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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

黒猫遊戯

文学少女の緩やかな破綻

作者: 雨夜 紅葉

小説家になろうの企画には初参加となります!至らぬ点も多いですが出来れば『最後まで』お楽しみください!

ぱたん。


たった今読み終わったばかりの、重く厚い本を閉じる。綺麗に装飾されたその表紙を指先で撫でれば、古書特有の羊皮紙の感触が伝わってきた。


今日の本はアントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの『星の王子様』。小惑星からやってきた金髪の王子様が体験する出会いと別れが描かれた小説だ。


「“自分は自分の星に帰るのだから、きみは夜空を見上げて、その星のどれかの上で、自分が笑っていると想像すれば良い。そうすれば、きみは星全部が笑っているように見えるはずだから”」


誰もいない一人っきりの教室で、ぽつりと呟いたセリフは思いのほか響き渡って、まるでこの世界の主役になったような錯覚まで覚えた。私を中心に回る完璧なストーリー。伏線が張り巡らされた感性の終着駅。


「……なんてね」


まぁ、そこまで自惚れてはいないけれど。


成績、中の上。運動は中の下。

クラスでも目立たず、「そんな奴いたね」程度の認識しかされない。

以上でも以下でもなく、ただ平均を漂っているような。

もしくは、平均台の上を歩いているみたいに不安定な。

それが、斎藤(さいとう)(しおり)ーーつまり、私なのである。


「栞ー!」

「……ああ、うん」


ふと教室の外から聞こえてくる、あまり好みじゃない声。思わずため息を零しそうになるのを堪えて、私は笑顔で振り返った。


「一緒に帰ろう?」

「いいよ」


こうして今日も、友だちでもない人と友だちのフリをして過ごす。

ここまで言えば、私の平凡さと私の人生のつまらなさは誰の目からも明らかになったことだろう。

私自身こんな人生、生まれて八年目でとっくに飽きていた。

だからこそ、ありえないことばかりな本の世界にのめり込んだのも、当然といえば当然だったのかもしれない。


小説・漫画・古書……どんな本にも、緻密に練られたそれぞれの世界があって。誰にも邪魔されないし否定もされない、退屈とは別次元の世界が。その中にいる間だけは、つまらない私も計算され尽くしたキャストになれた。物語を紡ぐ一人として、シナリオを解き明かすのに最大限の知恵を振り絞って。

仲間と旅をしてみたり、ときには姫を守ってみたり。胸が痛いほど人を好きになってみたり、親友と困難を乗り越えてみたり。

現実の私では決して味わえない感動と悦楽を与えてくれる、そんな本が私は大好きだった。

唯一無二の、存在。


だけど、最近はそれじゃあ足りなくなってきてしまったんだ。人の欲求は、段々エスカレートしていくものだから。


どこまでいっても空想の類でしかない世界が、現実になってくれたら。我ながらなんとも思春期らしい夢見がちな発想だ。でも、願わずにはいられない。


どうか、現実が変わってくれますようにと。





「それでさー、担任の五反田(ごたんだ)がね?」

「うんうん」


適当な相槌で会話を聞き流しつつ、脳は別なことばかりを考える。例えばさっき読んだ本のこと、それから、次に読む本のこととか。

一日に何十冊と読むようになって、更に量を読みたいからと速読術まで身につけた私はほとんどの時間を読書に費やしている。全ては、この欲求不満を少しでも紛らわせるため。だから正直本来ならこんな風に彼女の話を聞いている時間なんて私にはないんだけれど、やっぱり現実をないがしろにすれば面倒な事態になりかねないから。

ああ、つまんないな。もっとこうーーーー


「にゃあ、」


無駄の無い不可思議な事象が、起きてくれたら?


