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逃亡


 深夜になると、リィラはできるだけ音を立てないよう細心の注意を払いながら、静かに寝台の上に起き上がった。

 灯りの落とされた室内に、今は誰の姿もない。窓辺から入り込んでくる月の光だけでは、室内の様子は充分に窺えないものの、人影がないことは一見して分かった。室外に通じる扉の外からも、物音や人の声は聞こえない。そのことを確認するとリィラは思わず安堵の息を吐いた。とりあえずまだ、自分が起きていることには気づかれていないだろう。

 キュリスは殺人と誘拐の凶悪犯にしては礼儀正しい人物だった。勿論、彼が自分の未来の妻と断言するリィラが相手だからなのだろうが、キュリスはリィラが着替えたり、就寝したりする時にまで、あの屈強そうな大男を室内に留まらせるようなことはさせなかった。彼は時刻が深夜に迫ってくると、リィラに就寝するように告げ、縄も解いた上であの男と室外に退去していったのだ。もっとも部屋の外に出る扉の向こうには、リィラの用を足すために複数の家人を控えさせておくとも言っていたから、リィラにとっては監視の目が室内から室外に移っただけで、捕らわれているという状況には何の変化もないのだが、少なくとも見張りが部屋の外に移動していったのだけは有り難かった。あのまま縄で縛られて男に見張られたままでは、逃げることは勿論、満足に身動きすることもできない。

 リィラは床の上に立つと、室内を見渡した。どうすれば逃げられるのか、その手段を探る。湯浴みなどの日用を口実に部屋を出るというのはできないだろうと思った。なぜならキュリスらが退出した後で一度、女中と思しき女性がこの部屋に入ってきて飲み物と軽食を運び入れてきたからだ。彼女はリィラが食事を終えるまで黙って傍に控え、それから大きめの水桶に湯を入れてリィラの身体を拭い清めてくれた。その後で夜着に着替えさせながら彼女は言ったのだ。扉の外には自分か、自分の同輩が常時必ず控えている。足りないものがあれば扉に向かって声をかければそのつど運び入れるから、決して無断で部屋を出たりはしないようにと。そしてその言葉を立証するように、彼女は下の用すら道具を運んできてリィラにこの部屋ですることを強いてきた。つまり、扉の外にいるという家人に頼んでこの部屋から出してもらい、隙を見て逃げるという方法は使えないということだ。

 するとリィラがキュリスの支配下から脱しようと思えば、今のように深夜、人目につきにくい時刻になってから、闇に紛れて行方を眩ますしか方法がないことになる。どうすればそんなことが可能になるか、リィラは考えながらとりあえず足音を忍ばせて静かに窓辺へと歩み寄ってみた。

 窓には鉄格子などは嵌め込まれていなかった。単に透き通った硝子が入っているだけで、雨戸が閉ざされているということもない。しかし窓から逃げることが難しいことは、リィラにも容易に分かった。

 窓の外には広々とした庭園が広がっている。地面が近いから、この部屋が一階にあることは明らかだったが、容易く逃げられそうにはなかった。庭には武装した人々が大勢行き交っているのだ。

 おそらく全員がキュリスの私兵か何かだろう。この国の正規軍兵士とは異なる鎧を身につけていることからそう推測できる。彼らは何かに警戒しているような目を周囲に向けながら、所々に焚かれた篝火のあいだを行き交っていた。リィラは彼らの人数を数えてみた。ここから見えるだけでも二十人以上はいる。

 リィラは内心で舌打ちした。リィラは武芸には自信があったが、だからこそ一度に二十人以上の武装した男たちを相手に戦って、無事でいられるはずがないことなど自分がいちばんよく分かっている。そんなことをすれば確実に殺されるだろう。たとえ殺されずにすんだとしても、いちど逃亡しようとして失敗すれば、次はさらに警戒厳重な場所に移され、さらに身動きがままならなくなるはずだ。ひょっとしたら次は本物の牢獄に住まわされることになるかもしれない。

 リィラは庭の男たちがこちらに視線を向けないうちに窓辺を離れた。篝火で多少なりとも明かりのある外からこの部屋の中は見えにくいかもしれないが、用心はしておいたほうがいい。リィラは部屋の中央まで戻り、そしてふいに窓を割る以外にもここから逃げられるかもしれない方法を思いついた。この方法なら、もしかしたらうまくいくかもしれない。

