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12.膨らむ

 作業場としている納屋に若い女の声が響いた。


「さあ、やってみせてちょうだい」


 オレは困惑しながら居並ぶ人々へ視線を向けた。

 兄貴、お嘉祢さん、奥田監物、市橋九左衛門、そして問題の若い女。

 すらりと背が高く、意志の強そうな瓜実顔の女は、名前を松姫という。


 ○


 一条館で河尻秀隆が果てたのち、国人を解散させ、残る河尻一党を連れて本栖へ戻ろうかと言うときになって、若い侍が、


「あっ、松姫様をどうなされる」


 と大声で言った。オレたち本栖からおもむいた者たちは意味がわからなかったが、河尻一党や国人衆は真顔で困惑。その場で最も地位の高い菅屋九右衛門に判断が委ねられたのである。


 そして、


「なに?、肥前守(河尻秀隆)どのは松姫様をここへお連れしたと?」


 菅屋九右衛門が河尻家臣を問いただすと、


「はぁ、それが、府中に置いたままでは誰かにさらわれるかもしれぬと案じられまして。

 もし穴山勢の手に落ちれば、武田に心を寄せる国人が余計に増えるのではないか、と」


 そのようにシドロモドロで答えた国人が、二の丸脇にある茶室を指差した。

 かつての城主一条信竜は武田家中で風流人として名を馳せており、その立派に設えられた茶室には侍女を連れた松姫がいたのである。オレたちは彼女を放置するわけにも行かず、かといって河尻一党は一刻も早い帰郷を切望していたこともあり、松姫もろとも本栖へ戻ることになったのだ。


 それから、はや半月が経過している。

 使者として三河から訪れた本多庄左衛門らはもとより、河尻一党もとうの昔に東海道回りで美濃へと帰っていった。

 今も本栖に残っているのは、上様から甲斐国内の対立解消を命じられながら果たせなかった菅屋九右衛門と奥田監物、松姫の警護を命ぜられていた市橋九左衛門。

 くわえて、松姫。

 武田一門の筆頭となった穴山梅雪が甲斐国平定に忙しいあまり、そのまま本栖で預かるように言われたことから滞在が続いていた。


 なお、菅屋九右衛門は、


「上様へ死んで詫びることは容易い。

 だがせめて甲斐国がまとまるさまを見なければ申し訳が立たぬ」


 そう言って息子二人の消息も捨て置き、穴山が甲斐をまとめ上げるまで本栖に滞在するつもりらしい。奥田監物は九右衛門と行動を同じくし、市橋九左衛門は本栖に現れた松姫の警護をまっとうする覚悟であるという。


 そうして本栖に武田の姫が滞在したなら、オレの実家である本栖渡辺氏で預かることになり、兄貴と兄嫁(お嘉祢さん)のふたりは色々と気を使う日々を過ごしていた。

 ある時、お嘉祢さんが、


「ねえ、何か姫様のご傷心をお慰めするものは思いつかないかい?」


 そのように言ってきたので、若い女なら甘いものが好きだろうと、小豆あんを包んだ小麦粉のパン。いわゆるアンパンを作ってオヤツとして出してみた。

 すると驚くほど喜ばれて、作っているところを見せろとまで言ってきた。

 よって、今日はオレん()の納屋でパン作り教室を開く運びとなった。


 だが、小豆あんはこの時代でもありふれている。オレがしている工夫といえば、例によってデンプンをもとにした水飴で甘みをつけていること、あと「あん」を炊くときに水気を飛ばしてパンに包んでも吹き出さないようにするぐらい。いたって普通の小豆あんである。

 ほかにも美味しいパンには手間を掛けて精白した小麦粉が必要だけども、元来甲斐国では粉を食う文化がある。小麦だろうが蕎麦だろうが赤い粒の蜀黍(もろこし)だろうがそのまま煮るばかりでなく石臼で挽く。石臼は原始的な道具ではあるけど馬鹿には出来ない。ちゃんと目立てがされていたなら細かい粒子を作れるし、一度搗いてから余分な殻を取り除き、段階を経て製粉することで食味を改善させれば、そこそこの小麦粉は手に入った。

 よって、残る天然酵母と発酵次第でパンは作れる。


 オレは全員を前にしながら、干しブドウを入れて発酵させた水を見せる。

 すると目にした誰もが変な顔をして、


「腐っておるではないか」


 と文句をいうが、オレん家の天然酵母はブドウの皮にある菌であって、干しブドウを水にふやかしてブドウ自体や水飴から糖を吸収させ、培養(ふや)したものだ。旧暦6月現在は気温もかなり温かいので、壺の中で簡単に増やすことが出来る。そして菌が増殖した酵母液を小麦粉にぶちこむと、糖をアルコールと炭酸ガスに変えて膨らんでくれる。この菌がブドウ果汁をワインに変え、パンが膨らむカラクリだ。膨らんだ生のパン生地は、お酒の匂いがするものである。


