健太の大冒険
子猫の健太は、お人よし。
馬鹿がつくほどの、お人よし。
背丈も仲間の中で一番小ちゃく、すぐ泣いちゃう子。
毛なみは茶トラ。目はクリクリ、めちゃおちゃめで、可愛い子猫。
左足には、可愛い星の形をした白い毛が生えてる、ちょっと変わった子。
今日も、いつもの神社でかくれんぼだ。
「いつもすぐ見つかっちゃうから、今日は絶対見つからないようにしなくっちゃ。」
そんな一人ごとを言いながらも、いつもと同じ場所に隠れてしまう。
「健太、見っけ。」
オニ役の豊が、隠れた穴を覗き込む。
「豊君って、すごいなぁ、いつもすぐ見つかっちゃう。なんで?・・」
「何言ってるんだよ。いつもいつも、同じ場所に隠れて、お前なんかすぐ見つけられるさ。」
「そうか、今日は見つからないと思ってたのになあ。よし、次は僕がオニだね。豊君達、すぐ見っけちゃうからね。」
健太は、ニコニコしながら、オニ棒に向って走りだす。仲間と遊ぶ、この時間が健太は幸せだった。ちなみにオニ棒とは、オニが顔を伏せて仲間が隠れるのを待つ木のことだ。
「もういいかい・・」
健太の声が境内に響く。
「まあだだよ。」
二人の子猫の声が、返ってくる。
「おい、豊、今日は見つからないように、かなり遠くに隠れようぜ。」
仲間の幸一が、走りながら言う。
「うん、そうだね、遠くまで行っちゃえ。」
と、勢いよく走る二人に、
「また、いつまで遊んでるの。もう夕ご飯の時間でしょう。」
神社に迎えに来た、豊のおかあさんが声を掛けた。
「あっ、ごめん、つい夢中になっちゃって。」
「今日の夕ご飯は、お前の好きなサンマのオムレツだから。」
「やったあー、じゃあこのまま一緒に帰るね。」
当然、豊の頭の中には健太はいない、頭の中はサンマのオムレツで一杯だ。
「あっ、かあちゃん。」
幸一も、迎えに来たおかあさんを見つけて
「ねぇねぇ、今日の夕飯、何、何?教えて!」
「今日はね、ブリのカレーだよ。お前好きだろう。」
「うん、おかわりしてもいいよね。」
「ああ、いっぱい食べて大きくならないとね。」
もちろん、こちらの子猫ちゃんの頭の中からも、健太の存在は抹消されたのであった。
「もういいかい・・」
暗くなってきた境内に、健太の声だけが響きわたる。
「もういいかい・・もう、いいよね・・へへ。」
何故か、少し微笑みながら振り返り、ゆっくり歩きだす。風の音、少し巻き上がって鼻に飛んでくる砂ホコリ。
「ハァハァ・・ヘックション!」
何となく、寂し気に境内に響く健太のクシャミ。少し出ちゃった鼻水を、肉きゅうで拭いながら、二人を探す。
「いないなあ・・帰っちゃったのかなあ、二人とも・・・」
自然にシッポが、垂れてきちゃう。
置いてきぼり・・でも、まだ隠れてるのかも・・お人よしの健太は、境内をふらふら・・
あきらめて帰ることにした健太。でも、お人よし。ご丁寧に、二人の家の前を通って帰るのが、いいところ。幸一の家の近くまで来ると、たまらなくいい匂いが・・・おなかの虫が黙っちゃあいない。カレーの匂いだ。
「かあちゃん、おかわり。」
笑顔の幸一の顔が浮かんでくる。お人よしの健太は、ほっとはするが、怒らない。怒らないどころか、豊の家にも向かっちゃう。
「オムレツの上に、絵描いてもいい?」
ここでも、豊の笑顔が手にとるようにわかる。神か仏かそれとも馬鹿なのか、健太はここでも、怒らない。腹ペコに、いい匂いが刺激になって、超腹ペコ。師走の寒さも空腹には辛い。空に浮かぶ月さえも、饅頭に見えてくる。こんな時は、駆け出して家に帰るものだが、何故か健太の足は重いのだ。
「ただいま」
健太の声に、返事はない。酒臭く、生ゴミのニオイが鼻をつく。
「とうちゃん、お腹すいたよ。何か食べたいよ。」
「何食いたい?言ってみな。」
「えっ!いいの?カレー。俺カレーが食べたい。」
「馬鹿かお前、そんなもん、ここ何年見たことないわ。ほら、そこの蓋の空いたツナ缶、食って寝ろ。」
(また、ツナ缶かあ・・これって3日前から食べてるよな・・・)
しっぽを目いっぱい垂らしながら、缶に鼻を押し付ける。何となく、感じる酸味臭。
「とうちゃん、これちょっと酢っぱいよ。」
「そりゃあいいじゃないか、味があって。文句言わず食って寝ろ。」
薄暗い部屋、余計に侘しくなってくる。酢っぱさに増して、しょっぱい味もする。涙の味だ。溢れる涙が、ツナを塩辛く味付けしているのだ。悔しい、悲しい、そして寂しい・・おかあさんに会いたい。豊や幸一のように、おかあさんの作ってくれるご飯が食べたい。一度でいい、おかあさんの胸で甘えたい。健太は、いつも辛い事や悲しい事があると、母の事を思う。いや、母の顔さえ知らない健太には、願うと言う言葉のほうが適切なのかも知れない。
少し遅れてしまったが、ここで健太の生い立ちについて、簡単に触れてておこう。
名前は健太、名字はない。
歳は、二歳。
足には、可愛い星の形をした白い毛が生えている。
父親の名前は与作、当然名字はなし。
年齢不詳。
日雇いの仕事をしているが、半野良状態。(野良猫の一歩手前)
ゴミを漁ったり、ビン・缶の回収日に、ビールや酒の残りを漁って飲んでいる。
母の生死は不明。
健太は、生まれてこのかた一度も母親の顔を見たことがない。
次の朝、健太は神社に行ってみた。木漏れ日の中、雀たちが楽しそうに踊っている。自分が近寄れば、その時間をこわしてしまう事は分かっているので、遠くから眺めていると、
「健太、おはよう。」
雀たちの向こう側から声がして、豊と幸一が駆けてくる。雀たちは、ビックリして羽ばたいていく。
「おはよう、昨日はごめんね、僕の探す時間が長くって、それで帰っちゃったんでしょう?」
お人よしの健太。
「お前、どんくさいから仕方ないよ。」
「よし、今日は寒いから、おしくらまんじゅうやろうぜ。」
豊と幸一は、すこしバツが悪そうに顔を見合わせ、苦笑いする。そして、健太もなぜか理由もなく苦笑いする。
「よし、いくぞ!」
「負けないぞう!」
「みんな、俺が押し出してやる!」
お尻を、押し付け合う三人、しっぽが痛い。小さい健太が、一生懸命に二人を押す。もう少しで、豊を押し出せる瞬間、突然、豊が自ら円を飛び出した。突然支えを失った健太は、思いっきり尻もちをついてしまった。
「びっくりしちゃった、豊君、どうしたの、突然飛び出すなんて。」
尻もちをついたまま、豊を見上げる。
「ごめん、急に用事を思い出した。俺、帰るわ。」
「えっ!本当に、帰っちゃうの?」
寂しそうな健太。
「ごめん、健太。俺も用事があったの思い出した。」
幸一もそう言うと、豊の後を追って駆け出して行ってしまった。
「あ~あ・・また一人になっちゃった・・・」
と、おしりをさすると、何かが手に触れた。
「あれ、これって豊君の鈴だ。きっと外れたんだ。届けてあげないと。」 健太は二人の後を追った。そしてすぐに、追いついたが声は掛けなかった。いや、二人の会話を聞いて掛けられなかったのだ。
「健太って、臭いよなあ。」
豊が、顔をしかめながら言う。
「うん、俺もそう思って。あんなに臭い奴とは、遊べないよ。」
幸一が、吐き捨てるように言葉を返す。
そんな二人の会話に、偶然通りかかった豊の母親が声を掛けた。
