5.チンピラ
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「八郎兵衛っ、おぬしがあの男をなんとかしてくれっ!」
オレの家に飛び込んできたのは、渡辺囚獄佑。本栖を含む九一色衆の頭領である兄貴だった。親子のように年の離れたその兄貴が泣き言をいう口調で喚いていた。
「落ち着いてくだされ、兄者。
あの男と言われてもオレには誰のことやらわかりませぬぞ」
信長や家康が本栖を発って3日。
オレは百姓として独立した際に兄貴に建ててもらった百姓屋で文をしたためていたところだ。上様から酒を作れと命じられたが肝心の原料を調達するにも色々と工夫が要るので数少ない商人のツテを頼ろうと考えていた。
なにせ宴で出した酒はドングリのデンプンから作ったもの。4月現在はどうにもならない。
兄貴はオレの苦労など知らぬとばかりに喚いた。
「市橋九左衛門なる御仁のことじゃっ。
まったく、あの御仁は我ら地侍をなんと考えているのかっ」
「なんぞ騒ぎでも起こしましたか?」
「里にある蔵という蔵を、すべて開け放って中を見せよなどと抜かしておるわっ!」
「やることがなくて暇なのですかな」
問題の人物、市橋九左衛門長勝は、美濃に領地を持つ男で三位中将信忠配下の馬廻りだ。
九左衛門の父も信長の幕僚から信忠の幕僚へ移り、織田全軍を各地方の連合軍だと考えるのなら、軍権を託された三位中将が総司令官。その馬廻りが親衛隊、いわば総司令部付きの将のひとりである。
織田家に極めて近い、その重要人物がなぜ本栖に残っているのかといえば、理由は武田の姫であり、正妻なき信忠が待ち焦がれた、松姫である。
武田勝頼が天目山で果てたのち、女子供が武蔵国へと落ち延びようとした。
関東の雄、北条氏政の正室が武田の姫であり、松姫の姉であり、天正10年現在の当主である氏直は信玄の孫にあたる。
その縁を頼って保護してもらおうという一縷の望みに賭けての逃避行だ。
そこへ信忠が待ったをかけた。
まだ織田と武田が同盟を結んでいた頃に、許嫁であったふたりである。
信忠は今に至るまで正室を置かず、松姫は二十歳を超えて嫁がずにいた。それもこれも文だけの、か細く、心に思い浮かべるだけの相手を長年思い続けてのことだった。
時が流れてむごたらしい結末が到来し、武田が滅びた末に、敗軍の女である松姫を、いまいちど、今度こそ、正室として迎えたいという意思を信忠が示したのである。
松姫がどのような思いをもってそれに応えたのか知らないが、信忠の申し出を受けるとの報せがあったのだ。今は穴山を始めとした武田一門が、彼女の嫁入りに最低限の体裁を整えようとしているところだった。これから本能寺の変が待ち受けていると知っているオレにとっては哀れとしか言いようがない話だが、オレの知る歴史でも松姫は信忠に輿入れする途上で悲報を受け取ったという。
兄貴のいう問題児「市橋九左衛門」は、主君の正室となる松姫を本栖で待ち受けて、東海道を通って安土まで警護するよう命じられたのであった。
松姫は武田の姫であるし、一門の穴山梅雪が酒を携えて上洛するのだから、九左衛門の出番はなさそうにも思えたが、信忠子飼いの将を付けることは気遣いであるのかもしれない。
ただ、若い侍が主君の命とはいえ、待つだけの日々に元気を持て余していることは明らかだった。織田の軍権を握る主君の傍にいたならば、戦場で功を稼ぐ機会もあるが、正室の警護は気疲れするうえ、舅面した穴山梅雪まで同行しているのでは面倒ばかりだ。
もしかすると、市橋九左衛門を警護に配したのは、新参の穴山が信忠正室の縁故を生かして織田家中での勢力伸長に動くことのないよう見張らせる意図もあったか。
なお、松姫にとって穴山梅雪は武田を裏切った男であると同時に義理の兄であり、父信玄を支えた武断派甲斐国人の代表である。亡き勝頼は信玄を支えた武断派を遠ざけ、講和に走って失敗したため、家中に致命的なわだかまりが出来てしまったとも言える。さらに現在では松姫の嫁入りを成し遂げるべく、梅雪当人が準備に奔走しており、血縁と政治によって極めて近い親族でありながら単純に割り切れない関係であった。
「それで、兄者は市橋どのに蔵を見せたので?」
「そのようなことが出来ようはずもない。
どこの侍が己の懐具合まで見せねばならぬのだ。
上様がお命じになられたならともかく、あの男は松姫様の警護役というではないか」
○
どうにかしろと兄貴にうながされ、重い腰をあげることにした。
兄貴に言わせれば「お主も織田の侍じゃ」となるようだ。けれど、数日前まで百姓をしていたうえに、今も以前と変わらず酒の仕込みに頭を捻っている。違いと言えば織田家に命じられて動いているという一点だけ。
具体的にオレの生活が一切変化してないことは分かっているだろうに、兄貴もよほど困っているらしい。
話題の人物、市橋九左衛門という厄介者がどこにいるかと探してみると、オレが差配する小作の家に上がり込んで、なにやら怒鳴りつけている。まさか、こんな近くにいたとは。
「小作の分際で、織田の将を馬鹿にするかっ!」
我が家の目と鼻の先でいったい何事かと慌てて駆け寄る。すると、はたして小作の息子で幼馴染の辰蔵が問題の人物に殴られたか顔を赤く腫らして膝をついていた。
