前編
特別な人間じゃないとわかったのは、随分前のことだった。
小学校の成績表でのコメント欄にかかれていたのは真面目でがんばりやだということだった。ただ、がんばっているわりに結果にむすびついていないとも。
この評価はある意味その後の人生を上手く言い表しているように思えた。
なにしろ器用なほうではなかった。
どちらかというと不器用。
だからこそ努力は人一倍した。
それが真面目に映ったのだとしたら、多分そうなのだろう。
けれどもその努力が実を結ぶことはほとんどなかった。結果としては常に中の中。松竹梅でいえば、竹。上でもなく下でもなく真ん中。まさに普通。
どんなに努力をしても普通以外の評価を今まで一度も得たことはない。
「悪いよりはいいんじゃない?」
ずっと普通だったというと大半の人はそう言ってくれる。もちろん慰めてくれているのだとは思う。その気持ちはとてもありがたいし、悪いよりはずっと良いのかもしれない。
けど、何も好き好んで普通の道を歩いているわけではない。
できることなら良くなりたい。松竹梅の松になりたい。
その思いは学生だけではない。社会人なった今でもそう思っている。
まあ、それでも今は経験も積み、ちょっぴりだけど重要な案件も任されたりするようになってきた。けれども、それはただ単に「出来る」からというわけではない。たまたまやれる人がいなかっただけ。経験を「それなり」につんできただけ。千春が特別なわけじゃない。年数を重ねて行けばだれでもできる。自分の代わりなどごまんといるというわけだ。
それに引き換え幼馴染の悠は千春とはまったく正反対の人間だった。
同じ分譲住宅地に住む二つ上の幼馴染。家は隣同士で、物心ついた頃から常に一緒。千春が平凡な顔立ちなのに対し、悠は女の子と間違えられるほど可愛い顔をしていた。けれども性格は女の子とはまるで違う。活発で、どんなことにも怯むことはない。男女問わず友達は沢山いるし、走れば一番。サッカーもドッヂボールも上手い。性格だって誰にでも公平で優しく、地域では一目置かれる存在だった。
そんな彼は引っ込み思案であまり運動神経が良くない千春に何かと気を配ってくれた。目新しい遊びを教えてくれるのはいつも悠だった。悠がいるだけで千春の毎日はきらきら輝いていた。
日が暮れるまで遊びまわり、流行のものだって知っている。それなのになぜか勉強もよくできた。一体いつやっているのだろうと疑問に思って聞いてみたことがあるが、
「え? 勉強なんてしてないよ。ただ授業聞いているだけだよ」
そう言われた時には、なんだかわからないがとてつもない衝撃をうけた。
世の中には特別な人というものがある。それを知った瞬間だったように思える。
とにかく平凡な千春にとって、悠とは遊びの師匠であり、勉強を教えてくれる先生であり、意地悪な子から守ってくれる頼もしい兄でもあった。とにかくあこがれの存在だった。
それは千春が中学になっても高校になっても同じだった。
千春にとって悠という存在は特別だった。それは悠にとっても同じだった。
だが、周囲は少しずつかわっていった。
いや、正確に言うと変わったのは悠と、悠をとりまく環境だ。
女の子と間違えられていた顔立ちは、思春期を迎えるころには男らしさも混じり、見慣れた千春ですらびっくりするほど整った顔立ちにかわっていた。もともと足がはやかったこともあり中学からは陸上部に入ると、みるみる頭角を現し、大会でも常に上位を独占し続けた。そのため彼の名前は学校だけなく、周囲の街等にも知れ渡り一目みようと集まった女の子たちで学校は終日大騒ぎになるほどだった。
中でもバレンタインのようなイベントの日などは今でも語り草になるほどだ。
そんな悠だから、彼に告白する女の子はあとを絶たなかった。
他校にまで知れ渡るほど綺麗な子、スポーツ万能な子、大人びた子、可愛い子いろんな子が彼に告白した。だが、悠はすべてを断った。
理由はわからなかった。ただ、今はそんな気になれないとだけ言っていたような気がする。そのため、学生時代一番近い存在はあいかわらず千春のままだった。
