10.使者
オレが織田家の機密を聞かされた夜、本栖に三組の来客があった。
この夜のオレたちは織田の危急存亡の時とあって、知らせが届いてからずっと善後策を話し合っていた。おおよその方針は決まったが、あとは本能寺の変が及ぼす近隣への影響次第であり、情報を集めつつ事態の推移を見守っている、というクッソイライラしたところへ急な来客だ。良い知らせのはずがない。
最初の客は甲斐府中の河尻秀隆から急派された伝令だった。
伝令はオレたちが屯する本栖渡辺家の離れへ飛び込んできて、
「畿内にて異変あり!、明智日向守に謀反の恐れ。上様の消息はいまだ定かならず」
と、すでにオレたちは後藤源左衛門から聞かされた話に加えて、
「複数の甲斐国人ら穴山梅雪に同心して蜂起をたくらむとの報せが草より届けられ、我が主河尻肥前守は兵を挙げる決意でござる。
主より、菅屋九右衛門さまには甲斐から退去なされ、急ぎ畿内に戻られたし、とのこと」
「なに、肥前守どのが穴山と戦だと?」
九右衛門が問うと伝令は、
「畿内の混乱が甲斐国人どものうちを燎原の火のごとく伝わっておる様子。
反抗的な国人が穴山へ身を寄せ、その規模は三日のうちに当家と肩を並べる勢いでござる」
それだけ伝えた伝令は、引き続き駿河の徳川へおもむく役目があるとかで、
「しからば御免」
と言い残すと風のような勢いで本栖を去っていった。
菅屋九右衛門、奥田監物、市橋九左衛門、そしてオレの四人は使者が出向いてくる以前から甲斐の混乱を予想していた。それはほんの二ヶ月前まで武田の土地であった甲斐と信濃が織田の混乱で揺れると至当な考えにもとづいていたが、河尻秀隆がいきなり兵をあげるとは。前世の歴史をおぼろげに知るオレにとっても予想外に早く思われた。
そもそもの前提として甲斐国人にとり馴染みのある権威「穴山」が存続していることで、身を寄せるのなら穴山と考えるものがいることはわかっていた。菅屋九右衛門や奥田監物が領境を吟味し、甲斐国の不和を仲裁するよう命じられながら今に至っても解決していない理由のひとつである。
なお河尻からの伝令が残した「畿内へ帰れ」という河尻秀隆の言葉について、当人の菅屋九右衛門は、
「織田にとって東の境となる旧武田領の鎮定こそ肝心であろう。
恐れ多いことであるが、もし上様や三位中将さまがお命を落とされたとして、織田の後継は嫡流の三法師さまか、他家へ養子入りした上様のご次男信雄さま、ご三男信孝さまのお三方から選ばれよう。
後継候補のお三方にはそれぞれ頼りとなる織田の重臣がついておる。我らが慌てて畿内へ戻ることにこだわるべきではない。
なによりも、上様が儂に命ぜられたは、河尻殿と穴山を和解させることぞ」
自他ともに認める織田の忠臣菅屋九右衛門は、もしこれが上様の遺命であるなら、何をおいてもまっとうしなければならない、と考えているようだった。
そして、河尻の伝令に続く客は入れ替わりに現れて、
「穴山下山館よりお伝えしたき儀がござる。