だが市橋九左衛門を見る辰蔵の目は断固とした拒絶と、屈することのない抵抗の意思を浮かべている。
オレが近づいたことで、市橋九左衛門は舌打ちをひとつ落とし、辰蔵は何事か覚悟した顔で頷いてみせる。
わけもわからず、オレは上役にあたるであろう男へ問うた。
「市橋さま、これはいったい何事でございますか。
蔵のなかをご覧になりたいとか、耳にしましたが」
答えを返したのは市橋九左衛門ではなく辰蔵だ。
「このお侍さまは、蔵の中を見たいだけじゃねぇズラ。
八郎兵衛さまの酒作りを、味の秘密を調べていなさるんだ」
辰蔵の言葉は明確に非難の意図が込められており、小作人から指弾された市橋九左衛門は一瞬にして苛立ちか羞恥かで顔を赤く染める。
そして、うずくまる辰蔵の腹を蹴飛ばした。
蹴飛ばされた辰蔵は、彼の家の板戸をぶち破って転がった。
市橋九左衛門の人品はともかく、彼は織田軍の幕僚として転戦してきた強者のひとりである。暴力への慣れではこの場の誰よりも上回り、身分も高く、手がつけられない。
しかし、家の中に転げ込んだ辰蔵は理不尽に遭遇した怒りにまかせて、非難の声を上げ続けた。
「八郎兵衛さま、オラは、こいつに何も言ってねぇからよ。
あんたが秘密にしろって言ったなら、オラは死んでも言わねえ。
お父っつぁんを助けてもらった恩人のためだ、ここで死んでも文句はねぇぞ!」
おいおい、ちょっと、待て。
ウイスキーの作り方を黙っておけとは言ったけども、あれは旧武田家に知られて課税されてはかなわんという意味だ。
織田家がオレの酒造りを邪魔しないなら、作り方を教えたところで問題はないし、同好の士が増えて色んな銘柄が生まれるというなら逆に広めたいぐらいなんだが。
オレの思いなど露ほども知らない辰蔵は涙ぐましいほどの覚悟を決めて、天下の織田家の武将に突っ張ろうとしていた。
そして、同じく辰蔵と同レベルで短絡的な市橋九左衛門は、小作人風情に歯向かわれたことがよほど頭にきたらしい。なんと刀を抜いて、辰蔵の転がり込んだあばら家へ向かっていくではないか。
「ちょっ、お待ちくだされっ!」
慌てて追いかけたオレは、九左衛門の脇をすり抜けるように追い抜いて、辰蔵を背に庇って立ちふさがることとなった。
そのオレの手の中には、戸口に転がっていた心張り棒がある。
これでどうこうしようというつもりもなかった。だが、ブチギレた暴力団員風の男が刀を引っさげて向かってくるときに、素手では心許ない。手向かいする気もなかったが、防衛本能でついつい長いものを手にとっていた。
心張り棒を持ったオレ自身も思わぬことだったが、それを目にした市橋九左衛門にとっても百姓モドキのオレが棒を頼りに立ちはだかるとは予想外だったらしい。
わずかに面食らった表情を浮かべてから、次に苦笑を浮かべ、驚くほど砕けた口調で、その粗暴さや単純さにお似合いのアウトローな喋り方へ変わって、
「心張り棒でどうしようってんだ。
俺の相手になるとでも?
百姓モドキが、どうしてどうして、骨がありそうじゃねぇかよ。
こりゃあ、いっちょ揉んでやろう。
お前も今じゃ武士なんだからな、表芸の腕を磨かねえと、だ」
「表芸?」
「分かったことだ。武芸だよ。
俺たちは武士なんだからな、武を張らねば格好がつくめえ。
そら、おまえも実家にいけば刀でも木刀でも転がってるだろ。
相手をしてやるからひとっ走りして持ってこい。
おまえが持つ分には真剣でかまわんが、俺が使う木刀を忘れるなよ」
興奮して暴力の衝動に駆られている市橋九左衛門はべらべらと喋った。
いまにも暴発しそうな危ない男へ、オレの後ろで身を起こした辰蔵が言い放った。
「八郎兵衛さまが真剣なんて持ったら、おめえさまは膾にされるズラ。
木刀を持つのは八郎兵衛さまで、おめえさまを切らぬためじゃんけ」
辰蔵も痛めつけられてよほど腹に据え兼ねたのだろうが、相手が悪かった。
揶揄された市橋九左衛門は何も言わずに半身になって、辰蔵へ刀を突き込もうとする。
すべては咄嗟のことだった。
オレは手の中の心張り棒で、辰蔵に迫る刀の峰にそっと触れる。
殺意をともなって辰蔵へ迫る危険物のベクトルが急転した。
結果、市橋九左衛門の刀は手の中から上方へ飛び、刃を上にして軒下へ突き刺さった。
刀を失った短気者は状況が飲み込めず、わずかに無言で軒下を見た。
そこにあるのが、己の刀であり、オレに見事にあしらわれたと気づいて、
「なんだとっ、くそっ、馬鹿な」
などと喚いてから、軒下の刀を引き抜き、今度はオレの首を狙って切っ先を向けてくる。
男の頭からはオレが三位中将信忠さまに召し抱えられている事実など全て忘れ去られて、恥をかかされたことだけにムキになる馬鹿野郎がいるだけだ。
オレは我が身に迫る刀を前に、ふたたび心張り棒で軽く触れ、さきほどと寸分たがわぬ場所へと誘導してやった。
くるりっ、トスン。
市橋九左衛門の刀は、さっきと同じ軒下へ、同じ角度で突き刺さっている。
刀の持ち主は今度こそ無言になり、口を半開きにして眺めていた。
極めてシュールな光景に良いことを見出すとすれば、ひとまず騒ぎが収まった、ということか。