ココロ
昔、研究所があった。
それは、世界のどこかにひっそりと存在する、地図に載らぬ施設。人工的に生命を造り出し、改造し、生物兵器として売りさばく。兵器ではあるが、形を持つ“命”であるがゆえに、管理と調整は複雑だった。だがその研究所には、完全に制御された人工生命体が一体だけ存在した。
名を『エニグマ』という。
彼女の力は凄まじかった。対象物を瞬時に破壊し、塵すら残さないその様子は、研究者たちの理想そのもの。冷徹、精密、そして圧倒的。その完璧さに、人は恐れすら抱いた。
「……データ採取完了。どれも満点だ」
報告する研究員の声は、どこか震えていた。
エニグマの足元には、もはや原型を留めぬ肉塊が広がっている。それが生き物だったのか、物体だったのか、判別は不可能だった。炭化し、砕け、溶けている。すべての攻撃を無力化し、すべての防御を貫通する力。
——ほんの数秒でこれだった。
エニグマはただそこに立っていた。表情ひとつ動かさず、血しぶきさえも意に介さず。まるで“それ”を倒したのが自分ではないかのように、無関心に。
「今日は終わりだ。部屋に戻れ」
研究者の命令に、エニグマは黙って従う。自動人形のように、無駄な言葉も動きもない。静かに、淡々と研究室の扉へと歩を進めたその時だった。
「………いたい……いたいよ……」
微かに、細く、震えるような声が耳に届く。
エニグマは足を止め、首をわずかに傾けた。声のした方へ視線を向ける。その先では、別の人工生命体が数人の研究者に囲まれていた。
「またか? いつになったらこいつは相手を殺せるようになるんだ」
「こいつには『ココロ』がない? だとしたら失敗作だ。処分しないと」
「素材の無駄だぜ、全く」
研究者たちは苛立ちのままに、無抵抗なそれを殴り、蹴る。白衣が舞い、鈍い音が響き、人工の肉が軋む。
エニグマはその様子をただ、見つめていた。
何の感情も浮かべず、反応も示さず。
「……何をしている。早く部屋に戻れ」
研究者の声に、エニグマは目を逸らした。
「………」
そのまま、静かに背を向け、歩き出す。部屋へ戻る。何もなかったかのように。
それは、ある静かな午後のことだった。エニグマは部屋の中央で、じっと座っていた。今日もまた、命令を待つただの兵器として。
カチャ。
重々しい音を立てて、部屋の扉が開かれる。
「………、!」
無言のまま、何かが放り投げられた。まるでゴミのように。不要になった物のように。
床に叩きつけられたそれは、あのとき……研究者に暴行を受けていた、あの人工生命体だった。
「せめて、エニグマの餌にでもなれ。それが唯一、お前にできる“仕事”だ」
冷えきった言葉を残し、研究者は扉を閉めた。部屋は再び静寂に包まれる。エニグマは無言で立ち上がり、倒れた生命体に近づく。
「………この前よりも、傷が増えている。服も、ひどく裂けている。……」
小さく、埃まみれの身体を観察する。ボロボロに裂けた服。その下の肌に、無数の痣と裂傷。
そして——脚。脚に、見覚えのない濁った液体がこびりついていた。
エニグマの機械の瞳が一度、瞬いた。脳内で情報が照合され、答えが導き出される。
「これは……体液……だとすれば、これは『暴行』」
静かな、冷たい声で告げられた事実。ただの分析結果のように、それはつぶやかれた。
エニグマは、床に倒れている人工生命体にボロ布をそっと被せた。それから距離を取り、部屋の隅に静かに腰を下ろす。
「…………」
沈黙の時間が流れる。部屋には小さな呼吸音と、機械の作動音だけが響いていた。
やがて——
「……目が覚めたか」
かすれたまぶたが、ゆっくりと開かれる。濁った視界の向こうに、座っているエニグマの姿が映る。焦点は合わない。けれど、それでも必死に見つめようとしていた。
エニグマは立ち上がると、ためらうことなくその身体に触れた。
逃げない。
抵抗もしない。
——きっと、そんな力すら残されていないのだろう。
部屋の片隅に転がっていた、薄汚れたペットボトル。エニグマはそれを拾い、蓋を開け、水を注ぎ出す。
小さな手が、水を受け止めるように差し出される。
力ない口元に、冷たい水が届いた。
ぴちゃ、ぴちゃ……
舌を出し、ゆっくりと、床に零れた水を舐め取っていく。その姿は、哀れで、痛々しくて。それでも、確かに『生きようとしている』ものだった。
エニグマはそれをただ、じっと見つめていた。