「また健太君と遊んでたの?あの子は、悪い子じゃないけど、お母さんもいないし、お父さんも野良猫だし。お風呂もなくって、臭くって汚いでしょう?ノミでも移ったら大変でしょ!だから、あの子とは遊ばない方がいいと思うわよ。」
そんな会話を聞いてしまう健太。
「僕ってそんなに臭うかなあ・・・クサイかなあ・・」
腕や首筋を、クンクンする。そして突然、家に向って走り出した。
(身体洗わなくっちゃ。二人に嫌われちゃう。)
綺麗になれば、友達でいてくれると勘違いしているのだ。
三人がいなくなった境内には、空っ風が落ち葉を掃除するかのように吹いていた。そして、ベンチに置かれた、豊の鈴の音だけが、空しく境内に響いていた。
「とうちゃん、お湯沸かして。」
返事はない。
「ねぇ、とうちゃん、お風呂入らないといけないんだ。お湯沸かしてよ。」
「うるさい。何言ってるんだ。気持ちよく寝てるのに。静かにしろ!」
「駄目だよ。身体綺麗にしないと、みんなに嫌われちゃうんだ。だからお願い。」
薄暗い部屋の中で、与作に近寄って行く。
「とうちゃん、沸かしてよ。ねぇ~。」
与作の肩を揺する。
「うるせぇなあ。自分で沸かしゃあいいだろが。いつものやかん代わりの缶がそこにあるだろう。」
確かに缶は、ある。しかし、小さな健太には水を汲み入れるだけでも大変な作業なのだ。それでも、健太は水を汲むしかなかった。仲間はずれになるわけにはいかないのだ。まずは、空の缶を焚き木の上に乗せた。自分の背丈の倍はあるであろう缶に、たらいに溜まっている雨水を、何度も何度もお椀に汲んでは運んだ。
「ふぅ~、やっと一杯になってきたぞ。後もう少し。」
しばらくして、缶は一杯になったが、ここからが、一番の難題が待っていた。一度も火を点けたことがないのだ。足元にあるマッチ箱を、じっと見つめたまま動かない。
(火が怖い・・・でも火を点けないと・・・怖いけど・・・仲間はずれはいやだし・・・)
勇気を出して、思いっきりマッチを擦った。
「わあ!」
一瞬にして大きく燃え上がったマッチの炎に、ビックリして放り投げそうになったが、何とかマッチの軸をしっかりつかみ直し、ゆっくり薪に近づいて、紙に火を点けた。茶トラ系の健太の顔が、炎の照り返しで真っ赤になる。怖いけど暖かい・・あんなに怖いと思っていた炎なのに、暖かくって何故かまどろんでしまう。金持ちの家の子が、暖炉の前から動かない気持ちがよくわかった健太だった。
お湯が沸いてくる。今度は、やけどしないように、ゆっくりゆっくり慎重に、缶から沸騰したお湯を、お椀で汲み出し、湯舟となるたらいに移していく。
その時だ。缶を支えていた薪が灰になり、缶が大きく傾いた。逃げるだけの時間はなかった。煮えたぎった湯が、健太の左足を襲う。
「ぎゃあー、熱い!熱いよ~!足が熱い!とうちゃん、助けて!!」
それこそ火がついたように泣き叫ぶ。
「とうちゃん、とうちゃん、助けて!!」
「何やってんだ。どんくさい奴だ。水かけときゃあ治るさ、やけどなんて。しょがねぇなあ。ほら特別に手当してやるよ。とうちゃん特性の薬だ。」
と、与作は手に持っていた酒を、足に掛けた。
「ぎゃあー!、痛いよ、痛い!!何するんだよ、とうちゃん。死んじゃうよ!」
「馬鹿やろう!せっかくの酒掛けてやったのに。親に口ごたえするのか!」
与作は、烈火のごとく怒ると、健太を無理やり引きずり、雨水の入った、たらいの中に放り込んだ。
「やけどにはよ、水が一番だからよ。一日浸かってりゃあ治るさ。はっはっはっ・・」
酒をあおる様に飲み干しながら笑った。健太は、必死に這い出ようとするが、左足が痛くって力が入らない溢れる涙、止まらない。水びたしで、寒い、寒くって震えが止まらない。それでも何とか力を振り絞り、崩れ落ちるようにして這い出した。氷のように冷たい地面に、痛い足を引きずりながら、焚き木の残り火に近寄って行く。
「寒い・・寒いよう・・震えがとまらないよ・・足も、ちぎれちゃう。痛いよ、とうちゃん・・・」
蚊の鳴くような声で与作を呼ぶが、返事はない。
何度も繰り返し呼んでいたが、そのうち気を失うようにそのまま眠りについてしまった。
「おい、いつまで寝てるんだ。早く起きろ!今日は、ビンと缶の回収日だぞ。
早く行って酒拾ってこい。誰かに持って行かれたら、ただじゃあすまないぞ。」
汚れ雑巾のように、地面に倒れ寝ている健太を、与作は足で蹴る。
「ごめんなさい、とうちゃん。今回だけは許して。ごめん、足が痛いし、寒くって。」
健太は、唇をガタガタ震わせながら、蚊の鳴く様な声で言う。
「何言ってるんだ、この馬鹿が!甘えるのいい加減しろ!足なんか引きずってでも行って来い!」
与作は、震える健太を引きずり、容赦なく寒空のもとに放り出した。また、涙があふれてくる。震えも止まらない。それでも健太は、足を引きずり収集場所に向かった。与作が、怖かった。コンクリートに引きずられ、やけどの痕から血がにじんで、血のりの道ができた。
やっとの思いで、収集場所にたどり着いが、既に何も残されていなかった。背筋が凍った。遅かったのだ。家を出た時間は、確かにいつもよりは遅かったが、それでも五分と違っていない。道中、時間がかかり過ぎたのだ。
「ああ・・どうしよう。また、怒られるだろうなあ・・でも、仕方ないよなあ。足が痛いし、正直に話せば、とうちゃんも許してくれるよな。」
自分に言い聞かせるよに、独り言をつぶやきながら帰った。
「馬鹿やろう!!だから早く行けって言っただろう。すぐ、隣町まで行って拾ってこい!」
「ごめん、とうちゃん。今回だけは、許して。お酒辛抱してよ。」
「駄目だ。すぐ行け!早く行かないと、また回収されちまうぞ!」
いやがる健太を、また無理に引きずり外に連れ出す。やけどの跡に、地面の砂が入り込む。
「いやだよ・・いやだ・・行きたくないよ。とうちゃんだろ。俺のとうちゃんなら許してよ。足が痛いし、寒くって震えが止まらないんだ。」
泣き叫ぶ健太を、地面に叩き付けるように手を離すと、
「うっとうしいガキだなあ。今まで黙って育ててやったけど、実なあ、お前の親なんて知らないし、当然お前は俺の子供でもない。空き地に捨てられてたお前を拾って育ててやったのさ。」
「えっ、うそでしょう。とうちゃん、俺、とうちゃんの子だよね。ねぇ!」
「捨て猫だよ、お前は。育てて、拾い物とか残飯集めに使おうと思ってたんだよ。だから今から酒拾ってくるんだよ!」
「いやだあ、死んじゃうよ、こんな身体で隣町まで行ったら。とうちゃん許してよ。もっといい子になるから。来週はお酒拾ってくるから。」
「来週じゃあだめなんだよ。今、飲みてんだよ。死ぬ?へぇ~野垂れ死にするなら、しちまえばいいさ。埋める手間が省けるっていうもんさ。」
無理やり引きずって行く。地面に爪を立て、必死に抵抗する健太の手に、焚火の灰が・・・
「馬鹿やろう!何しやがる。この死にぞこないが!」
とっさに投げつけた灰が、与作の目に入った。目が見えないまま、狂ったように健太を探しまわる。
「おい、こら!どこに隠れた。出てこい。ぶっ殺してやる!」
部屋の隅で、息を潜め震える健太。暴れまくる与作の手が、立てかけてあった角材に触れた。
その、瞬間・・・!