 しかしかなり危険な方法ではあった。成功率も低いし、もしも失敗して逃げることができなければ、確実に死ぬだろう。それでもこの方法以外にここから脱出できる手段が思いつかない以上は試してみる価値があった。今は何よりもここから逃げることを優先せねばならない。リィラには今やなすべきことが数多くあるのだ。キュリスの所業を公のものとしてディルアの無実を証明するだけではない、かつては天主神国の王女であり国防軍の副将軍であった者として、故国を戦火から守らねばならなかった。いま故国を牛耳っているのが逆賊でも、自分のために戦が引き起こされるようなことだけはあってはならない。自分はそんなことは望んでいない。

 リィラは決意を固めると、静かにその方法を成し遂げるための準備を始めた。絶対に物音を立ててはならない。室内で不審な音がしたら、リィラが何を言わずとも扉の外に控えた家人が駆け込んでくるだろう。

 リィラはまず、寝台の上に敷かれた敷布を取り去った。薄い敷布を折り畳んで細く長い紐のような形状にする。それから壁際に据え置かれた書棚に歩み寄った。重すぎず、軽すぎない書物を一冊、適当に抜き出して、それを紐状にした敷布の一方の端に結びつける。敷布だけではリィラが必要とする長さに足りないため、リィラは自分が望む長さになるように小さめの卓の上に掛けられた布製の卓上掛けや、壁を彩るための、布でできた壁掛けも取り外して、同じように細く折り畳んで結びつけた。これで、長さは充分に確保できているはずだ。

 紐ができあがると、リィラは書棚に隣接して据えられた衣装棚の扉を開け放った。女性用の衣装が何着も入っている。誰の衣装だろう。キュリスがリィラの着替え用として用意させたものだろうか。それは分からなかったが、布でできたもの、紙でできたものはできるだけあったほうがいい。リィラはそれらの衣装をまとめて摑み出すと、床に放った。書棚に収められた他の本や、寝台の上の、今まで自分がくるまっていた布団と毛布も一緒に床に置き、寝台の隣に据えられた書き物机の抽斗も開け、そこに入っていた覚書用と思しき白紙の束も床にばらまく。それから壁に据え付けられた灯明台に向かった。灯りは点いていないが、灯りを灯すための油はまだ残っている。室内に灯明台は幾つもあるから、油の量はかなりのものになった。リィラはその油を全部、作り上げたばかりの紐に滲みこませ、床に撒き散らした衣装などの上にも撒く。室内には油の臭いが充満し始めた。

 これで準備は完了した。リィラは静かに油まみれになった紐を携えると、窓辺に向き直る。窓に歩み寄って硝子に触れ、軽く指で叩いて強度がどの程度かを確かめた。窓の外に広がる庭には、各々に篝火が焚かれている。いちばん近い篝火までの距離を正確に目測し、どのくらいの力を出せばいいかを入念に確認した。機会は一度きりだ。失敗すれば次はない。

 リィラは窓辺から少し離れると、かつて投擲の訓練で身につけた感覚を思い起こしながら書物を摑んで構えた。投げる高さや角度などを充分に計算して、ここから投げれば大丈夫という場所を見つけると、呼吸を整えて覚悟を決める。そしてそのまま勢いをつけて書物を手放した。書物はリィラの手を離れると真っ直ぐに飛んでいった。硝子を突き破り、甲高い音を立てて外に飛び出す。そのまま一直線に篝火へ向かっていった。

 書物は、まるで吸い込まれるかのように綺麗に篝火のなかに落下した。

 リィラの企みは成功した。油をたっぷりと滲みこんだ書物は瞬く間に燃え上がった。それと同時に炎はそのまま、結びつけられた紐にも燃え移り始める。炎は書物同様油の滲みこんだ紐を伝ってこちらに向かってきた。室内に火炎が飛び込むまでには、いくらも時間がかからなかった。

 その瞬間、部屋の扉が音を立てて開け放たれた。血相を変えた女中と思しき女性たちと、庭の男たちと同じような装いの武装した男性が室内に踏み込んでくる。扉の外に控えていた家人たちだろう。硝子の割れる音が聞こえてきて慌てたに違いない。リィラは頭の片隅でそんなことを考えながら、その集団に視線を向けると同時に、室内に散乱させていた衣装を摑んで投げた。衣装にはすでに炎が燃え移っており、女性たちは突然に火のついた衣装を投げられると悲鳴を上げた。逃げ惑う彼女たちに阻まれて、男は咄嗟にリィラを攻撃することができないでいる。そこには大きな隙があった。リィラは跳躍してその男を蹴り倒すと、彼が携えていた槍を奪って室外に駆け出した。

