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23.甲斐甲斐しさ

 壺の中で蒸留酒を急速に熟成させるには、炙った木片(インナーステイブ)を漬け込んでアルコールで互いに影響させ合うことが肝要だった。ナラ(オーク)を炙ることでバニラの香味成分であるバニリンを作り出したり、風味をアルコール側に添加させることもひとつの効果だが、アルコール側に含まれる原料由来の悪い風味を木片側に吸着させるなど、木片ひとつで樽熟成の代用ができる。ただ、木片は樽よりも液中の表面積が大きいことでアルコールへ素早く影響を与えると同時に、あっという間に機能を失ってしまうのだった。

 その対策として、木片が役立たずになったタイミングで引っ張り出しては、新品と交換するか、炙り直す(リチャーリング)ことで機能を回復させてやる必要があった。


 八郎兵衛の納屋で壺から木片を引き出していた小作の辰蔵は、木片から滴る雫を下から器用に口で受け止めながら喋った。熟成途中の飛沫を味わうことは、彼らにとってオレの作業を手伝う数少ない役得である。


「せっかくの手柄を譲って良かっとうけ(たのですか)

 オラんとうは構わねえけんど、八郎兵衛さまは出世できたズラ」


「オレは好きな酒と肴を売るほど作って暮らしたい男だぞ。

 でもまあ、もし出世したいと願ったとしても、今回は無茶だな。

 本栖の八郎兵衛なんて無名の輩が活躍したんじゃ徳川に勢いが付かない。

 それより、徳川さまご自身の采配で、北条の大軍を寡兵で打ち破ったってことにしないとさ。

 オレの名前を隠したほうが本栖が安全になるんだから、表に出してもらう必要はないだろ」


「そういうもんズラか(ものでしょうか)


 御坂峠での戦いは、地理的に見ても史実における黒駒合戦なのだろうが、今のところはこれといった名前も付いていない。ただ、その勝利について本栖に滞在する徳川は広く喧伝をし、数的に不利であった戦いを覆した家康の武名を高らかに誇っている。そこに真実などなくとも、いずれ嘘と明らかになったとしても、大した問題ではない。ひとは自分に理解できるものを理解し、信じたいものを信じる。本栖の八郎兵衛を知る近隣のものは、このたびの戦に何が起こったか真実に近いところを知ることだろう。だが、肝心なのは北条や甲斐を取り巻く国人らの心であって、彼らの多くは無名の八郎兵衛ではなく、家康の活躍こそ真実と思い込むのである。

 オレはそれを悔しいとは思わないし、そうあるべきだと考えていた。

 数的に有利なはずの北条が「戦に弱い」と見做されることで、国人たちからの支持を失い、彼らが徳川に付けば、時が味方となって次第に兵力差が縮まっていくだろう。


 北条への示威行為は情報戦ばかりではない。

 御坂峠で討ち果たした手柄首を甲斐北部の若神子城に詰めた北条本隊へ届けることで、彼らの士気をくじくこともできる。

 史実でも同様の策が用いられ、これによって北条本隊は士気を大きく落としたと伝わっていた。オレが生きるこの世界では、手柄首は塩を振られ、布で包まれたうえ桶へ詰められて甲斐府中の徳川本隊へと運ばれていった。本隊にも徳川の物慣れた古強者が多くいるので、届いた首をうまい具合に利用してくれるはずである。

 こうして最前の騒動の始末が一息つくと、本栖は闘病中の家康を除いて、とりあえずの危機は去り、武士なんだか百姓なんだかよくわからない身分の八郎兵衛は、酒を仕込んだり、熟成の手入れをしたりという平常運転の暮らしへ戻っていた。


 歴史が大筋で変わっていないなら、本栖はこれからしばらく平和なはず。何かあるとすれば、秀吉の小田原征伐で中道往還を兵が往来するとか、兵糧の買い入れがあるとかだろうか。それにしたところで、何年も先のことだろうが。


 八郎兵衛としては、三位中将(のぶただ)に千石で召し抱えられたらしいが、肝心の信忠はもはやこの世の人ではなく、約束された千石の所領も受け取ってはいない。口約束がどうなるか分からないものの、なかったことになるにせよ、本当に召し抱えられるにせよ、いずれにしても織田家へ酒を届けることは前払いで材料費をもらっている以上は仕事である。

 酒は北条別働隊との戦いで鉄砲に替えたり、火炎瓶として消費したり。原料のモロコシは河口(かわぐち)への救援物資として分け与えたりと、かなり仕込み量が乏しくなってしまったものの、なんとか捻出した分をちょこちょこと味見しながら──蒸留主任マスターディスティラーとして必要な仕事!──調整を続けていた。

 

「低温で蒸留したからモロコシ風味は抑えられたけど、ちょっとなぁ……」


 考えをまとめるつもりでブツクサいいながら酒の改善に頭を絞っていたときのこと。

 珍しい組み合わせのふたりが納屋へと姿を現した。

 小股で歩く楚々とした佇まいの女が真剣な口調で、


「ごめんくださいませ。

 八郎兵衛どのにおちからをお借りしたくお願いに参りました」


 オレの納屋を訪れたのは、武田の松姫と、商人の後藤源左衛門であった。

 松姫とはアンパンの一件以来交流があり、後藤源左衛門とは甲州征伐以前から個人的に付き合いがある。ふたりとも過去にオレの納屋を訪れていたが、揃って訪れたのは初めてのことだ。