「ぎゃあ・・」
与作の悲鳴と同時に、土煙が上がった。一瞬何が起こったのか、わからなかった健太だったが、土煙の向こうで、角材の下敷きになり、うめき声をあげている与作が、目に飛び込んできた。
「と、と、とうちゃん!」
意識を失っているのか、返事はない。健太は、とっさにその場から逃げた。自分でも何を叫んでいるのかは、わからないが、ただただ大声を張り上げながら、痛い足を引きずりながら、とにかく逃げた。自分は、何故逃げているのか、どこに向って逃げてるのか、どれだけ逃げたのか、何もわからず、何も考えず、一心不乱に逃げた。どれだけ走ったのかは、わからなかったが、健太は柔らかい布切れの束の上で、意識を失った。
気持ちが良かった。ゆっくりゆっくり揺られ、それはそれは心地よい。まるで、ゆりかごの上で眠っている感じがした。そっと薄目を開けて見ると、真っ青な空が見えた。寒いのに、なぜか空気がおいしかった。
「あ、痛てて・・足が・・」
目を覚まし、我に返った途端、激痛が走った。その瞬間、ゆりかごから地面に叩き付けられた。振り返って見ると、リヤカーが遠ざかって行く。慌てて周りを見渡してビックリだ。眠りにつく前との景色とは、一変している。
「えっ・・ここって、どこなの?」
健太の暮らしていた都会とは違い、周りは山に囲まれ、田園が続く。
(ええっ!・・どこ?・・まずいよ・・知らない町に来ちゃった・・)
周りを見渡しているうちに、頭がクラクラしてきた。リヤカーから落ちた時、頭を打ち付けたせいだ。
「だめだあ〜。フラフラする~。」
健太は、そのまま崩れ込むように、その場で意識を失ってしまった。
「一、二、一、二、一、二」
甲高い号令が、のどかな田園に響きわたる。この町の軍隊らしき集団が、健太に近づいてくる。
「なんだ、この汚い奴は。死んでるのか?」
先頭の露払いが、銃の先で突き、まるでゴミでも掃くかのように、健太を、土手の上から掃き捨てた。
「一、二、一、二、一、二」
何事もなかったかのように、軍隊の隊列が続いていく。土手の下に転がった健太の身体は、生きる屍のように見えた。
やがて、雨が降り出した。屍に鞭を打つとは、まさしくこのような光景をいうのであろう。激しく、健太の身体を打ち付けた雨は、しばらしてやんだ。
お城の夕食の山菜を摘みに、女中の昌子が、土手を降りて来る。雨上がりは、山菜採りにはうってつけなのだ。この時期、昌子が摘んだセリや、ふきのとうが、王室の食卓を並ぶ時もある。雨で滑りやすくなった足下に気を配りながら、ゆっくり降りていく。特に、ふきのとうは、芽吹いたばかりで、見落としがちになるので、目を凝らして摘んでいく。
「あっ、えっ、何!?」
雨に濡れて、さらに小さくなった健太の姿が、昌子の目に飛び込んできた。一瞬、死んでいるのかと思ったが、かすかに息があった。
トントントン、トントントン・・・
「むっん~、ZZ・・あ〜、あ~。」
心地よいリズム音で、健太は目が覚めた。
(いい匂い・・ここって天国?・・天国っていい匂いがするんだあ・・)
匂いに誘われるかのように、起き上がって、ビックリした。
「あれ、足に包帯が巻いてあるし、あんなに痛かったのに、痛みが和らいでる。」
ベットから降りて、おそるおそる歩いてみた。
「やったあ!僕、歩ける。やったあ!天国って、案外いいところだなあ、死んでも生きてるし?へへ。」
ちんばを引きながら、いい匂いが漂ってくる隣の部屋を、そっと覗き込んだ。豊達の、母親と同年代ぐらいの女性が、料理を作っていた。痛い足を忍ばせながら近づいてくと、
「坊や、起きたのかい。足はどう?少しは痛みなくなった?」
振り返りもせず、突然声を掛けられたので、一瞬ビックリしたが、
「うん、まだ痛いけど、すごく良くなったよ。この包帯巻いてくれたの、神様なの・・?」
天国にいるのだから、料理を作っているは神様だ。
「えっ、私が神様だって!?」
ちょっと、驚いた感じで鍋をかき回しながら言った。
「ごめん、女神様だよね。優しい女神様だあ。」
「神様ね、神様に例えるなら、貧乏神かなあ、なんてね。ははは、何、いつまでも寝ぼけてるの。私は普通のおばさんで、ここは天国じゃあないし、坊やは生きてるんだよ。」
振り返り、満面の笑が健太を迎えた。
「えっ、僕、生きてるの?おばさんが助けてくれたの?この足も治してくれたの?」
「そうだよ。良く効くだろう、その薬。ネコバームっていって、やけどには一番良く効くお薬なんだよ。」
料理の手を休めず話し、自分はおばさんではなく、名前は、昌子だと伝えた。
「僕は、健太っていうんだよ。歳は二歳で・・」
と、自分のことを、あれこれ話し始めたのだが、健太という名前と、二歳という歳を耳にした途端、昌子の包丁を持つ手が止まり、ここからの健太の話は、もはや耳に入らなくなっていた。
「ねえ、昌子おばさん、どうしたの?ぽーっとしちゃって。」
すぐ後ろまで近づいて腰に手を掛けて揺すった。
「あ・・、ごめんね。ちょっと考えごとしてたの。へぇ、健太君かあ、いい名前ね。」
どこがいい名前なのか良くわからなかったが、健太は、何か褒められたようでうれしくって笑顔になる。
「さあ、出来たよ。食べようね。」
食卓に、料理が並んだ。健太には、初めて目にする物ばかりだ。
「えっ!僕も食べていいの?」
「もちろんだよ。健太君のために作ったんだから。さあ、二人で食べようね。」
「やったあー☆彡うれしいなあー。」
ちょこんと椅子に座り
「いただきまーす。」
うれしくって、小さな身体が椅子の上で踊ってしまう。
「みんな、おいしいなあ~♪ねえ、これって、なあに?えっ、じゃあ、これは?」
質問責めの健太だ。そんな健太を、微笑みながら昌子は、見つめていた。
「おばさんは、食べないの?みんなおいしいよ。」
健太の言葉に、昌子は、はっとして箸を手にとった。普通の生活なら、何気ない食事の風景だが、何故かそこには、ほのぼのとした空気が流れ、笑顔が絶えず、愛が溢れているように見えた。これまでの人生を思い起こせば、健太にとっては、ここはまさしく天国だった。
昌子は、食事をしながら、健太にこれまでの、生い立ち話を聞いた。衰弱した健太を初めて見た時から、大体の想像はついていたが、健太の話す内容は昌子の想像を、遥かに超えるものだった。涙をこらえ、話を聞いた。
「辛かったね。お茶お代わりしようね。」
