聖女と悪役令嬢と婚約者
――結婚なんて、御免だった。
だから選んだのだ、私は。婚約者から嫌われるような人物となることを。
婚約を破棄したいと思われるような、“悪役”を演じようと思ったのだ。
◇
――風が鋭いうなり声を上げた。
私は杖を振り下ろした状態のまま、彼方にある樹木を見遣った。繰り出された風の塊は、威力が減衰しつつも向こうに到達したようだ。枝が揺れ、葉が舞い散るのが視認できた。
幼少より鍛えている魔法は、もはや“学園”の中でも群を抜いた腕前となっていた。侯爵家の四女、レーナ・グランディスの名を知らぬ学生は、まずいないだろう。自分で言うのもなんだが、私は有名人だった。
――もっとも、悪名のほうが大きいのだろうけれども。
「……まだまだ、足りないか」
呟きながら、私は右手に持つ杖を眺めた。剣を模したそれは、剣杖と呼ばれている。刀身は魔力を通すために木でできているが、持ち手には金属のナックルガードが取り付けられている実戦向きの武器である。
この剣杖を使って、朝の鍛錬をおこなうこと――それが私の日課になっていた。
故郷にいる時からやっていたことだが、王都の学園に入学してからも鍛錬は続けていた。こんなことをしているのは、貴族の令嬢の中でも私くらいなものだろう。おかげで――今では、どんな男子よりも強くなることができた。
『――私より弱いなんて、情けない男ね。恥ずかしくないのかしら』
そう見下したように、人前で婚約者に言い放ったことを思い出して、私はふっと笑った。
私には親が決めた婚約者がいた。相手は公爵家の次男坊である。ちょうど歳の同じ彼は、両家にとって都合がよかったのだろう。
でも――私は結婚なんてしたくなかった。
だから嫌われるようなことを、あえて繰り返していた。大人げないのかもしれない。だが、嫌なものは嫌だった。――私にとって、結婚というのは本当に好きな人とするものだったから。
自由恋愛。それはこの世界の貴族にとっては、ほとんど縁のないものだろう。家の決めた婚姻に従うのは、当然なのが常識だった。
だが――私の感性は違っていた。
なぜなら――“前”の知識と経験があったから。
「まったく……」
なぜ、こんな世界にいるのか。
幾度となく考えたことは、当たり前だが今も答えは見つかっていなかった。
だが、私はここに生きている。
そして私は、“先”の知識もある。
だから――それに備えて、強くなる必要もあったのだ。
はたして、現実は“ゲーム”のようにうまく行くのだろうか。
そんなことを、私は思ってしまうのだった。
◇
――なぜミレーユという少女は、あんなにもどんくさいのだろうか。
私は前方を歩く黒髪の女子学生を眺めながら、そんなつまらないことを思考する。
“ドジっ子”なるものは、もしかしたら“キャラ付け”が簡単なのだろうか。たとえば主人公が完璧女子すぎると、ヒーローが介入する余地がない。そのために、あえて隙のある性格にすることによって、ストーリーを展開しやすくさせられる。思いつく理由は、そんなところだろうか。
そして主人公が主人公らしくあるためには、やはり特別な部分も必要だった。たとえば、その身に宿る“癒し”の力。魔力資質は人によって千差万別なのだが、治癒をおこなえる魔術師はきわめて稀だった。その癒しの能力を持った彼女は、なるほど“聖女”などと呼ばれるのも納得がいくところである。
「――あ」
――階段に差し掛かった時。
二階から一階へと降りる途中のミレーユが、ぽろっと間抜けな声を漏らした。私が目を向けた時点で、彼女は前につんのめっている状態だった。――つまり、階段から転げ落ちる直前だったのだ。
……いくらなんでも、ドジが過ぎるでしょ。ふつう、何もない場所で転ぶ?