そのことは嬉しいと同時に、どこか淋しさと千春にもたらした。
幼馴染は結局幼馴染だ。
それ以上になることは決してない。
そう、千春は彼が好きだった。
それも兄としてでもない。幼馴染でもない。
一人の男性としてずっと前から彼のことが好きだった。
けれども彼が自分を妹としてしか見ていないことはわかっていた。一番近くの存在。けれども一人の女性としては決して見ることのない存在。
そうわかった時、千春は泣いた。
そしてあきらめた。
わかっていたことじゃないか。
自分は飛び抜けて美しいわけでもない。頭だって良いわけでもない。運動もできるわけでもない。そんな女が彼の隣に並べるわけがない。
ならば妹でもいい。
千春はそう自分を納得させたのだ。
それがいつか失われる地位で、決して彼の一番には慣れないとわかっていても。
「うー……さむっ」
両手をこすり合わせながら歩いていた千春は、ちらりと空を見上げる。
一時間ほど前に日が落ち、あたりはすっかり暗くなっている。ビルの隙間から見える月は薄黄色をしていて、白々とした光を降り注いでいる。だが、その弱い光はネオンにかき消され地上に届くことはなかった。
通りに居酒屋の割引券を配る店員や、会社帰りのサラリーマンなどでごった返し、駅まで続く通りは本当ににぎやかだ。もし昼間、この通りをみたら今とは違う様相にきっと驚くことだろう。
ここは繁華街。夜が一番人通りが多い。
その通りを肩をすくめ駅とは逆方向に歩いていた千春は、通りの中ほどにある店の前で足をとめた。
若者から年配まで幅広い層に人気がある全国規模の居酒屋チェーン店だ。
メニューの豊富さ、そして値段の安さが売りだ。
週末ともあって店には何人もの客が吸い込まれていく。
千春は気合を入れるように唇を真一文字に引き結び、同じように店に入っていく背広姿の男の後ろについて地下へつづく階段を下りた。
店の入り口が地下にあるせいか、扉の前にまでくると外の喧騒はさほど届かない。だが、扉を開けた瞬間、外の喧騒と同じ。いやそれ以上の声が一気に流れ出してきた。
グラスのぶつかる音。人の声。そして店員の掛け声。
一瞬怯むように足をとめた千春に、レジにいた店員が声をかけた。
「何名様ですか?」
「あ、いえ。待ち合わせをしているのですが」
「かしこまりました」
軽く頭をさげ、店員は店の奥へと引っ込む。
一歩中にはいると、店内はほぼ満席に近かった。
テーブルとテーブルの間のせまい通路には客と店員が入れ替わり立ち替わり行き交う。人の多さと店の薄暗さでどのテーブルに誰がいるのかまではわからない。
店の中ほどでおろおろとあたりをみまわしていた千春は、おーいという声に思わず振り返った。
「千春、こっち」
店の隅。三方をついたてに囲まれたテーブルからひょっこり顔をのぞかせたのは、幼馴染の悠だ。
小さい頃はずっと一緒で、いっつも彼の後を付いて回るものだから金魚のフンと呼ばれたことがあった。だが、それは昔の話だ。今はそれぞれ別の会社につとめている。千春は小さな会社の事務員。彼は大手メーカーで企画販売部門に所属している。
仕事帰りにそのまま来たのか、スーツ姿の悠は千春にむかって大きく手をふった。
「こっちこっち」
千春はほっとしたようにほほ笑み、彼のいるテーブルにむかった。
店の隅にあるせいか、悠の居る場所はやけに薄暗く感じた。そのためか、テーブルの上におかれた照明はやけに強く、彼の前に置かれた突出しとジョッキをぎらぎらと照らしていた。
千春はコートを脱ぎ、彼の向かいに腰を下ろす。
「遅くなってごめんね。待った?」
「いや、さっき来たところだよ。こっちこそ急に誘って悪かったね。忙しかったんじゃないの?」
「ううん、平気」
ぶんぶんと頭をふる千春に、悠はほっとしたように微笑む。
「よかった。千春、お腹すいた? 注文しなよ」
悠は脇に寄せていたメニューを差し出した。
最近の居酒屋はファミレスさながらの品ぞろえで揚げ物、鍋物は当たり前。定食やデザートまである。多すぎるメニューを前に、千春はこまったように悠を見た。
