知らない世界
犬が飛んでいる。仕事帰りだった。最初は影か何かの錯覚で浮いているように見えるのだと思った。だがそんな解釈を一瞬で消し去るように犬は勢いよく10mほど上昇した。確実に飛んでいる。柴犬だろうか。街頭に照らされた茶色い物体はゆらゆらと宙を舞っている。私はこの驚きを誰かと分け合いたくて、道行く通行人に声をかけた。スーツ姿の男性だ。歳は私と同じくらいだろう。私は言った。
「あれ!見てください!犬が!」
男性は答えた。
「あぁ、犬がいますね」
「いますねって…浮いてますけど?」
「はい。浮いてますね?」
男性は私に怪訝そうな表情を見せてその場を去った。私は腑に落ちなかった。これは誰が見ても驚き、この光景をカメラの中に収めようと慌ててスマートフォンを取り出す。そんな出来事であるはずなのだ。そこへ制服姿の女子高生が通りかかった。私はもちろん声をかけた。
「あの、あそこに犬が浮いてるんですけど」
女子高生は急に声をかけられ驚いた様子だったが、上を見上げるや否や彼女の顔から驚きという感情は消えたように見えた。
「それがどうかしたんですか?」
「え?なんでそんなに冷静なんですか?」
「なんでって。理由なんかないですけど」
彼女はそう言い残し、さっきの男性同様その場を去った。私は少し気味が悪くなってきた。なぜみんな驚かないのか。どうして日常の一部のように捉えているのか。これは私がおかしいのか。私は今起きている事象全てを否定したくて次の通行人を待った。すると70代ぐらいの女性が腰を曲げて歩いてくるのが見えた。私は藁にも縋る思いでその女性に声をかけた。
「すみません。あそこに犬が浮いてるのが見えませんか?」
女性はゆっくりと見上げた。
「あぁ、見えるねぇ」
「浮いてるんですよ?驚きません?」
女性は私を見つめた。
「最近の人は自分が見ているものが全てだと思っているねぇ」
「…というと?」
「あんたみたいな人が人を殺すんだよ」
女性はそう言い放ってまた歩き出した。私の中で何かが切れた。歩き出した女性の肩を引き寄せ、地面に押し倒した。私は馬乗りになって殴った。数発殴ると女性は意識を失った。私は殴り続けた。私が正しい。私はおかしくない。
満足するまで殴り終えた時、女性の顔はもう原型を留めてはいなかった。そして私は帰路についた。空を飛ぶ犬はいなくなっていた。
初めて小説なるものを世に放ってみました。今回のテーマは「私たちは知らない世界の存在を知っているだろうか」です。