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冤罪

「お前はいったい何を考えている!」

 室内にヒュレイリュの怒声が響き渡った。凄まじい剣幕でさすがのリィラも思わず身を竦めてしまった。

「―大きな声を出さないでよ。私たちがここにいるって、周りの住民に知られたらどうするのよ」

 リィラは小声でヒュレイリュを諫めた。いまリィラたちがいるのは、リィラがヒュレイリュと再会した路地からほど近い、古びた小屋とも倉庫ともつかない建物の中だ。廃屋になって久しいらしく、物資の類いは置かれていない。がらんとした空間に、自分たち三人の姿だけがある。

 この廃屋の持ち主が現在どこにいるのかはリィラも知らない。この街にはこういった持ち主も用途も不明な廃屋が少なからずあって、リィラもヒュレイリュも地区ごとに幾つかを把握していた。今日のように追われた場合に、緊急的かつ一時的な避難場所として使うためだ。そもそもリィラはこの国に入った時からすでにお尋ね者の身であったため、こういう咄嗟の時に身を潜められる手頃な隠れ場所をどうしても確保しておく必要があり、そのために把握しておいたのだ。隠れ場所として廃屋が利用できることはヒュレイリュに教えられた。身元に気づかれて役所に、あるいは兵士に追われれば、宿や雑居家の利用は難しくなる。けどそうなった場合は付近に放置された廃屋が役に立つのだと。とりあえず急場をしのぐために身を隠す程度であれば、それで充分だし、確実に侵入しているという証言でもない限り、警邏の兵士は廃屋とはいえ個人の所有する建物には、まず無断で入ってこない、だから当座は安全を確保できると、彼はそのように言っていた。

 ヒュレイリュは溜息をついた。リィラの言葉を聞いてか、今度は小声で、しかし忌々しそうに言う。

「強盗殺人犯を逃がした罪でお前が追われるような事態になったらこいつが助かっても何の意味もないだろう」

 どういう意味よ、私はとっくに追われてるわよ。リィラはそう反論した。

「そもそも私は母国を追われてこんな異国の地まで逃げてきているのよ。この期に及んで追跡の手がちょっとくらい増えても大した問題じゃないわよ」

「問題なら大いにあるだろうが。強盗殺人犯を連れて逃亡しているような人間を、いったいどんな物好きが支援してくれる?下手に関われば役所に捕まるんだ。今のままじゃ誰もお前を支援してはくれないだろう。そして支援が得られなければ同志は集まらないし、同志が集まらなければ私はお前を国に帰してやることができないんだ。お前だってこの国で身を隠したまま、生涯を終えたいわけじゃないだろう?頼むから役所に目をつけられるようなことはしないでくれ。今から私はこいつを兵士に引き渡しに行くぞ。今ならまだ間に合うかもしれん。お前はここに隠れていてくれよな。今ならまだ、私が街路で捕縛したことにしてこいつを役所に突き出せば、お前の行為は単なる気の迷いということにでもなって、厳重注意ぐらいで済むかもしれん。そうなれば、何もかもなかったことになるかもしれないし」

 ヒュレイリュの言葉は途中から懇願するような響きに変わっていった。リィラは彼の気持ちが痛いほどよく分かっていたが、それでも今はとても彼の提案には同意できないと思った。リィラがディルアを逃がしたのには、リィラなりの理由がある。リィラはまだ何か言っているヒュレイリュを無視すると、ディルアを振り返って、その手を握った。

「お願い、ディルア。話してほしいの。この場には私たちしかいないんだから話してくれるわよね?いったい何があったの?なんでディルアが勤め先の店主をわざわざ殺さないといけなかったの?そんなにお金に困っていたんなら、私に一言相談してくれれば」

「・・私はやってない」

 ディルアはぽつりと声を落とした。すると途端に周囲は沈黙に包まれる。ヒュレイリュが驚いたように目を見開いて急に無言になり、ディルアをじっと見つめだしたからだ。リィラも驚いて、思わず訊き返していた。

