22.新釈風林火山
家康の危篤が伝えられてから甲斐府中へと急いだ北条方の別働隊1万人。
北条氏忠に率いられた関東諸勢力連合は手柄と兵糧を求めて先を争うように河口をあとにすることを決めた。
鉄砲で狙い撃たれる不安のあった武士にとって河口からの北上は遁走だったかもしれない。
だが、御坂峠の道は細く、山越えであって悪路である。1万人が長蛇の列を作って進まねばならない。これほど大勢が列を作れば後方に行くほど歩みが遅くなるもので、一緒に殿軍を命じられた相棒である御宿勘兵衛に先を譲れば、小山田六左衛門はいよいよ最後方へ配置されてしまい、先頭が出立してから半日ほども身動きができなくなってしまった。
「出立まで時間があるのなら、備えをさせておかねば」
生真面目な性格の小山田六左衛門は未だに捕らえられていた河口の女子供や年寄りのもとへ顔を出し、彼らを人質として無理矢理に従えていた男衆も交えてひとまとめに解放しながら、
「おぬしらを自由の身とするが、小山田が去るは一時のことと覚えておけ。
我らは北条と共に府中の徳川勢を討ち果たし、戻ってまいるでな」
それから幾つかの指示を出した。
まずは北条方が不在となったら河口を守らせること。
徳川方が押し出してきたなら、抵抗など無益であり、接収されることは明らかだが、徳川方がどのような兵を連れているか六左衛門にもわからない。北条方のように野盗同然の荒くれ者が殺到したなら、すでに荒れ果てた河口が余計に被害を被ってしまう。だが、甲斐府中にて我らが勝利を収めたなら主力を失う徳川方など風前の灯。六左衛門や勘兵衛が郡内に戻れば小山田領としてかつての姿を取り戻すはずだ。だが、戻るまで一旦は徳川に預けることになる。
「九一色衆でも徳川でも良い。
信頼できるものを見つけ出して狼藉のないように願うのだ」
北条方を招き入れ、旧領を荒らし回らせてしまった六左衛門は、
『我ながらどの口がほざくのか』
と、内心で自嘲しながらも注意を促した。無論、六左衛門の言葉に河口の衆は反感の目を向けてきたが今の六左衛門にはふたたびの被害がないよう口に出さざるを得なかった。
無体を受けぬように集落のものがまとまって余所者を待ち受けられる場所を作り、居残るものから頭分を決めて、残る僅かな食料を念入りに隠させた。そうしてとりあえず一段落というところへ、六左衛門の手下が現れて、
「殿軍も多くが御坂峠へ向かいましたぞ。
我らが最後でございまする。本栖から敵が現れるまえに離れませぬと……」
と焦ったように口にしたので六左衛門も河口を後にしようと急いだ。
しかし、六左衛門が集落を出る直前、西から駆け寄る数名の男が見えると、付近にいた河口の衆から歓声が上がって、そのなかのひとりが言った。
「やっと本栖から戻ってきたズラ!
