2.本栖の酒
酒飲みにはよく知られた話だが、ウイスキーの風味のほとんどは樽に由来していた。
樽で熟成させるまえのアルコールはウォッカや焼酎の兄弟みたいなものだ。
そのアルコールは浸透性に優れ、木材の細胞壁を超えて成分を交換する。
すなわち、蒸留されたアルコールに含まれる微量な成分が樽に残り、樽の木質からも植物由来の風味成分がアルコールへ滲み出す。
例を上げるなら、いわゆるウイスキーから独自のサブカテゴリまでのしあがったバーボン。
これはアメリカンオークの新樽を用いることで強い甘みが引き出されたものだ。
商業主義の華やかなりし20世紀以降にあっては、日本国もまた工夫に勤しんでいた。
というか、そもそもは外国産樽の代用品としてミズナラ材を樽に仕立てて使用したところ、
「これはいいんじゃないか」
と、評価されたのだ。
この日本に自生するありふれたナラの一種は、海外からジャパニーズオークと呼ばれ、独自の香りを漂わせるウイスキーを生むと驚かれた。
東洋的な香りを漂わせるジャパニーズウイスキーは、かつて令和の時代を生きていた記憶のあるオレにとって、アホらしいほどプレミアの付いた高嶺の花である。
だから、安ウイスキーを買ってきては、裏山のミズナラをノコギリで切り払い、じっくり炙った木片を、安ウイスキーの瓶へ突っ込んでいたものだ。
笑えることに、そうするだけでミズナラの風味がついて、安ウイスキーが1段も2段も味が良くなるのだ。
令和でやっていた節約の知恵を、天正10年でもやってみた。
すると、甲州征伐に参戦した織田家の面々が口にして、度肝を抜くわけだった。
○
ストレートのドングリウイスキーやマルベリーカクテル、シェイクした水割りまで口にした一同は黙りこくっていた。
九右衛門と呼ばれた執事風の男が、香りを伽羅や白檀に似ていると看破したためだ。
この時代、香木は贅沢品の代表格であり、香道を嗜むのは公家や高僧ばかりでなく、教養をつけた武家なども加わって、茶道と似たポジションにあった。
皇室御物である東大寺正倉院に眠る蘭奢待など、日本を代表する香木であって、ときの権力者だけが切り取ることを許された、伝説的な品すらあった。
そして、信長も数年前に蘭奢待の切り取りを許され、天下第一の権力を公認された人物だった。今では右大臣と右近衛大将を兼任するという、源頼朝をも超える高位に就き、上様と、呼ばれる身分であった。
そもそも上様や幕府とは近衛大将の敬称や唐名であって、右大臣すら兼任する信長は征夷大将軍を上回る人物にほかならない。
それらを間近に見聞きし、香木といえば蘭奢待を想起する人々が、香木の香り漂う酒の価値に気づいて、考えを巡らせていたらしい、のである。
ちなみに、このときのオレは難しいことなど考えず、褒美をもらって厨へ下がりたいと願っていた。たしかにドブロクや焼酎などと比べれば珍奇な酒ではあるけれど、それらにはそれらの良さがあり、ドングリウイスキーが最高の酒とも思っていなかった。だって酒なんて好みだし。
またドングリウイスキーの製造コストはさほど厳しくもなく、材料費といって燃料ぐらいであとは人手さえあればなんとかなる。その人手も冬の農閑期に子供の手を借りて主原料のドングリを拾い集めるところが最大の部分。彼らにはドングリデンプンを糖化した水飴を振る舞ってやれば対価として喜ばれ大変に始末が良いときた。
駆り出された子供の家族にしても、体調を崩した際に高純度アルコールを使用したチンキ剤の世話になることもあり、
『八郎兵衛さまは変わりもんだけんど、村の助けになるお人じゃんけ』
と好印象で、八郎兵衛も、ご近所も、信長御一行も、三方良し。
あとは信長から小粒金でも握らせてもらえれば、ニコニコしながら引き下がるというものだ。
だが、待てど暮らせど反応がなかった。
もしやこれは、
『もう甲斐国は織田の勢力下だから、百姓が酒を提供するのは当然だろ。
そんでもって右大臣兼任右大将さまが飲む酒が美味いのも当然だし。