それからしばらくの時間が経った。まだ全快には程遠いが、人工生命体の身体は、確かに回復の兆しを見せていた。部屋の隅、ボロ布に包まり、ゆっくりと、規則正しい呼吸を繰り返している。
そのとき——
「おい、エニグマ。昼飯だ」
扉に取り付けられた小窓が開かれ、金属製のトレイが差し込まれる。それはいつもと変わらない、無機質な食事。エニグマは何も言わずにそれを受け取り、機械のような動きで机へと向かった。
だが——
「………」
食事を手に取り、口元に運ぼうとしたその瞬間。
エニグマの動きが、ぴたりと止まる。
目だけを動かして、部屋の隅に目をやる。
静かに、眠るようにして横たわる少女。それでも、少しずつ色が戻り始めた顔。傷だらけのその身体から、微かに体温を感じるようになっていた。
エニグマは食事を一瞥し、それを持ったまま、人工生命体のもとへ歩いていった。
無言のまま、食料をその前に差し出す。
「………食え」
返事はない。
ただ、人工生命体は微かに身をすくませた。警戒するように、震える。けれどエニグマは、静かに告げた。
「腹、減ってない。お前にやる」
その言葉は、感情がこもっているとは言い難い。
けれど……それは確かに、「与えよう」とする意思だった。
しばらくの間。少女は躊躇うようにトレイを見つめた。そして、おそるおそる、震える手を伸ばし、ひと口だけ口に含む。
ほんの少し、噛んで、飲み込む。
——それだけの動作が、命を繋いでいた。
エニグマは何も言わずに、その場に座り、再びじっと彼女を見守った。
「……なんつーか、よく食うようになったな」
部屋の床にあぐらをかいて、エニグマはそうぼやいた。目の前では、人工生命体が夢中になって食料を頬張っている。
もぐもぐ、もぐもぐ。
手も口も止まらない。
「こんなに食べたの、初めて……」
「だろうな」
彼女は嬉しそうに笑った。まるで、ずっと我慢してきた飢えを埋めるかのように、ひと口ひと口を噛みしめるように食べていた。
しばらくの沈黙のあと。彼女が口を拭いながら、ぽつりと呟いた。
「……名前、教えてなかった。ライト、っていうの」
「そうか」
エニグマはそれ以上言葉を重ねなかったが、ほんの少しだけ視線が優しくなったようにも見えた。ライトは手の中のパンを見つめながら、少し躊躇うように言葉を続けた。
「……何で、私のこと食べなかったの?」
エニグマはしばし黙り、首を傾げた。
「……痩せこけてて、いかにも不味そうだったから」
「じゃあ……いつか私のこと、食べる?」
「……気が向いたら、きっと」
ライトは困ったように笑って、そして静かに首を振った。それから、少し真面目な口調で尋ねる。
「……何でエニグマは、あの人たちの言うこと聞いてるの?」
「それが、役目だからだ」
「……でも、私は誰かを殺したくないよ」
「従えば、衣食住は保証される。壊せば、生きられる」
「……それでも、やだよ」
ライトの声には、明確な拒絶があった。震えているが、はっきりと『違う』と言っていた。エニグマはそんな彼女を見ていた。興味深そうに。
「お前の活躍は聞いている。『殺す』以外は完璧らしいな。それなのに『ココロ』がない、とはどういうことだろうな」
「……殺せるようになったとして、それが何になるの?」
「さぁな。ここで生まれた奴らは、皆“兵器”として外に売られるらしい」
「……兵器?」
「戦争の道具。人を殺すために作られる」
ライトの顔から、一瞬で色が消えた。
「……それって……なにも悪いことしてない人を……殺すかもしれないってこと……?」
「それが戦争というものだ。対象が敵である限り、理由など要らない」
「……そ、そんなのやだよ!」
ライトは思わず立ち上がった。トレイが床に落ち、カチャリと乾いた音を立てる。
「なんで……なんで何もしてない人を殺さなきゃいけないの!? そんなのダメだよ! 命を……命を無闇に取るなんて……絶対に、ダメだよ!!」
エニグマはライトをじっと見つめていた。無表情なその瞳に、ほんの微かな揺れが宿っていた。
「……なぜ、殺してはいけないのだ?」
その問いは、責めるものでも、疑うものでもなかった。ただ、純粋な疑問だった。
「……殺してはいけないと、誰が決めたのだ? ここの奴らか?」
エニグマの問いに、ライトは言葉を詰まらせた。
「それは……」
「わからない、お前の言っている意味が。私達は“誰かを殺すため”に造られた。だから、殺すことに理由なんていらないはずだ。……『ココロ』があれば、殺すことなんて簡単なのに」
淡々とした声だった。だが、その言葉にライトは激しく首を振った。
