19.バタフライエフェクト・家康の傷
本日は13話から20話まで更新しています
読み飛ばしにご注意頂けましたら幸いです
休憩を挟みながら2昼夜のゲリラ活動を継続したところで、オレにも敵にも限界が来た。
北条方はオレや守備班が壇ノ山周辺に潜んでいることを知りながらも大規模な山狩りが出来ずにいた。オレたちが用いる玉薬との性能差から、初段階で前線指揮官が討ち果たされるため、指揮官を失った兵が臆してしまうのである。さらにギリースーツをまとって姿を隠し続けるのだから、どこから撃たれるかわからない恐怖があるだろう。
急峻な斜面というのは案外に視界が利くため、複数の狙撃手が補完的な位置取りに着けば、敵は迂闊に前に出られない。そのうえ、こちらは焙烙玉やら火炎瓶を高所かつ別角度から遠投することで敵の注意を分散させていた。
北条方が方針を転換し、河口の集落に身を隠して守りを固めたのは妥当な判断だと言える。オレたちが少数で行動していることは明らかなのだから、建物の中に引き篭もられたらお手上げ。
よって、敵の行動が鈍ったことを確認した分家隊は、補給のためにローテーションで本栖へ戻ることにした。
オレが本栖へ戻ったのは出発から丸3日が経過した夕方のことだ。
○
その旗を目にした時にオレを包んだのは安堵だった。
「ようやくかよ、遅いっての」
本栖には無数の三つ葉葵が翻っていた。
史実も同様に徳川からの援軍があったはずだが、ここでも徳川は千を超える兵力を援軍として差し向けてくれたらしい。北条方に比べれば少ないが、それでも九一色衆だけで守らねばならないのかと頭を抱えていたのだ。
オレがギリースーツのまま実家へ立ち寄ろうと近づいていくと、顔馴染みの住人から徳川の兵まで、一様に驚いて道を開けた。
実家の前にはオレが生まれたときから世話になっている下男が門番をしていたが、さすがに顔パスで庭に入れてもらえた。その途端、徳川の兵が兄の家を乗っ取る勢いで大勢集まっていることに気づいた。
なかでも、精悍な顔つきの若武者がオレに気づいて誰何してくる。
「そのほう、何者だ?」
「ハ。それがし、この家の生まれにて、本栖領主の弟、八郎兵衛でござる」
「ぬ、本栖城代の八郎兵衛とはそのほうか、だがその形はいかなることか」
若武者はオレのギリースーツが気になったか、オレに説明を求めてきた。
「河口に迫る敵方へ、僅かな手勢を用いた奇襲を仕掛けておりました。
この格好は身を隠す工夫にて、お見苦しい段はご容赦くださりませ」
「左様か、泥にまみれても多勢に歯向かう意気や見事。
拙者は井伊兵部少輔と申す。向後は見知りおけ」
オレと同世代の徳川家臣で井伊兵部少輔といえば、かの有名な徳川四天王のひとり、井伊直政だろう。甲州征伐の折には百姓のひとりだったオレには接点のない相手だ。しかし家康の小姓から馬廻りとして引き立てられて信頼の厚い男というのは前世の記憶でも印象が強い。これが、あの井伊直政かと眺めていたところへ、兄嫁のお嘉祢さんが飛び出してきた。
「ああっ、ようやく帰ってきたのね。遅いじゃないの!」
何事かと尋ねてみれば、驚愕の事実を聞かされて、我を忘れて大声で問い返してしまった。
「徳川様がお倒れになっていると!?、この家で!?」
井伊兵部少輔がため息をついてから、
「ふぅ。まこと殿にはお労しいことじゃ。
医者によれば大変な苦しみにあるようだ」
旧小山田領河口へ北条の別働隊が現れた、との報せが家康のもとへ届いたのは、下山館にて矢傷の養生をしていた時らしい。矢面に立っていた九一色衆ばかりでなく、徳川にとっても北条の底力に驚愕した報せであった。甲斐国北部の若神子城へ入った北条本隊4万と対峙する大久保忠世ら1万余を守るためにも、相模からの別働隊を甲斐府中へ素通りなどさせられない。どうにか足止めし、出来ることなら追い返したいと考えて家康みずからが下山館から無理を承知で駆けつけたという。
だが下山館から本栖までには険しい山道を丸一日かけて移動しなければならない。
その間に家康の傷が悪化したか、体調を急激に崩して床に伏していると井伊兵部少輔は言う。
お嘉祢さんが顔を紅潮させながら、
「でも、八郎兵衛なら良い薬を持ってるんじゃないかい?