「あ、あの、悠くんは何がいいの?」
「俺?」
悠はまた笑う。
「俺はもう頼んだよ。千春が食べたいものを食べなよ」
「う、うん」
そう言われるとますます迷ってしまう。
いつもそうだ。何かを決めるときにかぎって千春はひどく迷った。
そのたびに悠が助け船を出してくれた。今日もそう。悠からこの店のお勧めなどのアドバイスをもらい注文を決めたのは十分以上たってからのことだった。
「相変わらずだね、千春は」
申し訳なさそうに項垂れる千春に、悠ははジョッキに残っていたビールをあおりながらくすくすと笑う。
「そ、そういえば悠くん、急に呼び出して何かあったの?」
「ん?」
にっこりとほほ笑んだ悠は隣の席に置いてあった袋を取り出した。
ひとかかえもあるそれには、店名らしきロゴが大きくプリントされていた。
「これは?」
「昨日出張から帰って来たんだ。そのお土産」
土産? 袋を受け取りながら、千春は首をかしげる。
「出張? どこにいってきたの?」
「大阪」
「大阪!? いいなぁ……」
羨ましそうに呟いた千春に、突出しをつついていた悠はちらりと笑う。
「いいなって……遊びに行ったわけじゃないよ? 仕事だよ」
「そうだけど……」
事務職である自分には出張なんてあるはずもない。毎日おなじことの繰り返しだ。
それにくらべたら
「いいなーって思うよ。私なんて出張なんていったことないし」
「行って、仕事して、すぐに帰ってきても? 旅行とは違うんだよ」
「そうだろうけど……」
事務所から見る景色は毎日同じ。天気が変わる以外に変化など何もない。仕事内容も同じだ。
そういえば、同じ事務の子は自分とは違い営業の手伝いと称して都内の外注先にちょくちょくお使いに出かけている。毎日机に向かい、パソコン相手にしているのとは大違いだ。たまたま一週間前、その子が休みだったこともあり一度だけ彼女の代わりに行ってみたが、やはりそれだけでもまったく違っていた。
なんていうか、とても新鮮だった。
もちろんただ楽しいだけではないことはわかっている。
外注先に口の悪い人がいるらしく、時々酷く肩を落として帰ってきては営業に食ってかかる彼女の姿を見たこともあった。だがそれでも断らないところを見ると、彼女も事務をしているだけよりは楽しいのだろう。
時々、変わらない仕事を何年も続けているとむしょうに怖くなってくる。これが永遠に続くのではないかと思えてくる。
無意識に抑え込んでいたため息がぼろり、と零れ落ちた。
「いいなぁ……、大阪」
「まあまあ。土産買ってきてあげただろ?」
「うん……あ、開けてもいい?」
悠がうなずくのを待って千春は袋を開ける。袋の中にあったのは一抱えほどの大きさの茶色の兎のぬいぐるみだった。
「かわいい! これくれるの?」
「ああ。気にいった?」
悠の問いに千春は大きくうなずく。
ぬいぐるみは軽く掴んだだけでくにゃりと形をかえる。ふわふわの毛皮はとてもやわらかで、触れているだけで頬が緩む。これは悠がお土産として買ってきたものの中では最高ランクに入るだろう。
悠はメーカーの営業ということもあってか様々な地域に出かけていた。そのたびに彼は千春にお土産を買ってきてくれたのだが、正直なところどれもこれもびっくりするような物ばかりだった。
例えば前回の土産はたしか根性と書かれたタグがついている金属製のキーチェーン。
その前は出張先の風景だろうか。雄大な山が刺繍されたペナント。
その前は木彫りの置物などなど。
別に今にはじまったことではなく、彼の土産物のセンスは学生時代から何一つかわっていない。観光地名がでかでかと書かれたキーホールダーにはじまり、ペナントは当たり前。どこかで見たような怪しげなマスコットというときもあった。
怪しげなマスコットはともかく、キーホルダーなどは身につけていないとあからさまにがっかりされた。おかげで千春の学生時代は微妙なセンスのキーホルダーと共にあったといっても過言ではない。
それがいきなりかわいらしいぬいぐるみ?
