6.先達
子供がいじめられたとき、当人にもどうにもできないことがある。
そんなときは、兄弟だったり親だったり、前世においては学校の先生が出てくることがあった。
しかしまさか戦国武将が武芸で負けて上役が出てくるとは思わなかった。
一応、誤解のないように言えば、市橋九左衛門が上役に泣きついたわけではない。
それどころか、オレにやり込められたことを、
「おみそれした」
「さすがは三位中将さま。人を見る目をお持ちじゃ」
「俺なんぞにはおぬしが武芸達者と見抜くことは出来なんだわ」
「百姓のふりなどして芝居が上手いのう、小憎らしいを通り過ぎていっそ気味が良い」
と、尊敬する主君にさらなる心服を深めている様子である。
誇りを傷つけたとか、恨みを買っていないなら何よりだった。
市橋九左衛門は横柄で短気なやつだったが、武家として武芸の腕前ばかりは重きをおいていたようで、一度ケンカをしてから序列を決まる野生動物のように、オレのことを認めているらしい。
そこまでは良かった。
問題となったのは市橋九左衛門が敗れたとの言を信じられず、どのように受け止めたら良いかわからない彼の上役だった。彼らは九左衛門と轡を並べて各地を転戦しており、その戦功を目の当たりとしている。決して百姓に武芸で劣る人物ではなかった。
さらに渡辺囚獄佑から市橋九左衛門の素行についてクレームがあり、本栖に滞在していた市橋九左衛門の上役は頭を抱えた。
市橋九左衛門の上役は、現在のところ本栖にふたりほど滞在していた。
ひとりは織田家の家宰であり、主から甲斐国仕置を託された菅屋九右衛門長頼。
ひとりは九右衛門の副役として残った同じく信長馬廻り衆の奥田監物直次。
主君に絶大な権があつまる織田家においても大領を任される家臣同士が所領を巡って争うことがある。
そんな時、信長の代弁者として家宰の菅屋九右衛門が派遣され、吟味のうえ裁断を下し、ときに方面軍の長すら遠慮する絶大な権限が与えられていた。
信長の秘書役や腹心と言えば、後世において堀秀政や森成利が知られているが、堀秀政は気鋭ではあるものの菅屋九右衛門の部下であり、森成利も小姓から馬廻りとして働き始めたばかり。彼らを信長の秘書とするなら、秘書室長が菅屋九右衛門であった。しかも菅屋九右衛門は信長の家宰でありながら、奉行をこなし、ときに部隊指揮官として前線に出ることもあった。いわば名人久太郎と呼ばれた堀秀政の師といえる人物だった。
眼前の執事然とした男をまえに「そんな大人物だったのか」と今更になってビビるオレだった。
前日に兄貴から仕入れた情報と、おぼろげな前世の予備知識とすり合わせを終え、天下を差配する要人と意識してしまい緊張をしていた。初対面でもないってのに。
オレなんかにどんな用事があっていうんだ。やっぱり、酒か?
市橋九左衛門のことなら、こちらに落ち度がある話ではないから心配はいらない。百姓に無体なことをされるのは困るが、改めてもらえるなら良し。あとは織田家の偉い人達で勝手にしてくれたら良いんだけど。
菅屋九右衛門と奥田監物のふたりがオレの家を訪れて、上がり框に腰掛けている。オレは急な来訪をもてなすために、タンポポコーヒーを淹れて湯呑で出してみた。
ふたりとも不審げな顔でしきりに匂いを嗅いでいたが、こちらが飲んで見せると奥田監物が飲んで頷き、ようやく菅屋九右衛門も口をつけた。
二人の反応からは美味いとも不味いとも読み取ることはできない。
まあそれも仕方のないことかもしれない。オレにしたところでコーヒーの代用品だし、苦味を抑えて淹れれば物足りなさはある。
一息ついたところで、菅屋九右衛門が口を開いた。
「三位中将さまがお命じになった酒の仕込みはどうなっておる?」
「えぇと、知り合いの商人を通じて材料を買い付けているところでございます」
念の為、かなりの量を仕込むことにしたので、オレが自分の足で買い付けに回っていては非効率だろう。どうせ輸送はオレひとりで出来ることじゃない。商人への依頼はすでに文にて手配済みだ。
納得したのか菅屋九右衛門が頷くと、脇に控えていた奥田監物が交代で話し始めた。
「つい昨日のことだが、市橋九左衛門から俄に信じられぬ話を聞いた。
あやつが言うには、おぬしが凄腕の武芸者だとか。
九左衛門が型破りなのは昔からだが、槍だの刀の腕は確かな男じゃ。
そうでなくば上様や三位中将さまの馬廻りなど務まらぬからな。
しかし、その九左衛門を軽くあしらう百姓がいるなど…