そんな呆れを抱きながら、私は授業で使う小さいタクト杖を振り抜いていた。発したのは、私が得意な風である。それは一瞬で、宙に体を傾けていたミレーユにまとわりつき――ゆっくりと、彼女を踊り場に着地させた。
「――あなた、わざとやってるのそれ?」
私は階段の上のほうから、文字どおり彼女を見下して言った。
「間の抜けたことをすれば、周りから心配してもらえるとでも思っているのかしら?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「……ああ、べつに助ける必要もなかったわね。あなた、自分で自分の怪我を治せるでしょうし。失敗したわ。あなたが骨折でもして苦痛にうめくところを見ればよかった」
「あ……その……。あ、ありがとうございます。助けていただいて」
「ふん、口だけの感謝ね。あなたが私を嫌っていることなんて、知っているわよ」
「そ、そんなことは……」
「――昼食に遅れるわ。さようなら」
私は冷たい表情を保ったまま、彼女の横を通り過ぎていった。周りの学生たちから注目を感じるが、いつものことである。私がミレーユを罵倒したりするのは、日常茶飯事であった。
もちろん、淑女がそんなことをするのは評判がいいはずもなく。私はおそらく近づきたくない学生ナンバーワンだろう。侯爵家令嬢という身分を考慮しても、振る舞いが苛烈すぎて仲良くしようと寄ってくる人間などいなかった。
まあ、私としては好都合なんだけど。おべっかを使う子分のような輩を引き連れるのは、まったく趣味ではないし。
魔法や勉学の才能はあるが、あまりにも性格に難のある女性。
それが私の演じている、レーナ・グランディスだった。
◇
――袈裟懸けに振り下ろされる剣杖を、私は見切っていた。
後ろに下がりつつ、上体を反らす。剣先が胸元のすぐそこを通り過ぎた。それと同時に――私が下から切り上げていた剣杖が、相手の手首を打ち据えていた。
「いッ……」
痛みに顔を歪める青年の動きは、あまりにも緩慢である。先に体勢を整えたのは、私のほうだった。こちらの繰り出す得物の速度に対応しきれず、相手はその首に剣杖を擬されていた。
「あなたの負けね」
「……ああ」
「体格の劣る女性にも勝てないなんて、みっともない」
「…………」
魔法を使わない、剣杖だけの試合。それは騎士などがよくやっている鍛錬の一つで、学生の間でもたまにおこなわれていた。実戦では至近距離まで肉薄される可能性もあるので、そうした時に対応できるよう剣技を磨くのも重要というわけである。
私も小さいころから杖を振っていただけあって、剣撃練習もある程度こなしていた。女子にしては、体力や腕力はかなり高いほうだろう。剣杖の打ち合いでも、並みの男子には引けを取らない自信があった。
「何も考えず、ただ怠惰に生きている貴族のお坊ちゃまらしいわね。少しは向上心を持ったらどうかしら」
「……いちおう、練習はしているんだがなぁ」
「練習してそれなら、とんでもなく才能がないのね」
私の誹謗的な言葉に、その青年はしおれるような顔つきをした。
――銀色にも見えるプラチナブロンドの髪。整った顔立ちに、平均より高い身長。そこにいるのは、美青年と呼んでも差し支えのない人物だった。
公爵家の子弟、トラス・ガーラント。容姿端麗に加えて、それなりに魔法の才能もある青年である。貴族の女子からの人気が高いのも頷ける、俊英な若者だった。
私が婚約者たる彼を嫌っているのは周知の事実だったので、学園の女子たちはひそかにトラスにお近づきになろうと頑張っているらしい。婚約が解消されれば、もしかしたらチャンスがあるかもという魂胆なのだろう。もっとも――トラスはまったくほかの女子に見向きもしていないようだが。
なぜトラスは、いちいち私に構おうとするのか。それは少し疑問だった。今日も「模擬戦の相手をしてくれ」と必死で食らいついてきたので、仕方がなく了承して今に至るわけだが――
本来の彼は、内心ではレーナ・グランディスのことを好いてはいなかったはずだ。他人を見下し、侮蔑的な言葉を吐くレーナという少女は、トラスにとっては不愉快な女でしかなかったはずだった。だからこそ、“事件”が起きた時には即座にレーナとの関係を断ち、そして断罪してみせる展開になるのだが。
「――あなたのような弱者では、愛する人も守れないでしょうね。力なき者というのは、哀れで愚かな存在だわ」
「ははは……手厳しいな……」
「――あなたと付き合うのは時間の無駄。さようなら」
私は冷徹に言い放つと、彼の隣を通り過ぎていった。俯いているトラスの表情は、どこか険しい色を帯びていた。打ち負かされ、言い返せない自分が、たまらなく悔しいというような顔に見えた。
