25.軍師の盃
オレが発案して徳川や甲斐国人を巻き込む形で実施された狼煙が効いたかどうか、確かなところは不明ではあるも北条率いる関東諸勢力連合はまもなく信濃国─上野国の国境、碓氷峠へ撤退していった。
碓氷峠を確保することで、関東へ紛争が波及しないように蓋をする意図があったのだろう。そして北条が退いたことで徳川を中心とした東海から甲信までの諸勢力連合となったオレたちにも、関東へと乗り出す余力はなかった。結果、北条も守勢を前提とした再配置を終えれば、長い国境線の各地で睨み合うまま膠着状態となった。
これには遠征を終えることができず負担の大きい徳川と、北条との戦端がいつまた開かれるか冷や汗をかく穴山らは落ち着かない様子だが、オレから見れば史実に近い状況と思われ、危険は遠のいたと感じていた。
そして、徳川のなかでも主君の側近くに侍る近臣にとって、迂闊に動かすことの出来ない病床の家康を、本栖で療養させる時間稼ぎが出来たのである。
一時は危ぶまれた家康が自分の力で厠へ行くことができるようになったのは、夏を越して風が冷たく感じ、月見の季節を迎えた頃だった。
それまで家康の身近には井伊兵部少輔や小姓に加え、どうやって加わったか松姫が入り混じっていじらしいほどの熱心さで身の回りの世話をしていた。
家康が苦労しながらも最低限度の身動きが取れるようになったことで、松姫はお役御免となるはずだったが、遠方より現れた使者により、事態は急展開を迎えた。
いや、オレにとっては急でもなんでもなく、待ちかねたものだったのだが。
本栖を訪れた使者はふたり。
ひとりは織田三介の家老格である岡田長門守。
もうひとりは、織田三七郎の臣であり、以前にも本栖へ使者を務めた佐藤勘衛門だった。
信長の次男三男はそれぞれが三法師の後見を自認して、織田を頂点とする信長の築いた秩序のもと、政を思うままに動かそうと角突き合わせていた。
その意地の張り合いは東へも波及して、一度は織田に膝を屈した関東の北条と、甲信まで得た大領の徳川を己の手で和睦へ導き、史上稀なほどの大戦を家臣同士の争いに矮小化することで自身の権威を高めようと動いたらしい。
家康が彼らを迎えた際、本栖には先代の右腕であった菅屋九右衛門も滞在しており、最前線で戦った堀監物や信忠の正室に内定していた松姫を警護する市橋九左衛門も直臣として上意を受けるために控えていた。
その場に呼び出されて、前掛けを外す間もなく末席に腰を下ろしたオレの姿は、同席した徳川家臣らから見て奇妙なものだったに違いない。
双方の使者から同じ和睦の申し出を聞かされた家康が言った。
「三介さまと三七郎さま、ご両者の申し出は有り難きことでござる。
我らとしても叶うならば北条と和睦のうえ、新たな領地の仕置に専念したく思うておりまする」
家康の言葉を受けて、わずかに安堵の表情を浮かべた岡田長門守と佐藤勘衛門のふたり。しかし、実際に和睦に至るには、北条を引き出して、両者を対立させぬ確かな証が必要なのだった。織田の有力者が仲介するとなれば、例え使者に立つのが軽輩であっても役者不足とは言わないが、織田の内輪で争うようにふたりの仲介役が競っていては、あまりにも体裁が悪かった。これでは織田を頂点とする秩序が北条に侮られかねず、織田に従う徳川や穴山にとっても不安が残ってしまう。
そも大領の主を結びつけるためには縁組がつきものであり、そこには娶る人物の選定から待遇、輿入れの支度まで細々とした交渉もある。窓口の一本化ができなければ、成るものも成らない。
そのことを指摘したのが、菅屋九右衛門だった。
だいたい、徳川と北条を和睦させる場に織田姓を許された菅屋九右衛門がいるにもかかわらず、余人が仲介役を務めることがおかしいではないか。
そう説かれた使者のふたりは、ぐうの音も出せずに沈黙してしまった。
彼らは半年前まで菅屋九右衛門に顎で使われた身分である。
また現在でも菅屋九右衛門は織田一門を称する名分を保持しており、三介、三七郎の両者にとって、是が非でも味方につけねばならない相手である。彼らの臣である使者ふたりは、菅屋九右衛門に歯向かうことなど出来ようはずがなかった。