言いつけどおりに動かねえきゃならねえぞ」
河口に居残り、つい今しがたまで六左衛門に従っていた在所の者たちが瞬時に目に光を宿して六左衛門を見た。彼らの目に宿る光は怒りや憎悪。または殺意だった。河口の衆は目線だけの合図で六左衛門を取り囲むように動いた。
慌てた六左衛門が、
「な、なんじゃ、我ら小山田は一旦離れるゆえ、用事なら戻った折に聞こう」
不穏な雰囲気に呑まれつつ、河口から先を急ぐと言葉にする。そこへ、西から駆け寄ってきたなかに唯一加わる老人が答えた。
「儂らも忙しいで面倒をいうじゃねえわ
皆も小山田のお侍を甚振ってる場合じゃねえぞ。歓迎の支度をしねえきゃ」
灰色に薄汚れた法被と下帯の老人は、柄を長く挿し直した手斧を弄びながら言ったものである。出立を控えて六左衛門の手勢は多くが峠の手前で待機していた。手近にある数人ばかりでは多勢に無勢。幾重にも集まってくる集落の男たちを前に、抵抗するすべはない。
小山田六左衛門は、炭焼きの六爺らにあっけなく捕縛されたのだった。
○
このままなぶり殺しにされるのではないか、と恐れた六左衛門だったが、幸か不幸かすぐに命を奪われる様子はなかった。
河口の衆を率いる頭目は炭焼きの六爺であるらしく、手早く指図をして子供は本栖へ逃し、年寄りからは足腰の確かな者を加えて北の山へと入っていく。
六左衛門も刀を取り上げられたうえ周囲を固められ、命じられるまま同行することになったが、河口からさほど進まぬ高台の稜線に隠れる藪で、猿轡をはめられ縛り上げられた。
「間に合ったずらか」
誰かの呟きと前後して、空に煙が上がった。
遠くで鉄砲の音が鳴り響き、鬨の声から喚き声までが山々にこだましてくる。
「ようし、オラんとうは得意のこれでやりかえすじゃん」
藪に潜む老若男女は誰も彼もが印地紐を手にしている。
彼らのなかには三方ヶ原の戦いで徳川や織田を相手に投石で活躍した者も多い。その投石名人らが、息を潜めて時を待った。
こうなると六左衛門には彼らが何を待ち、何を目的としているか予想がつく。
果たして、北の山々が濛々たる煙を上げ、ところどころに大きな火の手が上がって山火事の様相を呈している。
赤、白、黒の、色が交じる煙の中、丸腰で半裸の男たちが次々と姿を表した。
男たちは転げるようにして登ったはずの坂道から飛び出してきた。
火攻めで撤退してきた北条方の兵である。
「そらっ、放て」
炭焼きの六爺が合図を出すと、河口の衆は誰もが印地紐で石をぶん回して遠投していく。印地紐は近くに放てば狙いも付けられるが、遠投では山なりとなって狙いなど付けられない。けれども、百人を超える大人が、2寸ほどの大きさをした石をいちどきに放てば、道を駆け下る列に十や二十の命中は起こるものだ。
予想もしなかった方向から投石を浴びた男らはその場で転倒し、後続の仲間に蹴られ踏まれて傷を深くする。また転倒した男に足を取られたなら新たに転倒するものが続出する。
半裸で傷を負いながら道なき道を進もうとしても、そもそも峠道とは険しい難所を抜けるためにある。横道に逸れて容易に抜けられるわけがない。
崖や急坂や灌木に行動が制限される狭隘な道へ、投石をしているのである。しかも後方からは火や鉄砲の音が迫る。印地使いが百人であったとて、わずかなうちに、その何倍、何十倍の命中があるのも当然のことだった。
河口の衆は、まずはじめに投石が当たった時には歓声を上げ、次にはあまりにも多い北条方の逃走する姿にせわしなく無言になって石を放ち、最後には坂道に転げていく北条方の男の数に涙を流しながら手を動かし続けた。彼らは人殺しに飽き、嫌悪してなお見せしめとして北条方を討ち果たそうと必死だった。
流れ作業のように人へ傷を負わせるようになると、指図をする炭焼きの六爺は余裕が生まれたか。六左衛門に振り返って猿轡を外した。
「お侍は北条の手柄首を見たらわかるずら?」
六爺と六左衛門が眺める斜面の下には、折り重なるようにして倒れる数え切れない半裸の姿がある。もしもこれに武士が混じっているのなら、顔で判別しなければわからないだろう。
だが、その合理的な考えとは別に、六左衛門が抱いていた恐怖や疑問が口をついて出た。
「このような酷い戦など、なぜ……」
六左衛門の言葉を聞いた河口の衆から声が上がった。
「酷いのは北条を手引したてめえのこんじゃんけ。
オラんとうは二度と同じことがねえように思い知らせてやっとうだ」
「北条が攻めてきたでみんなが苦労してるじゃねえか」
「儂の息子はおっ死んだぞ。おめえにも子供がいるズラ。殺してくれっかな」
「俺の娘は悪いもんにいたぶられたど、どうしてくれるどう!」
口々に訴える衆は声を上げながらも手を止めずに、石を剛速球で投じて北条方の兵をひとりまたひとりと痛めつけ、倒している。
倒れる姿は時を経て増え続け、鉄砲の音は御坂峠の上から麓へと次第にくだり、近づいていた。北条方が北上し続けたなら、戦の気配が近づいてくるはずがない。
六左衛門は先行する勘兵衛の身を案じながら、河口の衆へ指図する六爺に問うた。
「おぬしらがこれを考えたわけではあるまい、誰がこのような悪辣な策を?」
「そりゃあ、本栖の八郎兵衛さんだよ」
○
家康が息を吹き返した直後、周囲の人々が安堵する中で八郎兵衛は落ち着かない心地だった。天の邪鬼からではなく、現在進行系で北条方へゲリラ戦を仕掛けている当人だからこそ気になったのである。
もしこの状況が河口へ伝わった時に何が起こるか。
好機と見て本栖に攻め寄せるだろうか。それとも撤退するだろうか。
なんちゃって武士の自分がいい加減な思い込みで動いてはならないと、多少は気安く話せるようになった井伊兵部少輔へ尋ねてみた。
「なに?