――はたしてトラスは、ミレーユを守ってくれるのだろうか。
知識とはズレている現実に、私は言い知れぬ不安を感じていた。
◇
きっと向こうでは、滞りなく進級パーティーが進んでいるのだろう。
――そんなことをぼんやり考えながら、私は闇の中に独り立っていた。
学年の変わり目におこなわれるパーティーでは、すべての学生と教師が会場に集まっているはずだ。つまり、逆に言えば――ほかの場所は人目が少ないということになる。
それは学園の外から何者かが侵入するには、うってつけのタイミングだった。
事実、“知識”にあるレーナ・グランディスは闇の稼業人を雇って、この日に潜入することを指示していた。狙いは聖女ミレーユの首である。その力を賞賛され、あまつさえ婚約者トラスの心も惹きつけつつあった彼女は、レーナにとって邪魔で仕方なかったのだろう。暗殺者を雇って殺してしまおうと思うくらいには。
まあ――“私”はそんなことをするつもりもないのだけど。
それでも、わざわざパーティー会場の外に立っている理由は何か。それは単純だった。ただの保険である。
私が暗殺者を仕向けなくとも、もしかしたら別の何者かが同じことをするかもしれない。
そう思ったのは、これが重要な“イベント”だったからだ。ストーリーを決定づける出来事。あるいは、それはこの世界に運命づけられた事象なのかもしれない。
そんな予感があったのだ。
――そして、予感は当たったようだ。
私は剣杖を腰から引き抜いた。体に熱い魔力がたぎっていた。ここが正念場であることは明らかだった。
「――来なさい、侵入者よ」
低く、冷たい声は、向こうの影に届いたようだ。そこにいる、黒い衣装に身を包んだ男は――細長い杖を手に携えながら、唸るような声を上げた。
「貴様……魔術師だな。教師でもなく、学生とは……。オレが来ることをわかっていたのか?」
「知っていたわ――私がこの世界に生まれた時から」
「……わけのわからんことを」
「御託はここまでよ」
私は魔力を流しながら、剣杖を振るった。風の刃が駆け巡る。不可視の凶刃が敵を切り裂く、その寸前――男は杖を振りつつ横に跳んだ。
――風同士がぶつかるような音が響いた。
「……このガキッ!」
男は体勢を立てなおしながら、吐き捨てるように言った。反射的に風を顕現させて攻撃をいなしつつ、回避行動を成功させた男の動きは――明らかに手練れの業だった。
……トラスとは比べ物にならないほどの、戦闘能力を持っている。
だが――私は負けるわけにはいかなかった。
「――せぃッ!」
掛け声とともに、ふたたび風の斬撃を飛ばす。その瞬間、男は杖を下から振り上げた。それに呼応して――地面が瞬時に盛り上がる。
土の壁で私の攻撃を防いだと同時に、男は半身だけ身を出して杖を振るった。砲弾のような土の塊が迫りくる。私は冷静にそれを烈風で撃ち落とし、矢継ぎ早に風の刃を飛ばした。
――男はさっと土壁に身を隠し、こちらの攻撃を受け流す。
……遮蔽物がある相手と打ち合っても、こちらが不利なだけか。
相手の側面に回り込もうと、私は足を踏み出す。だがその瞬間――土壁の右方向に飛び出す影があった。後手になることを避けて、男はみずから仕掛けてきたのだろうか。
私は即座に杖を薙いだ。闇夜にまぎれる影へと、風が襲い掛かる。魔法が目標を貫いた時――
それが投げ捨てられた黒いマントなのだと、ようやく気づいてしまった。
視界の隅から殺気を感じ取った。衣服を陽動に使って反対側から飛び出した男は、すでに魔法を放っていたのだ。土の弾丸が、すでにそこまで迫っていた。
杖を振っている暇などなかった。咄嗟に左手で顔をかばいつつ、横に跳んだ。――左の上腕と、脇腹に、大の男から全力で殴られたような衝撃が迸った。
「……ぐ……ぅ」
慣れない痛みに、私は耐えた。ここで戦意を維持できなければ、ただ死が待っているとわかっていたから。必死で敵の方向を見据え――連続で来た攻撃を、今度はちゃんと風の魔法で撃ち落とす。
「……魔法の腕はオレより上手か。だが……戦い方は知らねぇようだな」
「…………痛感しているわよ」
私は相手を睨みながら答えた。
さっきのマントを囮にした戦法など、私の頭には片隅にもなかった。魔法の練習を重ねていただけでは、実戦で強くなれるとは限らない。自分の命を、あるいは誰かの命を、守れるとは限らないのだ。――トラスに向けた言葉は、今になって私に跳ね返っていた。
痛みをこらえながら、私は杖を振るう。ダメージを受けているせいで、魔法がにぶっているのを自覚していた。男はけっして隙を見せることなく戦闘を続け――徐々に、私は追い込まれていった。
体力と魔力を消耗したタイミングを狙ったのだろうか。
