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酒場にて


 ディルアが勤めていた酒場は、思ったよりも小洒落た建物だった。

 全体的に古いし、小さな建物で、外から見ただけでも客席の数には推測がつけられたが、壁にも窓枠にも、簡素だが洒落た装飾が施されていて、僅かながら華やいだ雰囲気がある。貧しい者ばかりが暮らすこの街にあって、こういう店は珍しい。この街に住む者のほとんどは、建物どころか自分の衣服にも、装飾を施す余裕なんてないことが多いのだ。

 リィラは酒場の入口の扉に、赤色の紙が貼られていることを確認すると、躊躇うことなく扉を開けて中に入った。

 赤色の紙は不浄の紙だ。この酒場は殺人の現場となった場所で、したがって死の穢れに触れている。赤色の紙はそのことを周囲に報せるために役人が貼るもので、この紙が貼られた建物は例外なく忌まわしい殺人の現場となった建物だった。それで赤色の紙は死の穢れの象徴的なものとされ、赤色の紙は不浄の紙と呼ばれている。この紙が貼ってある建物は、役人が調査をしている途中の建物だから、事件と関係のない者は入ることを禁じられていたが、たとえ禁じられていなくてもそんな忌まわしい場所に好んで近づく者などいないだろう。全く無関係の者がこうした建物に入ってくるのは、役人が調査を終え、罪人が捕縛され、咎消し人が訪れて穢れを拭い去るための清掃をした後だ。不浄の紙を剥がすのは咎消し人の役目で、ディルアが捕縛されたというのにまだ不浄の紙が貼られたままになっているということは、まだリィラの同輩たちは誰もこの建物の清掃には来ていないということだ。つまり、中は現在、無人である。それでリィラは安心して室内に足を踏み入れることができた。

 内部は狭かった。扉の内側はすぐに客間で粗末な木製の卓と椅子が並んでいる。あの日以来、足を踏み入れた者などほとんどいないのだろう。卓上にはうっすらと埃が積もっていた。換気も充分にされていないのか、なんともいえない妙な臭いも鼻につく。何かが腐ったような臭いもうっすらと混じっていた。どこかに生ごみか残飯が残されていて、それが時間の経過に伴って腐敗しているのかもしれない。

 リィラは客間を見渡したが、客間の様子はありふれた酒場のそれで、特に何も変わったものはなかった。それでまっすぐ奥のほうに向かう。奥の壁に一つだけ開口部があった。扉のないそこを通ると厨房で、この酒場には床というものがないのだと、それで分かった。客間も厨房も、土がむきだしの土間だったからだ。

 厨房の土間にはまだ生々しい血痕が残っていた。普通の人間であれば目を背けるだろう光景だが、元軍人であり、この種の現場にはすでに何度も清掃で訪れているリィラにとっては見慣れたもので、特に何の感情も湧かなかった。むしろ血痕の状態を目にすることができたことで、死亡した店主がどういう状態で致命傷を負ったのか、容易に想像がつくようになった。

 店主はどうやら刺された時、水場で皿を洗っていたらしい。作業用と思しき大きな卓の上には水桶が載っていて、中に何枚かの皿が残っていたからだ。水はすっかり蒸発してなくなっているものの、明らかに洗いかけと分かる状態で皿が放置されている。リィラはその卓に向かって立ち、皿を洗っている体勢をとってみた。その状態で背後を振り返ると、自分のすぐ後ろに粗末な板戸が見える。歩み寄って板戸を少し開けてみると、板戸の向こうはすぐに路地のような狭い道になっていた。この板戸がおそらく、ディルアが逃走する犯人を見たと言っていた裏口だろう。犯人がこの裏口から酒場に入ったとしたら、店主は皿を洗っている最中に突然、背後から刺された可能性もある。店主はほとんど抵抗もできなかったかもしれない。犯人が侵入したのは、最初から店主を殺害するためだったのだろうか。それとも、単なる物盗りだけが目的で侵入し、中に入ってもしも人がいたら殺しても良いかという思いでいたのだろうか。どちらもありうるとリィラは思った。裏口から入れば、すぐに包丁を置いた棚に手が届く。物盗りが目的で侵入して、中にまだ人がいたために咄嗟に殺そうと判断したのだとしても、すぐにその場で凶器を手にすることができたのだから。