と、席立ち背を向け、そっと涙をぬぐった。
「でもさあ、僕、とうちゃんが心配なんだよね。」
背中越しに、話す健太は、あいも変わらず、お人よしだ。
「ここで、おばちゃんと暮らさないかい。」
ぽつりと、昌子が言った。
「えっ!僕・・・」
きょとんする健太。
「おばちゃんもね、一人で寂しかったし、ここはお城の中だけど、この家はおばちゃんのものだから、王様に頼めば大丈夫だから。」
少し、うそを言った。
健太が今いる国は、東の国であり、シン国王が政権を握る独裁国家である。絶えず領土の拡大を視野に、複数の隣国とは、国境線を境に争いが続いていた。また、健太が以前暮らしていた国は、西の国であり、ヨミ国王が政権を誇っていた。こちらは、争いを好まぬ民主主義の平和な国であったが、攻め寄せる東国とは自らの領土を守るために、やむなく戦争を続けていた。そんな両国の間にも、一日一便だけ、それぞれの国に引き裂かれてしまった親族に、頼りが出せる制度があり、健太は何も知らず、その手紙を運ぶ荷車に乗り、西国から、この東国に運ばれて来てしまったのだ。
昌子は、まず知り合いの軍隊長・リー軍曹に相談することにした。かっぷくのいい、中年のリー軍曹は、健太の足が治り次第、軍隊に入ることを条件に、その日のうちに、シン国王に話をしてくれることを約束した。子猫一匹のこと、簡単に話は済み、健太は昌子のもとで、暮らせることになった。
「やったー、よかったね。昌子おばさん。僕、うれしいなあ。」
大きな目を、クリクリさせながら喜ぶ健太。
「私もうれしいよ。一人は寂しいもんね。でも、その足が治ったら、兵隊さんにならないといけないんだよ。頑張らないとね。それと、お約束ごとが三つ。」
昌子は、次の三つの事を健太と二人約束ごとして決めた。
○ ご飯は、何でも残さず食べる。
○ 挨拶は、きちんとする。
○ お互いうそはつかない。
簡単なお約束だ。
兵隊にはなりたくないが、健太は、毎日が楽しくって仕方がなった。二人で山菜を採りに出かけたり、川に魚を捕まえに行ったり、お風呂にも入ったり、夢のような日々が続いた。
足のやけども、日に日に良くなってはきたが、いまだに足を引きずっていた。やけど自体も酷かったうえに、これといった治療もせず放置していたため、おそらく障害が残りそうだった。でも最近、健太はその方がいいと思っていた。何故なら、足が治ったら、軍隊に入らないといけないからだ。
「おばちゃん、今日も、川にお魚捕まえに連れてって。ねぇ、行こうよ。」
最近、何かとじゃれてくる。
「今日は忙しいから、また今度ね。」
「え~、行こうよ、行きたいよ。」
「わがまま言って。今日はね、買い出しが多いから無理なのよ。猫の手も借りたいぐらいなのよ。」
「うん、いいよ。ほら、貸してあげる。」
昌子の言葉に、小さな手をひょいと差し出す。二人の目が合い、笑顔が溢れる。健太は、幸せだった。幸せすぎて、幸せすぎて、一日があっと言う間に過ぎて行く。
そんな、幸せそうな健太を、面白く思っていない、三兄弟がいた。佐助・喜助・金助の三人だ。
「あいつだよなあ、最近、台所に住みついてる奴。」
「ああ、そうだよ。いつの間にか住みついて、遊んでばかりいやがる。」
「俺達みたいに、何で軍隊に入らないんだ。気に食わない奴だ。」
柱の陰から、健太をにらみつけるようして話し合う。
「よし、挨拶に行こうじゃあないか。」
佐助の言葉に、二人が後に続く。
家の中に昌子がいないことを確認すると、三兄弟が入ってきた。
健太は、足の長い食卓の椅子に、チョコンと座り、マグカップでミルクを飲んでいた。
「おい、チビ!じゃまするぜ!」
ビックリして、振り返ると、自分の背丈の倍はある三人が、肩をいからせ立っていた。
「あっ、ビックリしちゃったよ。何・・何か用事?」
きょとんとして聞く、のんき者。
「お前、いつからここにいるのかは知らないが、俺達に挨拶がないのは、何でだよ!」
佐助が、近づいてくる。
「えっ、挨拶・・あ、そうだよね、初めて会うんだもんね。こんにちは、僕ね、健太っていう名前なの。よろしくね。」
「よろしくねだって!?何、のんきなこと言ってるんだよ。おい、健太、お前ムカつくタイプだよあ。」
喜助が、健太の顔を覗き込むようにして言う。
「えっ、どうして・・仲良くお友達になろうよ、ねぇ。」
「なんで、俺達がお前と友達にならなきぁいけないんだよ!!」
今度は、金助が大きな声で怒鳴りつけた。
「なんだこれ、ママのミルクか。軍隊にも入らず、昼間からこんな物飲んで、いい身分だよなあ。」
と、健太が持っていたマグカップを、佐助が奪った。
「あっ、何するの、やめてよ。僕のミルク返してよ。」
手を伸ばして取り返そうとした瞬間、椅子から落ちてしまった。
「あ、痛てて・・ねぇ、返して。お願いだから。」
必死に手を伸ばすが届かない。
「ほら、ほら、返して欲しいか、ママのミルク。」
馬鹿にしながら、マグカップを掲げていた佐助が、敷居にけつまずいて後ろ向きに転んでしまった。
「馬鹿やろう。何しやがるんだ!」
自分が悪いくせに、怒鳴りつけ、起ち上がると、転がったマグカップを、思いっきり蹴とばした。
壁にあたり、割れてしまうマグカップ。
「ひどい!ひどいよ.7何でそんなことするの。僕、何もしてないのに・・」
健太は、泣きそうだ。
「あにき、こんないい物があった。」
金助が持ってきたのは、マッチの箱だ。
「だめ!!絶対にだめ!!火はだめ、やめて!!」
それこそ、火が付いたように叫ぶ健太。
健太は、火が怖いのだ。やけどしたあの日のことを、思い出してしまう。怖くって、恐ろしくってたまらないのだ。
「お願いだから、火はやめて。」
何故か、やけどした足をさすりながら、泣く。
「へぇ~、そんなに火が好きなら、今、点けて見せてやるよ。」
金助が、マッチ棒を取り出した。健太は足をさすりながら、後ずさりしていくうちに、タンスとタンスの小さな隙間に入り込んでしまった。ブルブル震えがとまらない。足が痛い。
「へへへ、こいつ、こんなに震えてるぜ。おんもしれぇ。それー!」
薄笑いを浮かべ、金助がマッチ棒を健太の顔に近づける。
シュー・・
青白い炎が、四人の顔を照らした。
「ぎぁ~、やめて、消して!!お願いだから、何でも言うこと聞くから!!」
健太が、泣き叫んだ時、
「何してるの、お前たち!!うちの子に!」
昌子が帰って来た。顔は、鬼の形相だ。