殿が危篤と敵に伝わったら何が起こるかじゃと?」
「河口におるのはこちらを大きく上回る大軍だぞ。
1万を相手にしては、2千に届かない我らはすり潰されかねん。
名ばかりの城代とはいえ、それがしも出方は気になる」
オレがそのように続けると、井伊兵部少輔はすぐに本多弥八郎の元へ駆け寄り、オレにも続くように手招きをした。あとを追って弥八郎へさきほどの疑問をぶつけると、
「そもそも北条方はなにゆえ河口に留まっておるのだ。
甲斐府中へ向かうのなら、後ろから脅かしてくれようものを。
隘路で待ち受けられては不利となるゆえ動きを待っている最中であったのだ」
などと続けるもので、本栖への途上で家康が倒れた混乱からオレたちはろくに情報交換が出来ていないことに気がついた。考えてみれば、今の本栖には徳川の旗本と地元九一色衆と少数ながら織田の重臣が混在している。
家康が健在ならば菅谷九右衛門と協力してことにあたることも出来たが、家康が前後不覚では菅屋九右衛門がもっとも格上となる。城代の八郎兵衛がゲリラ戦で出払っているため、堀監物が九一色衆を預かるなど指揮系統が変則的で、徳川の重臣らも織田を無視することができない。
だが、何倍もの大軍と戦うというのに、徳川の兵を織田の将に預けるべきか。徳川の浮沈が懸かる戦で重大な判断をしようにも、今の家康には困難だった。史実において徳川の重臣の多くは大変な出世を果たしたわけだが、この時点で家康に従うのは大身といえども城主格である。一方で菅屋九右衛門はといえば、天下人であった信長の右腕であり、織田姓も許された大物であって、文字通りの別格。
結果として徳川方は家康の回復を待ちながら河口の北条方がどのような動きを見せるか様子見となり、織田方は寡兵でありすぎ、徳川の動き次第で甲斐からの撤退までも考慮して、誰も彼もが消極的な対応に終止していたようだ。
「軍議を開くべきでは?」
オレがいうと、本多弥八郎と井伊兵部少輔は顔を見合わせ、
「菅屋さまはどのようにお考えなのだ?」
と尋ね返されたため、こりゃダメだと別棟で様子をうかがっていた菅屋九右衛門と堀監物を連れて、徳川家臣のもとへ戻った。
家康がとりあえず命を繋いだと聞いた菅屋九右衛門はひとまず喜んだ上、軍議については、
「我らも軍議が必要であろうと思っておったがな。
徳川どのが危ないと聞いては寡兵すぎる我らが出しゃばるのもどうかと遠慮しておったのだ」
そのように続けたため、八郎兵衛の提案で急遽軍議が開かれる運びとなった。
本栖に滞在する将を集めた席では、まず現状について認識をすり合わせるべく情報交換が進む。
当然ながら主題となるのは河口に留まる北条方のことだが、徳川は北条方が兵糧を現地調達することを前提に兵を出していると知らなかった。徳川も忍びを連れているはずだが、今回は例外的に情報収集が後手に回っていた。彼らはまずは身柄を動かすことの出来ない家康の身辺を固めるため、警護に重点を置いて動いていた。
ただ、織田方にしても北条別働隊が兵糧を持たないと予想していたのは菅屋九右衛門くらいである。九右衛門も八郎兵衛と一緒になって小山田六左衛門や御宿勘兵衛と言葉をかわしたところ──ふたりは本栖に兵糧の供出を迫っていた──から察していたに過ぎない。
河口から避難してきた者を世話していた九一色衆らは避難民から「北条方が腹を減らしていたこと」を伝え聞いている。けれど、侵略者の略奪について報告はしても、彼らが兵糧をどれほど持つかについて情勢にうとい在所の民が推量できるものではない。攻め寄せてきたものが無法の限りを尽くすのもありふれている。北条方が本栖にある八郎兵衛のモロコシを狙うなど、僅かなものしか知らない話だったのだ。
