キュリス
「無事にお目覚めになられたようで、安心いたしました」
「あんた誰よ?いったい私に何の用があるわけ?」
リィラの口調は意識せずとも乱暴なものになっていた。自分を誘拐した人間に、礼儀も何も必要ないだろう。
そう、これは誘拐と監禁になるはずだ。リィラは今、両腕と両足を縄でしっかりと縛められ、ほとんど身動きができない状態に置かれている。口は塞がれていなかったが、手足を縛めた縄からはさらに頑丈そうな縄が伸びて屈強そうな大男がしっかりと握っていた。これではたとえ這って逃げようと思っても不可能だろう。かろうじて座ることはできていたが、これも誘拐の当事者らしい目の前の見知らぬ男に手伝われてやっと可能になったのだ。
リィラは目の前の男の顔に全く見覚えがなかった。男は見たところ、ヒュレイリュとそう変わらないくらいの年に見える。それならば三十代の半ばほどだろうかと思うが、それ以上のことは全く分からなかった。もっとも、男がそれなりの身分にいる者か、さもなければ裕福な商人であるだろうことには想像がついている。そうでなければこれほどに上等な衣は着られないはずだからだ。男の衣は、服飾には疎いリィラの目にも、明らかに上物と分かる立派な絹でできていて、袖や裾にはかなり手の込んだ細やかな刺繍の飾りも施されている。髪の毛だって、女性であるリィラよりも手入れが行き届いていた。自分を飾ることに、ある程度の時間も金銭をかけられることができる類いの人間だ。そんな人間は限られている。そして、リィラが咎消し人として暮らしていたあの街には、そんな者はほとんど存在しなかった。
すると、ひょっとしたら男は奴隷商人の類いかもしれない、リィラはそう思った。それならば男が自分を連れ去った理由は分かるし、奴隷商人は概ね、人を攫うのも売るのも、自分が居住している街は避けるから、リィラに見覚えがなくても当然だ。役所の目を掻い潜って取り引きされる奴隷には法外な対価がつくから、悪党の代名詞でもある奴隷商人は羽振りがいいのも普通である。しかし男が奴隷商人ならば、どうして自ら商品であるはずの人質の許にまで足を運んで、顔を見せたり声をかけたりする気になったのだろうか。奴隷取り引きはこの国では違法なのだから、人質に商人の顔を見覚えられたら捕まる危険が高くなるはずだ。この部屋だって、視線を巡らせればかなり贅沢な造りをしている。室内の内装も、家具の装飾も、かつて自分が王女として暮らしていた頃に使っていた私室とそう変わらないほど豪華だった。リィラがいま座っている寝台、この部屋で目覚めた時に横たわっていた寝台に敷かれた布団も、滑らかな手触りで明らかに上質な絹でできていると分かる。奴隷商人が商品を閉じ込めておくための部屋には、どう考えてもふさわしくない。なぜこの男は、自分をこんな立派な部屋に留め置く気になったのか。
男はリィラに微笑みかけてきた。
「私ですか?私は、・・そうですね、貴女の未来の夫君だとでも申し上げておきましょうか」
「はあ?」
リィラは呆気にとられた。男は惚けているようには見えないが、発言の意図が全く分からない。いったい彼は何を言い出したのか。
「何を莫迦なことを言い出しているのだとでもお思いですか?ですが貴女はこれからそうせざるをえなくなるのですよ。ご自分がお国にお帰りになりたいのでしたらね」
リィラのなかにふいに警戒心が芽生えてきた。
「何のことかしら?」
咄嗟に惚けてみせる。すると男はくすりと笑った。
「私の前で知らぬ振りは御無用ですよ。―天主神国の王女さま。リィラさまというのが、貴女の御名ですよね?天主神国の王女として生を受けながらも国防軍の副将軍として活躍なされていたと聞き及んでおります。貴女は非常に果敢な御方だ」
リィラは思わず呆然としてしまった。見ず知らずの男が自分の出自を知っているということを、どう受け止めたらいいのか分からない。
―彼は、どうして私の正体を知っているのだろう?