「出ておいき、この、愚連隊が!!」
「うるせー、ばばあが!言われなくても帰ってやるよ。」
佐助が、吐き捨てるように言い、三兄弟は部屋を出て行った。
昌子は、手に持っていた荷物を投げ捨てるようにして、健太のもとに走り寄り、思いっきり抱きしめる。
昌子の身体まで震わせてしまうほど、健太は怯え震えている。
「大丈夫だよ。もう、大丈夫だからね。おばちゃんが悪かったね、一人にしちゃったから。こんなに辛い思いさせちゃたね。ごめんね。」
強く、強く、抱きしめた。我が子を抱く母のように・・
この日以来、健太はひと時も、昌子のそはを離れなくなった。
「今日も、厳しかったなあ軍隊の訓練。」
「あんなにしごかれたら、身が持たないし、夕飯も足りないよなあ。」
「いつも、粗末な飯だもんなあ。」
夕食の後、愚連隊の三兄弟は、城内を散歩していた。
「腹へったなぁ・・どこかに、食いもんないかなあ。」
喜助の言葉に、
「あるさ。あのばばあの所に行けば。」
佐助が言う。
「健太の所か・・」
喜助が返す。
「あったあった。この前、行ったとき、食い物が一杯あった。」
金助が、薄笑いを浮かべた。悪い奴らの、話は早い。今夜、決行が決まった。
深夜、二人が寝静まったのを待ち、勝手口から忍び込んだ。肉きゅうに、力を入れず、柔らかく柔らかく・・そっと、そっと・・キッチンに向う。
「おい、チーズがあるぞ。」
「こっちには、干物がある。」
「肉も、ほら、こんなにあるぞ。」
次々と、口に運ぶ。
三日分は、食べたはずだ。腹を満たした三兄弟は、次に隣の部屋に忍び込んだ。昌子の身の回り品が、所狭しと並んでいる。
「腹の次は、懐だよなあ。」
暗闇の中で、六つの目が光る。タンスの引き出し、化粧台の中。引っ掻き回したが、これといった金目の物は、無かった。
「しけたもんだなあ。何もねえや。帰ろうか。」
佐助の言葉に、二人が続いて出て行った。
「また、おしっこしたくなっちゃった・・眠いなぁ・・」
その時、目をこすりながらトイレに起きて来た健太は、ビックリして、ちびりそうになった。
「おばさん、大変だよ、大変!泥棒だよ!」
健太の叫びに、昌子が慌てて起きてきた。
そして、目を疑い絶句した。
「何これ・・誰が・・」
と、一瞬思ったが、食べ散らかされた後を見て、あの三兄弟の顔がすぐ浮かんだ。その量が尋常ではないし、複数あった足痕も、あの三兄弟の物だと思った。
「ねぇ、おばさん。軍隊の人を呼んで、犯人捕まえてもらおうよ。」
と、健太は言ったが、昌子は、首を横に振り、
「いいのよ。おばさんは大丈夫だから、健太君がいじめられたら許せないけど
泥棒に食べられた物なら、また、二人で採りに行けばいいし、部屋も片付ければ
済むからね。台所は食べ残しとか汚いから、健太君は隣の部屋、頼んでいいかしら。」
「う、うん・・でも・・いいの?」
「いいのよ。さあ、片付けましょうね。」
健太は、昌子の言葉に促されるようにして、渋々、隣の部屋に入って行った。
床に散乱した洋服や下着、小物品などを拾い、片付けていた健太の手が、一枚の写真を見つけ、その時、止まった。
一人の女性が、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いている写真だ。
赤ちゃんを抱いているのは、間違いなく昌子なのだが、抱かれている子が健太と同じ茶トラ系なのだ。別にそれだけなら、問題もないのだが、健太が驚いたのは、左足に自分と同じ星の形の毛並みがあるのだ。
色も形も、自分の物と全く同じなのだ。
健太は、自分の足を見つめた。
そして、写真の裏を見た。
< 20✕✕年・5月19日・母・昌子 子・健太 0歳 >
しばらく、声が出なかった。
「えっ・・何・・これ・・僕なの・・」
写真に問いかけるが、応えはない。
「どう?健太君。少しは片付いたかしら。」
昌子の声に、慌てて振り返ると、とっさに写真を隠した。
「あれ?今何か後ろに隠したでしょう。何、見せてごらん。」
覗き込むようにして聞いた。
「何もないよ。隠してなんかいないよ。」
もじもじする健太の背中に、昌子は、ひょいと手を回して、持っていた写真を抜き取った。
「あっ・・!!」
手にした物を見て、絶句する昌子。
(しまった・・健太にキッチンを片付けさせればよかった・・)
健太に会うまでは、肌身離さず持っていたが、健太が来てからは、もし、一緒にいる時に
落としたりしてはいけないと思い、タンスの奥に隠していたのだ。
「これ、おばちゃんでしょう。この赤ちゃん・・って僕なの?」
写真を持ち、立ち尽くしている昌子を見上げる。
「ああ・・この赤ちゃんね。健太君なわけないでしょう。同じ名前だけよ。」
少しどもった感じになってしまう。
「これ、僕だよ。ほら、一緒でしょう。ねぇ、見て。」
やけどのせいでただれていた毛が生え代わり、綺麗な星型模様の毛並みを見せた。
黙っている昌子。
「ねぇ。おばちゃん、約束したよね、僕たち。お互いうそはつかないって。」
見上げながら一生懸命に話す健太の姿に、涙が溢れてきた。
「おばちゃん、泣いてるの?なんで、泣いてるの?僕、何も怒ってないのに。」
健太はまだ幼い。そして、お人よしで、心優しい子なのだ。
「ごめんなさい・・おばちゃんね・・」
「うん、何・・?」
あいも変わらず、キョトンしている。
昌子は、涙をぬぐいながら、すべてを話すことに決めた。
「こめんね。本当にごめんね。健太君の思ってるとおりだよ。」
健太の前に座って、笑顔を見せた。
「本当!やっぱり、僕なんだね、写真の赤ちゃん。僕ね、前からおばちゃんがお母さんじゃないかなあって思ってたんだよ。」
満面の笑みで話す。
「本当にごめんなさいね。おばちゃんを許してくれるの?」
「何を、許すの・・何も悪いことしてないのに・・」
「お前を、一人にしちゃったこと、それに、こんなひどいやけどをしたり辛い思いをさせてしまた・・」
「おばちゃんは、すごく優しいから、何か理由があったんだよね。でも、いいよ、こうして会えたんだもん。だから、みーんな許してあげる。」
昌子は、号泣しながら、目の前の健太を抱きしめた。
「健太、会いたかったよ。辛かったね。寂しい思いさせて。でもこれからはずっと一緒だから。」
「うん、ねぇ・・おばちゃんのこと、おかあさんって呼んでもいいの?」
昌子の胸に顔を埋め、聞く。
