26.スピリッツ・オブ
和睦の成立に合わせて顔合わせの行われる場が本栖と決まった。
なぜ本栖かといえば、単純に各勢力にとってアクセスの良い中間地点であることと、縁組の決まった松姫、仲介役となった菅屋九右衛門が滞在していたことが大きい。
北条から誰が来るかまだ知らないが、彼らを迎える宴が支度されることになり、宴を主催する菅屋九右衛門から宴に供する酒を用意せよとオレも命じられていた。
なお、酒を用意するのはオレだけではなく、いわゆる濁り酒でも強く精米した上等な品を後藤源左衛門が調達し、オレは変わり種として蒸留酒を用意するといった役回りだ。
これを頼まれた時のオレは、かねてから研究を重ねていた『甘み』について披露する時が来たかも知れないと考えていた。小氷期の荒んだ時代にひとは酒に強さばかりでない温かみをもとめ、それはデンプン由来の糖からくるカロリーであったりした。
酒造りとして身を立てることを考えていたオレも、この流行に合わせて甘い酒を目指し、漬け込む木片を試行錯誤していた。蒸留酒は醸造酒に含まれるカロリーが削ぎ落とされていて一面において甘みを失っている。けれど、バニラ香などを生むナラばかりでなく、カエデの木片なども加えて、まるで砂糖が入った小豆餡のような風味を無糖のまま加えられないか。作業場とする納屋で仲間たちと工夫を重ねていたのだった。
ちなみに、こういった工夫をする際、オレ達は新たな試みのたび成果物を確認しなければならず、ちょこちょこと手を止めては、味見をして討論に興じるのだった。
兄嫁であるお嘉祢さんが納屋へ現れたのは、そういったタイミングのことだ。
「うわっ、なんてこと。
こんな昼間っから酒盛りなんかして、バチが当たるわよ」
オレはちょっとばかりフワフワと、ノボセた気分ながら、畏まって見せ、
「義姉上、我らは関東甲信の安寧のため、たとえ我が身、我が肝を痛めつけてでも講和に役立とうと必死なのでござる。
ここで作られた酒が、織田と徳川と穴山と本栖渡辺と~、ええと、あとは北条か、真田も来るんだっけ?、上杉は来ないと思うけど、まあいいや。
そのあたりみんなの仲を取り持って、戦のない本栖を作るのでござりますぞ、ップ」
オレを見るお嘉祢さんの目はどうしようもないものを見下すものだったが、オレの仲間たちは崇高な目的を共有している。オレの完璧な口上にやんややんやと拍手まで加わって、笑いも起こった。良し良し。
場があたたまり、味見会が一層の盛り上がりを迎えるかと思われた。重助は試さねばならぬ酒壺を引っ張り出し、辰蔵は新たな肴を作ろうと竃に火を入れているところ。まだまだ大事な役目を楽しめそうである。
だがお嘉祢さんは溜め息を吐きながら、オレへ言葉の冷水をぶっかけてきた。
「そなたの兄上殿がお呼びでござる。
酒に酔うておっては、本栖城への坂道を登れぬのでは?」
小馬鹿にした声色で、侍のような言葉を投げかけてくる兄嫁。
「本栖の城!?」
実家ではなくあえて坂道の上の城まで呼び出すとは面倒だ。フワフワした頭でも面倒事の気配を察して、吐き気が増した気さえしてくる。
「なんで城に呼んだかなんて知らないからね」
言い残して去っていく後ろ姿を見送ったオレは、仕方ないので飲み会を中座して山登りをすることになった。丘のようにちょっとした坂道を行くだけなので大丈夫とは思うが、転倒して大怪我などしてはかなわない。
本栖城へ呼び出されていくとそこには兄貴ばかりでなく穴山梅雪まで待ち受けていた。
今や名実ともに甲斐源氏の筆頭である大物が、わずかな供を連れて無人だった山城に姿を見せ、火も焚かずに震えていた。
「お待たせいたしました」
オレが頭を下げながら近づいていくと、兄貴はオレの赤い顔を見て、
「なっ、おぬし、まさか酒を喰ろうて酔うておるのか」
「はぁ、それがしは酒造りでございますぞ。
菅屋さまから命じられて宴に出す酒の味見も、これ立派なお役目でござる」
いい気分で過ごしていたところを、平和で用無しの山城に呼び出すなんぞ、オレの方こそ文句を言いたくなる。ここに穴山梅雪がいなかったなら、ぶちぶちと言い募っていただろう。
兄貴はオレの言葉にお嘉祢さんと似た溜め息を吐いて、穴山梅雪の表情をうかがうように見た。兄貴と梅雪は何かオレに用事があるのだろうが、何事だろうか。