「―やってない、って、どういうこと?」

 ディルアはリィラの問いを受けて、過去を思い出そうとするような表情になった。

「私はあの日、事が起きた時にはもう仕事を終えていて、帰り支度をしていたんだが、店主の悲鳴が聞こえてきたんで急いで厨房に戻ったんだ。そしたらもう店主は刺されて血まみれだった。私は店主を介抱しようとして、その時に店主がすでに事切れていることを確認した。そして裏口から誰かが逃げていくのを少しだけ見たんだ。私は慌ててそいつを追って、途中で追いついて、そいつを捕まえようと揉み合って凶器を奪った時に兵士が来た。けど、そいつには兵士が来る前に逃げられてしまって、私の手に残ったのは、そいつが店主を殺すのに使った凶器だけだったんだ。だから兵士は凶器を持った私が犯人だと思ったらしい。無理もないだろう。私は凶器を持ってて、衣も店主を助けようとした時にかなりの血がついて汚れてしまっていたからな。見た目だけなら、事情を知らない人間には私が犯人に見えたはずだ。私は自分は犯人じゃないと兵士に訴えたけど、取り合ってはもらえなくて、そのまま捕まって裁判になって、死刑が決まった。罪が確定した瞬間は怖かったし、恐ろしかったな。けど、それで私は、自分の死というものを自分で受け入れることができるようになった。何と言えばいいのかな、死ぬことに決心がついた、というのとは少し違う。死に対しての迷いや恐れがなくなったんだ。どうせ私はもう故国では死んだことにされてて戻れないし、仮に戻れたとしても、もう今までのようには生きていけないことが分かりきっている。だったら、何のために自分は苦労して異国で生き続けているんだろうとね。それなら早いうちに死んだほうが、自分のためじゃないかと思ったんだ」

 淡々と語るディルアに、ヒュレイリュが息を呑んだのがリィラには分かった。リィラも、ディルアの言葉には血の気が引くのを感じた。

「・・それ、本当なの?じゃあ、裏口から逃げていった人物って、誰?どんな人だったの?」

 ディルアは首を振った。

「さあ。私には全く分からない。あの時は辺りも暗かったし、相手は頭巾みたいなものを被ってたからな。じっくりと顔を見てる余裕なんかもなかった。けど、たぶん男だと思う。確信はないけど、揉み合った時に身体に触れたから。背は私と同じくらいだったかな。それ以上のことは私にも分からない」

 ならそれほど体格のいい人物ではないということか。リィラはそう思った。ディルアは男にしては背も低いし痩せている。そのディルアとほとんど背が変わらないのなら、小柄といってもいいかもしれない。しかし小柄な男というだけでは、該当する人物はこの街にはいくらでもいる。これだけでは何の手がかりにもならない。

 ヒュレイリュがディルアに訊ねかけた。

「私はお前が逮捕された後、お前と同じ酒場で給仕をしているという女の家族から、当時のことを聞いた。お前が血まみれの店主の死体の横で、厨房を物色していたとね。給仕が厨房に入っていくと、お前は慌てたように逃げ出していったということだった。お前の罪が強盗殺人で確定したのは、給仕の女が役所に対してこのように証言したからだろう。しかし今のお前の話が本当なら、給仕の証言とお前の話は論理的に合わない。これはどういうことだ?お前が本当に裏口から逃げていく誰かを見て、慌ててそいつを追ったのなら、お前には何かを物色しているような暇なんかないはずだ」

 ディルアは首を傾げた。怪訝するような表情を浮かべている。

「私は給仕なんか見ていないが」

 短い答えだった。しかしヒュレイリュとリィラに驚愕をもたらすのには、充分以上の効果があった。

「給仕の姿なんか見ていない。何かを物色した覚えもない。商売を終えた後の酒場の厨房なんか漁っても金目のものなんか出ないぞ。残飯と食器と調理器具と、生ごみくらいしかないんだからな。厨房は火を使うから、貴重品なんかはそんなところには置かないのが常識だ。野良猫でもなしに、そんなところを漁ってもいいものは何も出ない」