 廊下にはまだ灯りが灯っていた。リィラはまだ炎の灯っている灯明台を見つけるたび、構えた槍で薙ぎ払いながら全力で駆ける。灯明台は次々に壊れ、炎が廊下に敷かれた敷物に落ちていった。辺りは徐々に煙で満たされていく。リィラが通った後の場所で火の手が上がっているのだ。リィラとしては袖で口許を覆いたかったが、いつどこから敵が出てくるか分からない今の状況ではそうもいかない。騒ぎが大きくなるにつれ、廊下に出てくる人の数も増えてきた。壁に扉が見えるたび、廊下の角を曲がるたびに必ず誰かが出てくる。リィラはそれらの者たちを槍で威嚇し、追い払いながら、ひたすら逃げ道を探した。火災の混乱はそれほど長くは維持できないだろうが、ここの連中の注意と警戒が自分以外にも向けられる今でなければ、自分は到底、ここから逃げることなどできない。せっかく、この混乱状態を巧く作り出すことに成功できたのだ。今のうちに、キュリスの支配が及ばない場所まで行かねばならない。事は一刻を争う。

 リィラは焦りながら数人めに現れた敵を槍で脅し、追い払った。何の武装もしていない若い男だった。そのためか、彼はリィラが槍の穂先を向けただけで怯えたような表情をし、悲鳴を上げながら逃げ去っていく。彼の姿が遠くなると、その彼が出てきた扉の向こうから、夜風を感じることにリィラは気づいた。リィラはその扉に手をかけ、閉まりかけていた扉を大きく開け放った。

 その瞬間のことだった。リィラは背後から何者かに突き飛ばされたような強い衝撃を感じた。

 身体が前のめりになる。リィラは半ば無意識に身体を丸め、転倒に備えた。左半身に冷たい石の感触を感じる。全身に激痛が広がったが、それに呻いているほどの暇はリィラにはなかった。すかさず刃先が眼前に突き出されてきて、リィラはそれを払い除けながら起き上がる。目の前にいた武装の男の、首筋めがけて槍の柄を叩き込んだ。男は一瞬で倒れた。

 リィラは倒れた男に背を向けると、彼から遠ざかるほうへ向けて歩を踏み出した。すでに建物の外に出ていた。全身のいたるところに痛みが走っていたが、そんなものに構っている余裕はない。痛みを感じるということは自分はまだ生きているのだ。そのことさえ実感できれば、後はひたすら逃げる以外に今はすべきこともない。


 ―無事に逃げ切れているのだろうか。

 リィラは立ち止まって振り返り、そして、確かに自分を追う者たちがいないことを確認すると、安堵の息を吐いた。逃げ切れたかもしれない、と思うと、急速に背中の痛みが増してくる。思わず呻いてリィラはその場にしゃがみ込んだ。

 周囲には鬱蒼とした森が広がっている。人家の類いは付近には見当たらず、ここがどこなのかは全く分からなかった。リィラは逃げるのに無我夢中だったし、そもそも自分はキュリスの家臣らしき人物に拉致されてここまで来たのだから何も分からなくても当然なのだが、周りに全く人気のないなかで、自分のいる場所がどこだか分からないというのは、想像以上に不安を掻き立てられる。今までいたあの建物が、仮にキュリスの私邸の類いだったとすれば、ある程度の見当はつけられるものの、確証はない。領主なら、自己の領内に公にはなっていない別邸の一つや二つは所有していて何の不思議もないからだ。もしもリィラが閉じ込められていたあの建物が、そうした別邸の類いであったなら、リィラには自分がいる場所がどこなのかなど想像もつかない。少なくとも庶民が暮らす当たり前な街からは遠く離れているようだという、その程度のことしか分からなかった。

 リィラは痛みを発してくる場所に手を当ててみた。軽く触れただけで激痛を感じ、衣服が濡れているのも分かる。逃げる途中に感じたあの衝撃。あの時に、あの男に刺されるか斬られるかしたのだろう。他には考えられなかった。

 リィラは未だ片手に携えたままの槍を使って、女中に着替えさせられた夜着の裾を裂いた。その布切れを使って自分で止血を試みる。傷が背中のため自分で処置をするのは難儀を極めたが、正式な医術者ではなくてもリィラは軍人として最低限の応急処置の仕方についてはヒュレイリュに教え込まれていた。道具さえあれば縫合だってできる。この程度の負傷なら、きちんと止血して安静にしていればそのうち塞がるだろう。そう思いたい。急所を攻撃されたわけではないのだから。いま周囲には誰もいないのだから、下手に動いて出血の量を増やすよりも、ここで休息をとったほうがいいかもしれない。

