本棚
こんばんは。多治凛です。
毎日投稿の第五弾です。
本日の作品は読書が趣味の男が出くわした、奇妙なある夏の日のお話です。
一部刺激的な部分があるため、苦手な方はお気をつけださい。
私は本屋が大好きだ。静寂と紙の匂いが優しく私にハグをしてくれる。
それだけではない。目についた適当な小説を手に取り、冒頭部分を読む。僅か冒頭の一、二ページを読んだだけで、四百字詰めの世界に魅了されてしまった。平面の上に白と黒しか存在していないのに、極彩色の世界が絵本の仕掛けのように飛び出してくる。それどころか主人公の息遣いや口に運ぶ食事の温もり、香りまで伝わってくる。
買いたい。続きが読みたい。
こうして読了していない本の山の標高が高くなるのである。
本屋を出ると少し傾いてはいるものの、まだ太陽は高い。こんな時は町を適当にふらつきたくなる。わざと家路とは逆の方向へ歩みを進める。
木漏れ日が溢れる街路樹の下を通り、線路沿いの道に出た。すぐ隣を走った電車が蝉の声をかき消す。
日光は瞳に突き刺さるだけでなく、私の肌を徐々に焼いていく。額に滲む汗を左手の甲で拭う。本の入った紙袋は手汗でふやけてしまった。
ビル街の不味い空気を嫌い、住宅街へ赴くと、数軒先のアパートが目についた。二階建てで部屋は六つ。古めかしい木造のアパートで、別にこれと言って特徴は無いのだが、何故か引き付けられた。外壁にはこのアパートの名前なのか「本棚」と書かれている。階段はペンキが剥げ、錆が目立つものが中央に一つだけ。
近寄ると、戸には部屋番号の他に「ご自由に」と書かれた板が釘で打ち付けられていた。自由に入って良いということなのか。
私はとりあえず左端の一〇一号室の戸を恐る恐る開けた。
戸に隠れながら覗くと、中には若い夫婦が住んでいた。妻は大きなお腹を大事に抱えて椅子に座っている。夫は妻のお腹に左耳を当て、目を瞑っている。部屋の壁際には使い古されたベビーベッドが置かれ、ベッドの中には毛布やぬいぐるみが置かれている。妻のすぐ隣の床には段ボールがあり、中には子供服が溢れそうなほど入っている。表札の名と伝票の名から察するに、夫の兄弟の夫婦からのようだ。
「あなた、来月にはパパになるのよ」
「なんだか、いまだに実感がないよ」笑顔で妻の腹を撫でながら夫は答える。
「大丈夫。抱っこしているうちに、実感が湧くようになるから」妻は柔らかく笑った。
「そうだね。お腹にキス・・・・・・してもいいかい?」
「ええ。きっとこの子も喜ぶわ」
私は戸をそっと閉めた。
暑さではなく温かさと懐かしさが胸にこみ上げた。私には弟妹がおり、さらに年下の従弟もいる。私の家も服やベビーバス、毛布などを上の子から下の子へおさがりを渡していたことを思い出した。ものによっては親戚内で十年以上使い続けているものもあるのだ。
この柔らかく、温かい家庭であの子はどう育っていくのか大変楽しみである。服からして恐らく男の子であろうが、成長したらあの父とキャッチボールでもするのだろうか。あの母を毛嫌いするのだろうか。しかし最終的に、両親に感謝を伝え、三人で泣くのだろう。
私はなんだか楽しくなってきた。軽い足取りで次の戸の前に移動し、一〇二号室の戸を開けた。
冷房が効いており、すぐに鳥肌が立った。中央のテーブルには老夫婦が座っており、テレビに向かいながら何かを食べている。黒い線が走る緑の皮の中身は黒い点がちりばめられた紅の果物。スイカだ。独特の青臭い香りがこちらまで漂ってくる。
老夫婦の年はいくつだろうか。六十代後半だろうか、七十代だろうか。
