1.ウチに信長(と他多数)が来た
普段なら兄貴がふんぞり返っている上座に目付きの悪いオッサンがいた。
天正10年(1582年)の4月11日。
甲斐国は富士北麓の本栖湖東岸に建つ、渡辺囚獄佑の屋敷である。
これから四百年以上が経過したなら某キャンプアニメの聖地になるあたり。
母屋のほかに離れと蔵が建つばかりだった塀のなかには、数え切れないほど大勢の男達がいた。彼らのなかには血にまみれた包帯をつける姿もあったが、声の調子は一様に明るく、我が物顔でオレの実家をうろついていた。
年明けに始まった織田徳川連合軍による甲州征伐が終結し、甲斐府中を出た軍勢は進路を一路南に取って中道往還へ。歴史に東海遊覧と呼ばれる旅の途中であった。
遊覧というから物見遊山にも聞こえるが、信濃から甲斐へ攻め入ったあと帰国するに際して安全な東海道を使おうということだ。徳川が領することになった駿河へ入り遠江まで行けば、織田家にとっても勝手知ったる土地となる。なにせ、全盛期の武田を追い返すべく槍を奮った主戦場は遠江であり、援軍として馳せ参じた織田家の諸将にとっても慣れたものだろう。
ちなみにオレの兄貴である渡辺囚獄佑はかなり早くから徳川に助勢することが決まっていたため、敗北というより、勝利した側であって、織田と徳川をもてなすことが最大の仕事という状況だった。
オレの前にかしこまって座る兄貴が緊張した声をあげた。
「こ、これなるものが、弟の八郎兵衛でございまする」
ギロリ、と音がするように圧力のある視線がほうぼうからオレに突き刺さった。
仮本陣となった屋敷は、なかにあった襖や障子など、取り外せるものはすべて取り払って広々としているはずだが、過去にないほど男たちが詰め込まれたせいで、ひどく暑苦しく、その強烈な視線がオレに集中していた。こうしてオレを見るひとりひとりが戦国に名だたる武将であって、ありていに言ってしまえばプロの人殺しだ。ろくでもない。
オレの実家は本栖など周辺九ヶ村をまとめる九一色衆の頭領で、現在は親子ほど年の離れた兄貴が当主をしていた。もちろん兄貴には子供がいて、オレにとって甥にあたる男ふたりが跡取りとして控えている。
だから、オレは当然のごとく帰農している立派なお百姓さまだ。
お侍に歯向かうつもりもなければ、叱られる覚えもない。
目つきの悪いオッサンが、神経質そうな高い声を出した。
「これは貴様が作ったのか」
オッサンの前には低いが広い卓があり、オレが手間ひまかけた自慢の品々が並んでいた。その量は多くない。だが、彼らは夕餉を終えていて、酒盛りだというからオレが虎の子の酒と肴を提供したのだ。
大根漬けと蕪を揚げたチップス。
本栖湖で獲れたウグイの燻製(ソミュール液のスパイスは山椒とタイムの自生種)。
味噌漬け豆腐を燻製したチーズ仕立て。
ヤブニッケイとラードを練り込んだクッキー。
このなかでどれが苦労したか、大変かと問われれば、豆腐作りとラードの確保だろう。
豆腐は足が早い。なので信長御一行さまが立ち寄ると連絡が入ってすぐに作ってどうにか間に合ったわけだし、ラードはたまたまイノシシが獲れたから確保できたもの。完全に運だった。もちろん、ラードがなくても菓子は作れるけれど、クッキーではなく煎餅になってしまっただろう。ちなみに猪の肉はもてなしの候補から意図的に外されていた。この時代は武将でも肉食を忌避する人がいたり、本栖は法華宗本山の身延山が近いため、宴に高僧が同席する可能性が考えられたためだ。
それ以外はまあ、戦国時代でより良い晩酌を目指して工夫を重ねるオレにとって、普段のおつまみである。全部を一度に食べる贅沢はまだ経験してないけども。
ともあれ、目付きの悪いオッサンは酒と肴の提供者を知りたいとのご下問だ。ならば、たしかにオレで間違いない。
「へえ、自分が作りやした」
賢く分をわきまえるオレはじつに百姓らしい返事を繰り出すことが出来る。
もちろん、兄貴のように侍っぽく返事をすることも出来たけれど、侍になりたいわけじゃないし、平和にのんびりと、勝ち組の自作農として江戸時代に突入することを期待する身としては、モブのお百姓として歴史書から華麗にスルーされる予定である。考えてみてほしい侍なんてものは政治家であり暴力団幹部みたいなものだ。「大名になりたい」というのは、県知事になって隣県と戦争するんだ、なんて目指すような話である。