「もちろんだよ。おかあさんって呼んでくれるの、健太。」
「あったかいなあ~・・お母さんの胸。お母さんって暖かいんだね。」
「ああ・・そうだよ、健太。」
「大好きだよ。お母さん。へへ」
クリクリした大きな目は、涙で溢れていたが、満面の笑みを浮かべ、幸せを感じている健太だった。
「おはよう、おかあさん。へへ」
朝食の支度をしている昌子の背中に抱きつく。
「おはよう、よく眠れたかい。」
「うん、おかあさん。お布団の中、すごく暖かくって、よく眠れたよ。いい匂いもしたし。」
当然、昌子の身体は、赤ちゃんの時の健太のぬくもりを覚えていたが、健太には、母のぬくもりの記憶はない。
生まれて初めて母の胸で眠り、その暖かさ、心のぬくもりを感じた夜だった。
いつも湿ったダンボールの上で、凍えそうになりながら過ごした与作との日々とはまさに、天国と地獄の差だった。
その日も、いつものように健太を寝かしつけた昌子は、夜中、一人で城内の庭で、ある男と会っていた。
知り合いの軍隊長・リー軍曹である。
「彼に、息子だと話したそうですね。」
リー軍曹が聞く。
「はい。」
小さく、昌子がうなずく。
「間違いなくあなたの息子なのですね。いつ、どうしてそう確信されたのですか?」
軍曹が、昌子を見下ろすようにして聞く。
「土手で、死にかけていたあの子を見つけた時、もしやと思いました。でも、あの子のアザがやけどで
ただれ解らなかったのですが、名前は同じ健太、歳も同じ、そしてやけどが癒え、生え変わった茶トラ
の毛に、真っ白な星型のアザが浮かびあがった瞬間、確信致しました。」
昌子は、涙声になっている。
「では、彼が西国の王子であることも、話されたのですか。」
「いいえ、まさか・・そのことは一生隠し続けるつもりです。」
「それはどうでしょうか・・行方不明になっていた王子が見つかったのですよ。そして彼は、今、私たちの目の前にいる。彼に本当のことを伝え、西国の王様の元へ送り届けるべきではないでしょうか。」
「それは出来ません。西国に送り届けるということは、健太をまた手放すということです。私は、もう二度とあの子を手放すつもりはありません。また寂しい思いをさせることは、 絶対に嫌なのです。」
「確かに、王子はあなたの息子だが、それ以上に西国の王位継承者なのですよ。」
「そんなことは解っています。でも、私にとっては、もう、そんなことはどうでもいいことなのです。あの子は、私の子、私だけのものなのです。」
訴えるように、昌子は言い放つと、さっさと家に帰ってしまった。
二人の会話から、健太が西国の王子であり、王位継承者であることは理解していただけたと思うが、ここで簡単に健太の経歴・生い立ちについて話しておこう。
西国のヨミ国王には、正室の他にも数人の側室がいた。
正室との間には、三人の子供がいたが、すべて女の子であった。
また、数人の側室との間にも子供は出来たが、何故か男の子は病にかかり死んでしまったり、敵国の手にかかり、殺されてしまっている。
健太の母、昌子もヨミ国王の側室であり、健太の父はヨミ国王なのだ。
西国の昔からの決めごとで、子供を産んだ側室は、城から追放され、我が子とは一緒に暮らすことは
許されない。昌子も、例外ではなく健太を産んだのち、しばらくして城を追い出されてたのである。
健太の悲劇は、ここから始まる。
当時、城の憲兵を務めていた健太の育ての父である与作は、その地位を利用し、城の金品を売買していた。やがてその行為が露見し、処罰されることになった夜、与作は健太を誘拐して、逃走したのである。
与作は、健太が赤ん坊の時から、自分が父親だと教え込み育て、やがて一人歩きできるようになると、召使いのように働かせた。
そして、やがては、王位継承者である健太を差し出し、金品との引き換えを目論んでいたのである。
そして、リ-軍曹は、実は西国のヨミ国王の重臣であるが、ある時スパイとして侵入し、今は、東国のシン国王に仕えていた。
そして昌子は、側室当時、城内で顔見知りになったリー軍曹を頼り、西国を出て、東国の国王のお手伝いの仕事を世話してもらい、現在に至っている。
もし、西国との戦争が始まれば、王子として軍隊を率いる健太がここに攻めてくるかも知れない。そうなれば、二度と会うことはないと、あきらめた息子に会えるかも知れない。そんなわずかな奇跡を信じ、毎日を過ごしていたのである。
健太のもとに帰った昌子は、ベットの脇にそっと座った。
天使の寝顔だと、健太の添い寝をしながら毎晩思う。
この子の為なら、この子が辛く苦しい時間を過ごしてきたこと、いや、させてしまったことを思えば、何でもできるし、西国を相手に戦えるとさえ思うのだ。母としての、無償の愛だ。
愚連隊三兄弟は、今日も腹を空かしていた。
「おい、また健太の家に忍び込んで何か腹に入れようぜ。」
喜助が、腹をさすりながら言うと、
「いや、この前忍び込んだばかりだし、あいつをいじめてたところも、あのババアに見られたし、今日は、思い切って宮殿に忍び込んでみようぜ。」
佐助が、城を見上げながら言う。
「えっ!宮殿はまずいよ。見つかったら殺されちゃうよ。」
一番下の弟、金助が顔を震わせる。
「大丈夫だよ。城内に入るのには憲兵がいるけど、俺達はすでに城内の中だし、夜の料理室は誰も見張りなんかいないんだよ。」
自慢げな佐助。
「えっ!うそ、誰もいないの?」
目を丸くする金助。
佐助の言うように、武器室や、弾薬室、国王の部屋の回りには、必ず見張り番が交代で勤務していたが、
料理室の警備は手薄であった。そのことを、兵隊勤務になる前、掃除係をしていた佐助は、熟知していたのだ。
「食いもんの量もすごいし、味だってきっとうまいぞ。それに、こんないい物もあるんだ。」
佐助が、二人に見せた物は、使い古された包帯の端切れだった。
「何これ・・?」
金助が、不思議な顔をして問う。
「もしかして、あいつの包帯?」
「ああ、そうだよ。あいつが使ってる足の包帯さ。この前忍び込んだ時、洗濯カゴに入ってたのをちょっと拝借したってわけさ。」
「拝借したのはいいけど、何に使うの・・?」
まだ、不思議そうな顔してる金助。
「お前鈍いなあ・・その汚い包帯を、忍び込んだ料理室に、置いてくるんだよ。」
喜助が、薄笑いを浮かべた。
佐助の言ったとおり、料理室には簡単に忍び込めた。そこで見た料理は、うまれて初めて見る物ばかりだった。
