4.逝きたくないでござる
宴のあとで、オレは呼び出しを受けた。
オレを呼び出したのは菅屋九右衛門どの。甲斐に居残って残務を任された執事風の男である。
影が薄いというか、自己主張がなさそうに見えるが、自制心の権化と考えるならいかにも仕事ができそうである。
その壮年の人物がオレの顔を見るなり言った。
「八郎兵衛、そのほうは三位中将さまの供に加わり京へ向かえ。
そして例の酒がどのような扱いとなるか、確かめるのだ」
「例の酒、でごぜえましょうか?、いや、ございまするか?」
「あたりまえだ、しっかりせよ。そのほうの作った酒のほかに何がある。
そのほうは酒作りの腕を見込まれて召し抱えられたのだぞ」
オレの作った酒を京へ持っていって、良し悪しを見てもらうということだろうか。
もし「香木の匂いと違う」なんてお公家さんに言われたら、オレは家来としてクビになるんだろうか。いやそれで百姓になれるなら物騒な武家を足抜けできて悪くない。
けれど、呑気なオレでもわかる問題点がふたつあった。
まずひとつめの問題点。
「酒でございまするが、それがしの仕込んだ酒は今晩の宴にてほぼ終わりでございます。
正月の頃に仕込んだ酒が皆様に喜ばれよう、と兄から命じられまして。
出し惜しみすることなく、お出ししたため、残っているのは壺にひとつあるかどうか」
酒はこの時代における主要な課税対象であって、大名は造り酒屋からカネをむしり取るのが当然の権利だと考えていた。だから、百姓見習いに過ぎないオレは自家消費と縁故のある家への贈答用にしか作らず、あえて生産量を抑えていた。大々的に作っては、武田家が本栖渡辺氏に手を出すかもしれなかったのだ。
そのことを伝えると菅屋九右衛門どのは納得しながらもため息まじりで言葉を漏らした。
「なんと、それでは京で献上するにも事欠くではないか」
ふたつめの問題点は、目の前の菅屋九右衛門どのには言えない話だ。
未来を知るオレから言わせてもらえばこれが一番厄介なやつ。
これから2ヶ月後、信長は京の本能寺にて、信忠も二条城にて倒れる。
ついさっき、宴で怒鳴りつけられていたキンカン頭の明智光秀によって、だ。
いわゆる本能寺の変が目前に迫っていた。
もしもオレが三位中将信忠さまに心酔していたなら、お命を守るべくイチかバチかの歴史改変に挑んでいたかもしれない。しかし、影響度の大きさから言って、そんな重大事の責任など取れない。取りたくない。ホント、関係者の皆さんには可哀想だけど。
なにより、オレが宝くじに当たるほどの幸運を引き当てて、織田の親子を京から救い出すことに成功すると仮定しよう。そのまま織田家の覇権が続けば、豊臣の天下はなく、徳川幕府もない。
すると、二百年以上の幕藩体制も別の形になるであろうし、史実の江戸時代に海外で起こった産業革命との向き合い方も変わってくる。近代国家を生んだ明治維新は発生せず、発生したとしても別の何かとなるはずだ。史実のソヴィエトへと続くロシア革命にはロシア帝国と敵対した日本も陰ながら支援していたわけで、米ソ冷戦や核の危機、ひいては21世紀の世界情勢もひっくり返る可能性があった。
それら玉突き的な歴史の変化があまりにも大きいため、ちょっとした介入があまりに多くの運命を捻じ曲げることになり、とてもとても本能寺の変なんて関わりたくない。もしオレの介入から未来で最終核戦争が起こって人類滅亡したらどうするよ。いよいよ本能寺に行かなければ命がない、と脅されたなら素直に従うほかにないけれど、ほかの選択肢があるなら避けたいところだ。
オレがこの時代を生きるにあたって、心に決めたルールがあった。
それは、自分と家族の安全が第一。
無茶な出世を願うよりも、歴史に名もない百姓として幸せに暮らせれば良い。
その幸せには、美味しい酒と肴は絶対に譲れないが、それだけだ。
ドングリから蒸留酒を作って、あまつさえ熟成まで試したことは歴史にないことだけど、オレの幸せには不可欠だったから仕方ない。これは例外で、たとえ宇宙が崩壊したとしても必要なことだった。
結果的に自家製のドングリウイスキーは信長一行に飲まれてしまい、手元にはまったく残らないって虚しいオチがついたが、末期の酒としてプレゼントしたと考えれば、腹も立たないし。
話を戻して、歴史改変について。
史実では武田滅亡後の遺臣の多くが徳川に重用されて江戸時代を迎える。
まだ天下太平の時代まで、ひと山ふた山と登っていかなければならないけれど、ウチの兄貴は歴史の大正義にして神君家康公のツテを得るところまでたどり着いている。
しかも今のところはオレの知るかぎり歴史と乖離も「ほぼ」なさそうだった。ならば、あとは歴史の鉄火場から可能な限り距離をおくべきだ。
オレは内心に秘めた時空を超える諸問題の解決法として、菅屋九郎右衛門どのに提案した。
「それがしが三位中将さまのお指図で酒を仕込むにつきまして」
「うむ」