 そう考えて、リィラは止血を終えると、近くの木の幹に身体を預けるようにして座り込んだ。槍は手放さず、身体を休めながらも周囲には警戒の目を向け続ける。追っ手の姿が見えたら、すぐにでも身を隠すか、応戦せねばならない。

 夜風が吹きつけてきた。今は冬ではないものの、薄い夜着一枚で逃げ出してきたリィラにはかなり肌寒く感じられる。思わず身を震わせたが我慢するしかなかった。痛みを感じず、周囲からも目を逸らさない程度に身体を丸め、少しでも寒さを防ごうとした時、ふいにリィラの足に何か刺すような痛みが走った。

 突然の痛みにリィラは思わず息を詰めた。危うく悲鳴をあげるところだったがかろうじて呑み込む。何の痛みだろうとリィラは自分の足に視線を向け、そして反射的に自分の足許を槍で突いた。自分の足にまとわりついていた蛇は、その一撃で仕留めることができた。

 最悪の事態だと思った。蛇の種類まではリィラには分からない。しかしもしも毒のある蛇だったとしたら、それに咬まれた自分はすでに足から毒が身体に回り始めていることになる。リィラは履き物など履いていない。靴がないことなど気にかけてはいられなかったから、やむなく裸足で逃げてきたものの、ここに来るまでに無数の小石や下草を踏んできたせいで自分の足はもう傷だらけになっている。加えて自分は今、背中からも血を流していた。その事実がリィラに、危険は何も自分を追っているであろうキュリスだけではないことを思い知らせた。足に傷を負ったまま地面を歩き続ければ、傷口にどんな厄介な疫病を拾うことになるか分からず、また、血の臭いをさせているであろう自分に惹き付けられて山野に生きる獣の類いが近寄ってくるかもしれない。蛇に咬まれる危険も今回が最後だとは当然、言い切れなかった。こんなところで休んでいる余裕はないのだ。休むくらいならむしろ、少しでも足を動かして、一刻も早くこの場所から離れるべきだろう。

 リィラは槍で身体を支えるようにして立ち上がった。蛇に咬まれた足は宙に浮かせ、なるべく動かさないようにしながら、槍を支えに片脚で跳ぶようにして移動を始める。毒蛇に咬まれた患者は、なるべく動かさないようにするというのが看護の基本だったかとリィラは思い出していたが、今はそんな原則を守っていられる時ではない。このままここでじっとしていたら死ぬだけだ。リィラとしては、せめてあの蛇に毒がなかったことを祈るしか術がない。それならまだ、生命に関わるような事態にだけは襲われていないだろうから。

 リィラは槍を杖代わりに必死で移動を続けた。まだ周囲は暗い。陽が昇るまでには時間がかかりそうだった。時折上を見上げて月の位置を確かめながら方角の見当はつけているが、そもそもどちらに行けばキュリスとは無関係の誰かが住む人里に出られるのか分からない以上、方角を知ることは単なる気休めでしかなかった。水神都は概ね、大河の東部に大きな街が多いから、どこから歩こうとも東に向かったほうが大勢の人のいるところに辿り着く可能性が高くなるが、歩き始めた場所によっては必ずそうなるとも限らない。時が経つにつれ、蛇に咬まれた右足の痛みは酷くなっていく。痺れるような感覚もあって、やはりあの蛇は毒蛇だったかもしれないとリィラが絶望とともに思い始めたとき、微かに水流の音が聞こえてきた。

 リィラは俄かに希望を感じた。水流の音が聞こえる、それはすなわち近くに川が流れているということだ。川の傍には必ず住んでいる者がある、それがこの世の常識だ。どんなに小さな街でも必ず川は流れている。これでやっと助けを求められる、と思った。すでに音が聞こえているのだから、もうさほどの距離もないだろう。

 リィラはその希望だけを拠り所に気力を振り絞った。川はほどなくして見えてきた。確かにすぐ傍だった。しかしリィラは、川が見えてきたところで希望が全て絶望に変わるのを感じた。