まさかこれも自分の役割なのか、と嘆息しながら八郎兵衛はそれらを語った。聞かされた徳川方は、
「なにっ、奴らが兵糧を持たずに攻め寄せていたとは」
「本栖に蓄えられた兵糧を狙っているだと!?」
「やつらも必死になるはずだが、なにゆえ姿を見せぬのだ」
と声が上がったが、それについてはオレたち分家隊のゲリラ戦が関わってくるので、この時代で分かりやすい表現として、
「それがしが狩人などを率いて忍びの真似事をしておりました。
鉄砲にて敵方の国人を幾人か討ち果たしたはずでございます」
特に河口から西側へ兵を出そうという北条方には、壇ノ山から念入りに火薬を使った脅しをくれていると伝えると、井伊兵部少輔は得心の顔をして、
「おぬしが草木を体にまとっておったのは、そのような事情であったか」
と声を上げ、続いて他の徳川家臣らも八郎兵衛が珍妙な姿で家康の病床に現れたことを思い出している様子だった。
本多弥八郎は八郎兵衛が河口の集落まで幾度も往復していると聞いて、
「ならば、むこうの様子はわかっているのだろう。
実際に目で見て、存念あらば言うてみよ。
これからあやつらはどう動くな」
このように尋ねられて気にかかったのは、やはり家康の健康問題が敵に漏れた際の反応だった。今の甲斐国では北条の大軍と徳川穴山連合が戦っている。家康は寡兵の徳川方で替えの利かない当主なのだった。命が危ういと聞かされれば、甲斐府中に留まる徳川本隊は動揺しようし、北条本隊は勢いに乗るだろう。
本栖で倒れた家康の様子を信濃国境に近い北条本隊が知るのはまだまだ先のことだろうが、目と鼻の先にある河口ではどこから漏れるか知れない。
「徳川さまが動けぬほどお身体が危ういと知られれば。
勝ちを得るため遮二無二動くのではないかと」
「だから、どう動くというのだ。
本栖へ攻め寄せるのか、それとも相模へ退くのか」
「北へ、甲斐府中を目指して御坂峠を抜けるのではないかと思いまする。
北条方に兵糧がなくとも、ここで略奪するか甲斐の盆地で略奪するか。
いずれ同じことと考えたなら、府中を目指して進みましょう。
いまさら相模へ撤退すれば、若御子城で待つ北条本隊の士気が下がりまする。
一方、本栖へ攻め込んでもこれまで同様に寡兵相手に手間取れば飢える。
となれば、本栖を無視して道を急ぐことこそ、北条の勝ちに結びつくのでは」
オレの予想を聞いた徳川方は甲斐府中にある徳川本隊の危機に色めき立ち、北条方が北上するに合わせてどのような戦をするかと話し始める。
だが、北条がいつ動くのか、実際のところは不確定である。こちらから下手に動いて敵が有利に迎え撃ってしまうことだって有り得た。
ならば、敵が出撃する時機をこちらで決めてしまえばよいのではないか。
思いついたことを井伊兵部少輔へこっそり伝えて、その成否について意見を求めると、聞いた兵部少輔は顔を紅潮させ、目も爛々と輝かせたうえ、大声で軍議の場へ言い放った。
「八郎兵衛の策を聞いて頂きたい!」
井伊兵部少輔の提案は沈黙をもって受け入れられて、オレへと視線が集まった。
オレは菅屋九右衛門と本多弥八郎にうながされて話した。
北条方が家康の不予を知るのは時間の問題なので、敢えてこちらから確かな人づてで噂を流してはどうか。敵が噂を信じぬならそれまでだが、真実ゆえの確度から敵が本気にする可能性は高い。もし信じたなら、敵が動き出すタイミングをこちらの都合で操作できることになる。
堀監物がオレを見ながら、
「敵が動き出す機を意のままにできたとて、そこからどうするのだ」
「敵は1万。御坂峠へ長い列を作って入ることになりましょう。