「そういえば、あの子もおじいさんに似てスイカが好きでしたねぇ」
「あの小僧が六つか七つのころ、スイカの種を飲んで、へそから芽が出るって泣き喚いたな。それが今や高校生か」おじいさんは皿に種を吐き出す。
「早いですね。初孫でしたから、あたしもおじいさんも随分はしゃぎましたよね。そういえば、おじいさんが最初に名前の候補をいくつも出したけど、センスがないって言われて全部却下されたのよね」
「・・・・・・それは忘れてくれ」
私はそっと戸を閉めた。
またしても優しい温かさが胸に湧き上がる。年老いてから昔のことを面白おかしく言えるようなそんな老夫婦には憧れる。しかし、一蹴されるようなセンスのない名前というのは、一体どういう名前なのか気になるところである。
茶化すあたり私の祖父母に少し似ている気がする。最近会っていないから、長い休みのうちに会いに行こう。
さらに右は一〇三号室である。次はどんな温かい物語なのかと思い、さらに高揚した気分で戸を開けた。
一〇三号室はそれまでと打って変わって、うす暗くて湿っぽい部屋だった。
部屋の片隅に少女が座っていた。よかった。誰もいないのかと思った。少女は近隣の高校の制服を着ている。
この子はどんな物語を持っているのか気になり、しばしの間観察していた。すると少女は引き出しから文房具か何かを取り出した。勉強でも始めるのか。感心な少女だ。
文房具は音を立てて長さを増していく。シャープペンシルか。いや違う。刃物?
銀色に光る平たい刃を手の平側の左手首に当て、ゆっくりと引いた。液体が少しずつ滲みだし、いくつかの赤い雫ができた。少女はまた刃を浅くゆっくり引いた。刃に触れた赤い雫は破け、赤い筋となって手の甲側へ滴った。少女は繰り返し刃を引き、手首の傷跡は何重にも重なり、決して解けない呪いか何かのようになっていた。なおも赤い筋は数を増す。隣り合う赤い筋同士が編み込まれてゆき、ついには赤い手袋になってしまった。
しかし少女の表情は恍惚としており、どこか満足気である。痛くはないのだろうか。恐ろしくなって強引に戸を閉めた。
汗が全身に噴き出した。それは熱い季節だからだけではない。私は右手で左胸を抑え、額を戸に押し付けていた。自分の鼻を気持ちの悪い汗が滴り、コンクリートに落ちた。私は汗の水溜まりを眺めるしかできなかった。
私の知り合いにも自分の手首や足首、胸元を切りつけるものがいた。いまだに彼女らの心理はわからないが、何か意味があることは確かだ。さらに恐ろしいことに、自分を傷つける人間は想像している以上に身近に大量にいるということだ。
空が黄色を帯びつつあるが、いまだに網膜からあの赤が消えない。私は自分を傷つけるような人間は嫌いだ。それ以上に腹が立ったのは、かの女から滴る天然の赤絵具を美しいと思った自分であった。
深呼吸をしてから二階へ上がった。酷くさびた階段だったため、一歩を踏み出すたびに底が抜けるのではないかと思った。
一〇四号室。次はまともなものを期待している。先程のこともあってややゆっくりと戸を開けた。
靴が二足。男女のものだ。夫婦だろうか。
期待に表情が緩んでいると、廊下の先のリビングにつながるであろう扉の向こうから陶器が割れる音がした。続けて何かを床にたたきつける音、男の怒号が聞こえた。思わず耳を押さえたくなった。
「痛い!」
「メシをつくれだぁ!?料理は女がすれば良いんだよ!」
「でも、お父さんそう言って、お母さんに無理させて殺したじゃない!」
「あぁ!?殺した!?テメェ父親に失礼なこと言うな!」