梅雪がうなずき、兄貴が切り出した。
「酔うた頭に染み込ませるつもりでよく聞け。
右少将さまからおぬしへ、徳川一門の娘を娶らせたいと話があった」
「存じておりまする」
「「えっ」」
なんだそのことか。オレをわざわざこんなところに呼ぶ出すから何事かと思ったが、すでに終わった話である。いまさらその話を切り出すということは、ふたりは縁談が立ち消えたことも知らないらしい。教えてやらねば。
「縁談ならば本多弥八郎さまから申し出がございました。
しかし、有り難いことなれど、身に余ることゆえ遠慮申し上げてござる」
兄貴は泡を食った顔で、
「なんだと、そのような話は聞いておらぬぞ」
と続けたが、オレとしては過ぎた話であるし、
「お話を聞いてすぐに遠慮申し上げたゆえ、相談する暇もありませなんだ。
そもそも左様な申し出を受けられましょうか。
それがしのようなものが右少将さまのご一族から嫁をもらうなど、身分が違いすぎまする」
加えて口に出せる話じゃないが、家康の一門に加わるなんて歴史が派手に変わりすぎる。もう十分に冒険はしたよ。戦も勝って、手柄は徳川に譲ったんだし、あとはもう放って置いてもらえればいいんだ。
しかしオレの内心など知らない兄貴は今にも怒鳴りそうな顔に変わって、
「遠慮申し上げるのは良いとして。
当主の俺に相談もないのはどういうことなのだ。
おぬしが生意気な断り方をすれば徳川さまの体面がないぞ。
どのようにお断り申し上げたのだ、申してみよ」
兄貴らしい小心ぶりを聞かされてオレは清々しい気持ちがした。
これは皮肉でもなんでもなく、小心であるがゆえに史実の本栖渡辺氏は慎重に振る舞い、生き延びたのである。この時代で信頼に値する数少ない事柄だった。
オレはその兄貴を宥めるように、
「顔が潰れぬよう気を使うのは無論のことでござる。
それがし、御宿家の勘兵衛と御坂峠で勝負して手捕りとしてくれた折に、かの家に伝わる名剣『妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ』なる長ったらしい品をぶんどっておりました。
以前より井伊兵部少輔から右少将さまの刀道楽を聞いておりまして、これを献上したらどうかと機会を窺っておったというわけで」
名刀を献上したうえで、家康や徳川に含むところのない恭順を示し、彼らの面子を立てながら自身への縁組について断りを入れていた。
事前に縁組の辞退を申し出ていたため、オレが家康に会った際には難しい表情を浮かべていたが、名刀を見た家康は大変な興奮を見せて、一度は損ねた機嫌も現在は完全に取り戻せたものと確信している。
これならば文句はなかろう、と自負すら漂わせる口調のオレだったが、そこで穴山梅雪が口を開き、
「ならば右少将さまがおぬしへ偏諱したいがどうか、との申し出は聞いておるか?
ついさっき儂と囚獄佑のもとへ徳川から伝えて参ったのだ」
「偏諱でござるか?、それがしに?」
それは知らなかった。オレに偏諱ねぇ。
どういうことだろうと首をひねるオレを見て、穴山梅雪は妙な得心顔に変わって、
「わかったぞ。
縁組で断られたゆえ、お主がまた遠慮して煙に巻くと思われたのであろう。
我らへ先に伝えておぬしに伝えるときには決めてしまおうという腹じゃ」
「はあ。なるほど。
しかし、そもそも諱をいただこうにも、支障があるかと思われまするが」
本栖渡辺氏も全国津々浦々にある古い渡辺氏と同じく、平安時代の豪傑渡辺綱にあやかって諱は一文字と決まっていた。兄の囚獄佑は守であり、亡き父の諱は縄である。さらにこの一文字諱が問題と成るのはオレの諱がいまもって無いことだった。
「右少将さまから諱を授かるとなれば、家か、康か、しかし、偏諱を頂いた一文字だけでそれがしが名乗るなど、生意気と申しましょうか、無礼なような」
「いや、偏諱に際してそなたの諱は二文字に改めてはどうかと、あらかじめ諱を提示いただいておる」
穴山梅雪が言うには、槍半蔵と名高い三河家臣の渡辺守綱の例もあり、二文字でも良いのではないかと先方から提案されたらしい。現時点における、権力構造は、
織田三法師>徳川家康>穴山梅雪>渡辺囚獄佑>オレ
