夜
その日の深夜、リィラは街路の人気が絶えるのを待って、役所に近づいていった。
もちろん役所や役人に用があるのではない。リィラの用があるのは役所の地下にある牢だった。今のリィラの主な職場だが、こんな深夜に来たのは仕事のためではない。今夜はリィラが牢番の役目に就く日ではないのだ。何も起きなかったら今頃は、自宅で静かに眠っていたことだろう。
深夜の役所はひっそりと静まりかえっている。業務もなければ訪問者もないのだから当然のことで、門も閉まっていた。役所でこの時間も大勢の人々がいる場所といえば、役所の裏手にある領主や長官を含めた貴族や上級役人たちの邸宅か、警備の兵士たちの詰め所か、役所の地下にある牢くらいのもので、リィラはそのことを知悉していたからこそ、今の時間に訪ねてきたのだ。役所に侵入しようと思えば、この時間帯でなければ不可能だからだ。
リィラはどうしてもディルアの口から、彼がどうしてそんな凶行を起こしたのかを聞きたかった。ディルアが牢に収監されているのなら、こうでもしないとリィラはディルアと言葉を交わすことができない。咎消し人は牢の監視も行うが、囚人とはいっさい口を利いてはならない規則になっているからだ。ディルアのようにほぼ現行犯も同然に逮捕された者の裁判の開始は早く、審理はもう明日にも始まってもおかしくはない。そして罪名に疑惑の少ない重罪の罪人ほど結果が出るのも早いのだ。現行犯なら当日、そうでなくてもせいぜい二、三日中には罪名と判決が確定する。そして確定してしまえば、その日か翌日には刑の執行がなされるのが普通だ。リィラは裁判には関われず、また裁判が始まってしまえばディルアに極刑が下る可能性がある以上、彼と話をしようと思えば、今夜のうちに役所に侵入するしかなかった。明日になればリィラはしばらく牢番の務めをこなさなければならない。複数の同輩と常時行動を共にしなければならないなかでは、ディルアの顔を見ることはできても、とても声をかけることなどできないだろう。
リィラは意を決して、街路から堀を覗き込んだ。役所とその裏手に広がる長官や領主らの邸宅は、守護のために周囲をぐるりと堀が取り囲んでいて常に水が流れている。敷地内に入るためにはその堀に架けられた橋を渡って正門から出入りするしかなく、夜になればその橋は上げられて出入りができなくなるのだが、何も橋を使わないと役所に入ることができないわけではない。
リィラは堀を見ながら、本当にこの手段で役所に侵入できるかどうか、頭の中で再確認してみた。役所の敷地内に広がる庭には、至る所に水路が築かれている。この国では毎年、初夏になると雨期が訪れるのだが、水路はその際に降る大雨に備えて敷地内に溜まった水を外に排水するためにあるのだ。水路は全て、いまリィラの目の前に広がる堀に通じている。つまり堀に入って水路を逆に辿れば、侵入することは可能なはずだ。
リィラは大きく息を吸って気持ちを整えた。堀から水路を通って誰かが侵入してくることなど、おそらく誰も想定はしていないのではないか。そんな例はこれまでなかったと聞いたことがあるし、どんな盗賊だってあえて冒すとは思えない危険な手段だ。通行する場所が水路であれば、いつ水が流れてくるかなど侵入者側には予測がつけ辛いし、水路に入るためには一度堀に入って水を渡るしかないから、どうしたって目立って警備兵に見つかりやすくなる。もし万が一にも水路を通っているさなかに水が流れてくるようなことがあれば間違いなく溺れてしまうだろう。盗み目的の侵入で通行する場所として選択するには危険が大きいのだ。しかしリィラは咎消し人として、一応は下級役人の地位に属している。警備兵の巡回の時刻は把握しているし、豪雨の時でもない限り夜間は堀への排水など行われないことも知っている。この二つさえ知ることができているのならば、水路から敷地内に入ることは容易いはずだ。そして敷地内に入ることができれば牢へ向かうには障壁などない。牢が役所のどこにあるのかも、管理や施錠がどのように行われているのかも、咎消し人は誰よりも熟知している。牢と刑場は他ならぬ自分たちの職場なのだから。
リィラは意を決すると、欄干に手をかけて堀のなかに入ろうとした。だがその瞬間、背後から誰かに肩を摑まれて動きを制止されてしまう。