正直、彼が選んだものしては上出来すぎる気がした。
「気にいったけど……でも、どうしたの、これ……」
「駅の売店にあった」
「売店に?」
売店にぬいぐるみなんて売っているのだろうか。千春は首をかしげたその時だ。
「お待たせしました」
店員が現れ、注文したものをテーブルに並べ始めた。
注文よりも先に、彼自身が先に頼んでいた物もあったようでテーブルはあっという間に料理と飲み物で埋め尽くされた。
悠はあらためてジョッキを持ち上げる。
「お疲れ」
「お疲れさま」
千春は持っていたうさぎをテーブルに置き、同じようにグラスを持ち上げる。軽く合わせると、グラスのぶつかるかたい音が響く。
梅酒サワーに口をつける。
酒は強い方ではなかったし、好んで飲むほうではなかったが乾いた喉に炭酸の刺激と梅の酸味がひどく心地よかった。二口ほど飲んで息を吐く。
「用事ってこのこと?」
「あー、うん。まあ、久しぶりに千春と食事したかったってのもあるかな?」
にっこり笑いながら悠は、取り皿を自分と彼女の前に置く。そして丁寧な手つきでサラダを取り分けた。
乳白色のドレッシングのかかったそれは、千春の好きなものだ。
ぱっと顔をほころばせる千春に、悠はくすりと笑みをこぼした。
「うん、やっぱり美味しい。千春も食べなよ」
「う、うん」
どこか誤魔化されているような気がしなくもなかったが。千春はわずかに眉をひそめながらも箸を取る。
やはりおかしい。
土産のこともそうだが、彼の態度は明らかにぎこちない。
一見、態度や言葉遣いはいつもと変わらない。きっと普段の彼しか知らなければその違いに気が付かないだろう。だが、何年も幼馴染をやっている千春には、いつもと違うとすぐにわかった。
悠はいつもより早いペースでジョッキを空にするとすぐさま三杯目を注文し、串焼きに手を伸ばす。だが、その手は串に触れる前に固く握りしめられ引き戻された。
「ねえ」
千春の声に、悠はぎょっとしたように顔をあげる。
「え? な、何? どうかした?」
「どうっていうか、ねえ、何かあったの? さっきからおかしいよ?」
「え? お、おかしくなんて……」
言いかけ、悠はその先を飲み込む。握りしめた拳はかすかに震えているように見えた。
「悠君?」
「あの、千春、さ」
口を開いたのは同時だった。
一瞬流れた気まずい沈黙の後、互いに先を譲り合った結果改めて口を開いたのは悠の方だった。
「……えっと、さ。聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいこと?」
なんだろう。千春は持っていた箸を置く。
「何?」
「うん……あのさ、千春……好きな人、いるの?」
なんとも言いにくそうに何度か言葉を詰まらせながら彼が尋ねたのは、予想だにしない言葉だった。
千春はへっと小さく声をあげたまま、目を数度瞬かせる。
「好き、な人?」
「そう。千春もそろそろいい年だし、好きな人ぐらいいるだろ?」
「え……」
どうして……。どうしてそんなことを聞くのだろうか。
アルコールで火照った体が、一気に冷める。顔が頬が固くこわばるのがわかる。
千春はそれを見せまいと、小皿のサラダをつつく振りをして顔を伏せた。
「悠君こそどうなの? そんなこと聞くなんて。あ、も、もしかして好きな人が、できた、とか?」
「え……俺?」
ジョッキをテーブルに置く固い音がわずかに驚愕をにじませた悠の声に混じり聞こえる。
