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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

迷いの森

作者: どくだみ

 昔、ある徳のある僧は信心深いがために、お釈迦様に化けた妖怪を見抜けず、無知で信心もない猟師がその妖怪の正体を見抜き、仕留めたという。小泉八雲の短編にある逸話である。


「じゃあ、ちょっと紅葉狩りに行ってくるわね」

 美咲は笑って真治にそう言った。真治は「早く帰ってこいよ」と言って、美咲に手を振った。真治の診察室でのことである。

 美咲は「たかが丹沢よ」と笑った。真治も微笑み返す。

 真治はスッと立ち上がると、美咲を引き寄せた。見詰め合う瞳と瞳。それはかの二人の関係が、ただの医師と患者の関係ではないことを物語っていた。そして、二人は唇を重ねる。

「ああ、真治先生……、愛しているわ」

「美咲、私もだよ」

 隣の診察室で看護師が動く気配がした。真治と美咲は離れた。

「日帰りだから、心配しないで」

 そう言うと、美咲は扉の向こうに消えた。


 根室真治はこのSメンタルクリニックに勤務する精神科医である。研究にも熱心だったし、優秀な医師として将来を期待されていた。そんな医師でもやはり人間である。本当はあってはならない、患者との禁断の恋に落ちていたのである。

 会社の人間関係が上手くいかないと言って、松田美咲が真治の元を訪れたのは半年前だ。真治は美咲を「うつ病」と判断した。投薬治療と休息の効果もあり、美咲は一ヶ月ほどで症状が軽快した。すると、顔色も良くなり、美しい化粧を施して診察室を訪れるようになったのだ。真治はこの時、美咲が美しい女性であることを再認識した。

 真治にアプローチをかけてきたのは、美咲の方からだった。医師と患者の椅子の間には見えない「境界線」がある。美咲はタイヤの付いた椅子を真治の方へ動かし、その「境界線」を越えてきたのだ。

「ねえ、先生……」

「何でしょうか?」

「先生って、素敵……」

 それが、禁断の恋の始まりだった。診察室の中での二人の会話は限られていた。自然と二人が会うのは病院の外となっていった。会うたびに美咲は美しい化粧を施し、真治を喜ばせてくれた。

 そして、二人はお互いを求め合った。もう既に二人はお互いの名前で呼び合う関係となっていた。

 美咲は症状も大分、快方に向かい、復職も近いと考えられていた。その復職を前に「紅葉狩りをしたい」と言いだしたのだ。真治も「趣味は多いほど良い」と言って賛同した。できれば美咲の紅葉狩りに付き添ってやりたい真治だったが、病院の予定がそれを許さなかった。結局、美咲は一人で紅葉狩りに出掛けることになったのである。

「どこへ行くんだい?」

「西丹沢よ。檜洞丸のあたり」

「ふーん。初心者が一人で山に入って大丈夫かい?」

「見損なわないで。私、これでも学生時代はワンダーフォーゲル部だったのよ」

 美咲は久しぶりに山に行くことを楽しみにしている様子だった。

 そして、今日の診察である。明日、美咲は西丹沢の「檜洞丸」の近辺を散策するという。女一人で山登りに行かせることが心配でないと言えば、嘘になっただろうが、かつてワンダーフォーゲル部に所属していたことを思えば、単なる取り越し苦労に終わるかもしれないと思う真治であった。下山したらメールを貰う約束を真治はしていた。


 そして美咲が紅葉狩りに行った当日の夜。真治は苛立ちながら彼女からのメールを待っていた。それは深夜になっても届かなかった。

(まさか、遭難……)

 そんな考えが真治の頭の中を過ぎる。真治は思い切って美咲の携帯電話に電話を掛けてみることにした。しかし、電波が届かないのだろう、携帯電話はつながらなかった。

 その晩、真治は眠ることができなかった。

 翌朝は普通に出勤した真治だが、診察中は目の前の患者のことより、美咲のことで頭が一杯であった。

 そして、夕方になっても携帯電話は通じない。

(これは、やっぱり遭難だ!)

 真治は患者が一区切りしたところで、同僚の医師に残りの患者を任せ、警察へと向かった。

「すみません、私の恋人が山で遭難したかもしれないんです」


 翌朝から美咲の捜索は開始された。警察と山岳救助隊による捜索である。

 真治も病院に休暇を願い出た。そして、自分でも美咲を探そうと思ったのだ。自分の恋人の安否が知れぬ今、己で探そうという真治の心情を理解できなくもあるまい。

真治の知り合いで猟友会のメンバーである高杉長吉という人物に協力を依頼した。長吉からは年に何度か猪鍋や鹿鍋の肉を分けてもらっている間柄であった。無愛想だが、西丹沢の地理に詳しく、頼れる男であった。

 警察の話では携帯電話の電波は確認できないとのことであった。

(美咲は、携帯電話の電源を切っているのか?)