「……猫?」

「うわ、やだノラ猫じゃん!あたし猫嫌いなんだよねー」


りぃん、と響いた軽やかな鈴の音。

大きくはないのに不思議と耳に届いた鳴き声。

あまりのタイミングの良さに心を見透かされた気分になって思わず目線を下げると、そこには、一匹の黒猫がいた。

瑠璃色の目と紫紺の首輪が印象的で、野良猫の割には飢えた様子もなく、むしろ凛々しさすら感じさせる。


「早く行こ?なんか気味悪いし」

「んー……」


制服の袖を引く彼女よりも、私を見据える黒猫の鋭い目に意識が集中してしまって離せない。なんだ、この猫は。

もしかして、私の願いが。


「わかった、行こっか」


いや、それはないか。

確かに不気味で不思議な猫だけど、猫は猫だ。『まだ』日常の範囲内でしょう?

そう自分に言い聞かせて、私は伸ばしかけた手を引っ込めた。


「にゃあん」


唐突に訪れた非日常が、『もう』私を呑み込んでいることに、気づかずに。




『はい、それでは案内しようか』




「ん、」


ぷつん、と深い眠りがいきなり途切れて

私は静かに目を覚ました。

窓の外は暗く、時計が指す時間は午前0時。起きるには早過ぎる時間だろう。


「なんだったのかな、あの声」


夢の中で聞こえた優しげな声が少し気になったけれど、気にしないフリをしてとりあえず水でも飲もうと起き上がる。

その途端、私は自分の異常に初めて目がいった。


「え、?」


普段の自分は割と冷静な方だと思っている。でもこの状況に驚かずにはいられない。だって、私が見たものとはーーーー


「こんにちはお嬢さん。月の無い素敵な夜ですね。こんな夜は僕と一緒に遊びませんか?」


恭しく頭を垂れる、黒い奇術師の姿だったのだから。


闇に晒された赤色と瑠璃色のオッドアイが、心底愉しそうに細められて。奇術師は、声もなく笑っていた。

なんて嘘っぽい笑顔なんだろう。と、一目見ただけでわかるくらいあからさまな演技。


「あ、なた。誰?」

「ああ、名乗る程の者ではありませんよ。そもそも名前などありませんけどね」


ほら、あちらをご覧?


そんな風に促され、部屋の壁しか無いはずの背後を振り返る。だが、何度目を擦っても後ろに壁は無かった。というか壁どころじゃない。部屋そのものがそこには存在しなくて。あるのは、いくつもの星が浮かぶ新月の夜空だけで。

眼前に広がるのは廃墟の群れ。


「何が、起こってるの……?」

「ちょっとした幻の中ですよ。大丈夫、痛みも恐怖もここには無いので、安心して愉しんで下さい」


パニックになり始め、ただ呆然と景色を見つめる私を、奇術師はついに声を上げて笑い飛ばした。

ひうんと音を立てて吹く風まで、嘲るように緩く頬を撫でる。

もう、本当に意味がわからないよ。


「家に帰りたいんだけど」

「しばらくすれば帰れますよ。……にしても、奇妙な方ですね。帰りたいだなんて、」


ここにいれば幸せなのに。


必死に言葉を紡いで吐き出しても、相変わらず裏のある笑顔ではぐらかされて。どうすることも出来ない私はその場に座り込んだ。本の世界に憧れたのは事実だけれど、こんな不気味な事象は望んでいない。こんなの、『非日常』の枠を突き抜けて『不幸』の領域に入っている。


携帯もない、それどころかまず電波が通っているのかもわからない状況。襲いくる不安と恐怖に珍しく泣きそうになってしまって、私は作り物みたいな空を見上げた。


しばらくって、どのくらいなんだろう。


すると奇術師は、不思議と困ったように目を伏せ、次にぱちんと一回指を鳴らす。さっきまで散々嘲笑っていたくせに、わざとらし過ぎる。そう、心の中で毒づいた。


「んー、じゃあこういうのはいかがですか?」


瞬間

一気に、私の視界が揺らぐ。


「え、?」


比喩でも何でもなく地面が傾いて、空がひっくり返る。端から段々と景色が崩れて、座っているはずの足に感覚が無くなっていった。


「ーーっ!」


慌てて立ち上がって逃げようとするけれど逃げ場なんてどこにもなくて、とっさに逆転する空と地面の間へと、震える手を伸ばす。

勿論、何にも届くことはなくあっさりと空振る手。立っていることも満足に出来ない体。ぐるぐると歪む世界。信じられない浮遊感。


そして、くんっ、と柔らかく引かれた腕。


「ほら、目を開けて。君の望んだ世界だ」


暖かな声にそう囁かれて、反射的に瞑っていた目を開く。もう、何なんだよ。変な所で変な人に会ったと思ったら、変な天変地異まで起きて。そろそろ許容範囲オーバーだ。お願いだから勘弁して欲しい。