もし不味かったらクビが飛ぶ(物理)けど、美味くても褒美はないよ』
みたいなことなんだろうか。
いやいや、天下の織田信長ともあろうものがそんなケチなはずがない。
おそらく囚獄佑を介して褒美があるのだろう、と自分を納得させてみる。
と、そこへ、信長らしき目付きの悪いオッサンがひとりの武将に向かって怒鳴った。
「甲斐にこのような産物があったとはな。
どうだ、知っておったか、キンカン!」
怒鳴られたのは特徴的なほど生え際を後退させ、赤く日焼けした頭皮も悲しいこれまたオジサン。
信長から禿頭をキンカンと揶揄された武将といえば、オレにも覚えがあった。
明智光秀は真っ赤にした顔を手拭いで汗を拭いつつ、
「恐れ入りまする。それがしは下戸にて酒にはとんと疎うございまする」
「普段から賢しらな顔をしておるくせに、言い訳をするでないわ。
その立派なキンカンアタマに知恵がないなら何が詰まっているのかいうてみよ」
「も、申し訳ございませぬ。
今後は各地の産物にもこれまで以上に気を配りますゆえ、なにとぞ、お許しを」
「まったく、酒を知らぬというなら、仕方あるまい。
だが、そのほうは京洛で香を嗅ぐ機会も多いであろう。
この味を見て、香木の香りを確かめてみよ。
ワシも下戸じゃが、口にできぬほどではない」
ハッ、と短く返事を返した光秀は、お小姓からひったくるように受け取った猪口の中身を慌ててガブリ。
あっ、それ、遠目に見たところ、ストレートっぽいけど。
そんな飲み方をしたら、ヤバイのでは。
お歴々の居並ぶまえでオレが制止することもかなわず、酒に慣れぬ光秀のヤラカシを見守るしかなかった。だがそもそも酒精の強さは酒を口にした多くの人々が気づいているわけで、誰かしらが止めてやればいいものを、誰も声をあげず、案の定の結果を招いてしまった。
「ぶふぅぅっ!!!、ごふ、がはがは、がは」
本来ならばチビリチビリと飲むストレートを猪口一杯、およそ30mlのワンショット相当を口いっぱいに含んだせいで、酷くむせて、盛大に吹き出してしまったのだ。
甲斐国の在であるオレが聞く限り、畿内でも十年以上前から粕取り焼酎が普及しているそうだ。酒飲みならば蒸留酒を口にしたことはあるだろうし、強い酒ならまずチビリと舐める程度で様子を見るとわかっていそうなものだが、信長にせっつかれて焦ったか、それとも蒸留酒を見るのも珍しい徹底した下戸か、二十歳になっていきなりテキーラに挑む阿呆のような失敗を体現してくれた。
運の悪いことに光秀の放った飛沫は霧状になって遠くまで漂い、信長の着物の裾にまで飛んでしまった。
内閣総理大臣と広域暴力団の組長を兼ねたような男が、一瞬にして目の色を変えた。
信長が光秀のほうへ、身を起こそうとする姿を察したお小姓は止めるどころか刀の柄を差し出してみせる。今にも血を見る騒ぎに発展しそうな出来事に、彼らは阿吽の呼吸で対応しているのだ。
そして、信長がゆらりと肩を前傾させたところへ、明るい声が投げかけられた。
「ハハハ、明智どのの下戸は筋金入りですな。
これでは香りも何も判ずるわけには参らぬでしょう。
しかし、上様、それがしはこれなる珍奇な酒を知っておりましたぞ」
愛嬌のある丸顔の中年男が呑気な声を揚げ、耳鳴りがするほど張り詰めきった空気の仮本陣に広がった。
気勢をそがれた格好の信長は硬い表情のまま丸顔を見るが、まだまだ怒気は収まる様子がない。下手に声をかけたなら誰彼構わずに切りかかってきそうな怖さがあった。
丸顔男も困惑顔になり、気まずい雰囲気が醸し出されるなか、信長の隣にある面影の似た若者が機転を利かせたか明るく言った。
「ほう、さすが徳川どのは領地が近いだけありますな。
これほど珍奇な酒をご存知か」
「三位中将さま、それがしがこの酒を知っておるのはわけがありましてな」
ふたりのやり取りを見て分かったのは、丸顔の中年男こそ戦国三英傑のひとりにしてのちの征夷大将軍、神君と呼ばれることになる徳川家康であり、信長に似た青年こそ織田三位中将信忠、ということだ。