 真治はそんなことも考えた。美咲のうつ病は快方に向かっていた。この時、注意しなければならないのが自殺である。うつ病を患っている人の中には自殺願望を抱いている者も多く、病が軽快した時にその願望が残存していると、衝動的に自殺してしまうことがあるのだ。

(美咲には希死念慮はなかったはずだが……)

 長吉と山に分け入りながら、そんなことを考えていた真治だった。

 丹沢の自然は懐が深く、森はどこまでも続いていた。

(こんなところで迷ったら、間違いなく遭難だな)

 そんなことを思う真治であった。

長吉はぶっきら棒な男だった。それでも義理堅い性格であることは真治もよく知っている。だが、真治が遅れても待ってはくれぬ。長吉は稜線を目指していた。警察や山岳救助隊は、美咲が沢に転落した可能性が高いとして、沢筋を主に捜索していた。そこで、真治と長吉は稜線を中心に捜索することにしたのである。

 長吉はスタスタと、あたかも忍者のような足取りで稜線を目指していた。

「おーい、待ってくれ。ここらで休憩しよう」

「何だ、もうへばったのか?」

 長吉が厭味っぽく言った。真治は日頃の運動不足を実感していた。

「最近の若い者は体力がないな。美咲という奴もどうしようもない。入山カードすら書いていなかったらしいな」

「そんな責めないでくれ」

「ふん……」

 腰を下ろした長吉が握り飯を頬張った。真治は喉がカラカラだった。貪るように水を飲んだ。

「さあ、行くぞ」

 握り飯を一つ平らげた長吉が立ち上がった。真治がよろけながら立ち上がる。

「稜線まではまだあるんですか?」

「何、もうすぐだ」

 稜線までたどり着けば、アップダウンは少なくなる。そう思うと「もうひと踏ん張り頑張ろう」と思う真治であった。


 捜索は難航を極めた。美咲の名を呼びながら、稜線を歩いた。しかし、空しくもこだまが返ってくるだけであった。

「そろそろ、夕暮れだ。下山せねば」

 長吉が言った。

「もう少し、何とかもう少し捜索できませんかね?」

 真治が縋るように食い下がる。

「では、あとほんの少しだけ……」

 ぶっきら棒な長吉も真治の熱意に心打たれていた。少しだけ捜索を続けようと思ったようである。長吉はこの辺りの地形には詳しい。宵闇が迫っても迷うことは考えにくかった。

 秋の日はつるべ落としと言われるほど、すぐに日が沈む。辺りが深い闇に包まれるのに時間はかからなかった。

「これだけ探してもいないということは、やはり沢に転落でもしたか……」

 そう長吉が呟いた時だった。

「灯りだ。山小屋の灯りだ!」

 真治が叫んだ。長吉がハッとして、真治の指差す方向を見る。確かにそこにはおぼろげな灯りが見えたのだ。

「おかしいな。ここらに屋小屋はねえ」

 長吉が唸るように言った。そして銃を構える。二人は足を忍ばせながら灯りの方へ歩いていった。

 それは粗末ではあったが、確かに山小屋であった。首を捻る長吉であったが、そこに確かに山小屋は存在していたのである。

 そーっと真治が山小屋の中を覗き込んだ。

「あっ、美咲!」

 そう、山小屋の中には美咲が座って、何かを煮炊きしていたのである。真治が叫んでも美咲は気付かない様子だった。ただ、鍋の中を覗き込んでいる。

 真治は山小屋に入ろうと、扉に手を掛けた。それを長吉が「待て」と止めた。

「何故、止めるんだ? 中に美咲がいるんだ」

 真治が不満顔で長吉を睨んだ。

「山姥かもしれねえ」

 長吉の顔は真剣だった。

「山姥だって? 今のこの時代に山姥なんて……。渋谷に出没するのは知っているけど……」

「冗談で言っているんじゃねえ。ここらには山姥の伝説があるんだ。それにここに、山小屋などねえ!」

「だって、現実にあるじゃないか!」

 真治が長吉に食らい付いた。長吉の顔には困惑と不安が入り交ざった表情が浮かんでいた。

「そんなところで騒いでないで、中にお入りなさいな」

 山小屋の中から声がした。真治の耳にはそれは確かに美咲の声に聞こえた。

「美咲!」

 真治は長吉が止めるのも聞かず、山小屋の中に飛び込んだ。

 美咲は鍋を掻き回しながら、そこに座っていた。天井にはランプが吊るされており、遠くから見えたのは、ランプの灯りだったのだ。

「美咲、無事だったのか!」

 真治の顔が思わず緩んだ。続いた長吉は緊張した面持ちを崩さない。

「ええ、何とかこの山小屋にたどり着いて……」

「あんたも人騒がせな人だな。昼になれば下山も出来るだろうに」

 長吉が美咲を睨みながら責めた。

「道に迷ってしまって……。それに一人じゃ怖くて……」

「こんな山の中に一人でいる方が、よっぽど怖くはないかね」

 長吉は尚も美咲を睨み続けている。

「まあまあ、無事だったんだから、いいじゃないか」

 真治が美咲と長吉の仲を取り持つように笑っておどけた。だが、長吉は仏頂面を崩さなかった。

