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ヒュレイリュ

「いったい、どうしてこんなことが起きてしまったの?」

 リィラは向かいの雑居家に駆けつけると、一人の男を問い質した。

 狭い部屋だ。床は板張りで、布団を敷いたらほとんど隙間もない。家具もなく、壁に板が打ち付けてあっていちおう棚として使えるようになっているだけだ。風呂や竃は勿論、厠もない。それらの用を済ませる時は建物の内外に設けられた共同の場所へ行くのだろう。扉にはいちおう、鍵がかかるが、扉も壁もかなり薄いため防犯上も頼りなかった。それでリィラは万一を考えて、自分の国の言葉で彼に話しかけていた。自分と彼にとっては母国語である言葉でも、この国に住んでいる多くの者にとっては外国語なのだから、こうしたほうが会話が壁越しに隣室や共用の廊下に漏れて他人に身元を勘付かれる懼れが少なくなるのだ。雑居家で暮らしているのは貧民ばかりで、外国語が理解できるほど教養高い者は滅多にいない。商家で下働きをするような者だと、稀に挨拶程度なら数か国語を理解できる者がいないでもないが、そういう者は少ないし、いたとしてもその程度では自分たちの会話の内容を理解することはできないだろう。

 しかし彼はリィラの問いには首を振って、分からない、と答えてきた。

「私にもまだ詳しいことが分からない。私も最初は噂として聞いただけなんだ。高札で確認したから事実には違いないだろうが、なんだってそんなことになったのかはまだ確認できていなくてね。だから役所が公表している以上のことはほとんど分からない。それで今日一日、情報を求めてずっと駆けずり回ったが、私の身近ではそんな事件が起きたことすら知らない連中のほうが多いんだ」

 彼は今、この近所で家屋の建設作業に従事することで生計を立てている。この辺りで男が仕事を得たいと思ったら、家屋の建設か解体の仕事が最も多く、そして簡単に就けるというのがその理由だ。彼のそもそもの地位を知っているリィラにとっては、彼がそういう仕事をしないと暮らしていけないという事実には哀れすら感じてしまうのだが、今の自分たちは贅沢を言えるような身分ではない。外国人がこの国で就くことのできる仕事は限られている。せめて身元を公にすることさえできれば、彼ならばもう少し良い仕事も見つかるはずだが、彼にそれをしない意思がある以上は仕方のないことだった。

 彼が初めて事件のことを知ったのは今朝、仕事に向かう途中のことで、路地で立ち話をしている近所の者の言葉を偶然、小耳に挟んだためらしい。彼は聞こえてきた言葉に驚愕し、慌ててその人々を問い質してその会話が事実を語っているものであることを確認すると、急いで役所に行って高札を確認したのだという。役所の門前に掲げられた高札には付近の民に対する役人からの報せが掲載されるのだが、すると確かに、そこにはっきりと記載されていたのだ。しかし高札には最低限のことしか記載されないため、彼はさらに詳しい情報を求めて街を奔走し、その合間にこの部屋に戻ってきてリィラが帰ってくるのを見かけたために急ぎ報せを窓に投げ入れたのだ。その行為で彼がどれだけ冷静さを失い、焦っていたのかが分かる。無理もないだろう。リィラの兄であるディルア(めいり)が、強盗殺人の罪で逮捕されたのだ。落ち着けというほうが無茶だ。

 リィラには今も信じられない。リィラは無論、ディルアをよく知っている。ディルアはとても温厚な男だ。虫を殺すのも躊躇してしまうほどの優しい心の持ち主で、リィラには彼がどうして金銭のために人を殺めるなどという蛮行に及ばなければならなかったのかが分からない。それほどにディルアは金銭に困っていたのだろうか。しかし、ならば殺人などという大事を起こす前に、なぜ自分に援助を求めてこなかったのだろう。リィラに与えられる報酬ならば、二、三人は充分に養っていける。そのことはディルアも知っていたはずだ。それなのになぜ。

「・・ディルアは、いったい誰を殺したっていうの?ヒュレイリュは、それ、聞いた?」

 彼―ヒュレイリュは一応、といった感じで頷いた。

「かろうじて事情を知っている者に聞けた話だと、ディルアが殺めたのは自分を雇っているはずの酒場の店主だ。その店主を昨夜、酒場が閉まってから厨房の包丁で刺し殺したらしい。同じ酒場で主に給仕を務めている女たちが仕事を終えて、その日のぶんの賃金を受け取って帰ろうとしていた時に厨房から店主の悲鳴が聞こえてきたのだそうだ。それで彼女たちが驚いて厨房に駆け戻ると、すでに店主は血まみれで倒れていたらしい。ディルアはその傍らで何やら物色していて、給仕たちの姿に気づくと慌てたように厨房の裏口からいったんはどこかへ逃走した。給仕たちはそれを見て近辺を巡回中の兵士に助けを求めた。しかし兵士が事態を知って駆けつけてきた時にはすでに店主は息絶えていたらしい。兵士はすぐに給仕の証言をもとに逃げたディルアの行方を追った。ディルアはすぐに見つかった。路上に血痕が落ちていたんで容易に辿れたらしい。・・あいつ、凶器の包丁を持ったまま逃走していたんだ」

 ディルアはこの街の安酒場で料理人の仕事をしている。彼の昔の職業を思えば、その仕事を選んだのは彼にとって自然な選択だったはずだが、勿論、店主を殺害するなどという凶行に及んだことが良い選択のはずはない。いったい彼と店主のあいだに何があったというのだろう。ディルアはそれなりに利発だ。逃げるにしても、血のついたままの包丁など持って逃げればどうなるか、彼に考えが及ばなかったとは思えないのに。

「ディルアが捕まったのは、今朝、夜明けの少し前のことらしい。給仕の目撃証言もあったし、凶器も持ってた。そのうえあいつの衣は店主の血で真っ赤に染まっていたというから、疑いの余地などなかっただろうな」

 リィラは息を呑んだ。

「・・ディルアは今後、どうなるの?」

 問いかけると、ヒュレイリュはふいに口を噤んだ。沈黙の時間がしばし流れる。しばらくして、彼は溜息とともに言葉を紡ぎ出した。

「・・あいつがこれからどうなるのかは、お前のほうが私よりもよく知っているんじゃないのか?」

 逆に問い返されて、リィラは咄嗟に返答できなかった。確かにそのとおりだ。リィラは職業柄、ディルアの今後を容易に予測することができる。この国では殺人は重罪だ。この国に限らずどこの国でも重罪となるが、この国では通常、他者を殺めた場合は最低でも十数年の懲役もしくは禁錮が確定する。自分の身を守ろうとして結果として殺めたとか、死ぬような事態となることが全く想定できなかった場合などは無罪となることもあるが、ディルアの年齢や殺害方法、強盗殺人という罪名を考えればそれに当てはまることはありえない。そして、金品を目的とした強盗殺人の場合は必ずそうでない殺人よりも刑罰が重くなる。ましてやディルアは外国人だ。他国の者がこの国の者を殺めたとなれば判事の心証は悪いだろう。最悪の刑罰が下る可能性も充分にある。―つまりはリィラか、リィラの同輩の誰かが、ディルアの生命を奪わなければならなくなるかもしれないのだ。

 リィラはそのことに思いが至って、目の前が真っ暗になるほどの絶望を感じた。


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