そんな風に現実逃避も兼ねて懇願して、どうやら私を支えてくれていたらしい奇術師の、肩越しにもう一度だけ世界を見渡した。予想としては、地球滅亡みたいな惨いものを想像していたんだけど。


それは、今まで見た風景のどれとも違っていた。


「う、そ」


遊園地の迷路のように面白可笑しいデザインの道に、旧西洋の絵に描かれていそうな巨大な城。なにより、赤と黒のトランプが言語を話し、紫の猫や時計を持った兎が闊歩している。

これらの全てを、私は何度も見たことがあった。立体ではなく平面で。というより絵で。


何度だって読み返した物語の一つだもの、私が間違えたり勘違いしたりしている可能性は極めて低い。だけどありえない。ありえない。


だって、これってあの本の。


「ルイス・キャロル作『不思議の国のアリス』。少女が不思議な世界へ迷い込む有名な物語。……お好きでしょう?」


黒いシルクハットで顔を隠し、奇術師が言う。その唇が弧を描いたのをみると、きっとまた笑っているのだろう。

だけど私も、同じだ。

ついさっきまで恐怖でいっぱいだった胸の奥が、今では歓喜に打ち震えている。

馬鹿だなぁ、という自覚はあるし

簡単に意見を変えた自分に、呆れてもいるんだけれどそれ以上に。


「うん」

「そうですか、それは良かった。では、少し物語に干渉でもしてみましょうか」


差し出された手に、何の躊躇いもなく触れるほど

私は、この状況へ感謝し始めていたのだ。

あんなに憧れた夢を、観れることに。




『さて、それじゃあ思う存分頂こうか』




この次は、『注文の多い料理店』

次に『夏の葬列』

『源氏物語』に『海辺のカフカ』

それから、それから

それからーー……



ぷつり。


風の音に目を開ければ、全方位まんべんなく広がる草原が見えた。

ところどころ木や家があるとはいえ、現代日本ではほとんど味わえないような、異界じみた光景。


あの夜出会った奇術師に連れられて、色々な世界で遊んで。もう何ヶ月経っただろう?

そんなことずいぶん前から覚えていない。

というより、奇術師に会う前の記憶がほとんど残っていない。世界を巡るたび記憶障害でも起こったみたいに、すっかり綺麗に消えてしまったのだ。

自分の名前だって、忘れた。

まぁでも、困りはしないから別に構わないけれど。

私の名前を呼ぶ人なんていない訳だしね。


「千夜一夜物語、お楽しみ頂けたようですね」


周りを飛び交う、赤色と瑠璃色の蝶々をぼうっと眺めながら起き上がれば、芝居がかった仕草で奇術師が笑った。そういえば、この人の目も蝶と同じ色だ。瑠璃と赤。

瑠璃色……

あれ、最近どこかで見た気がするのに、思い出せないや。


「うん、楽しいよ。こんなに楽しいのは初めて」

「そうですか、それは良かった」


では次に参りましょう。


例によって差し伸べられた手を取れば、またぐるりと世界が回る。


最初は恐怖の塊でしかなかったのに、今となってはまったく正反対だ。心の底からどっぷり依存してしまって、手放すことなんて考えられない。そのくらいここは魅力的で。同時に、痛みも怖さも無い世界とは、まさに理想郷なのだと思い知った。私しか居ないから争いもなく、友だちに似せた知り合いもいない。私の好きなものばかりがあって、嫌いなものは一つもない非日常。


ああ、なんて素敵な世界!