ならばそこへ火攻めや投石、鉄砲を射掛けることで混乱させられるのでは」
徳川家臣から疑問の声が上がった。
「御坂峠は長い山道であろうが。
大軍を惑わすほどの火攻めなどできようか。
出来たとしても、山火事になってしまっては我らも全滅ぞ」
火攻めは失敗したならただのボヤや焚き火で終わる。大軍を相手に有用なほどの火は難しいという意見にも一理ある。が、そもそもの前提として人の運用法が彼らとオレの考えるもので異なっていた。
「我らがひとかたまりになって動いたなら、大きな火攻めなどできませぬ。
一ヵ所で火を焚いていては埒が明かず、いっそただでさえ小勢であるところ、さらに幾つにも分け、それぞれに持ち場を与え、多くの斜面へ一気に火を放たせるのでござる。
それがし、侍のような顔でここにおりまするが普段は百姓暮らし。
九一色衆も毎年山の斜面へ火を放ち、焼畑をして雑穀を作っておりまする。
まして今は北条から逃げてきた河口の民も多く本栖へ身を寄せており、その者らにとって御坂峠の焼畑も日々の暮らしの技でござる。
良き塩梅で火を放ち、峠道を煙で遮って混乱させることは夢物語ではございませぬ」
実のところ、オレはこの戦を楽に勝利するすべを知っていた。
敵が河口などに留まり、ひとかたまりとなっているなら、とある狼煙を使えばいい。その狼煙とは、いわゆる「毒ガス兵器」である。
ウルシやハゼノキなど人が触れてカブれるような有毒な植物は、燃やした際にも有毒な煙が出る。そして煙を肺から取り込めば肺の細胞が簡単にカブれ、そのまま窒息する危険な代物である。古来から薪にしてはならない、とされる樹木を敢えて燃やす。それを応用した狼煙──煙幕弾──は、恐ろしい効果が極めて容易に実現できる。ひとつところに固まる敵へ、煙幕弾を幾つも投擲すれば、敵の多くがそれを吸い込むはずなのだ。
しかし、そんなものを使ったが最後、敵味方がのべつ幕無しに使い始めたらとんでもない悲劇が各地で発生する。まるで第1次世界大戦を先取りするようなものだ。
なにより本栖の者が毒ガスを使うなんて、冗談ではない。
オレは毒性煙幕の有用性に気づき、効果的な使用法すら思いつきながら、とても使う気にはなれなかった。
オレの悪辣な策は別として、戦国時代の許容範囲であろう、と提示した峠の火攻めに、堀監物が唸りながら、
「兵をあまりにも細かく分けてしまえば、采配などできぬぞ。
ひとりふたりの兵が各地で上手く動くなど、どだい無理というものだ。
武士がそれぞれに兵を率い、戦を行うのはそうせねば戦にならぬゆえのこと。武士が采配を放り出して兵の気儘を許したなら、兵は足を止めるか、逃げるか、馬鹿をする。
それゆえ、戦をわかった武士が兵を率いて指図せねばならぬのだ」
「火を放つ者を兵と考えず、忍びと考えてはいかがでございますか。
兵としてひとかたまりで用いず、大勢の忍びとして用いる。
敵はすでに鉄砲にて幾人も武士を失っておりまする。
あちらは多くの兵を率いるのに必要な武士の頭数が減り、兵の統率、ひいては行軍にも苦労していましょう。そこへ火攻めで隊列を分断し、鉄砲や投石で脅かしてやるのでござる」
「おぬしは何をいっておるのだ、兵は兵。忍びは忍び。
そなたは忍びが一朝一夕で育ってくるとでも思っておるのか?」
堀監物に伝えることに苦労するが、オレがイメージしていたのは、散兵戦術である。
指揮官のもとで兵をひとまとめに運用する既存の戦いは古代から続く、いわば戦列歩兵。