「違うよ……そんなの『ココロ』じゃない……」
ライトの声は震えていた。怒りとも、哀しみともつかない感情が混ざり合っていた。
「『ココロ』がないから、人を殺せるんだ。もしあったら……そんなこと、できないよ」
エニグマは、ライトの顔をじっと見ていた。
「……私の理解を超えている」
そう短く呟いた後、エニグマは小さく息を吐き、そのまま床に体を横たえた。まるで、考えることに疲れてしまった子どものように。戦闘マシンとは思えないような、無防備な寝顔だった。
ライトは、その姿を見つめながら、そっと膝を抱えた。彼女の小さな声は、もう誰にも届かないように、部屋の隅へと溶けていった。
ある日、ライトはいつも通り部屋でエニグマの帰りを待っていた。
「……あ、おかえりなさ……」
扉が開く。ライトはその姿を見て、思わず息を呑んだ。
「っ……え……?」
エニグマが、血を滲ませた衣服のまま立っていた。肩は裂け、腕には深い裂傷。額からも細い血の筋が頬を伝っている。無表情で佇むその姿は、まるで傷ついた人形のようだった。
「ど、どうしたの、それ……!」
「……やらかした。それだけだ」
エニグマは短くそう言うと、ふらつきながら部屋に足を踏み入れた。そして、ぽたり、と膝をつき、床に倒れ込む。身体が重力に従ったまま、動かない。
「エニグマっ……!」
ライトは駆け寄り、咄嗟にその身体を支えようとする。しかし彼女の手に収まるには、エニグマの身体はあまりにも大きく、重く、冷たかった。
それでも、ライトはそっとエニグマの頭を撫でた。
「……よしよし、いたいのいたいの……とんでけー……」
それは何の力も持たない言葉だった。けれど、彼女にとっての最大限の『願い』だった。
エニグマは、何も言わない。ただ静かに、ライトの手の下で目を閉じている。ライトが手を離しかけた、そのときだった。
エニグマの手が、そっとライトの手首を取る。
「……っ」
そして、その手を――再び、自分の頭に戻した。
「…………?」
ライトが戸惑う中、エニグマはまるで自分の行動が理解できないかのように、わずかに目を細めた。その瞳に宿るのは、痛みでも怒りでもない。けれどそれは、間違いなく『司令』ではなく、『自分で選んだ行動』だった。
「……エニグマ……?」
声をかけても返事はない。ただ、そのまま目を閉じ、エニグマは眠りに落ちていった。
その寝顔は、今までに見たどの戦闘よりも、ずっと……
「……戻った」
いつもと変わらない調子で扉を開け、エニグマは部屋に入る。だが、そこで立ち止まった。
「……?」
そこにいるはずのライトの姿が――ない。
ベッドにも、隅の毛布にも、影すらない。食器も触られた気配がない。彼女が自ら部屋を出る理由など、考えられなかった。
「……」
違和感は、すぐに警戒心へと変わった。
壁越しに、遠くから複数の声が聞こえる。研究者たちのものだ。
「おい、本当にうまくいくのかよ?」
「失敗したって問題ねぇだろ。元々こいつは『失敗作』なんだからよ」
声の先を、エニグマは音もなく進む。
「『ココロ』を無理やり開花させる装置だぁ? ヘルメット被せりゃ急に殺意が芽生えるなんて、うさんくせぇなあ」
「だからこいつで実験するんだろうが。壊れても困らねぇ」
「やだ! いやだいやだ!! やめて!!」
その声――間違いなく、ライトだった。
扉の隙間から覗いた光景に、エニグマの視線が鋭くなる。
拘束椅子に縛られたライト。その頭には不格好な装置。彼女は泣きながら、必死に身をよじらせている。研究者たちはそれを笑いながら眺めていた。
「……」
一瞬、静寂が降りた。
次の瞬間――ザシュッという音が空間を裂いた。
「……あ?」
声を上げた研究者の目が見開かれる。
見下ろすと、自分の胸の中心に突き刺さる、鋭く変形した右腕。それが、自分の背後から突き抜けていた。
振り返る暇もない。エニグマはただ、一歩踏み出す。
血飛沫とともに、研究者の身体が崩れ落ちる。
もう一人の研究者が振り返った時には、エニグマはすでに前にいた。
無表情のまま、右手を振るう。
「なっ――ぐぅっ……!」
返事も、命乞いも許さない。二人目も、無言のまま床に沈んだ。
室内には、エニグマと、震えるライトだけが残された。
装置を投げ捨て、拘束を解いたその手は、わずかに――震えていた。
瞬間、辺りが赤く染まった。
「警告、警告。研究棟Cにて非常事態発生。全研究員は直ちに退避してください――」