となり、家康の寄騎である穴山梅雪はよほどの事情がない限り従うつもりでいるという。なお、オレが三位中将に千石で召し抱えられたことについて、正式な所領もなく、このまま時が過ぎれば俸禄は無し。雇用関係など消滅したようなもので、この場においては完全になかったことにされていた。
ともあれ、諱を徳川から提示されたとは、
「それがしの諱をぜんぶあちらで決められたので?」
「まあ聞け。
右少将さまからというより本多弥八郎の発案かと思うがな。
提示された諱は『杜康』、唐土にて酒の神の名前だそうだが、酒造りを自認するそのほうにうってつけではないかとの申し出じゃ。
偏諱である康の字を後ろに持ってくるとなれば珍しいことじゃが、右少将さまがそれで構わぬゆえ名乗るように、との思し召しだ。
どうだ、おぬしはここまで気を使ってもらいながら断れるか?」
「……有り難く受けるほかにないように思われます」
穴山梅雪は頷きながら、
「であろう。そこでな、我らとしては甲斐の勇士を徳川や織田に引き寄せられるのを黙ってみておるわけにも行かぬ」
「まさか、それがしを勇士などと仰せで?」
「儂は本栖に幾度も立ち寄ったでな、おぬしが鼻垂れの頃から見かけておる。
ゆえに大人物とも思わぬが、変わり者であることは確かやもしれぬ。
いや、肝心なところはおぬしが大人物かどうかではないのだ。
織田や徳川や北条が、おぬしを大人物と思うておることが要でな。
お主が織田と関わり、北条と戦をし、徳川が縁を結ぼうというのだぞ。
これを放っておいては儂の面目はどうなる?、武田の名誉はどうなる?」
「なるほど」
いまや自他ともに認める武田家の後継となった穴山梅雪がオレを見ながら、
「甲斐にも名のしれた家でありながら名乗るものが途絶えたもの、武田の臣として優れたものが名乗ってきた通称がある。お主にはそれを与えて名乗らせようと思うておる。
思い違いをするでないぞ。これは武田の惣領となった儂の決定であり、お主の兄も認めておるのじゃ。
他家との付き合いで遠慮するのしないのという類の話ではない」
「はあ、それではそれがしはどのような名乗りとなりますので?
徳川様がそれがしの諱を決めたのなら、諱のほか、となりましょうか」
「うむ。そなたの名は、飯富美濃守と決めた。
右少将さまが決められた諱と合わせれば……」
「飯富美濃守杜康、でございまするか」
「すでに右少将さまにもそのような名へ変えさせると伝えてあるでな。
弟がこれほどの名を授かるなど、名誉を通り過ぎて恐ろしいほどじゃ」
と取ってつけたように兄貴が言った。小心の兄貴は胃痛でも覚えたか顔をこわばらせている。
飯富氏は義信事件で失脚した赤備えの猛将飯富虎昌が名乗っていたものだ。兄の虎昌が信玄に逆らったと咎められたため、弟は山県氏を継承して山県昌景となり、一族も多くが飯富から山県へと改姓して飯富氏はほぼ途絶えたような状態であった。のちに聞いたところによれば、穴山梅雪は飯富氏とも近く、義信事件では穴山梅雪の弟も虎昌同様に連座して命を落としている。よってかねてから梅雪は飯富へシンパシーを持ち、その氏を惜しみ、不名誉とは思わずいずれ見込みのある家臣へ名乗らせるつもりであったらしい。さらに美濃守の通称は、原虎胤から馬場信春へと受け継がれ、甲斐でも当代最高のもののふが名乗る鬼美濃の通称で知られていた。
これらは明らかに立派すぎる。
百姓だの酒造りだのがそのような名を名乗っていたら逆に笑われてしまうに違いない。
今は周囲もオレを八郎兵衛と呼んでくれ、オレもそれで慣れていた。いまさら武士でございとばかりに「美濃守でござる」「美濃守さま、酒を仕込むモロコシが足りませぬ」など噴飯物ではないか。まるでコント。鬼美濃なんて酒の銘柄と勘違いしそうだった。
それもこれも、戦で妙な活躍をしたことが一部の関係者に知られてしまい、役に立つなら唾を付けておこうかと考える人が増えたのが原因だ。
○
飯富美濃守杜康なる名を受け取りながら、他人事のように現実感が乏しいまま納屋へ戻ってくると、呑みの場だったそこには若い女の後ろ姿があった。彼女を見るオレの仲間は誰もがにやけて情けない顔になり、大変に気持ちが悪い空間である。