不意のことでリィラは息が詰まりそうになった。まさか警備兵に見つかったのかと身を硬くしていると、耳元に声が聞こえてくる。
「こんな夜中に役所の堀に身投げでもする気か?」
低く咎めるような調子の声には聞き覚えがあった。ヒュレイリュの声だ。リィラは思わず肩の力を抜いた。背後を振り返る。
「こんなところで何してるの?私に何か用?ヒュレイリュ」
リィラが問うと、ヒュレイリュは呆れたような視線を返してきた。
「お前こそ何してる?役所はもう開いてねえだろ。それともまさか、今から仕事でもあるのか?咎消し人とやらは、夜中に出仕するのが普通なのか?私は今まで連中が夜中に役所を出入りしているのは見たことがないがな」
リィラは目を逸らした。
「勿論、今から出仕するわけじゃないわよ。ちょっとここを通りかかっただけ。私は私的な用事まで、いちいちヒュレイリュに連絡しなければ、外出してもいけないのかしら?」
リィラが不満を口にすると、ヒュレイリュは僅かに苛立ったような顔をした。
「そんなことを言いたいわけじゃねえよ。お前が個人的にどこに行こうと、それはお前の自由だ。私は単に、お前が深夜に家を出るのが、自分の部屋の窓から見えたから、こんな夜中にどこに行くつもりだと不審に思って後をついてきただけだよ。今の時間はもう店なんか開いてないからな。買い物に行くつもりだとも思えないし、夜光地区ならこの時間でも商いは活発だろうが、女のお前があんなところに遊びに行くはずもない。どこに行くつもりだったか知らないが、深夜に女が一人で街路を歩くな。危ないだろう」
夜光地区は遊女宿ばかりが軒を連ねるこの辺りでは有名な歓楽街だ。リィラは無論、そんなところに用はないし、リィラの外出に不審を感じるヒュレイリュの気持ちも分かる。しかし今のリィラにとってはヒュレイリュのその心配は余計な世話に近かった。あと少しで警備兵の巡回時間が来る。次の巡回が終わるまで待ってはいられない。そんなことをしていたら、敷地内に入ることはできても、出てくることができなくなってしまうかもしれない。
「心配してくれてありがとう。私は大丈夫だから、ヒュレイリュはもう部屋に戻ったほうがいいよ。ヒュレイリュは明日も仕事じゃないの?ヒュレイリュの仕事は体力を使うんだから、休める時に少しでも休んでおいたほうがいいよ」
リィラの口調は自分でも気づかないうちにそっけないものになっていた。そのせいではないかもしれないが、ヒュレイリュの表情に険しさが増した。
「勿論さっさと部屋に戻るさ。だからお前も家に戻れ。本当に何か用があるというんだったら、それが終わるまで私に付き添いをさせろ。さっきも言ったが深夜の女性の一人歩きは危ない」
言い終わるとヒュレイリュはリィラの腕をとる。リィラはその手を振り払った。必要ない、と言い返す。
「付き添いなんかいらない。私は小さい子供じゃないのよ。一人で行動できるし、そうでないと困るの」
言い切った時、ふいに視界の端に光が射した。
「どうかしましたか?」
知らない男の声が聞こえる。はっとしてリィラが声のしたほうを振り返ると、二人の男が灯火を提げてこちらを見ていた。彼らの装束はリィラにとっては見慣れた、警備兵のものだった。
リィラは内心で舌打ちした。いつの間にか巡回の時間が来ていたのだ。なんでもありません、とリィラは警備兵に告げた。何も問題がないようなら彼らとて、咎消し人に積極的に関わってきたりはしないだろう。事実、彼らはさほどリィラらに関心を持った様子もなく、巡回の続きに入ったようだった。夜道は気をつけなさいと言って歩き去っていく。
警備兵の姿が見えなくなると、リィラは溜息をついた。もう帰る、と呟く。するとヒュレイリュが、僅かに怪訝そうな表情をした。
「何か用事があったのじゃなかったのか?」
「あったけど今夜はもう無理。行けない。今から行ったら朝までに戻って来られないもの」
リィラは首を振って街路を役所から離れるほうへ歩き出した。歩きながら、軽く役所を振り返る。
ディルアのことが気がかりだった。これでディルアと話をする機会はリィラから失われてしまった。けど、まだ全く望みが絶たれたわけではない、とリィラは思っている。リィラは咎消し人なのだから、ディルアの刑の執行に関われるかもしれないからだ。もしもそういうことになれば、最後にリィラには最大の好機が訪れる。ディルアから話を聞きだすことくらい、できるだろう。