「すげぇー!めちゃくちゃうまそうだなあ。」
目を輝かせる喜助。
「いい匂い・・もう我慢できない。」
金助が、肉のかたまりに食いついた。二人も遅れてなるかと、次々と食い漁っていく。両手に食っては取り、取っては口に運ぶ。
「げっふ~・・」
「はぁ~、食った、食った。」
「王様は、毎日こんないい物食べてるのかあ。いいなあ、王様は。」
三兄弟は、床に座り込み、はち切れそうになったお腹をさすりながら言う。
「もう、動けねぇ~。」
喜助が、大の字に寝転がった瞬間、
コッコッコッ・・
足音が聞こえてきた。
「まずい、誰かくるぞ!」
佐助が、立ち上がり叫ぶ。
「逃げるぞ!」
のろのろしている弟たちを怒鳴りつけ自ら駆け出した。後を追う、喜助と金助。腹が、重い。気持ち悪くなって吐きそうだ。捕まったら、極刑かもしれない。とにかく、逃げに逃げた。
三兄弟が、食い散らかした現場には、憲兵達の姿があった。
「何だ!こんなことしやがって。」
「めちゃめちゃだなあ。」
「馬鹿やろう!絶対に捕まえやるからな。こそドロが。」
憲兵達は、口々に文句を言いながら、犯人の手かがりを探し始めた。汚された床は、さっそく掃除係りが呼ばれ、片付け始めた。テーブルの上、階段、渡り廊下まで数人の憲兵達が徹底的に調べている。
「おーい、こんな物が廊下に落ちてたぞ。」
と、若い憲兵が、何か白い小さな布の端切れを掲げて声を上げた。
その声に、すべての憲兵達が集まって来た。
「何だ、これは?」
立派なあごひげを蓄えた憲兵が覗き込む。
「包帯だなあ。それも、かなり使い込んである。」
小さな布切れを、すべての憲兵達が見つめながら、もごもご独り言が、あちらこちらから聞こえてくる。
「あっ!」
突然一人の憲兵が、大きな声を上げた。
「馬鹿やろう!ビックリするじゃないか。突然、大きな声出しやがって。」
と、その男の上司の憲兵が言った。
「す、すいません。突然大きな声出してしまって。でも、自分、その包帯の持ち主、知っております。
女中の昌子の所に、最近住み着いている子供の物だと思います。」
敬礼をしながら、その憲兵は報告するように話した。
「女中の所にいる子供・・?」
上司の憲兵が聞き返すと、今度は違う憲兵が、
「自分も、その子供を見たことがあります。確かに足を怪我しており、包帯が巻かれていました。」
軍隊の会話は、報告じみた口調になるらしい。
「よし、そいつを捕まえて尋問だ。必ず吐かせてやるぞ。」
上司の憲兵は、長いひげをさするように言うと、号令を掛け、憲兵達は一斉に健太の所へ向かった。
誰もいなくなってしまった料理室に、一人の男が立っていた。
リー軍曹だ。
彼も憲兵達と一緒に現場にいたのだ。
「王子の包帯・・まさか、あの小さな身体で、この量は無理だし、食事にも困っていないはず・・」
(まずい、このままでは王子が捕まってしまう・・何とか手を打たないと・・)
気持ちだけが焦るが、手だてが何も浮かんでこない。
「落ち着いて考えるんだ。まず、ここを荒らした奴を探すんだ。必ず手かがりがあるはずだ。」
リー軍曹は、自分に言い聞かせ、現場検証を始めた。
すでに、床に散らばっていた残飯は、掃除係の手により片付けられていたが、料理の食い差しは、
まだそのまま台の上に残っていた。
一口だけかじってやめた物、すべて食べきってある皿、リー軍曹は丁寧に調べていった。
そして、あることに気がついたのである。かじった痕の大きさが違いと、歯型痕だ。つまり、口の大きさや歯型が違うのだ。さらによく見て調べていくと、どうも三種類に判別できる。犯人は、一人ではなく三人なのだ。これで、食い荒らされた量の多さにも納得がいく。
そして、さらに彼は、重要な証拠を見つけていた。それは、ケーキに残された鈴の痕だ。彼は、自分の頭の中で、その場面を、次のように想像し、推理してみた。
犯人の一人は、顔を押し付けるようにしてケーキを食べた。そのため、首につけている鈴の形がケーキについた。この鈴をつけている奴が、犯人の一人である。
「はぁ・はぁ・気持ち悪い・・もう、だめだ・・」
城内の芝生の上に大の字になり、喜助が息を切らせながら叫ぶ。
「俺も、もうだめだあ・・目が回ってる・・吐きそう・・」
汗が光る額に、腕を乗せこちらも大の字になった金助が言う。
「ここまで来れば、もう大丈夫だ。お前たちは、ここで休んでろ。俺はもう一仕事してくるから。」
と、くたばっている弟達に声を掛け、走り出そうとしたが、何かに気がついたのか、
「おい、ちょっと起きろ。」
と、金助に声を掛けた。
「何、兄ちゃん。あっ、何するの!」
起き上がった瞬間、佐助は、金助の鈴を引きちぎったのだ。
「こんなに、クリームつけやがって。顔と首、洗っておけよ。いいな。」
佐助は、金助に命令するように言いつけると、駆け出して行った。城内ある池に、鈴を放り投げ捨てた。
「はぁー、はぁー、着いたぞ。」
息を切らせ見上げた佐助の目の前には、健太の家があった。
「よし、もう一仕事だ。」
裏庭に回り込むと、勝手口の隙間から中に入った。夜中の二時、二人の寝息が聞こえてくる。肉キュウの力を抜き、足を忍ばせ健太に近づいた。手には、二つの物が握られていた。
「へへへ・・面白いことになるぞ。」
苦笑いを浮かべると、手に持っていたナフキンの包みを開き、ケーキのクリームを指に取り、健太のひげに塗った。
そして、次に台所に行くと、もう一つの包みから、フライドチキンを取り出し床にそっと置いた。
「おーい、ここだ。ここの子供だ。」
複数の足音と共に、外で大声がした。
「やべー、思ったり早かったなあ。ぎりぎりセーフって感じ。」
チョロット舌を出すと、その場を逃げ出した。
「おーい、起きろ。戸を開けるんだ!」
怒鳴り声をあげ戸を叩く。
「えっ!誰ですか、こんな夜中に。」
怒鳴り声に驚き、飛び起きる昌子。
「憲兵だ。話しがある。早く開けるんだ。」
「はい、今明けますので、戸を叩かないでください。子供が寝てるんです。」
恐る恐る戸を開けた瞬間に、雪崩込むように、男達が入ってきた。その勢いに昌子は、押し倒されてしまった。
「おい、起きろ!」
この騒ぎ中、むにゅむにゅしてる、お人よしの健太。
「なあに・・おじさん、誰?」
目をこする。
「誰でもいい、早く起きろ!}
無理やり布団を、剥ぎ取ると健太の首根っこを掴みベットから持ち上げた。