「料理はともかく、仕事してよ!いい加減お母さんの服とか、アクセサリーを売るのやめて!思い出を消費して自堕落な毎日を過ごすの!?」
「うるせえ!俺に仕事がねえのは無能な採用担当のせいだ!十分な職を提供できない社会のせいだ!」
肉が肉を打つ乾いた音が廊下に響く。姿は直接見えないが、影だけでも凄惨な現場が目に浮かぶ。声が出なかった。携帯を操作する余裕もなかった。ただ茫然と立ち尽くした。口の中が渇き、舌が口の天井に張り付いて離れない。
今度はガラスが割れた。父はガラスの破片の上に娘を突き飛ばした。娘は官能的なほど痛々しい悲鳴を上げた。少し経つと廊下をアルコールの匂いが這ってきた。
鳥肌が収まらない右手で戸を閉めた。その腕を重そうな太陽が照らした。数滴の汗の粒が光を反射し、皮膚の上に小さな太陽をいくつも作った。その美しさを凝視していなければ、私は正気を保てなかった。
戸を染める茜色は私の中では電球色と結びつき、温かみを連想させるが、その茜色の戸の向こうに温かみはかけらもない。
信じられない。実の子をしつけの範囲を超えて殴れるだろうか。いや、無い。だが、目の前で私の中の法則は音を立てて崩れた。
やりきれなさに圧殺されそうだった。映画を見ていて主人公やヒロインの合理性を欠いた行動をせせら笑い、自分ならこうする。自分なら同じようなミスはしない。と思っていた。だがどうだ。我おして最適な行動をとらしむほど私の平常心は強くないらしい。己の無力さに腹が立ち、涙が流れそうになった。
隣は一〇五号室。次にはこれ以上の地獄が待ち受けるのか。それとも一〇一号室や一〇二号室のような光景が広がっているのか。はたまたもぬけの殻か。
心臓が耳元で騒いでいるのが分かる。シャツで手汗を落とし、恐る恐る戸を開けた。
かすかに戸を開けただけで異常に気付いた私は勢いよく戸を開けた。中を見た私は本が入った紙袋を落とした。ふやけた袋は破れ、本が散乱した。
男が天井からぶら下がっていた。それは懸垂やぶら下がり健康器ではない。縄を首に巻き付け、ぶら下がっていた。風でかすかに揺れている。電気が点いていなくてもわかる。男の顔は紫に変色していた。私の脳は眼前の光景を理解するのに長い時間を有した。
我に返ると足で本を外に出し、すぐに戸を閉め、すっかり群青に染まった床に酸っぱいものを吐き出した。腹の痛みに悶えながら黄色い水溜まりを見つめる。昼食を摂ってから時間がたっているため、固形物はなかった。
この時の私は狂っていた。普通に考えて、こんな状況で一〇六号室の戸を開けるものなどいないだろう。しかし私は体当たりをするような勢いで雪崩れ込んだ。
つまずいた私が起き上がると、真っ白い部屋が広がっていた。中央には白い机があり、近づくと、上にはこれまた真っ新な原稿用紙と白い塗装の鉛筆が置かれていた。
私は趣味で物を書いているため、震える手で鉛筆を握り、汗で安定しないなか原稿用紙に「太陽」と書いた。すると天井からまばゆい火の玉が現れた。命の危険を感じた私は鉛筆の隣にあった消しゴムですぐに文字を消した。火の玉は消えたものの、天井の一部が焦げた。
次はちゃんと考えてから鉛筆を握り、「白梅」と書いた。テーブルの左前方に床を貫通して梅の木が生えてきた。敷金は帰ってこないと考えるのが妥当だ。修理費の領収書は誰宛に書けばよいのだろうか。枝を伸ばしてところどころに白くてかわいらしい花をつけ、芳しい香りを発する。