もちろん、信長のもてなしに腕を振るうのは目立ってしまうし、話が矛盾するように見えるかもしれない。しかし、戦勝で機嫌の良いお侍たちに美味い酒と肴を提供してご褒美をもらえないかという下心は完璧に時代相応。なんら恥じるところのない欲の為せるわざだった。
なお、さっきからオレを問いただすオッサン。
たぶん織田信長だと思うが名乗ってくれたわけでもないし、台所にいたところを呼び出されて直行したから状況も不明。
困惑しっぱなしのオレの前で、オッサンはおもむろに卓へ手を伸ばすとシナモンクッキーをパクリと口に放り込んでもぐもぐし始める。
そして、お猪口に注がれた琥珀色の液体をちびり。
「はふぅ。水で薄めたというにこの強さか。
だがこの菓子と相性は良いな。大儀である」
オッサンはいちいち喋り方が偉そうで、プレッシャーをかけるように声を出すもので、褒められているのか怒られているのかわかりにくい。
一応、褒められたのだと思うけど。
「へぇ、ありがとうごぜえます」
しばらく、オッサンが飲み食いするさまを百人以上の男たちが息を詰めて眺めて過ごし、
『あほくさ。こっちまで腹減ってきた』
と内心でこぼした頃、オッサンの隣に座るよく似た若者が鷹揚にも、
「どうした、皆も好きに飲み食いするがいい」
と言い出して、静まり返っていた仮本陣にガヤガヤと喧騒が戻ってきたのであった。
○
転生してから知ったことだが戦国時代は日本酒もかなり度数が高く醸造されて、飲む際には割ることも珍しくない。飲む側が自分の好みに応じて調整するのが普通のようだった。
しかし信長が酒に強くないと聞いていたので、オレが作った特製の酒はあきらかに強すぎるし、甘党向けにはカクテル風にしたほうがいいかと考えた。
だから、信長が猪口を置いたタイミングで、お小姓らしい若者へ、
「甘口で、美味く飲む方法がありますけんど」
と提案してみると、毒味をするからともかく作ってみろと言われ、自作の蒸留酒に加えて水と桑のジャムを木の筒へ入れて封をしたのち、シャカシャカとシェイクしてみせた。
それを猪口へ注ぐと、少しだけ泡立った紫色の液体がとろりと美味そうだった。
数日前にも晩酌で味わい、それが適度に甘くて適度に渋くて、とってもまろやか、なことを知っている。
毒味の若衆がぐいぐいと呑んでいくところが注目されて、
「どれ、美味いなら俺にも寄越せ」
という声があちこちから聞こえてきてしまったので、信長を始め、次から次へと注文に答え続けることとなった。これじゃ秘蔵の桑の実ジャムが尽きてしまうんだが。
そして、ひとしきり注文に追われて落ち着いたところへ、信長の背後に影のように潜む執事然とした男が、
「これに桑の汁を入れず、水と酒で振ったらどうなるのか」
と、飲み干した猪口を不審げに見ながら尋ねてきた。
もちろん、オレはそれを試したことがあったし、おすすめできる味だったので、
「酒の香りが強く出やす。味も飲みやすくなって美味いかと」
そう言って、洗い直した木筒で水割りをシェイクして見せる。
味を見た執事風の人物が顔色を変え、あわてて信長の耳元へ囁いていると、何事かと様子をうかがって言葉のない一同の耳に、信長のつぶやきがもたらされた。
「なに、香木の香りだと?、まことか、九右衛門」
執事然とした男は余計な言葉を発することなく、一言だけ、
「ハハッ」
と畏まって、頭を下げた。
オレは内心でひとり深く頷いて同意していた。
そりゃそうだ。
これはドングリのデンプンを糖化、醸造、蒸留して作ったドングリ・ウイスキー。
蒸留したウォッカふうのアルコールへ、焼いたミズナラを始めとした独自配合の木片を投入して促成熟成した酒だった。
ほかにも色々工夫してはいるが、ミズナラを主体とした香りを作れば、白檀や伽羅といった香木の香りが漂う高貴な酒の出来上がり。その出来は平成の頃に世界的な話題となったものである。
渡辺屋敷から東に少し歩けば広がる青木ヶ原樹海。
そこにはミズナラの巨木が彼方まで広がり、青々した葉を風に揺らし、たたずんでいる。
そこからドングリを拾って、木材を有効活用してみれば、美味しいお酒が作れるのだ。