なぜだ、と思った。リィラは生まれてから今まで、積極的に自分が王族に名を連ねていることを公言したことがない。公式の行事にだって適当に理由をつけてはいつも断ってきたし、特に参加を強要されたこともなかった。自国の国民ですら、リィラが王女であることなど、知らない者のほうが多いだろう。ひょっとしたら実父ですら、自分のことは忘れていたのかもしれないのだ。だからこそ謀反が起こってもなんとか逃げてこられたのだし、今もこうして生きていられる。なのにどうして、この国の人間が自分の素性を知っているのだ。
男がリィラに近づいてきた。反射的にリィラは男から遠ざかろうとしたが、手足の自由が利かない状態では後ずさろうにも巧くできない。すぐに男はリィラに接近し、手を伸ばしてきた。リィラの顎をすくい上げるように下から支え、まるで宝石でも眺めるような目をリィラに向けてくる。これほどに男性の顔が接近してきたことは、これまでの人生で一度もなかった。リィラは男に強烈な嫌悪を覚え、唾を吐きかけてやろうかと幾度となく思ったが、かろうじて自制する。生命を他人に握られた状態で、その相手の機嫌を損ねるようなことは避けねばならない。自分自身の安全のために。
「・・やはり何度見ても、天主神国の王族の瞳は美しい」
男の口調には恍惚としたものが含まれていた。本当に美を褒めているように聞こえる。
「本当に鮮やかな紫色をしておられる。ここまで美しく、見事な色合いの瞳を持つ者を、私は生まれて初めて拝見いたしましたよ。この色合いを宝石に喩えたのは、どこの詩人だったでしょうか。それは忘れましたが、私は貴女の瞳の色を拝見してすぐに、貴女の身元に気づきましたよ。ここまで鮮やかな紫の瞳を持つ者など、天主神国の正当な王統にある者以外にはおりませんからね。最初は驚きました」
リィラはやっと納得できた。つまりこの男はどこかで自分を偶然に目撃したことがあって、その際に自分の瞳の色が天主神国の王族にしか見られない稀なものであることに気づいたのだろう。リィラが迂闊だったのだ。リィラは今まで、自分の瞳の色のことなど、意識したこともなかった。軍人生活を長く続けてきて、そんなに真剣に鏡も見たことがなければ、お洒落にもあまり気を遣ったことがない。本当に密かに市井に身を潜めるつもりなら、せめてこの国に来た時にもっと、自分の容姿のことを考えておくべきだったのだろう。瞳を隠して動くのは困難を極めるだろうが、顔を隠す薄布をつけた帽子を被って他人には容易に瞳の色まで見分けられないようにするとか、出歩くのは人通りの少ない場所や夜に限るとか、人前に出る時は瞼を閉じて盲目を装うとか、方法はいくらでもあったはずだ。
「――私を、どうするつもり?」
自分の身元を知られている相手に向かって、リィラが警戒を込めながら訊ねると、男は再び笑った。
「無体なことはいたしませんよ。どうぞご安心を。貴女がおとなしく、私の妻となってくださるのでしたらね」
リィラは首を傾げた。
「お前は私と、結婚したいのか?なぜ?」
すると男は驚いたような顔をした。
「理由を訊ねられるとは思いませんでしたよ。この世に王族と結ばれたくない者などおりますまい。特に貴女と結ばれた者には、天主神国の王位が手に入るのですから」
「私はすでに国を追われている。もう王女ではない。ただの女だ」
「そんなことはございませんよ。貴女は今でも正当な天主神国の王女さまです。今、貴国を牛耳っているのは野蛮な逆賊にすぎません。逆賊は倒され、正当な王女さまが貴国の玉座に就くべきです。それがこの世の正道です。私は貴国が天下の正道に戻ることができるよう、最大限のご支援をさしあげるつもりでおりますよ。王女さまは何もなさる必要はございません。全て私めにお任せいただければ、私が王女さまを玉座にお就けしてさしあげます」
リィラは皮肉っぽく笑ってみせた。
「ずいぶん親切なのね。あんたにそんなことができるの?」
「できますとも。―ああ、私の自己紹介がまだでしたね。私はキュリスと申します。この国で、水神都を治めることを任されている領主ですよ」