「こたびの和睦は、織田長頼の名において、儂が扱うこととする」
○
松姫がどう思うかはともかく。
菅屋九右衛門が徳川と穴山と北条の間で調整を行った結果、徳川からは家康の娘である督姫が北条氏直の正室として輿入れすることになり、同時に史実と違う出来事として、甲斐の武田家から松姫が、築山殿亡き家康の継室として輿入れすることが決まった。
武田はすでに宗家が滅び、名跡を穴山が継承していたが、信玄の娘を正室としているのは、北条氏政や穴山梅雪も同じであり、家康が加わることで全員相婿となるため血の連帯によって関東甲信の紛争を予防するにはこの上ない縁組と考えられたのだ。
また本能寺の変以降に野心をむき出しにした北条としては、甲信を徳川に取られては無駄骨も良いところだったが、一度は織田に従うと信長に約していたため、織田が出てきてしまえば武田遺領が欲しいからと言って無理押しすれば名を汚すことになる。
無論、名を汚そうとも大領を得られたなら無視することもできようが、大兵力の動員で関東の国人に多大な負担をかけたうえ、御坂峠で大敗したことにより周囲から不審の目を向けられていた。ここでさらなる無理を重ねることは足元を危うくするばかりと考えたらしい。
「おめでとうございまする」
オレは実家の離れに滞在する家康を見舞い、家康の近くに控えた松姫へ祝いの言葉を向けていた。
すでに家康は破傷風の酷い時期を堪えきって、目に見える箇所がひきつることも滅多になく、オレ謹製のチンキ剤も使用を取りやめていた。すると当然のことながら食事も通常のものへ切り替わっていたが、歯を幾本か失っていたので柔らかいものを口にするようになっている。家康の回復に合わせて食事が変化し、そのたびに松姫はオレの納屋へ新たな献立の相談に訪れたが、ほとんど普通の食事に変わっているのでそれもこれで終わり。
徳川の正室となれば、ひょいひょいと独り身の男の家へ出向くなど許されないのである。もう会うこともないのかと、分家隊の面々が気落ちしていたものだ。
快癒に合わせて縁組を祝うオレに応えを返したのは家康である。
「八郎兵衛殿にはいかい世話になったな」
オレは『たしかにね』と思いながらも馬鹿正直に口に出すわけにもいかず、
「滅相もないことで。
兄囚獄佑と我ら本栖の民を右少将さまが気にかけてくださるお返しが僅かなりともできましたなら、何よりでございます。
河口まで攻め寄せた敵を押し返せたのも、右少将さまが兵を率いて救援に来てくださったおかげ」
殊勝に畏まり、頭を下げながら言ったものだ。まあ、内心では『礼はゼニでいいんだよ』と、欲の皮の突っ張ったテレパシーを送っていたけれど。
「それはどうだかな。
八郎兵衛殿が神憑りの如く活躍をしておったと弥八郎からも兵部少輔からも耳に入っておる。例え儂が丈夫であったとて、同じように追い返せたか甚だ疑わしいことよ」
含み笑いをして言う家康の語を継ぐように、松姫まで、
「わたくしは河口の者たちが着の身着のままで逃げてきた姿をこの目に焼き付けました。
府中や諏訪で武田の軍勢に守られていたなら、戦に巻き込まれた民がこれほどの苦労を強いられるなど間近で見聞きすることもございません。
けれど、本栖での日々が武家の業の深さと、強くあらねばならぬとわたくしを鍛えてくれたようにも思うのです。きっと、あのものたちにとって、八郎兵衛どのはわたくしの父の如く見えたことでございましょう」
家康は思い詰めるふうの松姫に向かって気遣うように、
「お松の心が清いことはわかっておるつもりゆえ気に病むなとは言わぬ。
しかしな、我らは勝った。
河口の民百姓も我が家へ戻って日々の暮らしの立て直しに向かっておるはずじゃ。
そなたも前を向いて行かねば」
「もちろん、そのように思うておりまする。
私と右少将さまの縁組が民草を戦から遠ざけるのでございましょう」
オレの目から見た松姫の瞳の輝きは、教条的な清さばかりでなく、熱を帯びているようにも見えた。彼女は婚約者を失ってすぐに別の男へ嫁がされる身である。
もし相手が好ましく思う男であったとしても、ただ純真に「やったあ、嬉しい」と声に出すことのならない経緯があり、それをごまかしつつも、したたかに己の思いを遂げる方便として、『民』が必要だったのではないか。