「それがしが何か松姫さまのお役に立ちましょうか?」


 松姫がオレを見る目は決然としたもので、必死の思いがひしひしと伝わってくる。


「徳川右少将さまのことでなにとぞ、お知恵をお貸しください」


 そう続けて、オレなんぞに深々と頭を下げてみせたのである。

 納屋には、作業中だった辰蔵などが酒気で顔を赤らめながら控えていたが、その格好たるや下帯ひとつ。松姫が現れてから大慌てでボロの小袖を羽織っていたが、帯など締める時はないため、体の周りに巻き込んで下帯ばかりは隠すように手で押さえつけている有様であった。

 そのようなむさ苦しい作業場で、甲斐で一番と称された美姫が懇願しているのである。

 居合わせた辰蔵らは息を漏らし、松姫はオレの反応を待つように頭を下げ続け、オレは困惑から口を開くことができなかった。

 この沈黙を破ったのは、松姫の供を務めるていで後に続いた後藤源左衛門である。


「御存知の通り、八郎兵衛どのの薬のおかげもあって、右少将さまのご容態は快方に向かわれておられますな。

 しかし、これまで安静を厳にして、身を動かすこともならず、歯まで幾本も失っておられまして、口にできるものと言えば形もないような粥をすするだけ。

 この十日ほどで身体がみるみる痩せ細られ、徳川の家臣も焦っておられまする。駿河から新たに医師を呼び甲斐でも医聖と名高い永田徳本を探すなど、忍びまで使って動いているようで、家臣が右少将さまを慕い案じるさまは涙なくして語れませぬ」


 永田徳本は旧小山田領の出身で、武田家の侍医を務めた戦国時代で指折りの医師である。しかし現時点ですでに老齢の域にあり、甲州征伐の混乱から消息がわからず、命を落としたとも、甲斐を離れたとも噂されていた。

 たしかにそれほどのビッグネームを連れてきたなら、矢傷で寝込んだ家康をあっさり快癒させてしまうかもしれない。

 オレは自身の力量が最初から「医者もどき(・・・)」だと自覚しているので、


「それがしの知る限り、あの薬が効いていて、痙攣(ひきつけ)が落ち着いているのなら、様子を見るほかにありませぬ。

 もちろん、それがしは医者ではないので、ほかの薬を試されるなら、ぜひそのようにしていただきたとう存じまするが、今のところ他の薬は思いつきませぬ」


 と答えるばかりである。

 家康の周辺は痩せ細ってきたことを気にしているようだが、ろくに食えないのだから痩せて当然だ。しかし、重湯のようなものは口にできているようだし、この時代の米なり、雑穀の粥ならば、令和の米より味は劣ってもビタミンやミネラルなどが豊富で健康に良いことは間違いない。

 重要なことは破傷風の引き起こす危険な筋緊張を緩和して、その間に体内の毒素や菌に本来備わった免疫で打ち勝ってもらうこと。

 医者ならば免疫力を高める漢方に詳しいかもしれないがオレは知らないし、手元にも持ち合わせがない。そも家康には本物の医者もついているので、なんらかの処方をしているはずだ。なんでもかんでもオレが口を出すのは邪魔になるだけ。下手な口出しをして処方に影響してはならないとチンキのほかは知らぬ存ぜぬで通している。

 だが、松姫の関心は薬だけではなかったらしい。


「右少将さまの粥をもっと滋養のあるものに出来ませぬか?

 ほんの少しでも生きる喜びを感じられるようなものはございませぬか?

 わたくしがアンパンで気持ちを強くできたように右少将さまにも何かお願いしたいのです」


 松姫の言わんとする事は理解したが、家康はかなり厳重に安静を保たねばならない。固形物を噛ませて咬筋が暴れたなら、さらに歯を失ったり顎関節を壊しかねず、刺激物で胃が痙攣したり嘔吐に至れば、窒息するかも知れない。