まえにも辰蔵の父親を治したって噂になったろう?」
ひとことで矢傷と言ったところで、傷口やら感染症やら体調やらと、ひとまとめにできるものじゃない。そもそもオレは医者じゃないんだから、治せる前提で話をされては困る。
オレはすぐに首を振って「難しい」と口にしかけたが、井伊直政が凄まじい形相でオレを睨みつけ、
「なに、そのほうは医術の心得があるのか、ならばすぐにも殿を診よ!」
腰の引けるオレの腰帯をむんずとつかみ、ギリースーツ姿のオレをそのまま引きずるようにして母屋の奥へと上がっていく。
そして死んだオレの親父の寝間へと引っ張られると、そこには徳川の重臣らしき男らが幾人も待機していたのである。部屋の中央には麻を重ねた布団が敷かれ、家康が横たわっていた。その姿は信長親子が本栖を訪れた時に見た姿からは別人のようにちからを落としている様子である。
家康の枕元にあり、微かな言葉を聞き取る役を果たす壮年の男が、
「兵部少輔、何事じゃ、騒ぎは殿のお体に障るではないか」
「弥八郎さま、この男が医者と聞き及びまして、殿を診るように命じたところでござる」
オレは家康の寝間に足を踏み入れる手前、ギリースーツの擬装をバラバラと落としていたが、後ろから追いついてきたお嘉祢さんが、
「このものは決して怪しいものではございませぬ。
私の義弟で、この手で幼少から養育いたしました八郎兵衛と申します。
郷の者が酷い矢傷を負ったおりに治したことがありますゆえ、どうか一度お殿様を診させてくださいませ」
紹介されたオレ自身がびっくりするほど自信満々な口調のお嘉祢さんに、恐ろしいものを感じながらおずおずと頭を下げてみた。
もし治せなくて万が一のことが起きたらどうするつもりなのか。
重臣らは顔を見合わせたが、本栖渡辺氏はすでに徳川と縁続きであり、一蓮托生である。裏切る心配はないと判断されて、本多弥八郎と名乗った壮年の男が、
「よし、おぬしの医術とやらで殿のご容態を診てみよ。
怪しげなことをするでないぞ、我らが見張っておるでな」
念押しされたうえで、家康の布団の脇へと近づいてみるが、オレが腰を下ろす直前。
まだ触れることも、間近で診ることも出来ぬ距離で。
がちん!
と、家康当人の顎が強く噛み締められ、上下の歯がぶつかり合い、
ごりん。
と音が続いたかと思うと、家康は激しくむせて口から白い欠片と血を吹いた。
「「「殿!」」」
重臣らはオレを押しのけて家康に近寄り、
「歯が折れたようじゃ、このままでは血だらけになってしまわれるぞ。
口に猿轡でもしたほうが良いのではないか?」
「馬鹿者、殿にそのような……」
「しかし、舌でも噛んでは命に関わるではないか」
重臣らがああでもないこうでもないと会話するなか、オレはひとつの可能性に思い当たっていた。ついさっきお嘉祢さんが例に上げた「オレが治療した辰蔵のてておや」と似たような症状だったのである。
そのうえ、家康を囲む重臣らの背後から様子をうかがっていると、苦しむ顔や手足に痙攣があるのが見て取れた。
矢傷で、これは。
「徳川様のご様子から、ひとつ、薬について考えがあるのでござるが……」
オレが口にした途端、重臣らは一様に言葉を飲んで、オレを見た。
それぞれの瞳に浮かべる感情は違えども、誰もが必死である。
重臣らを代表してか、本多弥八郎が、
「良い薬があるのならばすぐに持ってまいれ」
「薬はありまするが、それがしの持ち込んだ薬がどのようなものか。
皆々様のご懸念があるかと思いまするがいかがでしょう?
