うっかり、小娘を侮ってしまった
「交渉は思ったよりも難航している」
フランドル共和国代表団が宿泊しているリビングストンのホテルに戻ったハリス大使は、随行員の中でも共和国防衛隊の将校にそう話しかけた。
将校の階級は少佐。共和国政府直結の人民防衛隊所属の将校だ。名はジェスト・コーエン。元は工員で革命軍に身を投じて出世した青年だ。年齢は27歳。武闘派で知られており、フランドルの元王族や貴族を処刑してきた人民防衛隊のナンバー3だがその行動の過激さに民衆の支持を集めており、政権内でも実権を握りつつあった。
「あのバカ皇太子にしてやられているのか?」
ジェストは年上のハリス大使に無礼な言葉遣いで聞き返した。年齢もそうだが、地位でも一介の将校が国の全権大使に使う言葉づかいではない。
しかし、ハリスは気にも留めない。フランドル政府は人民の代表が動かしている。市民革命によって王は処刑され、貴族の多くは粛正されたのだ。ハリスは貴族階級出身であるが、革命前から市民派に属していたので、革命政府内で地位を保つことができた。しかし、元貴族であったことはいつ身を滅ぼすことにつながるか分からない。言葉遣いが無礼と言うだけで、この若者を敵にすることは老練な政治家として賢い選択ではない。
革命軍も全ての貴族を追放することはできなかった。政府を実際に動かすにはそれなりの能力が必要で、司法、行政、立法、軍の中で貴族出身者が活躍していたのだ。だが、それを不満とする市民グループもおり、それが人民防衛隊という組織を作って貴族たちを監視していたのだ。ハリスも監視されているという意識を常にもっていないと、いつ処刑されるか分からないのである。
「皇太子は問題ない。奴は少しおだてればこちらの思惑通りに動いてくれる我らの手駒だ。皇太子の連れてきた娘も賄賂で関心を買える」
「ふむ。貴族や王族はどこまでも無能でクソだ。厄介なのは次席大使の外務大臣か?」
ジェストの目が鈍く光った。貴族嫌いのこの青年は、外国の貴族でも容赦はしないのだ。
「確かに次席大使のヒュッテは侮れない。しかしそれは計算の内だった。誤算は小娘だ。秘書官のクローディアとかいうエルトラン王国宰相の娘だ。あの小娘が目障りだ」
ハリスはそう言うとクローディアのことを調査したファイルを取り出した。当初は皇太子の妃候補として付いてくるために、名目上の秘書官になっただけだと軽んじていた。
しかし、今日の交渉でもクローディアの働きが、ハリスの思惑を阻んだのは間違いがない。当初は皇太子妃として社交場のみの活躍だと思っていたが、皇太子は別の娘をパートナーにしており、それも意外であった。
(どうやらあの娘は皇太子に嫌われているらしいが……。もし、結婚して将来王妃となったら、エルトラン王国は厄介な敵になるだろう)
そう思わざるを得ない。皇太子が連れ歩いている娘は、過度な贈り物をして既にこちらの陣営に取り込んでいる。頭の悪い女が敵国の王妃になった方が、フランドルとしては好都合だろう。
「その小娘、こちらで始末しようか。秘書官程度なら護衛も少なかろう」
ジェストは冷たくそう言った。この交渉の場に人民防衛隊の中でも暗殺を請け負う闇の部隊の人員も何人か連れている。やろうと思えばやれなくはない。
「ダメだ。ただの秘書官ではない。宰相の娘だ。それに皇太子に嫌われてはいるが、皇太子妃の一番候補だ。暗殺などしたら交渉は決裂する」
ハリスは慌てて強い語気で否定した。確かに暗殺は皇太子よりも簡単だろう。しかし、敵国の宰相の娘である。影響が大きすぎる。
「決裂すればいい。今、首都に向かって我が共和国軍が集結しつつある。エルトランの蛮族共など皆殺しにしてやる」
ジェストは過激なことを口にする。ハリスは首を振る。軍も政府もこれ以上の戦闘は避けたい。今は外交で逆転する場面なのだ。ジェストが言う武力解決の道は厳しいのだ。それくらいは理解して欲しいものだとハリスは、狂信的な若者を見る。彼には理性がなさ過ぎる。
(まあ、なんとかなるだろう……)
小娘は計算外であったが、所詮は秘書官。やれることはしれている。それに皇太子も連れの女も既にこちらに取り組んでいる。戦争では負けたが、外交では我が国の勝利は疑いない。
ハリスはそういってジェスト・コーエンの行動に釘を刺した。ジェストはその言葉に応えない。不機嫌そうに俯いただけであった。ハリスは嫌な予感はしたが、人民防衛隊ともめたくないのでそれ以上はこの件から離れようと考えた。仮に人民防衛隊が動いて交渉に影響があっても、それは自分の失態ではないのだから。