昨日、徳川さまより我ら下山館へ使者があり、畿内の混乱を伝えてまいりました。
菅屋さまへも伝令が向かったとうかがっておりまする」
伝令というか、後藤源左衛門は正しくは商人なんだが、まぁ連絡はあった。
菅屋九右衛門がうなずくと、穴山からの使者が続けた。
「主の穴山梅雪は上様の臣であると同時に、徳川さまの与力となってござる。
危急の折は徳川さまの下知に従うと決められてござるが今昼より甲斐府中の河尻肥前守に異変有り。
一切の報せもなく甲斐国中の国人に招集をかけて兵を集め、漏れ聞こえるところによれば、穴山を攻める、と息巻いているそうでござる。
我らも甲斐源氏の誇りがござる。横暴な河尻に抵抗せず降伏するわけには参りませぬ。
明日、徳川様に後詰をお願いした上で雌雄を決する所存。
菅屋さまには我らと河尻の仲裁を頂きながらまことに申し訳なきことながら、ことここに至ってはお許し願いたいと主、穴山梅雪は申しておりまする」
と言うが早いか、九右衛門の言葉を待つこともなく、頭を下げて帰っていった。
彼らにしてみれば、甲斐の戦を咎められたり、邪魔されてはかなわないと思ったのだろう。
ともあれ、二人目の客が去り、次もすぐに現れた。
彼らは一様に畿内から伝わる変事へ各勢力が起こしたリアクションであるから、ほとんど同じタイミングで動きだしている。その結果として本栖へ人がたどり着くのもちょうど前後するのだろう。
三度目の来客はひとりではなく、3人組だ。
立ち葵紋の旗指物をつけた若衆ふたりと、その主人らしき壮年の侍である。
彼らの顔を目にしたことがある気もするが、織田や徳川が万を超えて中道往還を通っていったので、誰が誰と名前など当てられない。
しかし、菅屋九右衛門は顔見知りであるらしく、
「本多庄左衛門か、徳川殿は京より無事に帰着されたか」
「ハッ、主は軽い矢傷を受けるも、大事無いと聞いておりまする」
えっ、マジで?、家康が伊賀越えで怪我しちゃったの?
それって歴史に残ってる話だったっけ?
オレは困惑したけれど、軽症ならわざわざ記録になんて残らないだろうから、将来の大口顧客である徳川のお偉方には無事でいてもらいたいな、とこっそり祈った。それによくよく考えてみれば、山道を歩けばハイキングだって捻挫することは珍しくない。落ち武者狩りのような野盗集団に追われて急いだなら、転んで骨折やら、矢を射掛けられて軽症とか、驚くには値しないのでは。それをわざわざ記録して後世に残すはずもない、のかな?
記憶と現実の乖離を思案しているオレをよそに、菅屋九右衛門が答える。
「軽症ならばなにより。徳川殿から上様について何か伝え聞いておらぬか?」
「明智日向守が謀反と報せを受けた折、主は京を離れ堺へ向かう途上であったとのこと。
なにぶん、伊賀の山道を伊勢へ、不逞な者共に追われながら抜けたとのことで、主にはなんとも」
「さようか。なにか分かればと思ったが甲斐ではどうにもならぬな」
菅屋九右衛門は気を落ち着けるように一呼吸置いてから、
「それで、徳川殿は甲斐をどのようにお考えか?