いや、おぬしが地侍の生まれで、今では三位中将さまが召し抱えておるのだが」
言葉に詰まる奥田監物が言いたいことはオレにも痛いほどわかる。
だって、二人の前でかしこまるオレはどこからどう見ても百姓だからだ。
所領をもらったわけでもないし、今まで通りに百姓屋にひとりで住んでいて、身の回りのことも自分でする。そうすると、姿かたちを武士らしく改める必要がない。
無論、本当に千石の俸禄を与えられたなら、姿も改め、家臣も召し抱えて体裁を整えなければお咎めを受けるのだろう。が、オレの場合は酒造りを命じられていて、俸禄なんだか仕込み代金なんだかわからない銭を受け取っている。ならば武士としての体裁よりもまずは酒の仕込みに全力を尽くすのが正解なのでは。
奥田監物はオレの脳天からつま先までジロジロと眺めたのち、
「九左衛門が頭を打って馬鹿を言っているのか、もしくは、そなたらの間で揉め事があったのか。
何やらわからぬが、我らは織田家中の争いを仲裁するために甲斐におるのだ。
このうえ、新たな争いを足元で起こされては上様にも三位中将さまにも申し訳が立たぬ。
よって、九左衛門の話が真実か虚言か、そこだけでも確かめたい」
軍人であり官僚でもある彼らは、現在のところ甲斐の河尻と穴山の係争を調停するために領有範囲の争点ともなっている本栖に滞在していた。
その本栖の地侍である兄貴が市橋九左衛門の不行状を訴えて、今度は問題児の九左衛門が百姓に武芸で負かされたなどと聞かされる。あまりのカオスっぷりに優秀なはずのふたりが困惑するのも無理はない。
思い返せば先日の宴で徳川家康がうちの兄貴を「相婿のようなもの」なんて言ってしまったから、兄貴の訴えを放置することも出来ないらしい。
そこで、せめて市橋九左衛門の処分をどうするか、九左衛門が正気なのか確かめるためにも、オレの武芸の腕前を知りたいという。
アンタラ忙しいんだから他にやることがあるだろう、と思うオレとしては釈然としないが、つまるところ腕に覚えのある奥田監物と棒で叩きあえ、というわけだ。
奥田監物がオレの武芸の腕前を確認し、市橋九左衛門の正気が証明されたなら、オレが九左衛門を武芸で打ち負かした、という事実も証明される。すると、うちの兄貴の訴えも『囚獄佑の弟の八郎兵衛が武芸にて雪辱を果たし、九左衛門は降参して改悛に至った』として穏当な着地点を見出したいらしい。
それって、もう結論ありきならオレが棒振りする意味なくね?、とも思う。
けれど、万が一にも九左衛門が正気を失っているとしたら、三位中将さま御正室が内定している松姫さま警護の大任に堪えないとして、畿内へ送られ厳しい沙汰がくだるとか。
しょうもない話が膨れ上がって責任重大だなと思いながら、家の前で心張り棒を握る。
なにもかも市橋九左衛門が阿呆なのが悪い。
オレの前には、木刀を下段に構えた奥田監物がいた。
「八郎兵衛、お主から打ってくるがいい」
気を使ってくれたらしい奥田監物に感謝しながら、オレは打ちかかった。
打ちかかる姿は、在りし日に目の当たりにして、オレの記憶に刻まれた稽古そのまま。
比喩でもなんでもなく、メチャクチャ遅いスローモーションで体と心張り棒が動く。
困惑した様子の奥田監物だったが、オレが上段から振り下ろす心張り棒はゆっくりだが着実に迫る。
避けるか逸らすか、どちらも容易く見える。
オレの腕前を確かめるつもりの奥田監物は、木刀を打ち合うことに決めたらしい。
上段からまっすぐに降りてくる心張り棒へ、下段から掬い上げるように、飛翔するツバメのごとく奥田監物の木刀が跳ね上がった。心張り棒と木刀がもろにかち合えば、心張り棒が折れ飛ぶことが容易に想像される容赦ない一撃だ。
しかし。心張り棒と木刀が触れ合う寸前。
オレはわずかに手首を返して、心張り棒の先端をちょいと変化させた。
そして次の瞬間には、奥田監物の木刀が手を離れ、空高く舞い上がっていた。
市橋九左衛門の時には真剣が軒下へ深々と突き刺さったが、青空の下では刺さる場所もない。木刀は大人が全力で空へ投擲したような勢いでぐんぐんと昇って、ようやく落ちてきた。
木刀へ目を向けていた奥田監物はぼそり、
「これは」
とだけ声を発したが、年の功か手合わせした当人でないためか、落ち着き払ったままの菅屋九右衛門が簡潔にオレへ問う。
「剣の師は誰か?」
師、と表して良いものか迷ったので、こう返すことにした。
「この技は、大熊備前守さまのものです」
オレの答えに奥田監物が振り返って頷いた。
「道理で」