視界の開けた土地や拠点の攻防で多くの兵を運用するなら、16世紀の日本でも極めて有効だ。だが、有効な陣形の取れない山中の行軍では、伸びた隊列を変化させることはかなわず、消極的かつ非効率な運用に制限された。それというのも指揮官は手近な兵を指揮することは叶うものの、列の前後は目も声も行き届かないため、どうしても放置される格好となり、戦力として計算できない遊兵となってしまう。また本来の戦列歩兵は飛び道具で攻撃されたなら移動したり陣形を広げて、機動的に飛び道具の狙いをつけられなくする。逆に敵が集団で接近戦を挑んできたなら、兵を密集させて1対多の攻防を徹底することで、局地的な優位を作る。この兵の粗密を変化させることが戦列歩兵の要諦である。もちろん山道ではこれもできない。
では、オレがやろうとしている「散兵」とは何かと問われたなら、簡単に言ってしまえばゲリラであり、近代以降の歩兵の戦い方だ。それぞれの持場へ少数で素早く展開して、それぞれの現場で判断を下しながら、効率的に動いて目的を果たす。
ただ、堀監物が指摘するように、民百姓から編成した雑兵にいきなり、
「お前は忍びだ」
「勝利に結びつくよう自分で考えて上手くやれ」
などと言っても絶対に無理。現在は16世紀で無線機もなく、少数が散り散りとなれば指揮統制が困難となることはオレも同意するところだが、現場判断が無理ならシンプルな戦術目標を事前に設定して、〇〇をやれ、〇〇を終えたら逃げろ、と命じておけば良い話でもある。
オレは、甲斐国といえば有名な「風林火山」を持ち出して、
「火攻めを行う者共へ、風林火山をもじって、このように命じてはいかがか」
ひとつ、風上を取れ。
ふたつ、林に紛れよ。
みっつ、火を放て。
よっつ、山道の敵を燻せ。
「在所の者は慣れた土地にて焼畑をする要領で働けば良いのでござる。
要点である4つの言いつけを守りさえすれば、策は成りましょう。
峠の各地に散ることで長く伸びた敵の風上を取り、あちらこちらから敵を燻すように火を放ったなら、行軍する1万の北条方はたまらぬのではありませぬか」
火攻めの策を聞いた諸将は顔を見合わせながら、実現可能かと半信半疑になっていた。そこへ菅屋九右衛門と本多弥八郎がオレの策を吟味したうえ、
「いずれにしても、北条別働隊は遠からず徳川殿の様子を知るであろう。
そうなった時、もともとの進軍先である御坂峠へ向かうことは大いに有り得る。やつらが動けば、どのような形にせよ我らは足止めせねばならぬ。
在所の百姓が敵を火計で惑わせるというなら、やらせてみるべきであろう。
こちらから噂を流して、敵方を揺さぶることも許す」
菅屋九右衛門によってそのように方針が定められ、火攻めの策が採用されたのだった。現場の指揮官には九一色衆の代将であり、在所の百姓として経験のある言い出しっぺのオレが据えられ、軍監──お目付け役──として堀監物が同行し、あまりに少数では不安が残るとして、徳川方から井伊兵部少輔が百五十を率いて寄騎──徳川方が派遣する監視役を兼ね──となってもらうことが決まる。
九一色衆と河口から避難してきた衆を加えた350に、井伊兵部少輔が率いる徳川の兵が150で、合計500名。
徳川にはまだ1000名近い兵が本栖にあるが、これは病床から動かせぬ家康の警護に残さざるを得なかった。最悪の場合、彼らはいまだに回復しきらない家康を戸板に乗せて運んでいくはずだ。
オレは堀監物と井伊兵部少輔というふたりの直政のちからを借りて、史実の徳川にとっての桶狭間に相当する戦を託されたのである。
負けたなら、我が家が滅ぼされかねないという全力の賭け金で、山に火を放ち、敵を燻して、酒で買い入れた鉄砲も射掛けて、逃げる敵には投石で追い打ちをかけ、知り合いと一騎打ちまでさせられて。
結果として勝ちを収めたのである。