ふたりのことは兄貴から何度も聞かされていた。
つい先日まで続いた甲州征伐を美濃から信濃へ攻め込んだ織田軍本隊の大将こそ織田家の惣領息子である三位中将信忠であり、信長はその後詰め。同時に別ルートである東海道沿いから大軍を率いて堂々と侵攻したのが徳川であった。さらにいえば、兄貴(渡辺囚獄佑)が当主である我ら本栖渡辺氏は徳川氏と密かに連絡を取り合っており、徳川軍の甲州入りに際してはあらかじめ道を整備し、案内まで受け持って、熱心に媚を売っている。
無用な暴力を回避して、文化的に立ち回る兄貴にオレも本心から感服しきりだった。
信長も息子には甘いのか、信忠と家康が明るく声を交わしたことで気を取り直し、腰を落ち着けて家康に向き直る。その表情はいくらか硬さが抜けて見えた。
「仔細を申せ」
命じられた家康の表情もいっそうほぐれ、光秀の失態などなかったふうに落ち着いた様子で話し始める。
「ハハッ。
それがしが調略せしは今宵の仮本陣が置かれたこの本栖も含まれてござる。
中道往還を抑え、甲斐国人らを味方に付けるため、側室が幾人か増え、苦労を抱え込んだわけで」
殿様ジョークだったのか、妾が増えたくだりでクスクスと忍び笑いが起こり、家康はそれを気にすることもなく言葉を続ける。
「穴山どのから養女の都摩を側室にと迎えたわけでござるが、この都摩の実の姉がこの渡辺囚獄佑の嫁御でござる。無理矢理にこじつけるのなら囚獄佑はそれがしと相婿、酒造りのそこなる若者も、それがしと縁続きと言えましょう。
とまあ、さようなわけで、我らの女衆の手を介して、このような珍奇な酒もいくらか融通されて味を見たことがあったのでござる」
家康がそのように説明すると、兄貴の囚獄佑は恐縮したように床に頭がつくほど身を低くする。このような時にどう振る舞うべきか立派なお百姓のオレにはわからないが、兄にならって身を低くして、かしこまる。
なお、兄嫁と家康側室の血縁について、オレもかねてから話ばかりは聞いていた。
兄貴の嫁、オレにとって兄嫁にあたる美人のオバチャンお嘉祢は秋山虎康という有力な国人の娘だったが、甲斐ー駿河間を結ぶ中道往還の土着勢力、我ら本栖渡辺氏を甲斐につなぎとめるべく、武田家の指図で縁組がおこなわれた。
家と家どころか、上役の命令で縁組した男女だったが、それなりに仲睦まじく、子供もふたり生まれているし、実母を幼くして失ったオレとしても、母親代わりをしてもらった大事な相手である。頭は上がらない。
そして秋山虎康の長女お嘉祢が嫁いだのち、今度は年の離れた次女であるお都摩の番である。
妹のお都摩は姉よりさらに見目麗しいと耳目を集め、関心を抱いた穴山梅雪の思惑から徳川家康に嫁ぐことになる。
武田の分家にして穴山武田氏を名乗ってきた穴山梅雪は頼りにならぬ武田宗家から離反を目論み、本栖渡辺氏と縁のある娘お都摩を養女として家康の側室に送り込むことで、甲斐から駿河へ抜ける主要道路の2本、穴山氏が統治する駿州往還筋と、本栖渡辺氏の守る中道往還を、まとめて家康に献じる策を練ったのだ。
まあ、本栖渡辺氏は面積の割に人口も少なく、近隣のまとめ役のような存在で、領主というより村長と自警団長を兼ねた弱小勢力だ。時勢を読んで周囲と衝突しないように立ち回るのが最善であった。だから、甲斐源氏にとって武田宗家よりも武田の血の濃い穴山氏の動きを察知したのち、一緒になって行動することも、なんら不思議のないことだったといえる。
家康が語ったところで、居並ぶ諸将のひとりが胴間声をあげた。
「恐れながら上様、それがしは甲斐を任されたと思うておりまする。
これなる甲斐の産物をそれがしの家で扱わせていただいてようございましょうか」
試しに地図を用意してみました
地理把握のお役に立てば良いんですが、見にくければ後ほど消すかもしれません
お嘉祢は詳細不明で名前も伝わっておりませんが実在の人物、のはずです