今までこんなこと聞いたことがなかった。いや、聞いたことがなかったわけじゃない。あえて聞かなかっただけだ。
千春は顔をふせたまま、軽く唇を噛んだ。
返事を聞くのが怖い。さらに彼がどんな顔をしているのか見るのが、本当に恐ろしかった。
「俺は……」
悠の言葉がいったん切れる。
心臓が大きく跳ねる。
「……ずっと変わらないよ」
「え?」
予想外の答えに、千春は顔をあげる。と、悠の視線にぶつかった。
やわらかくほほ笑み、甘ささえにじませたその眼差しに、良いが一気に冷めるのがわかる。
いるんだ。好きな人が。
それもずっと昔から。
はっきりと言葉にしなくても、わかった。
優しい眼差しも、暖かなほほ笑みも言葉以上に物語っていた。そして、それを向けているのは自分ではない。
彼の心の中にいる、誰かだ。
「そ、そうなんだ……」
声が出るのが不思議なぐらいだ。
心臓が切り裂かれたように痛い。
今、自分がどんな顔をしているのかわからない。だが、悠が何も言わないところから、きっとちゃんと笑えているのだろう。
こんなに悲しいのに。どうして笑えているのか、千春は自分でもわからなかった。
「で、千春は?」
「わ、わたしも」
千春の気持ちなどまったく気が付いていないのだろう。相変わらず優しい笑みをうかべた悠の問いに、千春はやけくそ気味にグラスのサワーを一気にあおる。
味もアルコールも何も感じない。喉がからからで、言葉が滑りだしてこない。
何かの力を借りなければその場にいることすらできそうもなかった。
空になったグラスをテーブルに置き、アルコールの混じった息を吐き出す。
「わたしも、いる、かな」
「え? 本当に?」
驚いたように目を見開いた悠に、千春はほほ笑んで見せる。
「うん。いいな、って思っている人がいるよ」
「誰? 俺の知っている人?」
悠の問いかけに頷きかける。
目の前の人だと言えればどれだけいいだろう。そしてこれ以上なくこっぴどく振ってくれたら。そうしたらきっとあきらめられる。
いや、彼はそんな事をする人ではないことは誰よりもわかっていた。
きっと困ったようにほほ笑んで、聞かなかったことにしてしまうだろう。
それが残酷な優しさにしかならないとわかるはずもなく。
いや、それ以上に自分にそんな勇気があるわけなどなかった。やれることといったら、幼馴染のポジションを守りつつ、何事もなかったような顔をするぐらいだ。
「……そっか」
悠はぽつり、と呟く。
そして空になったジョッキを脇へと押しやる。
「もしかしてその千春の好きな人って先週、会ってた人?」
「え? 先週?」
「うん、先週の木曜日」
千春は首をかしげる。
木曜日といったら後輩の代わりにお使いにいった日だ。
時間も時間だったため、仕事を終えたらそのまま直帰していいことになっていた。そのため、同行した営業の人とかるくお茶を飲んだ後、そのまま帰った。時間はいつもと同じ、終業時間ぴったりだったが自宅に近い駅だったため随分時間に余裕ができた。いつもなら寄らない駅ビルにでも寄ろうかとおもったぐらいだ。
だが、結局どこにも寄らず家にかえってしまった。
変わったところといえばそれだけだが……。そう返した千春に、悠はうかがうような視線を投げてよこした。
「本当に?」
どうしてそんなことを聞くのだろう。
自分だってもういい年だ。心配されるようなことではないと思うが。やはり、妹のように思っているからだろうか。自分は彼のことを兄とは思ったことなどないのに。
千春は自虐的な笑みを浮かべる。それをどのような意味にとったのか。悠の顔が固くこわばったように見えた。