水神都の領主。その言葉を聞いて、リィラはいま自分の身に起きている事態が如何にして起きたのか、その全てを理解できたような気がした。水神都とはリィラが咎消し人として住んでいた、あの街の名前だ。正確にはあの街を含む付近一帯の地方を総称する名称である。水神都に住むほとんどの住民の暮らしは、近郊を流れる大きな河の水流を利用した交易で成り立っていた。河の傍だから、年や季節によっては時として大きな洪水の被害に遭うこともあるが、それすらも沿岸では農地を潤すのに役に立つのだと聞いたことがある。河に宿るといわれる水神に支えられた都だから、水神都と呼ばれているのだが、リィラの住んでいた辺りはその水神都の外れに当たり、河からも遠く離れていたから、大河の恩恵などほとんど受けられていなかった。なるほど彼があの街の領主なのか、とリィラは醒めた気分で男の顔を眺める。それならリィラは、一応は彼の臣下ということになるはずだ。単なる咎消し人にすぎなくても、臣下である以上はどこで彼が自分の顔を見ていたか分からないし、もしもその際に彼がリィラの出自に疑いを抱いたとしたら、彼にはリィラの身元を調べるなど、容易いことだったろう。ひょっとしたら、故国が彼に連絡をしていたかもしれない。天主神国の国境を越えれば、最初に入るのはこの水神都なのだから、あの連中がリィラが水神都に逃げ込んだ可能性を領主に伝えて引き渡しを求めていたということもありえる。リィラが酒場を調べている時に役人が来たのも、ひょっとしたら偶然などではなかったのではないか。あの役人たちは、最初からリィラを捕らえるために遣わされた、彼の臣下だったのかもしれない。リィラを捕らえたあの男たちもそうだろう。もしかしたら彼はもっと早くにリィラを捕らえるつもりでいたが、何かの事情でリィラがあの酒場を訪れるまで、密かに連れ去ることができる機会がなかったのかもしれなかった。
リィラは感心してみせた。
「貴方が領主さまとは存じ上げませんでした。この国の地方領主程度の人物に、天主神国の国軍と同等規模の軍勢が采配できるなどということも初耳です。驚きました。そうなのですよね?そうでなければ、貴方が私を支援できるはずなどないですから」
逆賊となって先の神王を討ち取った家臣は宮廷の重臣で、リィラは元帥だと聞いている。元帥は天主神国国防軍の最高責任者で、リィラとヒュレイリュにとっては、職務上の上官だった人物だ。元帥が謀反を起こして、それに成功したのならば、当然、現在も国防軍は元帥が統括しているだろう。ヒュレイリュについて国を出て、本来の王朝の復活と復権に向けて動いている義勇のある者など、現時点では誰もいないのだから。軍人なんて所詮は寄らば大樹だ。どれほど人望があっても逃亡中の将軍より、逆賊でも権勢を保っているならば、元帥のほうにつく。名誉も忠誠も関係ない、勝てない戦には参戦しない、それが普通だ。誰も戦で死にたくなどないのだから当たり前のことだろう。せめて神王が賢治で知られ、臣民に慕われた人物だったなら状況も違ったのかもしれなかったが、そうではないのだから仕方のないことだった。すると、もしもリィラが故国で復位して玉座を得ようと思えば、天主神国の国防軍と同等かそれ以上の戦力が必要になる。しかしそんな戦力など、この国の国軍が全軍を挙げてリィラに味方するのでもない限り得られるものではない。そんなものをリィラに与えられる者がいるとしたら、この国の国王ぐらいしかいないだろう。一介の領主ごときではそんな軍勢は動かせない。リィラは自分を玉座に就けさせてあげるというキュリスの言葉を信じていなかった。もっとも、仮にキュリスがそれだけの戦力をリィラに与えられるとしても、リィラには自ら故国に戻って逆賊を倒して玉座に就こうなどという意思はない。ヒュレイリュはリィラにそれを望んでいても、リィラはそんなことは望んでいなかった。望んでいたらそもそも、咎消し人になんか志願していない。咎消し人にならなくても仕事はあるのだ。リィラには体力がある。ヒュレイリュと一緒に家屋の建築現場で働けばいい。さもなければディルアと一緒に酒場に出て、若い女であることを生かして給仕の仕事をしてもよかった。賃金は安いが、とりあえず暮らしていければいいという程度の金銭さえ得られればいいのだから、それで充分だ。