愛想笑いを浮かべるオレは、邪推する自分を嫌になりながらそのようにも思ってしまうのだった。いや、美人な若い嫁を増やした家康を妬んでるわけじゃないんだよ。ほんとほんと。
○
家康の寝間から松姫と八郎兵衛が下がったところで、入れ代わりに本多弥八郎と後藤源左衛門が現れた。腰を下ろすふたりに向かって家康が切り出した。
「阿茶はなんと申しておるのだ?」
「ぜひお考えの通り進められますように、との仰せでございました」
家康の問いに応えたのは呉服屋の2代目である後藤源左衛門である。源左衛門は後年に養父の名『縫殿助』を受け継いだがこの時はまだ養子入り以前に島津忠正を名乗っていた頃と変わらず源左衛門を称していた。その源左衛門は徳川家で当主や奥向きの衣装を扱う御用商人。そして家康が名を口にした阿茶とは家康の側室であると同時に、当主の衣装を含む奥向きの一切を取り仕切る私生活における右腕、阿茶局のことである。
生まれが侍であった後藤源左衛門は阿茶局の手足となって徳川の女衆に時勢を知らせる諜報の担い手であり、阿茶と家康が交わす秘密のやりとりを仲介する役も務めていた。ついさっき浜松城から戻ったばかりの男は徳川家の家政の大事に携わっているのだ。
家康はさらに問いを重ねて、
「お愛はなんと申しておる?」
「なんとかお考え直し頂けまいか、と」
「うぅむ」
お愛の方──西郷局──は、家康が側に置くなかでもっとも美しい女であり、家康の跡継ぎである竹千代を生んでもいた。よって正室なき今、本来ならばお愛の方こそ奥向きの頂点に立つべき存在であった。だが、彼女は生まれながらに目が悪く、江戸期に比べて外交的な役割の強い当世の奥向きを回すことに支障があった。また家政ばかりでなく、実子の養育などでも阿茶局の手を借りている。これにはお愛の方の性格の良さと、阿茶局の高い知性が互いの長所を活かすように噛み合った幸運があった。
「お愛は反対か。まあ、仕方あるまいな。
あのものは先夫を武田に殺されておるでな」
お愛の方も、阿茶局も、ともに一度は別の男に嫁いだが、夫らは武運拙く露と消え、家康とは再婚であった。なお、お愛の方は夫を武田に殺されているが、逆に阿茶局は甲斐の生まれで武田の陪臣に嫁ぎ、駿河にて夫が斃れていた。
迷う顔を作った家康は本多弥八郎を見て、
「そなたはどう思うのだ?」
と知恵者の考えを問うが、弥八郎は一言のもと、
「必ず縁組を進めるべきと存じまする。
もしこれが成らねば、のちのち徳川に災いとなりましょう」
このように断言した。これが家康を決断させる決め手となった。
家康は、ふぅ、と息をひとつ漏らし、
「あいわかった。
お愛には儂からねんごろに手当て致すで気にすることはない。
そなたらはほうぼうから手を回してあの者の縁組を働きかけよ。
例え当人が断ってきたとしても、こちらから押しかけさせて既成事実を作ってしまえ」
徳川の当主としてひとつの決断を下した。
「たしかに、あの者は身内とした者を守ろうとしますからな。
だからこそ我らとの縁をなお強く、ほどけぬほどに結び付けねば」
幾度も頷き同意する弥八郎へ、後藤源左衛門が確認をする。
「こちらから願い、譲れるだけ譲って、それでも断ってきたなら如何されますのか」
弥八郎はわずかに家康と視線を交錯させてから、にべもない口調で、
「くだらぬことを聞くでないわ。わかっておろうが」
そう答えが返ってきて、後藤源左衛門は困った顔になって言い募った。
「厄介なことに相手は剣の達人にして、毒にも精通しておるのでございますぞ。
いざとなっても、どうやって仕留めたものか、思案が要りましょう。
下手を打って露見したなら、我らが縁組を願って袖にされ、逆恨みから手を下したなど末代までの恥となりまする」
三人の密談から一ヶ月も経たず、本栖渡辺氏の分家である八郎兵衛の名はこの世から消えた。堀直政と井伊直政、当世で指折り名将となる両直政を揃って率い、日本における最大規模の戦争を終結に導いた男の名は、彼の顔を知る人々からも急速に忘れ去られていくのである。




