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うっかり悪役令嬢を落としてしまいました  作者: 九重七六八
第6章 終戦条約締結 編
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うっかり、相手の要求に譲歩してしまった

「では、シェルズエール地方の割譲については、合意のとおりで……」

 

 フランドル共和国のハリス全権大使は表情を変えずにそう発言した。真っ白な顎髭と口髭がつながった愛嬌のある顔立ち。しかし、時折見せる眼光の鋭さがこの男の本質だとクローディアは思っている。

休戦条約の第1項である。エルトリンゲン王太子は面倒くさそうに頷こうとした。昨晩は夜遅くまでパーティーに出席し、飲酒やらカードゲームで遊んでいたので、明らかに寝不足な顔付きである。


「殿下、昨日に確認したとおりに……」


 慌てて次席大使の外務大臣ヒュッテが、エルトリンゲンに古代ギリア語で忠告する。外交交渉において使われる言葉は大陸共通語であるフラム語である。敢えて、フラム語でもエルトラン語でもない言葉で話したのは、相手に内容を聞かれたくないからだ、


「ああ、そうだったな。資料をもて」


 眠そうにエルトリンゲンは、シェルズエール地方の地図を持って来るように命じた。持ってきたのは筆頭秘書官であるクローディアである。クローディアはエルトラン、フランドルの交渉団が相対する大きな机に地図を広げた。


「殿下、説明する許可をお与えください」


 地図を持ってきた際にクローディアが説明することは、事前の打ち合わせで決めていたことだ。


「ああ……。クローディア・バーデン主席秘書官、説明せよ」


 面倒くさそうにそうエルトリンゲンは命ずる。クローディアは、ハリス全権大使とフランドルの外交官に厳しい視線を向けた。この交渉は既に激しいせめぎ合いをしている。それに気づいていないのは、どうやら王太子だけのようだ。


「それではエルトラン王国の立場を説明します」


 クローディアは地図のある地点を棒で指示した。そこは今回、フランドルがエルトラン王国に割譲するシェルズエール地方の国境線であった。


「シェルズエールと貴国との国境線を明確にする必要があります」


 そう言ってクローディアは地図の一か所を差し棒で示した。そこには、ウェールズと記してある。


「この都市より30km先を国境とすることを要求します」


 毅然としたクローディアの口調に場の空気が凍り付くようであった。一瞬、言葉を失ったハリス大使は、慌てて異議を唱える。


「ちょっと待て。それは過度な要求というものだ。歴史上、貴国が領有していたのはウェールズより後方のレムス川沿いだったはずだ。ウェールズは含まないというのが常識というものだ」

「そこでは単に我が国の固有の領土を得たに過ぎません。戦勝国として要求をしているのです。それともフランドル共和国は戦争に勝っても敗戦国に何も要求をしないというのですか」

「そ、それは……」


 ハリス大使は言葉に窮した。これまでフランドルが大陸の小国に侵攻し、領土を切り取って来た歴史がある。クローディアの問いに違うと言えば、言動不一致を責められるであろう。


「ウェールズは交通の要所でこの地方の最大都市。そして住民はエルトラン系住民が多く、我がエルトラン王国への協力をしてきました。シェルズエール地方を治めるにあたり、ウェールズを含まないことなどありえません」


 クローディアの言葉に反論したハリス大使は。しかし、ここで譲っては国益にかなわない。


「君は秘書官に過ぎないだろう。王太子殿下の見解をお聞きしたい」


 ハリス大使はクローディアよりも組みやすしと踏んだエルトリンゲン王太子に発言を求めた。


「ああ、この交渉は戦争を終わらせるためのものだ。我が国だけの主張を強引に飲ませるだけではうまくいかないというものだ」

「殿下、何を……」


 クローディアは言いかけて言葉を止めた。エルトリンゲンの性格から考えるとクローディアへの反感から国益を損なう発言をしてしまう可能性があったからだ。


「さすがはエルトラン王国次期国王となられるお方。寛大なお考えに大陸の諸侯、政府も殿下のお人柄に感服することでしょう」


 すかさず、ハリス大使がエルトリンゲンを褒めたたえる。言われたエルトリンゲンは満足そうに頷く。クローディアは生き馬の目を抜くと言われる外交交渉の場で、エルトリンゲンがあまりにも無防備であり過ぎることにため息しか出ない。敵国の交渉人に褒められていい気になっていては、いいようにカモられるだけだ。


「シェルズエール地方の全域の領有を主張してもよいところを、ウェールズから30キロまでとしているところが我が国の寛大さというものです。そうでありますね、王太子殿下」


 そうヒュッテ大臣が切り返す。ヒュッテは一瞬だけクローディアの方を軽く右目でウィンクした。クローディアはほっと胸を撫で下ろした。


 元々、この交渉を請け負うはずであった男である。外交交渉の能力においては王国随一である。エルトリンゲン王太子が全権大使の座を強引に取らなければ、このヒュッテ外務大臣が交渉を仕切っていたはずだ。その有能さが外交交渉素人の王太子によって、かなりのハンディキャップを負わされている。


「まあ、そうだな。わが軍は貴国の首都目前まで軍を進めている。現在の占領地を考えれば、かなりの譲歩だな」


 エルトリンゲン王太子はそう答えるが、先ほどエルトリンゲンを褒めたたえていたハリス大使は微笑みを崩さないまま、反駁を開始する。


「殿下、それは脅しでしょうか?」

「いや、そのような意図はない。事実を言ったまでだ」


 エルトリンゲン王太子はハリス大使の言葉に慌てて応える。先ほどまで持ち上げられていたから、そこから非難されて気分が悪くなるのを嫌ったらしい。


「確かに我々は、今は立場が弱いです。この交渉次第では、首都が火の海になるかもしれません。しかし、殿下。我々を追い詰め過ぎれば貴国にとって厄介なことになりますよ。この和平交渉がとん挫すれば王太子殿下の輝かしい経歴に傷がつくと言うものです」