ぐわんと体中に響くような違和感すら快感に変換され、私はもう一度期待を込めて目を閉じる。

次は、どこへ行くんだろうか。

楽しみだなぁ。




ぷつん、



『それじゃあ、ここから始めようか』




「……り、栞!」


誰かの、声。


「起きてよ、お願いだから!」


うるさいなぁ、ちょっと黙ってよ。


「栞、栞ぃ、!」


だいたい、『栞』って何?わかんないよ。

ちゃんと私の名前を呼んでってば。


「、なに」


声を上げる暇もなく聞こえた女の人の声と肩を揺さぶられる感覚に、意識が急速に浮上するのがわかる。あんまり好ましくない起こされ方だ。

仕方が無い、と久しぶりに湧き上がる苛立ちを堪えてゆっくりと目を開ければ、見覚えのあるような、ないような、女性の顔が真っ正面に見える。

誰だったっけ、知り合い?


「よかった、栞……!母さんよ、わかる?」


かあ、さん?


シーツも枕も純白で統一された、酷く居心地の悪い部屋。『かあさん』と名乗る知らない女。これも何かの物語なんだろうか?にしては異様に現実味があって。


正直、面白くはない。


「わ、たし」

「心配したのよ、ずっと目を覚まさないから」


涙をボロボロ零して私を抱きしめる女性の姿を、どこか他人事のように見つめて。

記述師が失敗したのかな、とか

早くあっちへ戻らないと、とか

どうでもいい思いが、浮かんでは消えた。



それからまた、少し時間が流れて。



『せいしんびょう』と診断された私は、ずっとずっと白い部屋に押し込まれている。

たまに『かあさん』って人が会いに来てはくれるけれど、それでも退屈は紛らわされなかった。おんなじ日々の繰り返し。私が一番嫌いな時間。


「栞。今日はね、あなたの父さんやお兄ちゃんも来てくれたのよ」


『かあさん』が少し痩せた顔で微笑んで、これまた知らない人を部屋へ招き入れる。

もういい加減にして欲しいんだけど、そう伝えたくても上手に声が出ない。

声ってどうやって出すんだっけ。声帯を震わせるんだったかな?

わからない。忘れちゃった。

早く別の世界へ行きたいなぁ。


「栞、」


だから

煩いってば。

私の名前、栞じゃないのに。

もう黙っててよ。

気持ち悪い気持ち悪い。

嫌い、嫌い、嫌い


嫌いだ。



ぷつり。



あれ?

どうしちゃったんだろう。


気が付いたら『かあさん』も知らない人たちも、皆揃って床に倒れていて。真っ白だった床を、赤黒い液体で汚している。

どことなく痛そうな表情だ。

気持ち悪いなぁ。

何があったのか、と記憶を手繰ってみてもやっぱり心当たりはなくて。果物の皮を向く銀色の金属を、皆に刺したことは覚えているのに。こんな風になった原因がわからない。


もしかして、刺したのが間違いだったのかな?


麻痺し始めた脳内が漠然とそんなことを思い立って、とりあえず試してみようとその金属を腕に突き刺してみた。

あ、ちょっと痛い。赤黒い液体も、ちゃんと出てきたし。

なんで私は、皆に痛いことしたんだっけ?

ついさっきのことなのに、思い出しにくい。

……ああ、そうだ。皆が名前を間違えるからだ。じゃあ悪いのは私じゃないね。

私の名前は『栞』じゃなくてーーーー

いや、忘れちゃったんだけど。

でもとにかく『栞』ではないよ。

うん。


自分でもよくわからない自問自答が繰り返されて、思考回路は崩壊間近。ただ、『行かなきゃ』という意思だけが私を突き動かしていた。どこへ行きたいのかも、わからないまま。


どうやって探そうか。手がかりも何もないこの状況で。

とりあえず、外にでも行ってみようかな。


手のひらや頬についた液体を、近くの洗面台で綺麗に洗い流して。私は床に転がる彼らを振り返ることもせず部屋を出る。銀色の金属は、しっかりゴミ箱へ捨てたし。やり残したことはない。ああ、鍵を掛けておかなきゃね。忘れるところだった。泥棒が入っちゃうかもしれない。