 では全てが虚言だったのかな。ヒュレイリュが呟いた。

「私は給仕の家族から事件の概要を聞いた。本人から直接に聞いたわけではないが、家族の話なら信頼できるだろうと判断していたんだ。どんなに治安の悪い街だって、強盗殺人となるとそうそう頻繁に起こることではないから、それを目撃した者の衝撃は単なる物盗りなどとは比較にならないほど大きいだろう。衝撃が大きければ記憶にも残りやすい。だから私は給仕の記憶違いや勘違い、誤認の可能性を、ほとんど考えなかった。しかしお前の話が全て本当のことであるならば、給仕が役所に対して偽証した可能性が高いということになる。さもなければ役所が、お前が犯人であるという説明に根拠をつけるために、給仕の証言を捏造、あるいは改竄した」

 ディルアがヒュレイリュの言葉に口を挟んだ。

「役所がそこまでするものなのか?確かに、可能性としてはありえるのかもしれないけど。私が給仕に会っていないというのは本当だから。あの酒場で働いていた給仕は一人だけだし、その彼女はあの日、風邪を引いたとかいって早めに帰ってるから、そもそも店主が殺されたのを目撃した給仕がいたというのが妙だからな。商売が終わってから彼女が戻ってきたりしたら、厨房に入られるよりも前に店主が気づいて声をかけるとかしたと思うし、私はそんな声は何も聞いてない。けど、どうして役所に、わざわざ証言を捏造までしなきゃならない必要があるんだ?」

 ディルアが問うとヒュレイリュは考え込むような表情をした。

 リィラは二人の会話を聞きながら呆然としていた。ディルアが嘘を言っているようには思えない。なぜならもしも彼が語っていることが全くの虚言であるならば、彼は刑場に引き出されてきた時にもっと激しく抵抗したのではないかと思うからだ。リィラとヒュレイリュしかいないこの場で、嘘を並べて身の潔白を主張することに意味があるとも思えない。彼は真実を語っているのだろう。ディルアは冤罪なのだ。ではなぜ、判事はそれに気づかなかったのだろう。いや、ヒュレイリュの推測が事実であるならば役所そのものがディルアを有罪にするために策を弄したのだ。どうして役所がそこまでしなければならなかったのだ。

 ふいにリィラは恐怖を感じた。まさか、連中の手がこの街の役所まで伸びているのだろうか。考えられないことではない。連中が、ディルアがこの街に潜んでいることを知って、役所か領主に圧力をかけてディルアの排除に乗り出したのかもしれない。連中にとってディルアが生き延びているという事実は脅威になるはずだから。あの男なら、ディルアが今も生きていると知れば、それぐらいのことはやってのけるだろう。そして、ディルアの生存がすでに連中の知るところとなっているのならば、自分の生存も、すでに連中に知られている可能性が高かった。なにしろリィラは、この街で頻繁にディルアとも、ヒュレイリュとも接触しているのだ。

 リィラが自分の懸念をヒュレイリュに伝えると、それでヒュレイリュもその恐れがあることに気づいたらしく、大きく頷いた。

「―それは、充分にありえることだろうな。だとすると、すぐにこの街を出てフィレーラさまのところに移ったほうがいいかもしれん。フィレーラさまにも、今回のことをご報告さしあげねばならないし、急ごう」

 リィラは目を見開いた。早くも廃屋の外に向かいかけたヒュレイリュの腕を摑んで問い質す。

「フィレーラさまのところに移るって、フィレーラさまは今どこにいらっしゃるの?この国にいらしてるの?」

 ヒュレイリュは頷いた。

「そのようだ。昨夜、私のところに伝達屋が書簡を届けに来て、そこにフィレーラさまがこの国にいらしている旨がしたためてあった。書簡の差出人はフィレーラさまに仕える仕女のリルで、フィレーラさまもリルも、正式な亡命者として、ここの隣の街まで逃げてきたらしい。隣街の領主さまの理解と厚情のおかげもあって、すんなりと住居も確保できたそうだ。役所が信頼できなくなると、我々はもうこの街には留まることができないから、この機会に、我々もそこの街に移ろう」


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