男は土の弾丸を放った。それを私が魔法で防いだ瞬間、飛来してきたのは――銀色に輝く刃だった。
それは魔法ではなかった。男が隠し持っていたであろう、金属の刃物である。
――魔法と投げナイフを組み合わせた、迅速な二連撃。私のような戦闘経験のない小娘には、対応しきれない攻撃だった。
「…………は……ぁ」
右脇腹、そこにナイフが突き刺さっていた。幸いながら小型の投擲ナイフだったので、それ自体は致命傷ではないが――
いずれにせよ、私が男に勝てる算段はなくなってしまった。刺し傷は失血を招き、体力を奪いつづけるだろう。つまりはそれは、結局のところ死を意味していた。
「――甘いな。防具もない学生服で挑んで、勝てるわけがないぜ。お嬢ちゃん」
「…………」
「だが、褒めてやる。オレを本気で戦わせる学生がいるとは思わなかった」
「……それは、どうも」
私は呟きながら、片膝をついてしまった。疲労と打撲、刺し傷が重くのしかかる。戦闘の継続は――不可能だった。
大きく、深呼吸をする。
息を整えた私は、男に向かって語りかけた。
「――命を助けてくれないかしら」
それは命乞いの言葉だった。
もちろん、通用するはずがない。私の予想どおり、男は無慈悲に首を振った。
「お嬢ちゃん、悪いな。可哀想だがお前は殺さなくちゃいけない。顔も見られちまったしな」
「……私は侯爵たるグランディス家の娘よ。もし私を殺めれば、貴族たちは必死で犯人を探すことになるわ。……あなたにとっては、都合が悪いんじゃない?」
「な、に……。バカな、侯爵家の令嬢がこんなところに、いるはず……」
男の声は、動揺の色が含まれていた。それもそのはずだろう。聖女などと持てはやされているとはいえ、ミレーユは子爵家の小娘であり、かりに犯罪に巻き込まれて死亡したとしても、そこまで大規模は事件捜査はおこなわれない。
だが――トップクラスの領地と財力を持った侯爵家の人間ともなると話は別だ。親族が殺害されれば、躍起になって犯人を捜すことになるだろう。つまり……私を殺すことのデメリットが大きすぎるのだ。それを男も理解しているようだった。
「つまらない暗殺の仕事なんて……やめたらどう? 金が欲しければ、別の方法だってあるわよ。たとえば――もし私を誘拐して身代金を要求すれば、あなたがいまやっている仕事よりも、もっと莫大な金が手に入るんじゃないかしら」
「…………」
男の沈黙は、心中が揺れ動いていることの証だった。金で雇われて学園に侵入しているのだ。金の話を持ち掛ければ、少しは気を引けることもわかっていた。
――つまらない命乞いの言葉の数々。
それはべつに、無策な苦しまぎれというわけではなかった。
目的は――単純に、男の注意を引くことに過ぎない。
そして、その戦略は……十分に効果を発揮した。
「――トラス・ガーラント」
「……なんだって? 誰のことだ」
「…………あなたを倒す者の名よ」
「な――」
言葉を上げようとした男が、横に弾けるように吹き飛んだ。巨大な土くれが、その頭部を強烈に殴打したのだ。――第三者による魔法の介入だった。
うまく直撃したおかげか、男はピクリとも動かず横たわっていた。脳震盪を起こしているのだろう。一撃が決まってしまえば、呆気ないものである。
私は尻餅をつきながら、こちらに駆け寄ってくる学生に目を向けた。そのプラチナブロンドの髪は、月明かりを受けて銀色に輝いている。思わず見惚れてしまうくらい綺麗だった。
――ヒロインのピンチに駆けつけるヒーローだなんて、まったくあまりに出来すぎだ。
私はふっと笑いながら――全身を支配する疲労と苦痛と安堵感に、徐々に意識を手放してゆくのだった。
◇
――目を覚ました時、最初に映ったのは黒髪の少女の顔だった。
見間違えるはずもない。ミレーユである。彼女はこちらが意識を取り戻したのに気づいたのか――今にも抱きついてきそうな勢いで、がっと私の手を握ってきた。
「よ、よかったぁ! 気づいたんですね……!」
「…………ここは」
「医務室です! トラスさんが、怪我しているレーナさんを運んだんですよ。それで――」
「あなたが癒した……というわけね」
「はいっ」
ニッコリと笑顔を浮かべる少女は、優しさに満ちた聖女そのものだった。……相変わらず、いい子ちゃんである。ドジなところがあるのが、玉に瑕だけど。
いつもだったら、私は彼女に毒舌を吐いていたことだろう。だが、さすがに今の状況では罵るわけにもいかない。傷を治してくれた恩人なのだから。
「……ありがとう。助けてくれて」
「そんな……わたしも、レーナさんからいつも助けてもらってますから……」
恐縮そうな顔で、謝意を口にするミレーユ。