「酒は土地が変わっても、水が変わっても味が変わりまする」
「それはワシにもわかる。上様や三位中将さまに従って、津々浦々へ出向いたゆえな」
津々浦々の酒の味を知っているなら、安心だ。
この時代の家内工業的酒造りから、味のバラツキを強く実感しているはずだ。
「本来ならば、仕込みの時期すら揃えたほうが似た味が作れるのですが」
「ならぬ。織田家は京にてそなたの酒を使う理由があるゆえ、急がねばならぬ」
「ならば、せめて本栖で仕込むわけには参りませぬか。
酒は仕込み水も変われば香りがどう変わるか。
香木の風味を出せと仰せであれば、仕込みの場所を変えぬことが肝心。
それがしが畿内へ出向いてあれもこれも変えてしまうのはよろしくないかと存じまする」
「なるほど、言うことはもっともだが……。
そのほうの所領もどこと決まるか、本栖というわけには参らぬよってな。
畿内に近いほど酒を運ぶにも良いかと思うたがそうもいかぬか。
なんであれ、こうなれば甲斐で酒を仕込むことがお家の大事ゆえ、儂から三位中将さまへお伝えする。
ただし、残っておる壺酒は三位中将さまが入用となるゆえ、荷をまとめておけ」
オレは本能寺で焼かれることもなく、本栖にいて良いらしい。
歴史改変も回避したと考えたい。
○
前言撤回。
歴史改変を回避したと考えるのは早計だったかもしれない。
宴の夜から翌早朝に織田徳川連合軍は本栖を発った。
これによって本栖に巻き起こった歴史の風はひとまず収まったかに思ったものだが、甲斐国に横たわる課題は残っている。その当人である穴山梅雪が河尻秀隆へ当てこすりを目論んだらしい。
その当てこすりというのも、
「本栖の酒が出来たなら、ワシが畿内まで運んでやろうではないか」
というものだった。これを聞いた河尻秀隆は、
「そなたが運ぶうちに酒壺がカラになるのであろうがっ!」
などと罵声を向けていたものだ。
遡ること2ヶ月前、織田は甲州征伐に際して朝廷から武田を朝敵と認めさせ、征伐すべしという勅を得て官軍という体裁で出兵をしている。
徳川の調略によって武田宗家を離反した穴山梅雪は、天下人たる信長から所領の安堵と武田の名跡を継承することなど約束されていたが、朝敵のままでは武田を継ぐにも具合が悪い。そこで官軍の織田に従属して上洛し、貢物など諸方へ使ったうえで許しを請う体裁をとる必要があった。
史実では、この穴山梅雪が家康と一緒に上洛した旅の中で本能寺の変が勃発。
京での予定を終えた梅雪は家康と連れ立って堺見物へ赴き、そこで急報を受け取って、自領への帰還を目指す。
世にいう、神君伊賀越え、である。
道中について諸説あるものの、途上で梅雪率いる甲州勢が家康率いる三河勢から遅れ、その身なりから家康と誤認されたことで、落ち武者狩りに遭い命を落としたのである。
つまり、神君伊賀越えでは梅雪が同道したことで家康の運命に影響があったのだ。
その梅雪が史実から外れて、オレの酒を畿内に運ぶために甲斐に残るという。
もちろん、梅雪が珍しい酒を京へ届けることで「ワシが扱う甲斐の産物でござい」とアピールしたい意図はわかる。河尻秀隆にとって憎らしいことだが、信濃の一部と甲斐の大半を得て二十万石を治める河尻は新たに迎える配下の国人の慰撫に務めなければならず、織田との戦のため重い年貢に喘いでいた国を再建することが急務だった。とても上洛などしている余裕はない。
家康は信長が東海道筋を通って帰還する折に戦勝の兵らをもてなす大仕事がある。史実通りならそのまま信長と安土まで同道、朝敵討伐の報告のため、おそらく上洛もするだろう。そこからが問題だ。
神君伊賀越えは家康の人生の中でも危うい場面のひとつであり、梅雪率いる甲州勢が抜けてどれほど影響を与えるものか、オレにはわからない。
しかし、少なくともオレの立場で穴山梅雪に向かって「オレの酒なんか気にしないで早く上洛しろ」とは言えないし、目の前で始まってしまった歴史改変に自分の未来が不透明になっていくことを実感して不安になった。
「これは、入念に準備したほうがいいか?」
思わずオレは口に出していた。
富士のお宮へ向かって伸びる万を超えた大軍勢、その最後尾がまだ本栖から見えていた。
彼らを率いる三位中将信忠と、天下人信長は、どうなるのだろうか。
オレの目の前には、決まらぬ所領一千石の代わりとなる俸禄と、新たに仕込んで織田家へ収める酒の材料費を兼ねた銭『200貫文』が山となっていた。これで酒をなんとかしろという圧力である。
時代的に通貨価値が大きく変動するので厳密な換算は不可能だけれど、もし令和の価値に直すなら、ざっと1000~2000万円ぐらいの大金だった。
酒は作らねばならない。命ぜられずとも自分のために作る。ただそれを増やせばいい。
万が一に備えて、使えるものは使い、打てる手は打つべき、かもしれない。
よ、ようやく偉い人たちが帰ってくれました
宴からここまで冗長なシーンに付き合わせてしまって申し訳ないことです