【13】人の手
『みとめぬ、みとめぬみとめぬみとめぬ!!!』
もはや言葉ですらなかった。四方八方から殴りつけられるような衝撃に、イミルは小さく悲鳴を上げた。
(っ…… だめ、なの!?)
傷つきすぎたものには、もう何も届かないのか。
唯一その声を耳に出来る聖女の訴えすら、彼には届かないのか。
怯みは踏ん張るイミルの足をふらつかせる。立っていられなくなった時、フェダがその身でもって、イミルを受け止めた。はっと振り向くと、強烈な呪詛の影響がとうとう彼にも現れていた。顔は青ざめ、激しく息が上がっている。
「フェダさん、下がっていてって……」
「出来ません。あなたが戦っておいでなら」
フェダの視線はイミルではなく、ニレの木に向けて真っすぐに向けられていた。
けふ、と一度むせてから、薄い唇が開かれる。低く流れる、祈り――
「いと尊き草水のかたがた、我らを見守る優しきものらよ」
神官の祈りが、轟々と鳴り響く怨嗟の渦に、一滴の水のように滴り落ちた。
「我が耳は只人の耳、あなたがたの声を聴くことは出来ません。その恨みも悲しみも、我がことのように胸を痛めたとして、幾百分の一の理解も出来ぬ者です。
ですが――わたくしの声が届くのであれば、どうか聖女の言葉にこそ耳をお傾け下さい」
我らが聖女ロクサーナの慈愛を、と、フェダは続けた。
「彼女はあなたを救いたいと願っている。かつて魔女と呼ばれ石を投げられた彼女であるからこそ、差し伸べる手は暖かく誠実なのです。
我らトル・パティカの者、一同にして、あなたを歓迎いたします。聖女が参られた時と同じように。決して、決して、裏切りなど致しません」
「フェダさん……」
「トル・パティカの神官フェディタダールが、身命を賭して願います」
神官は――
跪き、両手を大きく差し伸べた。
「どうか静まりたまえ。聖女の声に御耳を傾けたまえ、偉大なるニレの精霊よ」
イミルは、思い出していた。
聖女になってすぐのこと、神官っていったいどんな仕事なの、と問いかけた時、彼が穏やかな笑顔で返した答えを。
『神官とは、精霊と、聖女と、人々を繋ぐ者。必要とあらば命を投げ出す殉教者です』
誰よりも誠実に、何よりもその身でもって。
誓いを体現する者こそが神官なのです――
そう、フェダは言っていた。
今まさに、彼はそうしている。呪詛の嵐に身を投じ、ただ一つ、誠実さを武器に、荒ぶるものと向き合っている。
フェダは信じている。イミルの願いが、救いたいという願いが必ず届くと。
同じように傷つけられたイミルの言葉だからこそ、ニレの木にも届くはずだ、と。
「っ―― 重ねて、お願いします、私からも!」
フェダの隣に膝を折り、イミルもまた大きく手を開いた。
「あなたを救いたい。一緒に来て、一緒に生きて!」
四つの、大きく開かれた腕。
精霊から見ればひどく脆弱なその手を――
打ち付ける激しい叫びが、止んだ。
『――ひとの、て』
擦れた弱々しい声が、確かにイミルの耳に届いた。
差し伸べられた、人の手。
ニレの木が今まで望み、求め、かなわなかったもの。
もう一度、一緒に生きようと、共にあろうと願うもの。呪いを振りまくほどに焦がれたもの。
それが今目の前にある。たった二人分のか弱い腕でも、それは間違いなく暖かな手だった。
しん、と。
今度こそ辺りが静まり返る。
視界を覆う呪詛もまた勢いを緩めたのだろうか。目を開けていることすら辛かったフェダが、大きく瞳を見開きイミルを見た。そしてニレの木を見た。
ニレの木は――
『……そうか、我が子らは』
我が子らは、我を永久に忘れたか。
と、まるで一筋の涙をこぼすかのような、それは諦めの呟きだった。
ヴェンガムドの民が、精霊と共に歩む道は既に無い。とうの昔に途切れてしまった。
認めたくないその事実を、ニレの木はようやく受け止めたようだった。
そして、生みを隔てた遠い地に住まう者の真摯さをもまた、受け止められた、ようだった。
『――何処ぞと申したか』
ニレの木はしばらく黙った後、唸るように、イミルに向かって問いかけた。イミルは背筋を正し、大きな声で答える。
「東です。海を渡った隣の大陸。トル・パティカという、精霊を知る人たちが生きる場所です」
『其処で、そなたは救いを得たか』
「はい。間違いなく」
『恨みを捨てたか』
「捨て切れてはいません。ですが、それよりも楽しいことが沢山あるから、大丈夫です」
『其処は、そなたの永住の地か』
「命が尽きるまで、そこに」
います、と。
はっきりと断言する。もとからもう、帰る場所などそこしかない。
『――致し方なし』
悲哀と諦め、そして、かすかな喜びを。
含んだ声はすう、と小さく収縮した。光が、とフェダが呟く。彼の目には見えているのだ。きっと、ニレの木から漏れた瘴気が光となって、小さくまとまってゆくのを。
『我はかの地で憩おうぞ』
それが、承諾のしるしだった。
大きく手を開いたイミルに、強い風が吹きつけた。同時に下腹のあたりがほんのりと暖かくなり、全ての音が、まるで何もなかったかのように静まり返る。
とく、とく、と、不思議な脈動が、イミルに伝える。
身体の中に、命がもうひとつあることを。弱々しい明滅が悲しくて、ぐっと涙を堪える。
「こんなに、弱ってたんだ……」
ニレの木は、最期の力で、呪いを振りまいた。
思い出して、もう一度、と。
それは叶わなかった。でも、消えて失せてしまうより、ずっとずっと、良いはずだ。そう思いたい。
「……精霊を迎えたのですか?」
落ちた帽子を拾ったフェダが、イミルに静かに問いかけた。
読んで下さってありがとうございます!真心通じてその後に、もうちょっとだけ続きます。




