君を磨く
部屋が汚いと気持ちによくない影響があるんだって。脳は視界にあるものを無意識に処理しようとして、勝手に疲れちゃうらしい。だからできれば小物は机に置かない方がよくって、勉強に集中したいなら観葉植物とか置けって。YouTuberが言ってた。でもこれを聞かされたとき、すごい笑っちゃった。部屋なんか勝手に汚れてくし、机なんか小物で溢れてく。でも、視界にあるものを無意識に処理しようとして、それで勝手に疲れちゃうっていうのは、よく分かった。私はそういうのを知ってる。教室の窓数メートルぎわ、ど真ん中春の風が吹く、そこから眺める中央列の前から二番目特等席。そこに華やぐ光るダイヤの原石が、私の瞳を曇らせる。
*****
君が初めて声を掛けてきたのは、お弁当あとの中休みだったと思う。私が数人の子たちに机を囲まれて密かなトークをしているところに、タイミングも見極めずに入り込んできた。
「真田さん」
「……なにかな?」
私はなんとか笑顔を取り繕ったけど、他の子たちはドン引いてた。君みたいな人が話し掛けてくるとは思ってなかったから。話し掛けてきた上に、急に私の前髪を捲って、「これじゃダメ」と言うんだから、なおさらだった。
「なにがダメ? 校則?」
ふるふると首振ると椎名さんの瞳が覗く。生き生きとしたネコ科のような丸い目だった。
「似合ってないと思うんだ」
「前髪?」
会話の腰を折られて興醒めしたみんなが去っていくと、君は頷いて、ますます口早くなった。
「シースルー、似合ってない。周りと同じ格好しようとしてるでしょ?」
「う、うん。別にこだわりあるわけじゃないよ」
「眉の印象的にさ、」
椎名さんは、近くにある椅子を引っ張ってきて、すぐ横に座って、私の顔を自分のほうに向ける。よくよく近くで見ると、どことなくネコ科に似た顔立ちをしていた。緊張しちゃうからあまり話したことがなかったけど、なんだろ、私は、目を付けられてたのかな。
「額は隠しちゃっていいと思う。髪もわざわざボブにしなくていい。輪郭が目立つから」
「ロングのほうが目立たない?」
「誰が言ってたの? それ」
「えっ、誰ってわけじゃないけど」
「ロングのほうが丸顔隠せるから」
「そうなのかな」
「うん」
言いながら私の顔をじろじろと観察する椎名さんは、肌も青白くて透き通った印象だった。不意に迷い込んできた春の強い風が私たちを照らすように教室を抜けていくと、長い椎名さんの黒髪が揺れた。
「椎名さんみたいにしたらいいってこと?」
「そう思う。あとリップも、なんでこんなどぎつい色使うわけ」
「おすすめされたから」
「韓国のプチプラでしょ」
「よく分かったね。コスメ詳しいの?」
「別に、最低限知ってるだけ。美白に命かけてる韓流スターなら赤いリップ使ってもいいけど、それでも照明ありきだから。春の太陽の下でこんな彩度高いと浮くだけ。拭って」
椎名さんが手渡してきたコットンには、薄くクレンジングが染みていて、それで私は言われるとおり、その綿に口付けをした。もたもたやってると、椎名さんの手が伸びてきて、それでコットンを奪い去って、丁寧にくちびるのラインを撫でて満足気に頷く。
「なんならこれでもいいけどさ」
「これじゃやだよ」
バッグから手鏡を探り当てて、私は自分の顔を見た。紅さを失ったリップラインは、やっぱりくすんで見える。
「くすんでる」
思った通りのことを私が言うと、呆れた顔して椎名さんが笑った。
「無理してるから、今度は他が浮いたの。全体を明るくしようとすると、逆にのっぺりしちゃう。ノーズシャドウもしてないのにハイライト塗ってどうするの」
「分かんないよ、メイクなんか手癖でしてる」
「もったいない」
「もったいない?」
「うん、かわいいのに、それじゃせっかくの美人がかわいそう」
