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真夏の底冷え

作者: こやっしー

八月、地獄みたいな暑さの中、僕は荷物を抱えて叔父の家の玄関に立った。


 両親が共働きで、この夏しばらく家を離れることになった。その間、僕は母方の田舎に“預けられる”ことになった。――この家に来るのは、小学生以来だ。


 子供のころ、何度かこの家には泊まりに来ていた。あの頃は、叔父や従妹の詩織と一緒に庭で虫を捕まえたり、裏山で遊んだりした懐かしい思い出があったはずなのに、なぜか玄関をくぐると、胸の奥がひやりとする。


 家の中は、外とまるで季節が違うみたいに冷たかった。焼けるような日差しの中を歩いてきたというのに、玄関口で立ち止まった僕の首筋を、じわりと冷気が撫でていく。


 「裏の池には、絶対近づくなよ」 突然、背後から声がした。見れば叔父が真顔で立っている。不意に思い出す。

 裏手の池――“清水池”と呼ばれている小さな池。 小さい頃、村の人たちから「夏でも冷たい澄んだ水が湧いている」「水草が風に揺れて、光がきらきら透けている」と教えられていた。池のほとりではトンボや蛍も見かけたし、朝には水面が薄く霧がかかっていて、本当に名前の通り“清く美しい池”なのだと、あの頃は素直に信じていた。 でも、その池にだけは決して近づいてはいけないと、なぜか皆が口をそろえてそう言ったのを覚えている。


 ――そうだ、小さい頃にも、まったく同じことを叔父言われたことがある。「絶対にだめだからな」と、強い口調で。 その理由を聞いても、あの時の叔父も「言うことを聞け」としか言わなかった。 ただ、そのときの叔父の表情も、今と同じような、怯えたような、秘密めいたものだった。


 だけど小さな頃の僕は、大人の言うことを素直に聞くのが無性に腹ただしかった。それどころか大人が何かを隠しているだろう池の秘密を暴いてやろうと、こっそり池の近くまで行こうとしたことがある。けれど池のほとりまで足を踏み入れた瞬間、背中に氷水をかけられた感覚が僕を襲った。

寒くて…とにかく身体の中が寒くて、泣きながら家へ戻った――そんなぼんやりとした記憶が、今になって鮮やかによみがえる。


 遅めの昼食後、久しぶりに会う従妹の詩織と縁側でアイスを食べる。外は蝉の声がやかましいくらい響いているのに、家の中はいつまでもひんやりして、僕は何度も腕に鳥肌が立つのを感じた。


 「ねえ、奏太くん。この家、夏でもちっとも暑くならないの。不思議でしょ?」


 詩織が微笑む。以前と変わらない、幼い笑顔。でも、その声にはどこか奥底に冷たさがあった。



 夜、両親と離れて一人で眠るのは久しぶりだ。畳に布団を敷いて横になる。昼間の絶え間ない蝉の音が頭の中でずっと鳴き続けている。

寝苦しいはずの熱帯夜なのに、布団に入ってしばらくすると、手足の奥の方から冷たい何かがじわじわ這い上がってくる。

 あぁ…昔も、こんなんだった気がする。子どもの頃、夜中に寒くて目が覚めたことが一度や二度じゃなかった。そのたびに、布団の奥に潜ったけれど、寒さは身体の内側からどんどん広がっていくばかりだった。


 ――ぽたり、ぽたり。


 静かな部屋に、水滴が畳に落ちる音が響く。僕は思わず身を起こした。 足元が微かに湿っている。照明の明かりで見ると、畳の上に小さな濡れた足跡が二つ、並んでいた。


《昔も、確かこんなことが……?》


 ざわ、と背筋が粟立つのがわかった。窓の外を見ると白い霧が立ち込め、家の裏手――清水池の方角へと流れて消えていくのが見えた。


 翌朝、洗面台の蛇口から水をひねると、指先にじん、と芯まで染みるような冷たさが走った。まるで真冬の川の水を握っているみたいに、骨の奥まで震える。 でも、今は真夏だ。“この水、池の水みたいだな……”と、昔村の子に言われたことをふと思い出した。「この家の水は、裏の池から引いてるんだろ?」と、その時の顔が、冗談とも本気ともつかない、不思議な感じだった。


 昼間、詩織が小声で言った。


 「ねえ、池の近くに行くと、誰かに名前を呼ばれたこと、ない?」


 ドキリとした。僕の名前じゃないけど、夜中、夢とも現実ともつかない中で“おいで”と何度も呼ばれる声を聞いた気がしていた。それは昔も今も同じだった気がする。


 その夜も、同じように冷たさに目を覚ました。今度は、手足が自分のものじゃないみたいに酷く重くて、寒さが胸の奥、心臓のすぐ下にじん、と染み込んでくる。


 暗闇のなか、ぽたり――また水の音。


 畳の上に、今度は僕の足元から新しい足跡がにじんでいた。

 動けない。“冷たいナニか”が足に絡みつく感覚。僕は必死に叫んだつもりだったが、声は出なかった。 部屋の向こう、障子の隙間から白い霧が入り込む。その霧の中から、小さな白い影がこちらを見ていた。


 「「「やっと、見つけた」」」


 僕の頭の中に、知らない声が何重にも響く。だけど、不思議なことに、その声はどこか懐かしかった。

 そうだ……幼いころ、池のそばで感じた凍える寒さと同時に聞こえてきた声と同じだ。あのとき、確かもう一度だけ叔父に叱られたっけ。「近づいたらダメだ……呼ばれたら、帰ってこれなくなる」と。


 あれは空耳じゃなかった。あのときから、僕の身体の中には“池の冷たさ”が、じわじわと僕の隙間を狙い、蛇のように入り込んでいたのかもしれない。


 ――身体の芯から冷たくなるあの感覚は、この家の中の気温のせいなんかじゃない。僕は気づかないうちに、あの池にずっと呼ばれ続けて、そして少しずつ少しずつ、“池の一部”になっていったんだ。


 翌朝、障子の隙間から差し込む真夏の陽射しで目を覚ました。けれど、布団から動くことができなかった。僕の体の内側には、あの池の底の、どこまでも冷たい水だけが静かに流れていた。


 今日も蝉が短い命を叫ぶように鳴いている。窓の外は世界が焦げるほどの炎天下。


でも、僕の身体は、もう戻れないくらい、深い底冷えの中に沈んでしまっていた。


 そのとき、ふと部屋の隅に置かれた古い地図が目に留まった。ぼんやりと眺めているうちに、“清水池”と呼ばれているはずのあの池の、古い表記が目に入った。 かすれた墨字で、こう記されていた。


 ――「死水池」。


 いままで「清い水」と信じて疑わなかったその名前が、実は「死んだ水」と書く池だったなんて。一瞬、息が止まった。 誰かが、きれいな呼び名に言い換えて、ずっと恐ろしい名前を隠していた――そう思うと、背筋がさらに冷えた。

 あの池は、最初から“清い水”なんかじゃなかった。 僕を呼び、身体の奥底まで染み込んでいく死のような冷たさこそが、本当の名前だったのだ。


 ――もう、炎天下のあの真夏には、二度と戻れない。蝉の声がどんなに響いても、僕の世界は底冷えの池の水に沈み込んでいくばかりだった。 布団の中で身をすくめ、僕は自分の身体を抱きしめて、ただただ、寒さに震えるしかなかった……。


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