思い返してみれば、学園生活の中で私も彼女にけっこう干渉していた。ほかの貴族の女子グループが彼女をいじめていた時は、悪名を高めるためにこれ幸いと全員をけちょんけちょんに貶めたっけ。あとはミレーユにしつこく付きまとう男子貴族に対して、グランディス家の武勇を知らしめるのも兼ねて決闘でボコボコに負かしたり。
…………。
ミレーユをさんざん罵倒しているわりに、やっていることは完全にヒーローのそれな気がするわね……。
「――それはともかく」
冷静に反省すると恥ずかしいので、私は話題を変えることにした。
「トラスは、どうしているかしら?」
「別室で先生たちから、事情を聴かれているみたいです。……あっ、レーナさんが目を覚ましたって報告しに行きますね」
「……ええ、お願い」
ミレーユはニコリと笑みを浮かべると、ベッドから離れて医務室を出ていった。医師も席を外しているようなので、これで私ひとりだけの無人の部屋となる。ふっと気が軽くなり、私は大きくため息をついた。
なんとなく脇腹に手を当ててみると、そこはいつもと変わらない状態だった。完全に傷が治癒されているようだ。さすがは聖女様の力である。
――生きている。
あらためて実感し、私は笑みを浮かべた。この世界に生まれてから、自分の命なんてほとんど気にかけていなかったのに。“物語”を知っていた私は、どこか傍観者のように過ごしてきたというのに。死を間近に感じて、そして助かったことに安堵している私は――まるでこの世界の住人そのものだった。
ミレーユも、トラスも。
ただ神によって創られた人形ではなく、意志を持って生きている人々だった。死にかけていた私に対して、必死に力を尽くしてくれた二人は――レーナ・グランディスという人間にとって、かけがえのない存在だった。
ふいに、体の奥から感情が湧き上がってきた。
抑えてきたものが、あふれ出てくるように。
今までの記憶と、思い出が蘇ってくる。心地よい感覚だった。まるで人間の心を取り戻したような。
今の私は、素直な心境だった。
「――レーナッ!」
慌てた声が、部屋に響いた。
せわしなく医務室に入ってきたのは、言うまでもなくトラスだった。よっぽど私のことを気にかけていたのだろうか。その表情は真剣そのものだった。
「……よかった。無事で、本当によかった」
「…………そんなに、私が心配だったの?」
「――当然だろ。婚約者なんだから」
躊躇することなくそう言いきったトラスに、私は呆けたような顔を一瞬してしまった。婚約者。それは彼にとって、ずいぶんと大事なものらしい。
いつも私から厳しい言葉をかけられているというのに。彼は私を嫌うどころか、むしろその逆のようだった。
「……あの時。よく、私を見つけたわね。パーティーがあったはずなのに」
「きみがいなかったから、探しにいったんだ。……学園中を歩き回って、ようやくあそこに、ね」
「…………そう」
ずいぶんご苦労なことね。――今までの私だったら、そんなふうに口の悪い言葉でも返していたかもしれない。
けれども、もう悪役を演じるつもりはなかった。そんなものに、こだわる必要もないのだ。この先の未来は、すでにストーリーのない物語なのだ。あとは素直に、生きればいい。
「――以前に言ったわね。あなたは愛する人も守れない、と」
「……ああ。今は痛感しているよ。あと一歩、遅れていたら……」
「訂正をするわ」
私はトラスの顔を見上げて、しっかりと見据えた。窮地を救ってくれた婚約者に対して、私は言いなおさなければならない。心より、感謝と、そして――
「――あなただったら、愛する人を守れる。これからも……ね」
胸の奥から湧き上がる、愛情を込めて。
私はやさしく言葉を紡いで、穏やかなほほ笑みを浮かべてみせた。
ここまでご覧くださり、ありがとうございました。
いちおう乙女ゲームをプレイしたことがある人間ですが、この作品についてはいわゆる「悪役令嬢テンプレ」を使っているので、とくに乙女ゲームらしさはない感じとなりました(この辺はもう、そういうものだと割りきるしかないですね)。
私の嗜好というのもありますが、この作品における主人公はかなり男らしく、ヒロインというよりヒーローらしいキャラクターになりました。なろうではあまり見かけないタイプかもしれません。
『遙かなる時空の中で3』の望美ような、守られるより守るような女主人公は好きなのですが……もっと増えてほしいところですね。
作品の内容的にはダイジェスト的な感じが強く、膨らませようと思えばかなり書けそうな気もしましたが、まあ短編としていちおうまとまったかなと思いますが、いかがでしょうか。
女性向け作品をまじめに書いたのはこれが初めてなので、少しでも感想を頂けたら、とても参考になります。
今後とも、どうぞよろしくお願いします。