 危険を予防するためにも流動食であることは理屈が通っていて、この時代の穀物で粥を用意したならかなり合理的な解なのではないか。

 松姫には「粥がもっとも安全で、回復への近道」であることを伝えると、


「粥しかないとしても、お味をどうにかして差し上げたいのです。

 塩や味噌で味をつけるばかりでなく、わたくしたちが右少将さまを勇気づけるような、心の伝わるものを何かご存知なのでは?」


 塩や味噌じゃなくて、松姫たちが病床の家康を勇気づける味とはこれいかに。

 しかし、塩や味噌で物足りないときに必要なものは出汁だ。


「滋味が溶け出す具を入れるべきかと存じまする」


 商売人として世間に出回る品に詳しい後藤源左衛門は、


「八郎兵衛どのが思う滋味の出る食材とはなんでしょうな?」


 そのように問うてきたので、オレは思いつくまま、


「主なるものは、魚介、鳥獣、茸のたぐいあたりが挙がりましょう」


「ふうむ、なるほど。

 たしかにそれらを煮出したなら汁だけでも味が良くなりましょうな。

 とはいえ、山国の甲斐では魚介は乏しく、茸のたぐいは季節が合いませぬ。

 そうなれば挙がったなかで選べるものは鳥獣となりましょうか」


 松姫は後ろに控える後藤源左衛門を振り返って、


「右少将さまはなまぐさのたぐいはお口になされますか?」


「鳥を好んでおられます」


「ならば、わたくしがご用意して差し上げれば喜ばれましょうか」


 気力を取り戻したように声を弾ませて松姫が言った。

 オレは彼女にせがまれて鳥の骨から出汁を取ることを伝えると、


「わたくしがこの手で殺生いたします。

 ほかのかたに穢れを押し付けては意味がありませぬ。

 右少将さまのお命を危うくしたわたくしが余人に殺生を命じてまた咎人を作るなど道理に合いませぬ。

 わたくしがこの手を穢して地獄に落ちてでも、右少将さまのお役に立ってこそ、初めて許しを請えるというもの」


 鳥を締めるのも下手をすると怪我をしかねないが、彼女は言って利かず、オレは納屋の端でポカンと立っていた辰蔵へ、


「今朝方に次平が雉を捕まえたとか言っていたはずだ。

 しっかりと縛ったうえで持ってくるように伝えてくれ」


 オレが辰蔵へ命じるとき、松姫も辰蔵の間抜け面を真正面に見て、


「お頼み申します」


 と真摯な表情で会釈をした。その生まれついた気品と、女が男を想う時に滲み出る独特な気配とに当てられた辰蔵は瞬時に真っ赤となり、首をガクガクと頷いたかと思えば、


「行ってくるじゃんっ!」


 帯もない小袖をマントのように風になびかせ、下帯と尻っぺたを晒しながら次平の家へと駆け去った。松姫は辰蔵の有様を笑うでもなく、物憂げな表情のまま、


「雉をどのように致したらよろしいのでしょう?」


 家康に届ける粥の支度に集中していた。

 

 ○


 雉が届いてから松姫は自らの手で着物を血で汚しながらもどうにか締めることに成功し、慣れぬ刃物を指示されるままに振るって解体を進めていった。

 彼女は涙を浮かべながらも途中で手を止めることはなく、婚約者を失って尼として出家するだのと言っていた姿とはまた別の目の輝きを宿して見えた。

 オレは彼女の熱意に応えようと知恵を絞り、畑を眺めて枝豆が旬であることを思い出す。


「枝豆をつぶして汁物にしてみても、美味くて滋養がありまする」


「ならば是非その枝豆汁も右少将さまに差し上げましょう」


 いわゆる枝豆ポタージュを作るにはバターも必要だなと、耕作用の牛を飼う家に牛乳を分けてもらうために仲間を走らせた。使いっぱしりを務める彼らは本来なら酒造りの人足として集まっているのだが、オレを頭分として敬っている普段の様子から一変しており、松姫の用事を最優先して、彼女がひとこと、


「お頼み申します」


 と(ねんご)ろに言葉をかけると、まるで決死隊のような顔つきに変わって駆け出すのだった。その姿は北条に対してゲリラ戦を仕掛けていた時よりも真剣な表情と言えた。そしてバターを作る労力にしたところで、こいつらが顔を真っ赤にして松姫のために尽くすのでオレは眺めているだけで苦労はなかった。

 しいて言えば、彼らが尽くす松姫もまた、ひとりの男に尽くしているので、アイドルに群がる熱狂的なファンを見るような、少しばかり切ない光景でもあった。


 出来上がった雉ガラスープは、フレンチでフォン・ド・フェザンと呼ばれる上質な出汁になる。鶏ガラより強い風味の出汁で煮た粥は味見してみれば十分な満足感が有り、食欲も刺激される香りである。

 本来ならここにハーブ・スパイスなど使えばさらに味が整うのだろうけど、刺激物を足すことが胃にどのような影響を与えるか心配だったので調味料は最小限に抑えることとし、粥と枝豆ポタージュは、低刺激の、いわゆる優しい味にまとめられた。


 オレは出来上がった流動食を家康が口にする姿まで見届ける立場にない。

 ただ、伝え聞くところによれば、松姫は寝所の近くまで寄ることを許され、毒味を経て家康が口にした姿を間近に見ていたという。

 松姫は家康が()せたり、苦しんだりという姿を目にするたび眉根を寄せ、手を貸したい様子を見せるも、チンキを過剰投与した失敗から徳川の家来に警戒されて、家康に触れることが禁じられていた。

 後藤源左衛門が松姫に付き従っていたのも、実際には徳川の隠密でもある男に見張られていたのである。松姫自身も疑われ、見張られていることを理解しながら、家康に尽くそうとしていた。


 彼女が救われたのは、粥と枝豆のポタージュを啜った家康が、蚊の鳴くような声で、


「旨い」


 と小姓に伝え、小姓から周囲へと大きな声で発せられた瞬間だろう。

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