次いで好物の「ダージリン」と書くと、テーブルの上に湯気が立ち昇るティーカップが現れた。中にはまさに紅といった色の茶が入っている。おっと、お茶請けを忘れていた。故郷の洋菓子屋の名前とクッキーを書くと、その通り懐かしいクッキーが出てきた。普通の小麦粉のクッキーの中に、ココアのクッキーが侵入したマーブルクッキーである。かじると素朴な味が故郷での記憶とともに口の中に広がった。さらに、ダージリンを飲むと、素朴な味と記憶をマスカットフレーバーと温もりが全身に送り届けてくれた。
白梅を見ながらクッキーをほおばり、紅茶を飲むことでやっと落ち着くことができた。なんとも愉快な原稿用紙だ。
落ち着きを取り戻し、先程の三部屋を思い出し、消しゴムを構えながら、「拳銃自殺」と書く。左肩を何者かが指で二度つつく。慣性でそのまま首がねじ切れそうな程の速さで左を向く。軍服を着た黒髪のボブヘアの少女がニコニコしながら座っている。右手にはイタリア製自動拳銃。私の性癖に即しているのか。いや、それよりまさか・・・・・・
少女は笑顔のままセーフティを外して初弾を装填し、こめかみに銃口を向け、引き金を引く。私が制止する間もなく、少女は逆側のこめかみから赤い花びらを散らし、床に倒れ伏す。白梅は赤いしぶきをかぶり、紅梅になった。私は急いで文字を消した。彼女の遺体は消滅したが、どす黒い水溜まりと鮮やかな紅梅と立ち込める鉄の臭いは消えなかった。
早まる鼓動を抑えながら、私は先月亡くなった叔母の名前を書いた。叔母は知的障害があり、健常者が難なくこなせることが叔母にとっては難しかった。さらに喋り方にも癖があり、落ち着きもなかったため、私は今まで叔母を避けてきた。幼いころは良かった。幼いころは人と人の違いが分からないどころか、自分が何者かも分からなかった。ゆえに叔母を嫌うことはなかった。叔母は遺影と同じ姿で現れた。
胸の奥からこみ上げる感情が液体となって両目からあふれた。私は思わず大粒の涙を流しながら叔母に謝罪した。
「済まなかった。本当にごめんよ叔母さん。俺ぁ、叔母さんのことが好きだった。だけど、物心ついてからは人と人の違いってモンが分かるようになって、人と違う叔母さんのことが嫌いになった。中学、高校って成長して、家族を大事にしなきゃいけないだとかさぁ、障碍者を差別しちゃいけないとかさぁ、やっと分かったんだ。今度施設から帰ってきたら、もっと優しくしようと、今まで話してこなかった分もっと話そうと思ってたんだ。だけど、二度と会えなくなった。もう一度会えて良かった。ごめんね。それから、えっと、ありがとう」
叔母は終始笑顔であった。最後に私の手を握り、夕日のように消えた。
気が付いたらアパートは消えており、私は暗い闇の底で泣いていた。足元には濡れてぐちゃぐちゃになった原稿用紙が転がっていた。鼻から顎から滴る涙を拭きとり、鼻をすすった。私は群青色の空き地に一人、佇んでいた。
漂う夕飯の香りに腹が鳴り、足元に積んである本を拾い、埃を払う。空き地を出る際に後ろを振り返ったが、やはりアパートは無かった。
しかし、その後ろには大小さまざまな集合住宅があり、一つ一つの部屋に明かりがともっている。その姿はさながらイルミネーションのようであった。集合住宅をみて私は巨大な本棚だと思った。この明かり一つ一つの下に人が住んでいて、それぞれの人が自分だけのストーリーを持っていて、紐解けばどれも物語なのだ。
私は煌びやかな街灯と家々から漏れる電球が照らす夜の奥へ続く道を急いだ。
読了有難うございます。
夏の日差しは幻影を見せそうですよね。
感想や評価、レビューをいただけると非常にうれしいため、よろしくお願いします。
明日はもう少し早い時間に投稿しますので、楽しみにしていてください。
失礼します。