「ちょうど、子鹿の鍋が出来上がったところなの。この小屋の裏側で死んでいるのを見つけて……」

 美咲が子鹿の鍋を椀によそり、真治と長吉に勧めた。

「小鹿の鍋だって?」

 真治は正直、腹が減っていた。その子鹿の鍋は美味そうな匂いを漂わせていた。真治が箸を伸ばした。

「うん、美味い!」

 真治が唸った。その味は長吉が時々届けてくれる猪や鹿の肉より柔らかく、臭みもなかった。子鹿の肉は程よい弾力で真治の口の中を支配していた。

「よかった。あなたのお口に合って……」

 美咲は笑顔をこぼし、子鹿の肉を頬張っている。

 だが、長吉は子鹿の鍋には箸をつけず、残りの握り飯を頬張っていた。


 食事もひと段落したところで、美咲が真治の袖を引っ張った。

「ねえ、奥の間があるの」

 美咲は真治の耳元でそう囁いた。

「今はマズイよ。長吉さんもいるし……」

 だが、美咲は引き下がらなかった。更に袖を引っ張り、「私、我慢できないの」と囁いた。真治は腰を上げると、美咲に誘われるがままに、奥の間へと言った。長吉に「ちょっと、失礼します」と言い残して。長吉はその背に「精神科医っていうのはモテるんだな」と皮肉を投げかけた。

 奥の間に行くと、すぐ美咲は真治に抱きついてきた。

「会いたかった……」

「私もだよ……」

 美咲と真治は見詰め合った。美咲が真治の唇を貪った。真治は瞳を閉じる間もなく、それは「奪う」という表現がぴったりだった。

 美咲はまるで味見をするように、真治の粘膜を貪る。

(こんな美咲は初めてだ……)

 美咲はあまりにも積極的だった。いつも奥ゆかしいほどの恥じらいを見せる美咲の姿から、それはかけ離れていた。

 美咲に唇を奪われ、真治の脳髄は蕩けてしまいそうだった。

 だが次の瞬間、真治は一気に苦しみの境地へと落とされた。美咲が急に首を絞めてきたのだ。

「み、美咲!」

 その力はまるで人間のものとは思えぬ力だ。首の頚動脈が絞められ、眼球が飛び出す感覚が真治を襲う。

「ぐええええ!」

 その時であった。

 バウーン!

 銃声が響いた。真治の悲鳴を聞きつけた長吉が、美咲に向け銃を撃ったのだ。

 だが、美咲の力は緩まない。

「くそ、山姥め!」

 長吉は何度も美咲を目掛けて銃を撃った。しかし、美咲は真治の首を尚も絞め続ける。その力が弱まることはなかったのである。

「もしや……」

 長吉は純金で作られた特殊な弾を銃に詰めた。それは長吉が先祖から授かった大切な弾であった。いつも御守りとして懐に忍ばせていたのである。そして、美咲ではなく、天井から吊るされているランプを撃った。

「ぎゃーっ!」

 美咲の悲鳴が響いた。美咲は人間とは思えぬスピードで山小屋の外へと逃げていった。

 真治は意識を失う寸前であったが、「ゴホゴホ」とむせ込み、喉を押さえていた。

「ボヤッとするな。女を追うぞ!」

 真治はよろけながら立ち上がった。既に長吉は美咲を追って山小屋を飛び出していた。

 真治はボーッとする頭でその後を追うが、足が思うように動かない。

 バウーン!

 先の暗闇でまた銃声が響いた。


 真治が長吉に追いついた。

「美咲、美咲ーっ!」

「あんたにはこれが女に見えるのか?」

 そう言って長吉が担いだのは、十貫目はありそうな大きなムジナだった。

「そ、そんな馬鹿な。じゃあ、美咲はどこに?」

「さあな。俺は端っからあの女を信じちゃいなかった。大体、今時の若い女が子鹿を捌けるか?」

「や、山小屋に戻ろう……」

「山小屋? そんなもんどこにある?」

 真治が振り返ると、山小屋は忽然と消えていた。そこにあるのは朽ち果てた巨木だけだ。

 その虚に何か白いものが見えた。

「うわーっ!」

 駆け寄った真治が絶叫した。そこには貪り食われた美咲の死体が横たわっていたのである。

「す、すると、さっき私が食べたのは……」

 真治は急に胃が痙攣するのを感じた。そして、その場で嘔吐した。胃の中のものが空っぽになるまで吐いた。まだ未消化の肉片は、土の上にボタボタと落ちた。

「肩を貸そう」

 長吉が真治の肩を支えた。真治の顔は月夜に浮んでいたが、ほの暗い中でも青ざめているのがわかる。

「早速、警察と山岳救助隊に連絡しなければな。昔、この辺りには女に化けて人を襲うムジナがいたそうだ。そんな話、警察も信じないだろうがね」

「長吉さん、もう私は肉を食えませんよ」

 月夜の西丹沢の山中を長吉に肩を支えられながら、真治は下山した。

 真治は覚束ない足で「今度は自分が患者になる番だ」と思っていた。


(了)


 西丹沢に伝わる伝承をベースにしました。ベースになった話は「うばもの長七」というお話です。

 参考文献…「尊仏」第二号(非売品)

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