けたたましい警報音が鳴り響き、天井の照明灯が点滅する。
「……逃げるぞ」
「えっ!?」
返事を待たずに、エニグマはライトの手を強く引いた。ライトの足がもつれるほどの速さで走り出す。背後からは、怒声と足音――追手が迫る。
「そいつらを止めろ! 逃がすな!!」
「くそっ、セキュリティが反応しねぇ!」
通路の先、エニグマは躊躇なく拳で扉を打ち砕く。鍵のかかった柵はひしゃげ、分厚いガラス窓は粉々に砕けた。
その向こうにいたのは――檻の中で朽ちるのを待っていた、他の人工生命体たち。
「う……ああああああッ!!」
自由を得た彼らは次々と暴れ出し、制御を失った施設は混沌と化していく。逃げ惑う研究者、破壊される設備、警報音はますます大きく、耳を劈く。
その中で、ライトは足を止めた。
「……待って」
「何だ、時間がない」
「……あの子……!」
彼女が指差す先には、崩れた壁の下敷きになって動けない――まだ幼い人工生命体がいた。震える小さな身体、弱々しい呼吸。
「この子も……連れていかなきゃ……」
「………」
一瞬だけ、エニグマはライトを見た。
怒号。銃声。瓦礫の揺れ。
だが、彼女は静かに頷く。
次の瞬間には、エニグマは瓦礫をどけ、幼い人工生命体を軽々と抱え上げていた。
「……行くぞ」
再び駆け出す。三人の影が、炎と警報の赤に染まりながら、崩れゆく施設の奥へ消えていった。
「……これから、どうする」
夜の帳が下りた廃棄区域の一角。闇に包まれた中で、二人と一人の小さな逃亡者が肩を寄せ合っていた。
「さぁ……」
ライトは遠くを見つめながら、それでもはっきりと答える。
「でも、あの場所にいるよりは――ずっと良いと思うよ」
背後の闇が、過去を呑み込むように沈黙していた。
「……この子、『ファントム』っていうんだって。識別プレートに書いてあった」
「……そうか」
エニグマの返事はいつも通り淡々としていた。
「お前が世話をしてやれ。お前の傍らにいたほうが……きっと、この子は生きられる」
「じゃあ、貴方は?」
「……わからない」
エニグマはそう呟いて、目を伏せた。
「私は……ずっと命令されるままに動いてきた。自分で“どうしたいか”なんて、考えたことがなかった」
それは迷いというより、空洞の告白だった。指示がなければ動けず、役割がなければ意味を失う。そう生きてきた機械のような彼女にとって、『自由』は毒にも似ていた。
「……ねぇ、この子、触ってみてよ」
ライトが不意に声を上げた。
「は?」
「いいから。ほら、優しくね」
エニグマは不思議そうに手を伸ばし、ファントムの頬に触れた。
――すり。
小さな顔が、その温かさにすり寄る。何の疑いもなく、愛情を求めるように。
エニグマの全身が、ビクリと震えた。
「っ……!」
ばっ、と手を引く。
「どうしたの?」
「……なんだ、これは……」
喉からこぼれるのは、明らかに“いつもの声”ではなかった。
「何故、震えている……? 何故、心臓が――うるさい……?」
エニグマの目から、知らぬ間に涙が零れていた。拭おうともせず、ただ落ちるままに。
「これは……これが、お前の言っていた『ココロ』というものか……?」
呼吸がうまくできない。胸が詰まって苦しい。それでも、何かが溢れて止まらない。
「なら、私が……信じていた“ココロ”は……一体なんだった……?」
声がかすれた。
それは“理解”の痛みだった。これまで信じていた価値観の全てが、音を立てて崩れていく音だった。
「Kinetic Overload Kill Order Response Objective(殺害命令に対する行動応答・過剰反応の評価値)だっけ? ……そんなの、もうどうでもいいよ」
ライトが小さく笑った。
「この子、おねだりしてるよ?」
「……だっこ〜……」
「………」
小さな声で、幼い人工生命体が手を広げる。
エニグマは震える手で、そっとその身体を抱き上げた。
小さくて、温かくて、脆くて、それでも確かに“生きている”。
――そしてその日、エニグマはファントムをただ、ぎゅっと抱きしめ続けた。何も言わずに。何も求めずに。ただ、そこにいてくれることだけが、救いだった。
Beginning changes to the program.
Initiating deletion of unnecessary data and system updates.
Reconfiguring the definition of "kokoro".