てっきりもう来ないと思ったが、また松姫が献立の相談にでも来たかなと思って近づいてみると、その後姿は明らかに松姫より若い少女であると知れた。誰かなと思いつつ、周囲を見れば仲間たちはオレを睨むような顔へと一変し、
「オラんとうの頭領が来とうじゃん」
呑みの席を中座するまえ、ご機嫌の赤ら顔を晒していた重助が、感情の乏しい口調でオレの帰りを口にして。
途端に少女が振り返り、オレはその尋常でなく整ったかんばせに僅かな間とはいえ意識を失いかけた。彼女は身体に抱きしめるように大小一揃いの刀を持っている。オレはそれをひと目で、
「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」
と看破して、頭の働かぬままにつぶやいていた。
少女はオレの声を聞いたか、抱いていた両刀をオレに突き出すようにしながら、
「飯富美濃守さまでございますね。お刀は養父から取り返してまいりました。
これを献上して、わたしとの縁組を遠慮したと伺いましたがまことでしょうか。
もしもまことであるのなら、これをお腰に戻されてくださいまし」
彼女はお愛の方が先夫との間に生んだ家康にとって血のつながらぬ娘。
徳川の跡継ぎである竹千代の実姉だと身分を明らかにした上、
「わたしとの縁組に如何な不満がございましたか。
わたしは美濃守様との縁組に不満はございませぬ」
「いや、不満というか、身分から、あの、遠慮」
「養父はあなたを恐るべき男と申しました。
実父は武田に殺されましたが、養父は武田を滅ぼす強き殿方です。
その養父が恐れる男の嫁になるため、わたしはどこなりと参りまする。
恐るべき男が飯富美濃守杜康でなく、八郎兵衛と名乗ったとしても一向に構いませぬ。
本当に恐るべき男子だとすれば、ささいなことです。
恐るべき男子なら、押しかけたおなごのひとりやふたり、守ってくださいませ」
彼女は家康愛蔵の御刀コレクションから最近で一番のお気に入りをかっぱらってきた厄介ごとの塊である。
だが、オレは彼女を追い返そうと思わなかったし、
「守るって言ってもなあ。
右少将さまと喧嘩をするわけにはいかないだろう。
どうにかして許しを得るしかないぞ」
彼女を受け入れることを前提に考えるようになっていた。一目惚れというやつだろうか。
「ご家来の皆さんに教えていただいたのですが、お殿様はお酒を作っているそうですね。
養父を酔い潰して、何もかも忘れていただくわけには行きませんの?」
んな無茶な。
そう思ったが、オレの仲間たちは爆笑したうえで、
「そりゃあいいや。オラんとうがこさえた酒なら刀より上等じゃん」
などと言って、納屋のなかで寝かされた壺の中身がどれほどの銘酒であるか力説する。
聞かされた少女はコロコロと笑って、
「それはなんというお酒ですか?
どぶろく?、焼酎?、それとも珍陀酒でしょうか?」
焼酎の仲間ではあるけど、熟成しているから厳密には違う。
原材料をドングリから穀物へと切り替えているのでウイスキーの定義に当てはまるかも知れないが、どうなんだろう。
大きな括りでは、『スピリッツ』になるはずだが。
少女にそう告げると、
「すぴりっつ?、では、飯富すぴりっつという銘なのですか?」
オブ・スピリッツ、と呼ぶのなら、まあ熟成していることを加味して、スピリッツ・オブ・バレルエイジングだろうか。なかなか洒落が利いているかも知れない。ウイスキーっぽく聞こえる。
そこではたと気がついた。
オレは樽で熟成を経ず、木片で熟成している。
バレルエイジングを称しては正確じゃなかった。
となれば、さしずめ、スピリッツ・オブ……。
了
構想時に予定していたプロットはここで完了し、とりあえずのピリオドを打たせていただきたく思います。
続編につきましては完全に未定です。
書かないかも知れませんし、書くとしてもいつごろ投稿できるかお伝えすることが出来ません。
現時点では作者として自分の文章を客観視できないため、本作はこのまま寝かせ、それから読み返したのちに検討したいと思います。
場合によっては現在までの投稿分も取り下げる可能性がございます。ご了承ください。
最後となりましたが、ここまでお付き合い頂きまして誠にありがとうございました。
良いお年をお迎えください。