 いまリィラの目の前では細い小川が、月の光を浴びてきらきらと水滴を煌めかせながら静かに流れていた。リィラの耳が捉えた水流の音は、確かにこの小川の水が流れる音だ。それは間違いない。だが小川の周囲に人家はなかった。下流のほうにどれほど目を凝らしても、それらしいものは影も形も見えない。つまり、ここからいちばん近い街までは、この川をかなり下らないと辿り着けないということだ。すでに右足と背中の痛みは耐え難いものになっている。かろうじて身体を支えている左足も、もはや痺れたように感覚がなかった。左足に全身を預けながら、裸足で地面を跳ぶように移動するという無茶なことをしたからだろう。いくらリィラが元軍人で、体力には自信があるとはいえ、この状態で、果たしてそこまで体力が保つだろうか。ひょっとしたら毒蛇に咬まれたかもしれないのに、そこまで自分は生命を保っていられるだろうか。

 不安が押し寄せてくると、そこまでしてでも生き続けなければならない意味が、果たして自分にあるのだろうかと思えてきた。故国を追われて居場所を失い、逃げてきたこの国でも追われてどこにも居場所のない女なのだから、ここで死んでもいいのではないかという気がする。今の自分の状態ならば、適当に横になっているだけでもじきに全身が衰弱して死ぬだろうし、そこまで待てないのならば、いま杖代わりに携えているこの槍で、一息に喉を突いてしまえばいい。自分が死ねば、ヒュレイリュだって自分の人生を自分のためだけに生きていけるはずだ。誰にとっても、それがいちばんいいのではないか。

 いちど思い浮かぶと、死はとても魅力的なもののようにリィラには思えてきた。だが、リィラの心の片隅に僅かに残る理性が、リィラを叱咤する。リィラは槍から片手を離すと、自分の顔を自分で叩いて、下らないことを考えるのは止せと自分を戒めた。自分が死んだら、ディルアの無実を証明する者はいなくなる。その事実をしっかりと心に刻み込んだ。いまこの世で、そんなことができるのは自分しかいないのだ。自分だけがこの世で唯一、キュリスの所業を知りながらも彼の支配下にはいないのだから。リィラがここで死んだら、ディルアはずっと逃亡中の死刑囚で、強盗殺人犯のままで生きていかなけばならなくなる。そんなことが許されていいはずはない。

 リィラは何としてでも生きなければならないのだ。改めてそう決意すると、川沿いに下流へ向けて歩を踏み出した。辿るべき道が分かりきっているのだから、先ほどまでの森のなかを当てもなく彷徨っていた頃よりは楽に移動できるはずだ。そう思っていた。

 しかしリィラは失念していた。川辺に集うのは何も人間だけではない。野に生きる獣たちもまた、同じなのだということを。

 ふいに前方で唸り声が聞こえ、リィラは闇に目を凝らした。暗闇のなか、月の光を受けて何か黒っぽい小山のようなものの影が見える。その影のなかで僅かに何かが光った。それが一組の双眸であることに気づくのに、さほどの時は必要なかった。

 まずい、野獣の類いだ。リィラは影の正体を悟ると戦慄した。少なくとも人ではない。リィラよりも遥かに大きかったから、それは確かだろう。夜行性の獣が川辺に水を飲みに来ていたところに、リィラは行き会ってしまったのだ。しかも、獣は明らかにリィラに気づいている。明確にこちらを威嚇してきていた。ならば、すぐにでもこちらに襲いかかってくる恐れがある。いま襲われればリィラなどひとたまりもないだろう。槍を携えてはいるものの、それに縋らなければ満足に歩くこともできない状態で、あれほどに大きな獣を仕留めるなど、できるはずがない。

 獣は唸りながらこちらに近づいてきた。リィラは咄嗟に後ずさろうとしたが、巧く足が動かずに背後に転倒してしまう。すると、それと同時に獣がこちらに向けて突進してきた。

 リィラは思わず悲鳴を上げてしまった。立ち上がって逃げようとし、体勢を崩す。身体が前のめりに傾いた。川面がリィラの眼前に迫ってくる。

 次の瞬間、リィラは水面に叩きつけられた。

 意外に深い川だった。川幅のわりに川底が遠い。リィラは手足を動かして何とか水中を泳ごうとしたが、巧く足が動かせなかった。痛みのせいばかりではない、足が、特に右足が痺れたように麻痺していて思うように動かせないのだ。

 リィラは両手だけを使って必死にもがいた。何とか浮上しようとし、そうしているうちに口のなかに水が入ってきた。

 ―苦しい。助けて、誰か。

 リィラは半ば無意識のうちに助けを求めていた。しかしそれに応える者は当然のように、いなかった。リィラに感じられたのは、暗い水中での水の冷たさと、息のできない苦しさだけで、それが全てだった。


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