「ええ。簡単に采配できますよ。我が国が貴女を保護していると、天主神国にお伝えすればいいだけのことです。そうすれば、それだけで後は国王が勝手に軍を整えてくださいますから」
キュリスはそう言ってにこりと微笑む。リィラは彼の言葉に嫌な予感を抱いた。一応、あえて惚けて訊き返してみる。
「どういうこと?」
「我が国が正式に、貴女を我が国に亡命してきた王女として保護したと、天主神国に伝えたら、何が起きるでしょうかね?貴女はあの国の王族では末席に近いほうにいたそうですが、それでも確かに正当な王位の継承者です。王族でもない人物が謀反を起こして玉座を奪っているあの国では、前王の血統に連なる者など、生かしておける存在ではありません。いつ誰が、王女を担ぎ出して叛旗を翻してくるか分からないからです。まして王女を保護していると伝えてきたのが他国であるならば、今の貴国の主は必ずこう考えるでしょう。我が国が王女を利用して、王女の保護と復位を口実に天主神国に攻め込み、王女を傀儡にしてこの国を支配するつもりだと」
「・・私がこの国にいることを天主神国に伝えたら、相手は必ずそう考える。そしてそう考えたのなら、確実に天主神国側は先手を討ってこの国を攻める準備を始める。侵攻される危機を感じたら、誰が何もしなくても国王が自然に軍を整える。この国には徴兵の制度もある。いざとなれば正規の軍人だけでなく一般市民からも兵力を集められる。軍勢は莫大な数になる。そのうえ今の天主神国は逆賊の治める国で、対するこの国には天主神国の正当な王族がいる。そういう状況ならば、天主神国の国民や兵士からも、寝返る者が多数現れる可能性もある。本格的な戦になれば、圧倒的に有利なのはこの国のほうで、確実に勝てる、そう言いたいの?」
リィラがキュリスの言葉を補足してみせると、キュリスは軽く目を見開いた。
「聡明でいらっしゃいますね。さすがは王女さまと申し上げるべきでしょうか。その通りですよ。しかし私の話にはまだ続きがあります。我が国とて他国の亡命王族の復位のために無償で奉仕するつもりはありません。貴女には勿論、代償を払っていただきます。その代償は、貴女が無事に王族として復位した後、自分の復位について最大の功績があったのは、自分を保護してくれた私だと、公にすることですよ。その上で私を正式に婿に迎えることです。そして私の子を生し、その子を王太子の位に据えていただきたい。その誓約が得られたら、私は貴女のためにどんなことでもいたしましょう」
リィラはようやくキュリスの本心が理解できた。要するにこの男は自分の領内にリィラが入ってきたことをを無上の幸運として天主神国の玉座を手に入れるつもりなのだ。リィラを天主神国の王族として復位させた上で結婚すれば、彼は女王の夫となる。そして、そういう形で復位したなら、リィラは女王として即位しても立場上、夫と、夫の国に強くは出られない。つまり自分は、キュリスとこの国の傀儡にされる可能性が高いのだ。そうなれば、彼はもうその時点で天主神国を手に入れたも同然だろう。やがてリィラが子を生せば、その子が次代の王となり、この男はいずれ天主神国の神王の父となる。そして彼の血筋が、ゆくゆくは天主神国の正式な王統になるのだ。こいつはそれを望んでいるのだろう。
キュリスの望みは決して異常なものとは思えない。たまたま彼が最初にリィラの素性に気づいたから、彼がこんな野望を抱くに至っただけで、彼でなく他の誰でも、同じ立場にあったならきっと同じ考えを抱いたのではないか。自分の血筋が一国の王者の血筋になるなど、きっと男なら誰もが密かに抱く夢なのだろうから。
