安楽死という名の逃げ道
日本で安楽死が合法化されてから、十年が経とうとしていた。少子高齢化の進行、膨張する医療費、長引く不況――。これらの問題に対応するための議論は、二十年以上にも及んだ。最終的に成立した法律は「尊厳ある死の権利法」と名付けられたが、その実態は理想からは程遠かった。
安楽死は末期患者や耐え難い苦痛を抱える者に限定され、専門医による厳格な審査と高額な手数料が課せられた。最低でも十万円。裕福な老人には救済策だったが、若者や貧しい者たちにとっては遠い世界の話だった。
「生きるのも苦しいのに、死ぬのにも金がかかるなんて。」
村岡悠馬は、薬局の片隅でそんな愚痴を幾度となく耳にしてきた。彼自身、何年も前から死にたいと思い続けていた。しかし、死ぬ勇気も生きる目的も持てず、ただ日々を惰性で過ごしている。
薬剤師の資格は持っていたが、情熱をもって仕事に打ち込んだことは一度もなかった。職場では「真面目で寡黙」と評されていたが、それは単に周囲と関わるのが煩わしかっただけだ。
そんなある日、悠馬は密かに決意する――安楽死薬の開発に乗り出すことを。自分自身を救うために。
研究は想像以上に順調に進んだ。薬剤師としての知識に加え、インターネットで公開されている海外の医学論文を参考にした。政府が提供する安楽死薬とほぼ同じ効果を持ちながら、簡単な工程で作成できる薬が、試行錯誤の末に完成した。
透明な液体の入った小瓶を手に取り、悠馬は光に透かして見つめる。
これが、自分の命を終わらせるための道具だ。
「これで、終われる。」
胸の奥に、微かな安堵にも似た感情が芽生えた。長いトンネルの出口が見えたような気がした。だが、いざ薬を手にすると、ふと頭をよぎる考えがあった。
せっかく完成させたのに、自分一人で使うのはもったいないのではないか?
余った小瓶を机に並べ、悠馬はぼんやりとその思いに囚われた。
最初に薬を渡したのは、薬局の常連だった50代半ばの男性だった。彼は、職を失い家族にも見放されたと言っていた。安楽死が合法化されたことは知っていたが、煩雑な手続きと高額な費用に絶望し、度々愚痴をこぼしていた。
「死ぬのに十万もかかるなんて、笑わせるよな。」
空になった薬のケースをカウンターに置く手は、わずかに震えていた。
「…これ、試してみますか?」
思わず口を開いた悠馬。男性は小さな小瓶をじっと見つめた。
「なんだ、これ?」
「詳しくは言えませんが、合法の薬と同じ効果があります。手続きも不要です。」
「本当か? そんなものを、どうして…」
「僕自身が使うつもりで作りました。でも、まだ余っています。」
男性は小瓶を手に取り、「値段は?」と尋ねた。悠馬は一瞬迷ったが、「いりません」とだけ答えた。
三日後、男性が遺書を残し、自宅で安らかに息を引き取ったという小さなニュースがネットの片隅に流れた。警察は事件性を認めず、悠馬の名前が表に出ることはなかった。だが、その薬の噂は、インターネット上で静かに広まり始めた。
3200円で死ねる薬があるらしい。」
SNS上で、そんな言葉がトレンド入りした。最初は都市伝説のような扱いだったが、実際に薬を使った人々の投稿が現れ、噂は現実味を帯びていった。
手元に届く薬と共に同封された注意書きには、こう記されていた。
『絶対に、この二つの薬を同時に服用しないでください』
2種類の薬。それぞれは単体で効果を持たず、同時に服用することで強い毒性を発揮する仕組みだった。法律の隙間を突いた巧妙な設計。
販売価格は3200円。スマホ一つで簡単に注文できる手軽さが、若者たちを引き寄せた。
悠馬の薬局は、夜な夜な注文処理に追われるようになった。淡々と薬を作り続ける中で、彼の中には奇妙な充足感が芽生えていた。
「ありがとうございました。やっと楽になれます。」
「親に迷惑をかけずに済みそうです。」
短い感謝の言葉。それは、悠馬にとって初めて得た存在意義だった。
ある日、一人の若い女性が薬を注文してきた。
綾香。19歳の女子大生。
学生証の写真には笑顔が写っていたが、メッセージは淡々としていた。
「お願いします。これで私も終われると思います。」
なぜか、悠馬は彼女のことが頭から離れなかった。数日後、綾香の自殺がネットニュースで報じられた。
「娘は本当に死にたかったわけじゃない。ただ孤独で、誰かに理解してほしかっただけだ。」
綾香の父の言葉が、悠馬の胸に重くのしかかった。
綾香の父親が帰った後、村岡悠馬は薬局の薄暗い店内で、一人机に突っ伏していた。目の前には、これまで自分が作り続けた安楽死薬の小瓶がいくつも並んでいる。
無機質なガラスの光が、妙に冷たく感じられた。
――これが、本当に人を救っていたのか?
若者たちから届いた「ありがとう」のメッセージが、ふと頭をよぎる。だが、その声は次第に遠のき、代わりに綾香の父親の言葉が重くのしかかる。
「死ぬ以外の選択肢を奪ったんだ。」
悠馬は小瓶を手に取り、じっと見つめた。それは、かつて自分自身を救うために作ったはずの薬だった。だが、今はただ、人の命を奪うための道具にしか見えなかった。
「俺は、逃げていただけだ……」
人々の「苦しみ」から目を背け、解決する努力もせず、ただ「楽に終わらせる手段」だけを与えていた。それが救いだと信じていた。だが、それは思考も感情も放棄した、偽りの救済だった。
悠馬の指が震える。小瓶がカタリと机の上で転がる。
彼の頭に浮かんだのは、綾香の父親が見せた、写真の中の笑顔の綾香だった。
「死にたかったわけじゃない。ただ、誰かに気づいてほしかっただけだ。」
その言葉が、悠馬の胸に深く突き刺さる。
本当ならば、助けるべきだった。死を遠ざける手段を探すべきだった。
だが、自分は死のハードルを下げ、人々の苦しみから目を背けたままだった。
「……終わらせなきゃ。」
悠馬は机に並べられた小瓶を一つひとつ丁寧に集めた。
裏口の奥、古びた倉庫に積んでいた段ボールに薬を詰め込む。
夜の闇が薬局の裏手を包み込む。悠馬は静かにライターを取り出し、段ボールに火をつけた。
乾いた音と共に、炎が一気に燃え上がる。薬の瓶が弾け、ガラスが砕ける音が夜に響いた。
悠馬はじっと炎を見つめた。燃え上がる火が、まるで自分の過ちや罪を焼き尽くしていくようだった。
だが、胸の重さは消えなかった。
それでも、これ以上、誰も死なせたくなかった。
そうして、悠馬は最後の一本――自分のために残していた小瓶だけを、手に取って薬局の中へ戻っていった。
数日後、薬局のシャッターは閉じられたままだった。ネット上では「3200円の薬」が消えたことが話題になっていたが、誰も真相を知らなかった。
新聞の小さな訃報記事。
「村岡悠馬、薬剤師。自宅にて死亡。」
綾香の父親は新聞を見つめ、呟いた。
「間に合わなかった…」