穴山と河尻殿を案じたゆえ、そのほうがここに遣わされたのであろう」
「ハッ、主はそれがしに九右衛門さまと同道して河尻肥前守さまの様子を探れと。
そのうえで、叶うものなら講和を結ばせ、甲斐を落ち着かせるべきである。
もしも両者が挙兵し、兵を集めたなら講和を探る時は過ぎていよう、とのお考えでござる。
劣勢の河尻が講和したなら国人が収まらぬ、どうにか脅しつけてでも河尻殿を美濃へお戻しせよ。
河尻肥前守さまのお命を守るにはほかにない、そのように命じられてございまする」
三位中将の家老である河尻秀隆を脅す、と口にした時、本多庄左衛門の顔は決然とし、命を賭して主命にあたる覚悟を滲ませていた。
「なっ、それはいかになんでも、肥前守どのが従わぬであろう。
上様でも三位中将さまでもなく、我らに脅しつけられて美濃に戻るはずがない」
菅屋九右衛門は織田が大きくなるにつれて知行を増やしたが、馬廻りとして信長に近侍することから自領から雑兵を率いて招集に応じるわけではない。もっと身軽に我が身一つで──僅かな供侍は引き連れるも──参陣する。手勢が必要ならば織田直轄の足軽や国人を預けられて動く格好となる。
一方で河尻秀隆はかつて美濃に所領を持ち、地元から前線指揮官となる国人と領民からなる雑兵を集めて軍を構えた。美濃勢を従える信忠の家老として「己の軍」を率い、転戦を続けてきたのである。甲州征伐を終えてからは甲斐を与えられ、美濃の旧領は取り上げられている。土地に根付いた兵を集めて戦う武将として、甲斐を放り出しては何もかもを失うことになる。いくら菅屋九右衛門が絶大な権限を持っているといっても、国主級の重臣から所領をすべて奪うことは限度を超えていた。
とても現実的でないと主張する菅屋九右衛門へ、本多庄左衛門が口を開いた。
「主が放った草の申すには、かねてより穴山に同心する国人がことのほか多いとか。
いちはやく美濃に戻さねば河尻一党が無残なことになりかねぬと案じておりまする。
河尻肥前守様が穴山を討とうと考えるは穴山が不審にあらず、討たねば国人に背かれるゆえでござる。
主が案じているは甲斐ばかりでありませぬ。信濃の国人も蜂起する動きを見せ、もはや一刻の猶予もござらぬ」
菅屋九右衛門と、奥田監物、市橋九左衛門らは一様に息を呑んだ。
巨大だった織田の威勢が急激にしぼむ衝撃。
京の異変を聞かされたうえに窮地に追い込まれた心中はいかなるものか。
おぼろげながら前世の歴史を知るオレは、この家康の指示が本気で河尻秀隆の身を案じてのことか、判断に迷うところだった。オレの知る歴史において、家康は本能寺の変から版図を大きく広げていた。
それというのも、夢に見た前世の歴史でも家康は甲斐の国主であった河尻秀隆のもとへ「甲斐にいては危ういので美濃へ撤退せよ」と使者を出している。その使者の物言いに徳川の野心を疑い、精神的に追い詰められていた河尻秀隆が使者を斬ってしまったことは、徳川が兵を挙げ、信濃と甲斐の両面作戦で制圧していく要因のひとつと考えられた。
なお、これら国人衆が織田から離反してはじまる天正十年の第二幕を、
『天正壬午の乱』
と、後世の人が呼んだのである。
河尻秀隆によって斬られる徳川方の使者の名を、オレは記憶していなかった。
少なくとも夢に見たことがなく誰ともわからないが、本多庄左衛門なる壮年の侍は菅屋九右衛門をともなって河尻秀隆と面会すると言っている。
『タイミングから言えば、たぶん、この人だろうなぁ』
『可哀想だけど、オレが歴史を変えてしまうのは良くないしなぁ』
などと思っていた。庄左衛門さんが斬られる可能性は高くとも確定ではない。もしかすると別人が斬られ、オレの取り越し苦労になるかも知れない。だからオレは、これから甲斐に巻き起こる暴力の嵐を安全にやり過ごす上手い距離感を掴まねば、などと内心でつぶやいていたのだ。
傍観など願うべくもない身分へ、すでに追い込まれていると気づいたのは、菅屋九右衛門が本多庄左衛門へ向かって、
「では、織田からは儂のほかに、この八郎兵衛を伴にして出向こう」
と、あっさり同行が告げられたときのことだ。
本栖には菅屋、奥田、市橋のほか、彼らの供侍や足軽など100近くが残っている。それらを動かせないではないが、反河尻の甲斐国人と織田の兵が出くわせば不測の事態が起こりかねない。不用意に刺激せぬよう、念の為に残していくという。
ここでオレが「逝きたくないでござる」と駄々をこねるのは無理なんだろうな。
「天正壬午の乱」という名称の妥当性および定義は議論がありますが、
本作では甲州征伐後から始まる武田遺領をめぐる戦いを指すものとします




