うっかり、ゲロを吐いてしまった
(はあ~。びっくりした……)
セオドアが艦橋に戻り、一人部屋に残されたクローディアは、自分の心臓が早鐘のように打ち鳴らされていることに気づいた。彼が部屋にいた時は、冷静さを保つよう意識していたので、心臓は普通の鼓動であった。
セオドアが目の前からいなくなって、緊張感がなくなったのだ。ドクン、ドクンと音が聞こえてくる。
(我としたことがどうしたのだ?)
(ベッドに押し倒されたから仕方がない。男性経験のない女なら、あのような状況になれば、誰でもああなるものだ……)
そうクローディアは自分に言い聞かせる。しかし、こうも思うのだ。これが何とも思っていない男や嫌悪感のある男がしたことなら、きっと自分は強烈に抵抗し、そして相手を罵倒したことだろう。
想像しただけで寒気がしてくる。セオドアに押し倒されて、今にもキスをされそうになった時に、クローディアは頭が真っ白になった。
拒否からではない。思わず目を閉じて受け入れそうになってしまったのだ。
(うそだ、うそだ、うそだ。ありえない、ありえない、ありえない!)
「我は皇太子妃。未来の王妃だぞ。辺境伯に過ぎない田舎者とキスしたいなどと一瞬でも考えた我が恥ずかしい」
思わず声に出してしまったクローディアは、それに気づいて赤面した。慌ててシーツに顔を埋め、そして頭を枕で覆う。
(あの時、我が目を閉じたらどうなっていたのだ?)
(あの不埒者は我の唇を奪っただろうか?)
(いやいや、あいつはいつも飄々としてはぐらかす。やる気を見せない怠け者だ。どうせ、押し倒したのは我をからかうつもりだったに違いない)
「でも!」
クローディアは上半身を起こした。
「あのまま、強引に我が3センチ顔を動かせば、我のファーストキッスの相手はテディだった!」
そう言ってまたクローディアは顔が熱くなる。
(う~っ。何を言っているのだ、我としたことがはしたない。まるで我からキスをしたいみたいじゃないか!)
(我はエルトリンゲン王太子殿下の許嫁だ。我の初めては全て殿下のものなのだ。だけど……)
クローディアは何だか嫌だと実感した。あの王太子に自分のファーストキスを捧げることを想像しただけで、背中に寒気が走る。ましてや、その後のことなど、想像したくもない。
(我は……我は……心の底では、王太子殿下と結婚したくないのであろうか?)
(では、我の結婚相手は誰だ?)
目を閉じて考えてみる。浮かんでくるのはセオドアの顔。
(なんだこれは!)
(どうしてあいつの顔しか浮かばないのだ!)
(ま、まさか、我はテディのことが好きなのか?)
「そ、そんなことはない!」
「あいつとキス……。あいつと裸で抱き合う……」
「あいつと……」
クローディアは自分の体が熱くなってくるのに気付いた。
「わ、我ははしたない女なのだろうか?」
(うぷ……)
急に船が横揺れした。体に不快な重心移動が加わり、胃の中のものがこみあげて来る。
「き、気持ち悪い……」
クローディアは慌てて、ベッドの下に置いてあるバケツを掴んだ。それの中に顔を突っ込む。バケツはクローディアが忍び込んで来たと知ったセオドアが、外に出て持ってきたもの。
必ず必要になりますからとぬかしていたが、そのとおりになってしまった。
「ゲロゲロ……」
豪快にキラキラを吐き出すクローディア。嘔吐を繰り返す。胃の中のものは全てバケツに吐き出した。げっそりしたクローディアは、机に置かれた水差しから水をコップに注ぐと、口をゆすぐ。それを再びバケツに吐き出す。
「こ、これが船酔いというものか……。ひどいものだな……。いや、ちょっと待て。運動神経のよい我が船酔いなどするものか。もしかしたら……」
(に、妊娠した!?)
(そういえば、母上が言っていた。腹に赤ちゃんが宿ると吐き気がして、果物が食べたくなると)
(ま、まさか、我は妊娠したのか。あ、ありえる。さっき、セオドアに押し倒された。あと3センチで唇が触れそうになった。服は着ているが、抱き合ったようなものだ。以前、子供の作り方を聞いたら、男と女が裸で抱き合うと聞いた。互いに愛があれば子を授かると。さっき押し倒されたことで、セオドアの子を宿してしまったのかもしれない)
さすがに冷静に考えれば全く見当違いと分かるのであるが、動揺しているクローディアは性知識の不十分さが加わって、そう思い込んでしまった。
「どうしよう。我はもう皇太子妃になれない……」
そう口にしたクローディアには、残念な気持ちが湧いてこない。むしろ、なんだか心が晴れるような気がしてくるのだ。
「こ、こうなったら仕方がない。責任を取ってもらわねば……。その前にこの任務を全うしないといけない。デュワノマール将軍を翻意させ、ロイッシュの企てを葬る。まずはそれが先決。そうすれば、その功績でテディと我の結婚もお父様に認めてもらえるはずだ。うっ……」
また船が揺らぐ。どうやら外洋に出たようだ。荒波にもまれ、船が上下に揺れる。クローディアはバケツに顔を突っ込む。
吐き気はあるがさすがにキラキラはでない。クローディアはベッドに丸くなり、毛布を被って気持ち悪さに耐える。
まもなく、旗艦ドゥラメンテで騒ぎが起きるであろう。その時までに体力を温存しなければとクローディアは目をぎゅっと閉じた。
(我と腹の子供の未来がかかっているのだ。ここが正念場だクローディア!)
大変な誤解をモチベーションにして、クローディアは任務遂行を心に誓ったのであった。
*
「う~っ。風が出て来たせいか、何だか寒気がする」
艦橋に上がったセオドアは、前を航行する旗艦ドゥラメンテと2等戦列艦を見ながら、思わず両手で肩を掴んだ。
クローディアのありえないレベルの勘違いで、任務遂行にあらぬ混乱を巻き起こすことになろうとは、まだ彼は知らない。