そう思ってふいにリィラは、彼は自分の素性にしか気づいていないのだろうかと疑問に思った。リィラはヒュレイリュとも、ディルアとも頻繁に接触していた。彼はヒュレイリュやディルアの素性には気づかなかったのだろうか。気づいていないからこそ、ディルアではなくリィラを攫ったのだろうか。役所がディルアの素性に気づいているのではないかというヒュレイリュやリィラの推測は、完全に誤りだったのだろうか。そうなのかもしれない。彼がディルアの素性にも気づいているならば、己の野望のためにディルアを排除しリィラを連れ去った理由が分からない。天主神国の王族というならディルアも同じで、しかもディルアは王子だ。あの国では王位継承者として王子と王女がいた場合、特に出自にも能力にも年齢にも双方問題がなく、王者としての資質も同じくらいだった場合、女子よりも男子の、つまりは王子の継承権のほうが優先され、王子が神王として即位することになっている。男子を王にしたほうが子孫を残せる可能性が高いからだ。傀儡の王を擁立して、天主神国を手中に収めることが彼の目的ならば、リィラよりもディルアのほうが目的は達しやすい。もしも彼がディルアの素性にも気づいているのならば、そう考えないことのほうがかえって不自然だった。なにしろリィラは咎消し人で、罪人の血にまみれて穢れた存在だ。神聖な玉座に昇るにふさわしい存在とは言い難く、ディルアに子を生す能力がないことなどは、一見しただけでは分からない。
リィラは是非とも、キュリスが本当にディルアの素性に気づいていないのかを確かめたくなった。勿論、気づいていない可能性のほうが高いのだから、直接訊ねるなんてことはできない。彼が気づいていないことを考慮に入れた上で、気づいていない人間に悟られることなくディルアの素性を知っているか否かを訊ねるために何をどう訊くべきか言葉を探していると、キュリスのほうが先に口を開いてきた。
「ああ、そうだ、言い忘れていたことがありました。お兄さまは今もお元気ですか?」
「なんですって?」
キュリスの口調は本当にたったいま思い出したという感じだった。それでリィラも思わず訊き返していた。嫌な予感がする。リィラには兄など大勢いるが、元気かとこの場で訊ねられるような兄は、もはや一人しかいない。他の兄は全員、すでにこの世の者ではなかった。
「お兄さまは今もお元気ですかとお訊ねいたしました。辛くも故国の宮廷から逃げ延びることができた、今のところ唯一の天主神国の王子さまですよ。第何十番目の王子さまだったかはちょっと忘れてしまいましたが、確かディルアという御名ではなかったですか?」
確認を求められてもリィラはあえて返答をしなかった。今の発言でキュリスがディルアの素性にも気づいていることが明白になったからだ。それならもうリィラには彼に訊ねるべきことなど何もない。なぜキュリスが突然、ディルアのことを話題にしたのか、なぜディルアの生存に気づいていながらリィラを標的にしたのかについては分からないが、そんなことを訊ねても彼は答えないだろうし、答えてもらってもあまり意味はない。この男は自分とディルアと、故国にとって敵で、それだけ分かれば充分だ。ひょっとしたら彼自身はリィラの味方でいるつもりなのかもしれないが、リィラにとっても故国にとっても、キュリスは断じて味方ではなかった。他国の混乱に乗じて攻め込み、玉座を奪うことを画策している男が、自分や故国に幸いを齎してくれるはずがない。
リィラが無言のままでいるにもかかわらず、キュリスはなぜか非常に嬉しそうな微笑を浮かべてきた。
「あの日は非常に麗しいものを見せていただきまして、有り難うございます。いや、正確には私は話に聞いただけですがね。貴女が刑場からお兄さまを連れて逃げられたというのは、しっかりと聞き及んでおりますよ。さすがはご兄妹だ。血の繋がりが齎す絆というものは、たとえ異国の地においても不変なものなのですね。お兄さまは今も元気でお暮らしですか?」
「ディルアの罪は虚偽のものだ」
リィラは吐き捨てた。
「ディルアは誰も殺していない。首を落とされなければならない謂れはない。無実の人間を罰することは咎消し人の職責の範疇には含まれない。ならば助けるのは当然のことだ」
するとキュリスは心底驚きを感じたような表情を浮かべた。
