9.凶報
天正10年6月5日。
駿河から届く予定の荷を待っていたオレは、暇があれば南の方角、富士のお宮へ続く道を眺める癖がついていた。
それというのも4月の終わり、トン単位でモロコシを消費して蒸留を終えたアルコールは半分ほどが熟成へ回されたが、半分ほどは熟成を経ず、後藤源左衛門へ売却していたためだ。後藤源左衛門には高濃度アルコールを売却するかわりに入手して欲しい品物を頼んでいる。オレはその到着を今か今かと待ち望んでいるのであった。
なお、アルコールを売却した際にはひと悶着あった。
本栖の滞在が続いていた菅屋九右衛門が、香木の香りが木材由来であり、熟成を経て作り出されることを知って、
「上様や三位中将さまがそのほうの酒を必要としておられるのだぞ。
せっかく仕込んだ酒を商人に売るなど、何を考えているのか。
臣なれば作れるだけ作る、必要と思われる倍も作って、急いで届ける。
いらぬとなれば、上様が捨てられよう」
と文句を言ってきたが、保管できる量には限度があるので幾十トンもの熟成はそもそも無理だった。どこか別の場所で熟成すると言うなら、アルコールは菅屋九右衛門に売り払っても良かったけれど、
「痴れ者め、そのほうの酒は織田の家産であることを忘れたか。
勝手に秘伝を広めるなど許されるわけもない」
と言って、熟成についてはオレに一任するつもりらしかった。あと付け加えるなら、信忠から受け取った200貫文にはオレの俸禄も含まれていたので、織田へ収める酒を残し、熟成を経ていないありふれた焼酎の類なら、売り払おうと呑みつくそうと勝手が許された。これには木片を使用した熟成が一ヶ月足らずでもある程度の形になることや、松姫のスケジュールが遅れて穴山梅雪も出立を先延ばしにしていた影響があった。
酒が出来上がっても京へ届ける人が来ないってことだ。
そして6月を迎え、史実で大きな事件の日付を過ぎて、やきもきしていたところへ、後藤源左衛門が飛び込んできたのである。
驚いたことに源左衛門は馬で駆け込んできて、オレが頼んだ荷物などどこにもない。
しかし商売人にあるまじき態度へ抗議することはかなわなかった。
騎乗のままオレの前を素通りした源左衛門が殺気立っていたのである。
もしかして、ついに明智さんがやらかしたか。
それがもう甲斐まで伝わったのかな。
源左衛門の必死な後ろ姿が、オレの実家へ消えていく。
兄貴にあれほど危急の用事があるとは思えない。しかし、オレの実家には客を泊めるための離れがいくつもあった。中道往還の要所であるから、一夜の宿を求める侍も多く、古くは武田信玄なども宿泊したとか。
ともあれ現在のところ、そのような客は織田の家臣の三名だけだ。
本能寺やら京で起こった凶報に触れたら、彼らがどれほど荒れるか想像が難しいほどだ。下手すれば腹を切って後を追いかねない。
「うん、絶対に近付かないほうがいいな」
蒸留作業が続く作業小屋へ行こうとすると、実家の下男が追いすがって、
「八郎兵衛さん、織田のひとらが呼んでるよ」
なんてことない口調で恐ろしいことを言ってきた。
無視して逃げ出すことも難しく、しぶしぶ実家へ行ってみると、はたして織田の将らはひどい有様だった。
菅屋九右衛門は、無言で瞑目。
奥田監物は、男泣きに突っ伏している。
そして市橋九左衛門は後藤源左衛門の胸ぐらを掴んで揺さぶっていた。
恐るべきことに、揺さぶるほうも揺さぶられるほうも、どちらも殺気立って、今にも切り合いが始まりそうな顔をしている。
ここに加われって、マジで?
「それがしを、お呼びとか?」
恐る恐る声を掛けてみると、うっすらと目を開いた菅屋九右衛門が問うてきた。
「そのほうも、己が織田の禄を食んでおることは、わかっておろうな?」
千石で召し抱えると言われ、知行代わりとなる銭を受け取ったことは事実だ。
「は。たしかに三位中将さまに召し抱えられたと思うておりまする」
菅屋九右衛門はいつにも増して重々しく、一言ごとに息を吐きながら、
「ならば、そのほうにも、知らせぬ訳には行かぬ。
たったいま、畿内で起こった変事を、後藤源左衛門が知らせてきた」
「は。変事とはまた、どのような?」
歴史の教科書で習った出来事を聞きながら、それをさも初めて聞いたような顔をするのは演技の下手くそなオレには難しかった。しかもつい先日に顔を合わせた人々の訃報である。オレは「あまりにも突然の話なので、実感がわきません」という顔で過ごすだけだった。
○
三人が一応の落ち着きを取り戻すまで、半刻あまりを必要とした。
主君を亡くしたことも衝撃だったが、同時に菅屋九右衛門は息子ふたりが主君に帯同しており、消息不明。また奥田監物も仲の良い従兄弟が馬廻りとして信長に帯同していたらしい。オレだったなら、半刻で落ち着きを取り戻すことは無理だ。
話の場が落ち着いたところで、後藤源左衛門が菅屋九右衛門に問うた。
その口調は身分を超えて、強く問いただしているようにも聞こえた。
彼にとって客というより主君である徳川家康も上洛している最中のことだ。
京の混乱から情報が錯綜しているが、家康が逃げおおせたのか、巻き込まれたのか。報せがなく不安ばかり募って、まるで呉服商へ養子入りする前、武士だった頃に戻ったような戦場をかける伝令のごとき態度だった。
「菅屋さま、明智日向守はどうしたというのですか?