「本当だけど……どうして?」
「それは……」
言いかけた悠は、はっとしたように息をのむ。
視線は彼女の頭を通りこしてその後ろに注がれている。串焼きの串を皿に置きながら、千春も振り返る。と、狭い通路に立ちこちらを向いていたのはひどく綺麗な女の人だった。
ファッション雑誌から抜け出たようないでたちで、メイクもヘアも完璧。
大衆居酒屋というよりも、フランス料理屋が似合うような人だった。彼女は千春の姿なんてまったく眼中に入っていないかのように、悠をまっすぐ見据えたままグロスが光る唇をゆっくりと笑みの形へとかえた。
「急いで帰ってしまったからどうしたのかと思ったわ。探したのよ。メールに返事もないし、携帯もつながらないし……」
彼女は悠のテーブルにまわりこみ、そこで初めて千春の姿に気がついたように眉をあげた。
「あら、ごめんなさい。お邪魔だったかしら」
「あ、いや……」
「そう? じゃ、少し良いかしら?」
にっこりとほほ笑み、女は悠の隣に腰を下ろした。断る暇もなかった。
居酒屋の安っぽい椅子に腰をかけ、彼女は軽く足を組む。スカートのスリットからはすらりとした足が見える。
たったそれだけのことなのに、同性でである千春からみてもどきりとさせられた。
「プロジェクトの成功をお祝いしているの。ほんの少しでいいからあっちに顔を出さない? 主役のあなたがいないから全然盛り上がらないのよ」
彼女は整った眉を軽くひそめる。
声に混じる親しげな空気に妙な居心地の悪さを感じた千春は思わず視線を手元に落とす。と、悠がありがとうございます、と答えた。
「じゃあ」
嬉しそうな彼女の言葉をさえぎるように、悠はさらに続ける。
「ですが、先ほども言ったように今日は大切な用がありますので、申し訳ありませんが神埼さんの方から上手く言っておいていただけないですか?」
「……少しでいいのよ」
一瞬顔をしかめた神埼と呼ばれた女は、再び笑みを浮かべる。だが、悠は静かに頭を振る。
「すみません」
「……そう。しょうがないわね。わかったわ」
酷くがっかりしたように肩を落とした彼女は、ふいに視線を千春へと向ける。
「そういえば、幼馴染ってあなた?」
「え、ええ」
悠は握りしめたままだった拳を緩め、観念したように息を吐きだした。
「千春、彼女は同じ部署の神埼みずほさん。神埼さん、彼女は千春、俺の……幼馴染です」
「ふうん」
みずほは微かに首をかしげる。
緩く波打つ髪が、肩からこぼれる。と、首筋からは甘やかな香りがふわりと漂う。ゆったりと笑みを浮かべた彼女は、まるで値踏みをするかのようにじろじろと千春を見つめる。
この視線は何度も経験がある。
悠が千春を幼馴染として扱うたびに、きまって同じ学年の女の子たちからむけられた嫉妬と羨望が混じり合ったもの。何度も経験してきたとはいえ、なれることはない。
居心地の悪さを誤魔化そうとテーブルの上にあった兎のぬいぐるみを引き寄せる。と、みずほがあらっと声をあげた。
「そのうさぎのぬいぐるみって彼女に買ったものだったのね。てっきり、小さい女の子に買ったのかと思ったわ」
笑みを含んだ声に、千春の頬がさっと染まる。それを隠すように千春は顔を伏せ、ぱっと席から立ち上がった。
「千春!?」
「ごめん」
悠が慌てて腰を上げる気配がしたが、それを待たずに千春は「手を洗ってくる」と言い、逃げるようにその場を後にした。背中に、みずほの視線を痛いほど感じながら。