……あれ、鍵はどこだっけ。

まぁ、いっか。



ぷつり。



アスファルトを照らす日光。

雲一つない青い空。

久しぶりに出た外は、酷く暑かった。

あああああああ、暑い暑い暑い。

流石、冬は暑いね。ん?暑いのは夏だっけ?別にどっちでもいっか。

とりあえず行かなくちゃ。


焼ける地面は、素足の私には少し厳しかったけれど、覚束ない足取りで前に進む。人に尋ねてみようか。だけど尋ねようにもその場所自体よくわからない。そして誰も通りすがらないから無理だ。どうしようかな。どうしようもないかもね。

それにしても暑いなぁ。


「ふふっ、」


まるで麻薬でも吸ったみたいに目の前がぐらぐら揺れて。それが意味もなく愉快で愉快で。私は笑みを零しながら、懸命にバランスを取った。気を抜けば倒れてしまいそうになる。まっすぐ歩くためにはどうするんだったっけ?昔いろんな人から教えてもらったのに、ちっとも思い出せない。私、こんなに物覚え悪かったかなぁ。

もうなんにもわからない。

わからない。

わかんない。わかんない、わかんない。わかんない、わかんない、わかんない、わかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないワカンナイワカンナイワカンナイワカンナイわかんないわかんないワカンナイわかんないわかんないわわわかんないワカんないわかンナいわかんない!


「あはは、は。

はははははははははははは!」


前頭葉へ直接まとわりつく鈍痛に何度か意識が飛んで、だけど空回りする感情は止まってくれなくて、無意識に涙が流れていく。

頬や首を伝う生温かい感触は、夢心地な気分の中でも、いやに現実的に感じた。


徐々に霞む両目。

この涙を拭う方法が、今はわからなくて。

どうして、こうも意思と関係なく体が動くのだろう。

私自身は楽しくてしょうがなくて、跳ね回りたいぐらいの気分なのに、肝心の体がすごくすごく重たくなって。


そろそろ、歩き回るのも限界かなぁって

私は青空を仰ぎ、大きく息を吸う。

一気に肺を満たした空気。

試しにそのまま息を止めてみる。

そうしたらちょっと苦しくなった。

苦しいなぁ。

なんて。馬鹿みたいだ、と思う。


そんな、時だった。


「あ、」


視界の隅に映った瑠璃色の蝶。

微かだけど確かに覚えているそれに、背筋がぞわりと粟立つ。


「みーつけたー」


その衝撃は、他の感情全てがどうでもよくなるぐらい強烈で、歓喜に溢れたものだった。



ぷつり。ぷつり。



思い切り地面を蹴って、必死に手を伸ばす。

幾度となく空を切った手を、『もう一度』って。

汗まみれになって髪を振り乱し、泣きながら笑う姿は、すさまじく滑稽なことだろう。

昔なら絶対に晒さなかった醜態。

どうやら私は、壊滅的に狂ってしまったようだ。

もう、あの蝶を追うことしか

あの世界へ行くことしか

考えられない。

想像できない。

あぁ、自分で自分が止められない。


「あ、ははっ」


蝶々が向かった先は、近くの空き家。

いつから住人がいないのか、覚えていないけれど

見るからに崩れそうだ、とは思う。

ご丁寧に立ち入り禁止の看板まで立っているのだから。


ーーでも、足を止めたり躊躇ったりする程じゃない。


黒い文字で危険を訴えるそれも、気に留めなければただの木材だ。いくらでも飛び越えればいい。簡単なことでしょ?


室内に入った途端、飛び出た木材に体を打って、釘やら瓦礫の破片やらが皮膚を裂く。その上薄暗くて汚くて、最悪な環境なのに。


私の目は、足は、手は、今だにあの蝶だけを追いかけている。


「やっと、」


ーーそうだ。ずっと、好きだったんだ。


「やっとだよ、!」


平面でしか存在出来ない


「やっと、終幕(おわり)!」


無限の可能性をもった、(あそこ)が。


ずっとずっと憧れていた。

無理や不可能だらけの現実が嫌いで。

ルールでがんじがらめになってるリアルから、逃げ出したくって。

本の中は、理想だった。


向こう側に行きたかった。

努力すれば報われて、信じれば許されて、愛せば愛されて、受け入れれば受け入れられる。

そんな、現実の向こう側に、行きたかった。

私は

……私は?