 腐って見える水を小麦粉へ注ぐオレへ呆れた顔をする面々だったが、水飴やら塩やら入れて捏ねていくとだらしない見た目だった生地は徐々にまとまりを見せていく。

 ついにはオレがノシ板ーー板蕎麦やうどん生地を作る板ーーの上に生地を叩きつけ、ちからづくで擦り付けたり、丸めたり。また叩きつけたりと、頭がおかしくなったように激しい動きを見せ始めると、奥田監物が慌てて、


「食うものを作っておるのだろうな?」


 と声を掛けてきたが、必死のオレはうなずくにとどまり、以前から目にしている兄貴が、


「いつもこうやって作っております。

 生半可なちからではうまく膨らまぬそうで」


 兄貴の言葉を聞いた松姫は残念そうに、


「男がこれだけちからを入れて作るのなら、私には無理そうね」


 ため息を吐いた松姫に市橋九左衛門が威勢もよく、


「なんの松姫様、それがしが代わりに粉に(まみ)れましょう」


 そういって手を出そうとしたので慌てて井戸で手を洗うように文句をつけた。

 それから、男手がふたりに増えたのでスピーディーに捏ねられて楽ができた。小麦粉中のグルテンをぶつけて捏ねて結着させることで、発酵したときに壊れにくい気泡が発生する。それを焼き固めることで、ふんわりと空気を含んだパンが作られていた。

 生地はまだ幾度も発酵させるが、原始的な方法でも温度と湿度の確保は可能である。オーブンにしたところで、鉄鍋と鉄蓋、あとかまどがあれば代用できる。

 イーストと比べて活性の低い天然酵母だったり、技術的に厳密な温度管理が難しいので、発酵には時間がかかる。およそ作り始めから食べるまで半日近くかかってしまうが、付きっきりで見張る必要はない。


 夕刻。焼き上がったパンを見た松姫が誰にともなく聞いた。


「三位中将さまはアンパンを食べたことがあるかしら」


 この場にあって信忠をよく知るのは奥田監物や市橋九左衛門であろう。

 ふたりは松姫の問いに、言葉が詰まったかすぐには答えが返せなかった。


 仕方ないのでオレが想像のまま口に出してみた。


「畿内には南蛮人がおるのではありませんか?

 オレも南蛮人からパンの作り方を聞いた旅人に習いましたから」


「ならアンパンもご存知かもしれないわね。

 もしご存知ないなら、食べさせて差し上げようかと思ったの」


 天然酵母のパンはすこし酸っぱい香りがする。

 鉄鍋で焼いたり粉が精白しきれていなかったり、ハード系のパンを彷彿とさせる外見だが、よく捏ねたからグルテンが強固に結合されて、香ばしさ、もっちり感、食べごたえの三拍子が揃っている。水飴アンコの優しい甘さと相まって、令和で食べても御馳走だろう。


 オレは三位中将に振る舞わなかったことを少し後悔した。


 ○


 この夜、菅屋九右衛門、奥田監物、市橋九左衛門、おまけにオレ。

 四人はさらなる報せを受け取ることになった。


 穴山梅雪らが信濃国境まで進んだ結果、信濃の情勢がより詳しく判明したのだ。

 それによると信濃国人はやはり蜂起しており、織田を信濃から追い出そうと奮闘中。

 越後と戦をしていた森勝蔵は得て間もない海津城にて防戦を試みようとするも断念。放棄して美濃へ帰還しているとか。


 だが、菅屋九右衛門らを動揺させたのは、信濃から伝わる関東の情勢だった。

 甲州征伐後、信長から関東の仕置を託された滝川一益は上野厩橋城を居城として、まとまりのない諸勢力に睨みを利かせていた。小さな国人はもとより、小名は滝川一益の意向を無視できず、大大名であった北条や佐竹も織田の勢いに、辞を低くしていた。

 そこに本能寺の変があった。

 誇り高い坂東武者、中でも関東の覇権を狙っていた北条は滝川一益を追い出すべく、すかさず軍を発した。北条に従う関東の兵は驚くべきことに5万を数えた。


 北条5万と滝川2万弱は上野と武蔵の国境、神流川あたりで激突。

 北条が大勝利を収め、勢いそのまま上野を接収し、信濃へ侵入を試みている。


 そもそも甲州征伐後は織田と北条で使者が行き交い、北条からは織田の勝利を祝う旨が伝えられていた。

 しかし、今回の戦において、北条はこのような大義を掲げていた。


『信玄公の血を引く北条氏直こそ、遺領を継ぐに相応しい』


 オレの知る限り、これらの動きはおよそ記憶の通りに推移している。


導入部だけ投稿して放置するつもりはないので

続きを書いている証拠ということでupしてみました

次の投稿は来月中旬の予定です


気が向かれましたらどうぞ

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白い時代選択ですね、文が丁寧で好感が持てます。ずっと徳川の治世がそれまでと違っていて、何をいつから考えていたのか疑問だったのですが、今川北条の統治能力と、武田残党の必死の生存意欲、三河武…
[良い点] 口に入るモノを描く日常パートと歴史を描く情勢パートのバランスが良い [一言] 続きを、楽しみにしています
[良い点] さぁ、盛り上がってまいりました。 次が楽しみ。
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