火照る頬を感じて、声が裏返った。
「直そうって思って声掛けてくれたの?」
私が聞いているあいだにも、椎名さんはごそごそと黒いメイクポーチを漁ってる。その手慣れたしなやかな動きは、たしかに彼女の言うのが正しいのかもしれないと思うのに十分な説得力を持っていて、不意に私には世界が輝いたように見えた。
五月も末、華やぎ始めた世界にほんの少しの熱がこもり始める。開花も萎縮も同時にやる自然の世界の片隅で、私は一人の女の子によって変えられようとしていた。
「うん、私の言うこと信じてたら、あなたらしくいられる。全員が個性的になったら、それってスタンダードだから」
「分かった」
長い髪の下で、重い前髪の裏で、黒い瞳が光って私を射止めた。その底知れない暗さが、私のどこをどう直したらいいのかを知っていると思うと、私には急激に自分の顔や身体といって容姿のすべてが頼りなくなってきて、いままで覚えてきたメイクとかダイエット方法とか、ファッションやおしゃれの全てが忘れ去られたような気がした。
椎名さんが髪を切ってきた。私には伸ばせと言ったその顔で、薄くした前髪から、もともと印象的だった目が覗く。切り落とした髪が、薄く肩口に乗っている。
「今日はなにをしてくれるの」
「自然な化粧してあげる」
すっぴんのまま登校してきた私に朝一、まだ太陽が夕焼けのように光る早朝、窓の隙間から横向きの光芒が差し込んで、シースルーにした椎名さんの前髪から覗く額がきれいに照らされていた。
椎名さんは口と一緒に手を動かして、私の顔を薄く拭った。湿り気を纏った私の表情が乾いてしまわないうちに、リキッドのファンデをぽんぽんと置いていく。それが伸ばされてパフで馴染まされるあいだ、私はじっと椎名さんの髪の毛を見ていた。
「髪、切ったんだね」
椎名さんは一度だけ私の目を見つめた。その色に日射しが差し込んで、流星のように疾走していく。こくりと頷くだけで彼女は返事をして、なにも言わなかった。肌が白い。もともと白いのかもしれない。私には彼女が羨ましかった。自分になにが似合うのかを、よく知っているのだろう。
周囲の友人たちは私の周りに集まらなくなってきた。椎名さんといつも一緒にいるし、スタイルを急に変えたのに驚いているらしい。たしかに私は彼女たちと掛け離れていっている。いままで使っていたコスメも使わなくなったし、服も着なくなったし、制服もまともに着るようになって、なんでか分からないけど言葉遣いまで変わってきていた。椎名さんのゆったりとした冷静な声色が羨ましかったのかもしれない。
「かわいいね、真田さんは」
「え?」
「されるがままで、変わっていくのに立ち止まったままで、かわいい」
言葉の意味が分からなかったから馬鹿みたいにうなずいた。椎名さんにとって可愛いならいいか。可愛くしてくれてるんだから、可愛くなって当然なんだ。私を知らない場所に、細長い手指で誘導してくれる椎名さんがいる。
「でも、真田さんがそんなふうに立ち止まったままだったから、声、かけちゃった」
「びっくりしたけど嬉しかったよ。私みたいなのに椎名さんが興味抱いてくれてるの知らなかったから」
「そっか」
椎名さんの薄く伸ばしたリップに笑みが浮かぶ。久しく見ない微笑に嬉しくなった。朝陽がだんだんと白くなっていくその筋に、その隙に、私の表情が彩られていく。
「じゃあ、勇気出して声かけてよかった。――私ね、自分じゃあんまりしないけど、コスメが好きなの。だから私が買ったのを使うことができる人を探してた。真田さんがいちばん羨ましくって」
「おかげで、自分らしくなれてる気がする。最近は」