「これは驚きました。貴女があの時点でそこまで見抜かれていたとは。素晴らしい洞察力ですね。貴女がそれほどの慧眼の持ち主でしたら、おそらく私の真意もすでに理解していただけていることでしょう。私に誓約を捧げなければ御身の安全が得られないということも、重々ご承知していらっしゃるはずです。私は大きな期待を抱いておりますよ。貴女が私に永遠の愛を捧げてくださることをね」
貴様。リィラの内心には俄かに怒りが湧き上がった。彼の言葉通り、リィラには彼の真意が理解できたからだ。今やリィラはディルアの身に起きた事態の真相が全て分かっていた。自分が手足を縛られた状態にされていることがたまらなく悔しい。この縄さえなければ、今すぐにでもこいつをぶん殴ってやれるのに、と思う。せめてそれぐらいの報復はしてやりたかった。こんな奴のために失われた生命があるというのに。
キュリスはディルアが無実潔白であることを知っている。それだけでなくディルアが王子であることも、何もかも全て、最初から承知していたのだ。領主が無実であると認識しているにもかかわらずディルアが強盗殺人犯として刑場に立ったということは、彼がそうなるよう意図して采配したからに相違ない。どこで彼がディルアの出自を知ったのかは分からない。故国の逆賊から知らされたのか、それともどこかで偶然、ディルアの顔を見たのか、どちらなのかは分からないが、彼はディルアの素性を知って、ディルアを排除するために動いたのだ。こうなると、あの酒場の店主が殺されたのも彼の采配によるものと見なして間違いないだろう。キュリスが直接、店主を襲って殺したとは思えない。彼が全てを主導していたのなら、実行犯は容易く用立てられるからだ。領主が首謀者なら、罪人が捕まることは決してない。金銭で殺人を委託することも充分に可能だろう。
何のために彼がそこまでしてでもディルアを陥れなければならなかったのか。おそらく理由は一つしかない、とリィラは思う。リィラを威圧するためだ。ひょっとしたらディルアの刑を執行する咎消し人にリィラが任命されたのも、彼が判事にそう指示したからかもしれない。ディルアをリィラに葬らせれば、リィラは一生をかけても消えないほどの心の傷を負うだろう、そうなればリィラを意のままに操りやすくなると考えたのかもしれない。自分に従わなければどうなるか分からないぞと暗に脅せば、自分は怯えて彼の言うなりになるとでも思ったのだろうか。なるほど、確かにリィラが世間知らずの深窓の姫君であったなら、彼の存在を脅威に感じて怯えたかもしれない。しかしリィラはそんな軟弱な女ではなかった。そうでなければ粗雑と野卑を絵に描いたような男たちの巣窟でもある国防軍で、副将軍など務まらない。
キュリスは天主神国を手に入れるために、最初からリィラだけを狙っていたのだろう。ディルアの身体の問題を知らないはずの彼が、あえてリィラに狙いをつけたのは、単に傀儡の王が欲しいだけではなくて、何としてでも自分の血を分けた子供が欲しかったからに違いない。それなら玉座の主は王女でなければならないし、王女の即位を円滑に行うためには王子の存在は確実に邪魔になる。ディルアを強盗殺人犯に仕立て上げたのは、そうしたほうが後腐れなく邪魔な王子を処分できると判断したからかもしれない。
キュリスは怒りを抑えきれなくなっているリィラの感情など知らぬ素振りで、いかにも優しげに微笑みかけてきた。リィラにとっては胸が悪くなるような薄気味の悪い笑みだった。なまじ彼がそこそこに整った容貌をしているだけに、余計に気色の悪い思いがする。この男は人を殺しても、こんなふうに笑っていられる人間なのだ。
―どうにかして、早くここから逃げなければ。
リィラは内心でそう呟いた。とにかく一刻も早くこの場から逃げ出さなければならない。そして、何としてでもキュリスの所業を白日の下に晒し、ディルアの名誉を取り戻すのだ。リィラはそう誓った。犯罪者が社会のなかで当たり前の平穏を享受しているのに、無実の人間が謂れのない汚名を着せられて生命を脅かされるなど、あってはならない。