 ハリス大使はそういってエルトラン王国側の代表団を見回す。先ほど分割する領土の説明をし、今は壁際に控えているクローディアにまで視線を送った。その表情には不気味な笑みがあった。


(……こちらが強気に出れば交渉決裂も辞さないという脅しね)


 クローディアはハリスをにらみつける。相手の脅しに屈してはこの厳しい交渉は乗り切れない。

 ハリス特使も分かっているのだ。首都目前にして停止しているエルトラン王国の軍は食糧難と弾薬不足でこれ以上戦うことができないということを。もちろん、フランドルも首都を守る兵はわずかであり、こちらも強気に出る状態ではない。


(つまり、互いにブラフで相手に譲歩させる戦いだわ)


 クローディアは伸ばした背筋にさらに力を入れ、ハリスの次の言葉を待ち受ける。このブラフ合戦で彼がどう切り込むのかが気になる。


「どうでしょう。この件については、我々が譲歩しましょう。ですが、エルトラン側も交渉が成立するよう譲歩もしてほしいのです」

「うむ。我々の思いも同じだ。この和平交渉は成立させたい。領土について譲歩してくれたのだ。そこは持ちつ持たれつだな」


 エルトリンゲンの言葉にクローディアは体がピクリと動いた。ハリス大使の狙いに気づいたのだ。彼はエルトリンゲン王太子のこの言葉を引き出したかったのだ。


「では第1項については、エルトラン王国側の要求通りとしましょう。ついでに第2項のクアロ・ポルテ公国の承認についても承諾としましょう。2つの条件を譲ったのですから、次はエルトラン王国の誠意を見せる場です」

「うむ。2つを譲ってくれたのだ。次は我が国が譲る番だ」

(やられた……)

 

 クローディアも次席大使のヒュッテもハリスの狙いに気づいたのだ。そしてエルトリンゲンの軽はずみな言葉で窮地に陥ったことを知った。


「では賠償金については、なしということでよろしいですね」

「えっ……」


 思いがけない言葉にエルトリンゲンは言葉を失った。


「殿下は譲歩するとおっしゃったではありませんか。そもそも我々はまだ降伏したわけではありません。賠償金を支払った例は降伏した場合に降伏した方が勝者に支払うもの。今回の対等な和平交渉ではそぐわないと存じます」

「我々は貴国の首都を目前に停止している。このまま行けば降伏するしかないのではないですか」


 ヒュッテ外務大臣がそう割って入った。このままでは完全勝利した事実が捻じ曲げられてしまう。


「では交渉は決裂ですな。賠償金の1点だけで合意ができないのは残念です」


 ハリス大使は立ち上がり、部屋を出て行こうとする。慌ててエルトリンゲンが声を上げる。


「ハリス大使殿、待っていただきたい」


 ハリスは立ち止まった。クローディアはよくできた演技だと思った。なぜなら、彼が振り返る前の一瞬だけ笑みを浮かべたのだ。扉近くに着座しているクローディアにはそれが分かった。


(ダメだ。殿下はこの男には勝てない……)


 この交渉でフランドルが一番合意したくないのは賠償金の支払いである。それを支払うことは負けを認めるということ。そして戦後の復興に足かせになることでもある。フランドルは市民の選挙で選ばれた議員と大統領で成り立つ国だ。賠償金まで払うことは市民の支持を失うことになる。

 フランドルの現政権は戦争に負けて、その信頼は地に落ちているとはいえ、賠償金まで支払ったら選挙で大敗。政敵に政権を奪われるであろう。


「殿下、呼び止めたということは賠償金については譲歩していただけるということでよろしいですか?」

 

 ゆっくりと席に戻り、ハリス大使はそう言ってほほ笑んだ。


「交渉を決裂させることは互いに望んではいないだろう。賠償金については、一端棚上げにして交渉を継続するということではどうだろうか?」


 エルトリンゲンはかろうじてそう言った。ここで賠償金を放棄することは、いくら何でも自分の一存では決められないと思ったのであろう。

 しかし、ハリス大使はこの言葉にさらに攻撃を加速する。


「殿下、他の項目を継続して交渉したところで、賠償金の件が合意されなかれば、すべてがなくなります。それでは長い時間かけて交渉する意味がないでしょう」

(いや、意味はある。今、首都に向かって2個師団が移動中。それが首都の防衛につけば、フランドルはさらに強気に出る)


 クローディアはそう頭の中でつぶやきながら、ハリスの言葉を聞く。


「賠償金については譲歩を前提にするというのであれば、棚上げにしてもよろしいと思いますが、どうされますか?」

「ああ。譲歩については検討する」


 エルトリンゲンはそう約束してしまった。辛うじて検討するといって、巻き返しの余地を残したものの、当初の要求であった500億エディットは得られないことは確実となった。


「分かりました。殿下からその言質が取れただけで、我らがこれまで貴国に譲歩した甲斐があったというもの。さすがは未来のエルトラン王陛下。世界の平和を見据えた賢い選択をされましたな。どうでしょうか、今日はここまでということで」


 ハリスはポケットから懐中時計を取り出して、ちらっと時刻を確認してそう切り出した。午後1時から始めた交渉も2時間を超えて3時過ぎとなっていた。

 夜はリビングストン市主催の晩餐会が予定されている。そろそろ会議は終わり、出席の準備をする頃合いであった。


「そうしましょう」


 自分が言ったことの重大性をさほど認識せず、エルトリンゲンはそう言って立ち上がり、ハリス大使に握手を求めた。

 交渉はここで終了。明日の午後に再開することとなった。


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