 リィラは厨房を見渡してみた。竃の傍にはこれまた粗末な、梯子のように急な階段が上へと伸びている。ずいぶん危ない造作だな、とリィラは思った。この場所にあることからこの階段は客用のものではなく、店主か使用人が使うものだろうと推測がついたが、上にいる時に万一にも厨房から火が出たらどうするつもりだったんだろう。

 そう思いつつもリィラは階段を上っていった。上にあるのはおそらく使用人の控え所か、さもなければ店主の居室だろう。それならば絶対に調べておかねばならない。

 階上も狭かった。階段を上がりきると、廊下とも呼べない狭い板間の空間があって、そこにぎっしりと木箱や何かの布包みや、雑多な品々が所狭しと積み上げられていた。かろうじて人が一人そっと歩けるほどの隙間を歩くと、粗末な引き戸がある。そこを開けるとヒュレイリュが棲みついていた雑居家の個室よりは多少ましという程度の小部屋があった。足を踏み入れなくても部屋の様子は見て取れる。布団があって棚があって、その間に生活用品の数々が乱雑に散らばっていた。この部屋に、店主は住んでいたのかもしれない。

 リィラは心の中で店主に、無断で居室に入ることを詫びてから室内に入った。習慣でなんとなく引き戸を閉め、棚の探る。咎消し人が清掃をした後、引き取り手がいなければこれらの私物は処分されてしまうことになる。その前に何としても、調べておきたいことがあった。店主を本当に殺したのは誰なのかということだ。勿論、リィラとて私物を調べたからといって店主を殺した犯人が分かるとは思っていない。店主は顔見知りの誰かに恨まれたのではなく、単なる行きずりの強盗に襲われたかもしれないからだ。それなら店主の私物を調べたからといって手がかりになるような何かが見つかるはずもない。しかしディルアが虚偽の罪を着せられたことが明白となると、そもそも店主がどうして殺されねばならなかったのかをリィラは何としてでも知らねばならなかった。こうなると、店主の殺害は必ずしも偶然に起きたものとは限らない。ディルアを排除するために誰かが意図をもって店主が襲った可能性もある。だとしたら犯人は何らかの形で役所と関わりがあることになるのだろうが、それならどうしてディルアの素性のほうが自分の素性よりも先に役所に知られてしまったのかが気になった。自分は毎日のように役所の者と接触しているが、ディルアはあくまでも酒場の使用人だ。暮らしのほとんどは夜間に営まれ、給仕ではないから不特定多数の人々の前に顔を見せることもない。役所など、捕まるまで足を踏み入れたこともなかったはずだ。ディルアの存在を脅威に感じるほどの地位の者はまず、こういった安酒場には立ち入らない。そういった者たちが好んで出入りするような高級な店は、この辺りには存在しなかった。にもかかわらず、どうしてディルアの素性が役所に知れることになってしまったのだろう。ディルアの素性が知られていて、なぜ自分は無事でいられたのだ。

 棚のなかには、たいしたものはなかった。男物の衣服と日用品らしい細々としたものが押しこめられているだけで、書類の類いはほとんどなく、趣味や娯楽に用いる物も少ない。あまりにも見事に当たり前の物しかなさすぎて、ふいにリィラは、この店主の個性というものは何だったのだろうと思ってしまった。

 思わず溜息をついて、棚の抽斗を閉める。そのときふいに、リィラは全身が緊張するのを感じた。

 ―誰か、来る。

 リィラは反射的に隠れられる場所を探した。無断でここに入っていることが知られたら大事になる。万一にも今、リィラが侵入盗の疑いで捕縛されるようなことになったら面倒な事態になることは必至だ。ひょっとしたら、リィラが捕まることでフィレーラにまで迷惑をかけてしまうようなことになるかもしれない。それだけは絶対に避けなければならなかった。

 だが狭い部屋の中には隠れられる場所などなかった。リィラは焦燥を感じながら全身を耳にして、新たに入ってきた誰かの気配を探る。どうやらまだ階下の酒場にいるようだった。安普請の建物だ、壁も天井も薄いのだろう。誰かと誰かが話している声が、足下から微かに聞こえてくる。しかし、内容までは聞き取れない。それでも入ってきたのが一人ではないことだけは分かった。

 声は次第に近づいてくる。どうやら厨房に入ってきているらしい。言葉も僅かに聞き取れるようになってきた。それでようやく、やって来たのは役人たちらしいと分かる。会話の端々に聞こえる単語からそのことが推測できた。リィラは思わず唇を噛んだ。役人が、いったい今さら何をしにこんなところへ来たのだ。