ぷつんっ



あれ、私って、何だっけ?



ぶつ、ん



頭上で、建物が軋む。

足裏に伝わる、僅かな振動。

びしりと、何かが、崩れ、る音。


「……あはっ」


そういえば

さっき散々壁にぶつかったんだっけ。

そんなんで崩れるもんなのかなぁ。

まぁ今更だけど。

なんて、浮ついた頭が呑気に呟き。



ぐしゃり。



そして、目の前が真っ赤に染まった。





「う、ぁ」


全身に走る鋭い痛みに、薄れかけていた意識が戻る。丁度赤黒い液体が、私の上の木材を濡らすのが見えた。

痛い。

痛い痛い痛い。

痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛、イタイいたいイタイいたいいたいいたいたいたい痛い痛い痛い痛い。

痛いよ。苦しいよ。すごく寒いし、とても眠い。

まだ、死に、たくない。

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!

死にたくない死にたい死にたくない、死にたい。死にたくない。

誰か。


「たす、け、て」


「にゃおん」


力なく投げ出された指先を見つめて、うわ言のようにそう吐き出した私に小さな影が落ちる。少し見覚えがあるそれへ必死に視線だけを上げると、綺麗な瑠璃色の瞳と目が合った。


瞬間、私は、伏線の全てを理解する。


ーーそっか。つまり最初から、『私』という人物は何も変わってなんかいなくて。ただ、忘れていただけなんだ、と。

もう『私』が何だったのかすら、思い出せないのがその証拠だろう。


踊らされていたんだ。あの、奇術師に。

悪い夢じゃなくいい夢を見せて、固執させて、現実の私を殺して。幻の私なんていないのに。


……なら、本当の私はどこにいたんだろう?本当の私の居場所は、どこに。


「わかん、ないよ」

「にゃあ」


奇術師が言っていた、『幸せになれる』という言葉の意味を、ようやく知って。

あまりにも情けなくて、最期にちょっとだけ嗤って。馬鹿らし過ぎて息も止まって。


それから、ゆっくりとあっけなく。

別にどこに行ける訳でもなく。

普通に、平凡に、当たり前に


私は、終わった。




ぶちん。





「そして、少女の短い人生は終焉を迎えたのです。夢を渇望したが故に、夢に取り付かれて食い殺されて。


ーー彼女と同じ道を辿らない方法は、最初から無かったのです」


異様に大きな満月が浮かぶ廃墟の群れ。

その中心で、全身を黒一色で染めた奇術師が、唄うように語っている。


「私はどんな方でもお招きしますよ。悪党だろうと聖者だろうと平民だろうと、夢に恋い焦がれる者であればね」


彼女がそうだったように。


奇術師はシルクハットを脱ぎ捨て、何を思ったのか……否、何を想ったのか月へと放り投げた。

そして晒された奇術師の『両目』は、血のように赤い。


「では今夜、あなたを迎えに参ります。最高の夢と最悪な結末をご覧に入れましょう」


どうぞごゆるりとご堪能下さい?


……もうあなたの行く末は、どう足掻こうと変わらないのですから。


あくまでも楽しそうに愉しそうに言った奇術師の言葉に、答える者はいなかった。

そう、誰もーーーー



Welcome to 『Bad & Good』 fantasy‼

ここまで読んで下さってありがとうございましたー!ご意見ご感想お待ちしています!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 真似したくなる素晴らしい表現が多数あったのと、引き込まれるストーリーに脱帽しました…… あと、すらすら読める文章もとても魅力的だと思いました。 [一言] これからもぜひ、頑張ってください…
[一言] 重厚なストーリー展開に最後までドキドキさせられっぱなしでした。 奇術師の軽佻浮薄というか、実体のないふわふわした感じがとても不気味で、ファンタジックな世界観にうまく適合していました。またフ…
[良い点] 心理劇でも観ているようなリアルさが伝わってきます。 紅葉さまの個性的な文章創りが上手く活かされているのでしょうか。 ぞぞぞ――のホラーではなく、おおっーな感じで、ある意味怖いかなって思いま…
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