上様にとって指折りの重臣だったのではないのですか?」
菅屋九右衛門もこのようなことは予想だにしていなかったはずだ。
変事が予測できていたのなら、彼らは命をかけて防いだに違いない。
「後藤屋、何が言いたい?」
「このようなことが何故ひきおこされたのか、徳川も真相を知りたがっております。
今は何をおいても織田家がどう動くかが肝要。
菅屋さまならば、畿内の重臣がたがどう動かれるかお分かりなのでは?」
徳川にとって諜報を担うひとりである源左衛門が本栖を訪れた理由。
それは、織田家の家宰である菅屋九右衛門に情報提供を求めるものだった。
家康が畿内で消息不明なことは駿河にいた源左衛門から手の打ちようがない。しかし、信長の最も近くにあった菅屋九右衛門ならば、今の有様がなぜ引き起こされたか、これからの織田がどのように動くか、情報が得られるのではないかと動いているのだった。
菅屋九右衛門は眉根に力を入れ、何か重大事を決断する苦悩を浮かべつつ、徳川が織田へ不審を抱くような事態は避けたいと考えたようで、
「これから織田がどう動くか、京での変事ゆえなんとも言い難い。
しかし、明智日向守が妙な立場にあったことはわからぬでもない。
これは京都所司代など織田の臣ばかりか、公家へも広く知れ渡っておることゆえな。
話しても構わぬが、できることなら徳川でも重臣までに留めてもらいたい」
あくまでも、光秀が凶行に走った理由を推測したに過ぎない。
そのように断ったうえで話し始めた。
曰く、天下を手中に収めつつあった織田は、朝廷と激しい交渉の最中であった。
その交渉内容とは、朝敵武田を討ち果たした信長をどのように遇するか。
朝廷からは、関白、太政大臣、征夷大将軍の三職を提示されていた。
だが、信長はそれでは満足しなかった。
厳密には、それらだけでは足利に届かない、という考えがあった。
足利に届くとは、その全盛期を誇った足利義満に並び立てるか、ということ。
足利義満は、信長が就いたことのある右大臣より上位の左大臣に就き、さらに太政大臣を経て、朝廷を支配。死後には皇家どころか宮家に生まれたわけでもないのに、太上天皇位、すなわち上皇位を贈られたほどである。当時の幕府はこれを遠慮辞退しているが、武家へ尊号が贈られたことは空前絶後。前例主義の朝廷において、足利義満に並ぶ権勢のものが出現した際に、太上天皇位を要求される根拠が生まれていたのだ。
織田家において、その朝廷工作を託されていたひとりが、光秀であった。
光秀は、信長を足利義満と並ぶ地位に就けるため、京で権謀術数を駆使して血を流さない戦をしていたのである。
だが、それは朝廷を織田に引き寄せると同時に、光秀を強く朝廷へ近づけるものでもあった。朝廷には、信長を危険視する勢力もあり、光秀がそれに唆された可能性がある。
「上様を太上天皇とするには、まず今の帝が譲位されねばならぬ。
そうして先に太上天皇となっていただき、親王をあらたな帝へ立てる。
物には順というものがあるでな、上様の太上天皇はそのあとのこと。
それら仕掛けに朝廷が抵抗したゆえ、なかなか果が行かずにおった」
光秀は知識人として交渉に適任とされたが、朝廷から伝統と権威と前例主義で理論武装されると強く出られなかったらしい。
上様はその光秀を「頼りなし」として、畿内から外して西国侵攻の軍団長へ異動させるつもりだったとか。そこで感情の行き違いが悲劇を生んだかもしれない。
菅屋九右衛門はそのように語りながら、オレへも目を向けて、
「足利義満公は勘合貿易で日本へ香木をもたらした。
そのほうの酒も、香木に等しいものとして朝廷へ届けたなら、上様の権威がなお高まるはずであった」
拙作を御覧の皆様いつもありがとうございます。
この9話を持ちまして、本作の導入部が終了いたしました。
ひきつづき、本編を御覧頂きたいところではあるのですが、
現在鋭意制作中でして、まことに申し訳ないのですが少しお待ちいただくことになりそうです。
楽しみにしてくださる方には準備不足をお詫びして、可能な限り早い時点での投稿再開に努めます
またこの場にて、感想、評価、ブックマーク、
誤字報告などしてくださった方々に感謝申し上げます。
ここまで注目していただけるとは想像しておらず、正直かなり困惑していますが
光栄なことと受け止めているところです。
誤字報告につきまして、操作の不慣れから確認が遅れた箇所もございましたが
全箇所をご指摘通りに反映させていただきました。重ねて御礼申し上げます