20.慈悲
本日は13話から20話まで更新しています
読み飛ばしにご注意頂けましたら幸いです
大麻チンキを使う決断を下すまでには、徳川方にひと悶着あったらしい。
その薬効はともあれ、毒性に不安をいだいて、試しに忍びの者へと使ってみることになり、実験を見た重臣らは僅かな使用でも人が腑抜けになる様子に恐怖を覚えたようだった。
まあ、オレとしても基本的に毒であると考えている。
あくまでも病的な筋緊張を緩和するための緊急的な使用であって、常用するような薬じゃない。そして、彼らも薬の効力が切れた頃に我に返った使用者を見て、
「殿にも少しだけ使ってみてはどうか」
との判断が下されるに至った。
そしてほんの僅かな使用で、家康の苦しみが大きく緩和されたとの見立てから、とりあえずオレが叱責されたり、詰め腹を切らされる心配はなくなった。
ちなみにオレは家康の養生が続く間も河口へ出掛けては鉄砲で北条方へ脅しをかけていた。そうすることで河口の北条勢は動けなくなり、物資は払底し、食うに困った住人が必死で逃げ出して本栖に流れ込んでいたが、オレたち分家隊にとって彼らを見分けることは何程もない。
幸いにも本栖にはオレの買い入れた大量のモロコシがある。
酒へ加工を始めたものは途中から火炎瓶の材料となったが、いまだに残る数十トンの膨大な雑穀が、味はともかくとして彼らの腹を満たす役に立った。
振り返れば、家康の負傷は予定外であり、史実にない出来事がオレの回りで巻き起こりつつもどうにか北条方を留めることに成功している。これから家康の回復に合わせて反転攻勢となるはずで、史実以上に徳川の名将達が加わる黒駒合戦へ突入するのだろう。
一時はどうなることかとオレ自身と家族の運命を案じたが、どうにか軌道修正されたのではないか。
そんなふうに心を落ち着けて仮眠を取っていた時のことだ。
「おい、八郎兵衛、殿が、殿が、お苦しみになっておる!
早く診てくれ、頼む!、間に合わねば俺はおぬしを許さぬぞ」
昨夜もオレは河口の壇ノ山にてゲリラ活動を続けていたがようやく家に戻って仮眠をとっていたというのに、板戸を叩き壊す勢いで遮二無二呼びかけられた。
声の主は、井伊兵部少輔だ。
起き出して寝ぼけ眼のまま実家へと駆けつける羽目になった。
そして恐ろしい光景を目の当たりとしてしまった。
家康が養生する寝間へ入った瞬間に、肝心の家康が。
「ひゅう」
と、溺れかけの人が息継ぎするような、ちからのない呼吸を最後に、しゃっくりをする寸前のようなかたちで息を止めた。
あ、まずい。
これ、人が死ぬときのやつだ。
病をこじらせて息を引き取る者を見たことがあれば、その呆気ない最後の呼吸、いわゆる息絶える瞬間に見覚えがあるはずだ。家康が見せたのはまさしくそれだった。
家康の寝間には徳川の重臣からお嘉祢さん、さらに何故か武田の松姫までが揃っていた。
大家族を前提に生きている時代のことで、誰もが家族のひとりやふたりを看取っている。家康が今まさに息を引き取ろうとする姿をこの場の全員が理解していた。
「「「と、殿っ!!!!!!」」」
一同が阿鼻叫喚に陥ろうというところへ、オレは声を張り上げた。
「あいや、しばらく!」
重臣らをかき分けて家康のもとへ向かい手首で脈を取ろうと試みるが、オレが下手くそなのか失敗し、心臓に耳を当ててみると果たして家康の心拍は停止していた。
オレは前世にて風呂屋で倒れた老人を思い出しながら、家康へ心臓マッサージをしつつ、時に手を止めて、鼻をつまんで息を吹き込んだ。
井伊兵部少輔がこれまで聞いたことのないような、オクターブ高い声で、
「おぬし、何をしておる!」
オレは家康の蘇生に忙しく、説明が面倒に思ったが端的に、
「息を吹き返すかも知れませぬ、水に溺れたものも戻ることがありまする」
と伝えるが、重臣のひとりは刀を抜き放って、
「お隠れになった殿のお身体を甚振ろうとは、貴様は儂が成敗してくれる」
凄まじい剣速で迫る刃だったが、オレも必死である。
一切の手加減なしに、握る手へ当身を食らわせて、刀を飛ばさせ、勢いのまま怒鳴っていた。
「バカ、バカ、家康に死なれたら困るだろ!
まだ助かるかもしれないんだから、邪魔するな、バカ!」
必死過ぎて語彙も言葉遣いも全滅していたが、人工呼吸もしなくちゃならないし、オレの息も絶え絶えである。もうオッサンにキスしている事実など意識している余裕がなかった。なお、これが今生のファーストキスであったことは墓場まで秘密にしなければならない。
心臓マッサージと人工呼吸をひとりでこなすのは困難と考えて、井伊兵部少輔を呼び、
「オレが心の臓を幾度か押す。
それを止めたところでゆっくり息を吹きこめ、わかったな?」
と簡単に命じると、顔を真っ赤にしながらも井伊兵部少輔はオレの指図通りに動いてくれた。まあ、こいつと家康はデキてるはずなので、オレが人工呼吸するより色々と無理がない。
オレたちふたりがそれを続けること数分だろうか。いや、ほんの数秒のことかもしれない。ただ、尋常でなく精神が張り詰めた十五畳でオレと井伊兵部少輔の吐息ばかりが続いた。
その異様で、天正十年において倒錯的ですらある光景を目を見開いて見守る徳川重臣らの前で、井伊兵部少輔が何度目かの息を吹き込んだところへ、
ごはっ
と、家康が咽るようにして息を吹き返した。
胸に耳を当ててみれば、心臓の鼓動も戻っている。
オレは安堵し、重臣らも歓喜の声をあげようとしたところへ、思わぬ声が思わぬ大きさで寝間に響いた。
うわぁぁぁぁぁ、よかったぁぁ。
徳川さまが助かって、良かったぁぁぁ、うわああぁああん。
「えぇ?」
意外な人物が大音声で号泣するさまに、意外の思いが漏れてしまう。
泣きはらしているのは、武田の松姫であった。なんで?
○
混沌に陥った寝間が落ち着くと、家康が心停止に陥った理由を聞かされた。
なんと家康の見舞いに顔を見せていた松姫が、矢傷に苦しむ姿に勝頼や信忠を重ねて見て、どうにか助けてあげたいと看病を買って出ていたという。
そこへ苦しみに喘ぐ家康当人から、
「薬をもっとくれ」
か細い声でそう懇願されたため、大麻チンキを多量に含ませたというのだ。
そりゃ不味いよ。心停止したって仕方ないやつだ。
いやほんと、死ななかったから良かったけどさ。
今回の更新は以上です
もう少し書いてからと思ったのですが
キリの良いところまで年内に書けるかわからなかったので
ここでアップしてみました
次回更新は年末か年明けか、そのあたりを予定しています