もし皆様が忍びのものをお連れにならば、それがしの薬の正体が確かめられまする」
「なに!?、忍びだと、貴様、殿に毒でも盛ろうというのか!!」
重臣の一人が声を張り上げると、家康が苦しげにうめいたため、その場の全員が声を止め、息すら潜めて、身じろぎもしなかった。
家康の息が落ち着いたところへ、ひとりの侍が、
「それがしの手勢に忍びの心得を持つものがおるゆえ、連れてまいろう」
と言い残して寝間から離れるが早いか、すぐに取って返してきた。
その背後には、これといって特徴のない顔の足軽がひとり控えている。
忍びであるらしい男は事情説明もなしにオレを見て、
「何をお知りになりたいのでございますか?」
と尋ねてきた。オレはズバリ単純明快に本題へ入る。
「麻の摂取することについて、忍びであれば何か聞き知っているのでは?」
「はて、麻でございますか?
麻は摂取したなら身体から力が抜ける毒を作れまする」
毒、という言葉が発せられた瞬間に、重臣の幾人かは腰の刀へ手を伸ばしていた。
いちいち彼らの反応を気にしていてはらちが明かないので無視して続ける。
「それを薬として用いるすべがあると、明国や天竺には伝わるのですが如何でしょう?」
「麻を薬とするのでございますか?、毒薬、なる意味のほかはあいにく存じませぬ」
「しかし、身体からちからが抜ける毒が作れることは知っていた。
その効用は確かであると、この場の皆様に約束できましょうか?」
「誓って、体の力が抜ける毒薬となることは確かでございます」
「では、体の力が抜ける毒薬は、一度飲んだら命を落とすのでござるか?」
「そのようなことはございませぬ。飲んでからしばらくちからが抜けた後は戻ります。
よほど多く使えば命を落としましょうが、続けて使わねばもとに戻ります」
オレが本多弥八郎へ向き直ってみると、壮年の男は得心の顔になっていた。
家康の近くに侍っていたなら、苦しみの原因が「身体のこわばり」であることは一目瞭然なのだ。
家康の症状は、典型的な矢傷の後遺症。おそらく感染症と思われた。
令和どころか、平成においても三種混合ワクチンの予防接種によって先進国からは無縁となっている破傷風の症状に酷似していた。
それは傷口から体内に入り込んだ破傷風菌が、筋肉の痙攣を引き起こして、重大な怪我や障害を引き起こすものだ。もちろん、戦国時代に三種混合ワクチンはない。
そして破傷風の根本的な治療手段の登場は20世紀までまたなければならない。だが、破傷風は大昔から存在し続けた病気であり、対症療法はそれぞれの時代に存在していた。
そのひとつが、大麻チンキである。
アルコールに大麻の特定部位を漬け込むことで、強い薬効成分を抽出することが出来る。大麻の利用は日本でも古代から続いていたが目的は繊維採取が中心である。そもそも、この時代の日本にはまだ喫煙文化がなく、嗜好品は酒の次に茶がもてはやされている段階である。例外的に大麻は身体のちからを奪う毒薬としての認識だけが忍びの間で伝わっているばかりだった。
オレは大麻チンキの使用について、彼らに任せることにした。
「麻の薬はそれがしに用意がござる。
本栖の衆の治療に使ったこともあり、怪しげな目的で作ったのではござらぬ。
しかし、それを徳川様にお使いになるかはお任せいたしまする」
もしも使うなら、ほんの少しだけ、水に混ぜて綿に湿して摂取させるのがいいだろう。
ほんの一滴を水で薄めるところからなら、危険は最小限となるはずだから。
注意事項をしっかりと繰り返して告げてから、薬を取りに家へ向かった。




