は一度だけ泣いた。自分が泣いているのだと、自覚していない泣き方だった。それがなんとも言えず憐れで、杜惟は気づかなかった振りをした。
心を置いても時は進む。傷ついた心を緩やかに立ち直らせ、いつの間にか杜惟よりも家中に詳しくなった鏡子をまるで彼の内儀のようだと揶揄されるに至り、ようやく杜惟は彼女の嫁ぎ先を考えねばならぬことに気が付いた。
火事の件以来、鏡子は杜惟の家で暮らし、行きたがっていたひとつ上の女学校にも通わせてやることができていた。両親祖父母が死なねば望みが叶わぬとは皮肉な話だが、彼女が立ち直った理由のひとつに学友たちの存在があることを杜惟は何とはなしに察していた。
食事の席では会話はせぬものと躾けられていた鏡子が、あれこれと身振り手振りで話す杜惟につられてぽつりぽつりとこぼす女学校の話は、そのほとんどが学友たちの話だった。杜惟にも覚えがある。勉学などよりも、学友たちとの下らぬやり取りの方がよほど愉快で通ったものだ。
その学友たちが期待と不安を綯い交ぜに語る将来の夫というものを、鏡子にも見繕ってやらねばならぬ。
杜惟は奮起した。亡き桜子の分までとは言わぬが、それほどの意気込みで四方八方調べて回った。
まず、飲む打つ買うの趣味を持つ男は論外である。同性としては遊びを知る男の方が付き合い易いが、良き夫となるかと思えばそうはいかない。浮気は男の甲斐性だなどと言ってのける輩は、どれだけ富があっても鼻につく。大事な姪を嫁になどとは、間違っても考えられぬことであった。
火事の報せを受けて駆け付けた時、同行した学生が鏡子のことを憎からず思っている様子だったのに、応援するどころか妨害に回ったのはそのためだ。秘書のようなことをやらせていることもあり信用はしているが、女関係のだらしなさも重々知っている。望まれて嫁ぐのが女の幸せとは言うが、望む先がころころ変わるような男に任せるつもりは微塵もなかった。
かと言って、無骨に過ぎれば他ならぬ鏡子が苦労をするだろう。杜惟が連れて来た相手ならと、きっとあの娘は文句ひとつ言わずに嫁いで行ってしまう。心を通わせられる程度にいは、社交性がなければならぬ。
学生時代の悪友たちも巻き込んで、鏡子の夫探しはちょっとした騒動になった。終いには、あまりにいろいろな候補を見たせいで、一体誰にしたものやらとわけがわからなくなる始末。
(そうして結局落ち着いたのが、俺の教え子だったのだから面白い)
研究室の机を、研究資料ではなく見合用の釣り書きで埋めて唸る杜惟を訪ねて来たのが泰孝だった。北の寒村から、文字通り身一つで出て来た異国の血が混じった青年。幾ら誘っても博打も女遊びも付き合わないのだと、同年代の者からはからかい混じりに責められていたことを思い出し、ふと考えたのだ。この青年では如何であろうかと。
頭の中で鏡子の隣に泰孝を並べてみて、悪くないなとひとつ頷き。郷里に許嫁や、それでなくても想いを残した女はいるかと、尋ねた時の青年の表情は実に見ものだった。どちらもおらぬと否定が返れば、にんまりと上がる口角は隠しきれない。
そうして吉日に二人を引き合わせ、晴れて彼らは許嫁となった。いや、今は婚約者と言うのであったか。まだまだぎこちなさは抜けないようだが、祝言は次の初夏である。あまり仲良くなり過ぎても困るので、もどかしさもまた一興かと杜惟は帽子のつばを引き下げた。
「あっちいなあ」
帯にさした扇子を取り出しはたはたと仰ぐ。
茶屋の軒先には水ようかんののぼりがまだ揺れていて、買いに寄るかと杜惟をしばし悩ませた。
道中二度ほど竹筒をあおり、目的の場所に着いた頃にはすっかり軽くなった竹筒を満たしついでに桶とひしゃくに水をくむ。
そうして、真新しい石に対面した。
「よう。また来てやったぞ」
御堂の名を刻む墓石は、郷里から中身だけをそっくりこちらに移し替えたものである。
本当ならば先祖伝来の土地に一族の墓地なるものがあるのだが、弟夫婦や父母亡き後、郷里にいるのは顔も名前もしかとはわからぬ繋がりの薄い親族ばかりである。どうせ管理もろくにできぬと、遺産となった家も土地も早々に売りに出し、仏壇と墓の中身だけをこちらに持って来たというわけだ。
墓誌に刻まれた文字はまだ黒々と艶めかしく、ぱしゃりと水をかければさらに艶が増した。
手を合わせて目を閉じれば、まだ自身が郷里を走り回っていた頃にまで記憶は戻る。あの頃も、ちょうど今のような時期、父母に連れられて墓参したものだった。
本家の長男というものはなかなかに厄介なもので、ほんの幼い時分から弟には免除された催し物にも無理矢理連れ出されたものだった。その度に逃げ出して、父母はもちろん当時は存命だった祖父母にすらこっぴどく雷を落とされたのだったか。
連れ出してやればよかったのかもしれないと、杜惟は今更になって悔いることがある。あの時、母に手を引かれ、ただただじっと、大人しくしていた弟を。
桶をさかさまにして残った水もすべて石にかけ、枯れた供花を代わりに放り込む。確か、すぐ傍に捨て場があったはずだ。
そりが合わずとも、血の繋がった父母であり弟であった。文句を、恨み言を言われるとわかっていても郷里に足を向けたのは、不憫な姪たちを気にかけてでももちろんあるが、それでも彼らを家族だと思っていたからだ。
祝言を挙げても、鏡子は変わらず杜惟の家に住む。泰孝が下宿を引き払い、婿養子のような形で同居するのだ。ただふたりの家族と離れたくないのだという鏡子の我儘を、泰孝が聞いてやった形である。
今帰ったと呼びかけて、お帰りなさいと応えが返る。或は、行ってくると声をかけ、行ってらっしゃいと見送られる。なかなかどうして面映ゆいが、けれど今更取り上げられては途方に暮れてしまうだろう。
(もっとも、アイツにしてみりゃ災難だろうが)
鏡子に惚れたからには諦めてもらわねばならぬと、杜惟は苦笑した。
からんころんと下駄が鳴る。再び水で満たした竹筒を揺らして、不意の風に飛ばされぬよう、カンカン帽を片手で押さえた。