 リィラは役人たちの不意の訪問の意図を察しかねていたが、それでも訪問者たちの正体を悟ると、音を立てないよう静かに踵を返して、部屋に一つだけある窓に向かった。役人たちがこの部屋に入ってくるのは時間の問題に思われたからだ。慎重に板戸を押し上げて、窓を開ける。貧しい街の安酒場であるだけに窓に硝子などは入っておらず、板戸を開けると何もない窓枠の向こうはすぐに隣家の外壁が迫っていた。この辺りは粗末な木造の建物が密集していて、建物と建物の間にほとんど隙間がないことが多い。常々、火災が起きた時が怖いとリィラは思っていたが、このぶんだと狭い隙間は見通しが悪いだろう。役人も見落とすかもしれない。

 リィラは後ろ向きになって慎重に窓から外に出た。両腕で窓枠にぶら下がって身体を支える。その状態で左足を伸ばして隣家の外壁を踏み、さらに慎重に左手を離して同じように外壁に触れた。左の手足と右手で身体を支えながら、慎重に右足を動かして酒場の外壁を踏んで身体の落下を防ぐと、慎重に右手を返してすでに閉まりかけている板戸を摑んで静かに窓を閉める。これで何とか、リィラは役人に見咎められる危険を回避することができた。

 しかし勿論、両手両足を突っ張らせて身体を支えるという無理なこの体勢は長くは保てない。リィラは体力には自信があったが、この状態のままここに身を隠し続けるのは不可能だった。それに危険でもある。もしも今、窓を開けられたら、身動きがとれないリィラは咄嗟の防御が遅れるだろう。そこに万一にも上から攻撃されたりしたら大怪我するかもしれない。

 リィラは自分の真下に視線を向けた。地面まではさほど距離がなかった。この建物の天井高は低い。少しでも資材を節約しようとした安手の建物にはありがちな造作で、二階建ての建物も、通常の二階建てほどの高さはなかった。おかげで、リィラの足の下はすぐに地面だ。幸いだった。これなら音を立てずに飛び降りれるだろう。怪我をすることもあるまい。

 そのことを確認すると、リィラは両足を外壁から離した。両腕だけで全身を支え、息を整えて両腕も離す。一瞬の間をおいてリィラは綺麗に足から着地した。ほとんど音もしなかった。

 地面に下りるとすぐに足音を立てないよう、狭い隙間を静かに歩いた。外壁の端に近づくと、リィラは慎重に表の街路を覗きながら外に飛び出す機会を窺う。街路に出るのは、付近に役人も、兵士もいない時のほうがいいだろう。自分はこの街では、罪人を意図的に逃亡させて行方を眩ましている存在なのだから。

 表の街路に人通りはほとんどなかった。リィラが酒場に入る前と、何も変わったところはない。閑散としているのも相変わらずだった。無論、付近が静寂に包まれているのは今が昼だからだろう。昼に酒場が建ち並んでいるこの区画が賑わうことはないし、そうでなくても不浄の紙の貼られた建物の前をあえて通る物好きはいない。逃げるなら今だった。今のうちにこの建物から離れ、役人の目に触れないところまで移動したほうがいい。リィラは意を決すると、街路に走り出た。

 しかしリィラが逃げることはできなかった。リィラが街路に走り出るのとほとんど同時に、目の前の、同じような安酒場の建物と建物の間から、数人の男たちが滑り出てきたからだ。

 男たちはリィラの前を塞ぐように出てきた。リィラは急のことに思わず一瞬、足を止めてしまったが、男たちが兵士の装束でも、役人のお仕着せでもない普通の衣を着ていたことに安堵して、彼らの横を急いで通り過ぎようとした。しかしその前に、リィラはなぜか男たちに腕を摑まれ行動を妨げられたのだ。リィラは驚いて咄嗟に抵抗しようとしたが、男たちに声をかける間もなくリィラの口は男たちの手で塞がれてしまう。男たちの動きは迅速で、言葉を発することも全くなかった。

 リィラは男たちの手によって、自分が何か布のようなものを口に押し当てられていることには気づいていた。だがそれだけで、それ以上のことは何も分からなかった。口を塞がれると同時に意識が揺らぎ、ほどなくして何も感じることができなくなったからだ。


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