最近は、本当に、肩の荷を下ろしたみたいに清々しかった。毎朝一時間半かけてやるメイクにも、髪のセットにも踊らされなくて済むようになった。素材のままいるだけで「かわいい」と褒めてくれる椎名さんのおかげだった。
「椎名さんだってきれいだから、コスメ、自分に使ったらいいのに」
「そう思う?」
「うん。髪も切って印象変わったし、私が前やってたメイク、似合うのは椎名さんだと思う」
心の底からそう言うと、椎名さんは頷いた。
「髪、私似合ってる?」
「似合ってる! 本当にかわいいよ。素敵だもん」
静かな時間が流れて、校内にベルのチャイムが響き渡って、一瞬だけ教室が真っ白に、教会の中みたいに荘厳な空間になる。揺れるカーテンが眩しくて、肌に触れる指がこそばゆくて、椎名という女の子が、私にはすごくありがたかった。
「じゃあそうしよっかな」
「うん!」
「真田さんは、もうじゅうぶん可愛いから、もう教えること、ないかも」
「え、やっと髪も伸びてきたからセット教えてほしかった。ケアもけっこう大変だし」
「美容師に聞いたらいいよ」
突然冷酷な姿勢になって、椎名さんは立ち上がって私を見下ろした。いま、見捨てられたら、結構困るけどな。でも、しょうがないのか。いつまでも頼っていられない。彼女の思う理想の私が完成したら、椎名さんはもう私に手を加える必要なんかないんだ。陰る窓に鳥が駆ける。夢の世界に終わりが告げられる。いままで全ての時間となって襲ってくる真鍮の刃を見ても、私は喉の乾きを潤す手段を知らなかった。
「椎名さんかわいいね! それ、あそこのリップでしょ?」
椎名さんの机に人だかりができる。地味だった彼女はこの数週間で急に垢抜けて、真逆のような子になった。私からメイクを剥ぎ取って、髪を伸ばさせて、でもその取り払った彩りを見せびらかすかのように、コスメ道具を机の上に並べていって、みんなに試用させてあげていた。その中にある黄金の歓声に、入っていく勇気はなかった。ついこの間までは明るい集団の中心となっていたはずの私はもういなくて、椎名さんがそこにいた。私は暗い表情を彼女の方向に向けるほかなくて、でも椎名さんは少しも私の視線に気が付いていなかった。いろんな女の子の肌に、私にも使ってくれたファンデーションを塗る、リップを塗る。パフもブラシも見たことがある。清潔に管理したそれらを、彼女たちのためにいくつも持ち歩くようになった。彼女はいまや素敵な女の子の代表だった。
私が髪を切って元通りのメイクをしても私に声を掛けるクラスメイトはいなかったし、椎名さんも直そうとはしてくれなかった。
悟ることがあった。椎名さんは、ただ私と居場所を入れ替わりたかったんだ。そのために、メイクを拭った。そのほうが似合う、そのほうが可愛いと言いながら、もともとの私から遠ざけようとして、その間に、椎名さんは私みたいに髪を短くボブにして、前髪を揃えて、きれいな瞳を惜しげなく見せびらかすようになったんだ。スカートも巻いて、長い素足を、私を白けさせるような輝きを放って、曝している。
たまらなくなって、立ち上がって、自分の座っていた椅子を後方に蹴り飛ばした。大きな音を立てると、彼女が最初にそうしたときのように、私はその輪の中にずかずかと踏み込んでいった。反響と静寂が包む。
「裏切んなよ、くそおんな」
言うと、辺りは凍った。
「あんたがそうしろって言ったんだろ。リップ取れって。あんたが塗ってどうすんだよ、椎名。肌が真っ白で惨めだぞ、個性的になろうとしてスタンダードじゃねえか。こいつらと同じだぞ」
私の言葉に椎名は少し固まって、それで、集団のうちの一人に持たせていたコットンを取り去ると、急に自分のくちびるを拭い始めた。それで、髪をぐしゃぐしゃに掻き乱して、私に手を伸ばしてまた髪を乱した。
「そうじゃなきゃ一人になってくれないからさ、あなたは」