「何をするんですか!!やめてください。いきなり部屋に入ってきて。この子を離してください。」
昌子が、泣き叫びながら憲兵の元に飛んで来た。
「こいつは、泥棒だ。王様の大切な料理を盗み食いしやがったんだ。」
掴んだ健太を、さらに高く釣り上げ睨みつけた。
「何を、馬鹿げたことを・・この子は、私と一緒にいました。盗み食いなどしていません。」
昌子は、毅然して言った。
「そんなことは、調べればすぐ・・」
と、言いかけた憲兵の目が、健太のひげを見て笑い声に変わった。
「ははは・・、なんだこれは、ケーキのクリームじゃあないか。ケーキなんて高級な物この家にはあるはずもない。これが盗み食いの証拠だ。」
健太のひげのクリームを、手で取り大声で笑いながら、そのクリームを舐めてしまった。
今度は、他の憲兵が、台所から一本フライドチキンを手に飛んできた。
「台所に、こんな物が落ちていました。」
(昌子は思った。誰かに、ハメられたんだわ・・いったい誰が・・)
昌子は、あせった。
「話は、ゆっくり聞かせてもらおうか。」
昌子が、必死にすがり止めようとしたが、まったく相手にならない。
「離して、離してよ。僕、何もしてないよ。」
宙ずりのままで、足をじたばたさせる。
「お願いです。その子を返してください。」
憲兵の足に、しがみつく。
「うるさい、離れろ!」
憲兵は怒鳴り、もう片方の足で、すがる昌子を蹴り飛した。
「おかあさんに、何するんだよ!おかあさん、大丈夫!」
必死に泣き叫ぶ。
「お願いです。この子は誰かにハメられたのです。お願いです。助けて下さい。」
今度は、その場に土下座をして、何度も何度も頭を地面にこすりつけた。
「そんなことをしたって無駄だよ。話は監獄で聞く。罰が決まったら、お前にも教えてやるから楽しみに待ってな。ハハハハ・・」
健太は、首根っこを掴まれたまま、昌子の前から連れて行かれてしまった。
「どうして・・どうしてこんなことに・・あの子を返して・・あの子を・・」
その場に泣き崩れ、起き上がることも出来ず、昌子はひたすら泣き続けるしかなかった。
健太は逮捕され、城の裏手にある牢獄に監禁された。昌子の家から、手の届くほどの距離だが、その距離はあまりにも遠い。
健太が、入れられた牢獄は、四方八方を鉄格子で囲まれ、湿気が多く日も差すこともなくムカデのような名もない虫達が這う、この世の地獄のような場所であった。
「寒いよ~・・寒い・・おかあさに会わせてよ・・」
鉄格子を掴み泣き叫ぶ声が、誰もいない監獄に空しく響き渡る。
「どうして、こんなことになっちゃうのかなあ・・」
膝を抱え、涙が溢れてくる、ぬぐってもぬぐっくても、溢れてくる。払っても払っても、虫が健太の身体にまとわりついてくる。
「もう、気持ち悪いなあ、あっち行け。」
寒さと、寂しさ、そして悲しみの中、一晩泣き続けた。
「おいチビ、いつまでめそめそしてやがる。取り調べだ。外に出ろ。」
翌日の昼過ぎ、憲兵に引っ張り出され、取調室に連れて行かれた。
取調室とは名ばかりで、ムチや角材などの道具が壁に掛けられており、薄暗く、冷たさだけを感じる、まさに拷問の部屋であった。
健太は、腕を縛られ床に正座させられ、その周りを五人の憲兵が囲む。
「正直に話せば何もしない。お前が盗み食いしたんだな。」
あのひげの憲兵が聞く。
「ううん・・僕じゃあないよ、本当だ・・」
健太が、最後まで答えぬうちにムチが撃たれた。
「痛い!痛いよ・・」
「痛いか、じゃあ、素直に話せ。お前がやったんだよな。」
「僕じゃあないよ。知らないよ。」
「しぶといガキだ!」
「ぎぁ!!痛い・・!」
容赦なく、ムチがしなり小さな健太を叩き付ける。
何度も、何度も・・振り下ろされる。
次第に、茶トラ系の可愛い毛色が、腫れあがり、いたる所から血が滲み出している。
意識が遠くなると、用意されている氷水を、頭から浴びせられた。
普段から小さい健太の身体は、さらに小さくドロと血、そして氷水で汚れた雑巾のように横たわって動かない。
「よし、少し休憩だ。そいつは、そのままにしておけ。もし死んだら、死んだ時だ。」
憲兵達は、誰とはなしに高笑いしながら、部屋から出て行った。
健太は、動かない。ピクリともしない。
生きた屍とは、まさに今の健太のことを言うのだろう。
微かだが、うめき声が聞こえてくる。
「おかあさ~ん、助けて・・おかあさん・・」
動かぬまま、母を呼び続ける健太だった。
何時ほど過ぎたであろうか、すでに外は闇に包まれていた。
昌子の時間は、健太が連れ去られた時で止まっていた。腰が抜けたように、その場に座り込んだままだった。
「えっ・・健太!」
健太の声が聞こえたように思えた。
(まさか、健太が帰ってきたの?・・)
そう思い、慌てて起ち上がり外に飛び出し、あたりを見渡したが、健太の姿はなかった。
うな垂れて中に戻ろうとした時、叫び声が聞こえた。
「ぎゃあ!!痛いよ、やめてよ。おかあさん助けて!!」
健太だ、健太の声だ!私を、呼んでいる、助けを求めて叫んでいるのだ。
昼間は、外の雑音や気配にかき消されて聞こえなかったのだ。昌子は、叫び声が聞こえてくる裏手の石垣にしがみついた。
「健太、健太ここの上にいるのね。おかあさんだよ。今、おかあさんが助けてあげるからね。」
昌子は、気が狂ったように泣き叫びながら、城の裏門の戸を叩く。
「痛いよぅ・・助けて、おかあさん、痛い・・」
健太の悲鳴が聞こえてくる。
「お願いです。誰か、この門を開けてください。お願いです。」
叩き続ける拳から血が滲んでいたが、重く黒い門はびくともしなかった。昌子は、その場に崩れ落ち、ただ泣くことしかできなかった。
リー軍曹は、必死に鈴の持ち主を捜していた。一人一人探していたのでは、時間がない。
軍隊訓練の際、服装検査と称して整列をさせ、あのケーキ痕の鈴を確認したのだが、持ち主は、見当たらなかった。
他に手かがりになる物はないが、単独犯ではなく、おそらく三人。しかし、ここは軍隊で、、仲良し三人組など見たことがない。
「三人かぁ・・三人なぁ・・あっ!」
別に友達仲間に限って考える必要などないのだ。三人組なら三兄弟でもいいのだ。なぜ、こんな簡単のことを忘れていた、自分が情けなかった。
この前の夜、昌子が佐助達のことを、少しだが話していたことも思い出した。いじめられていたと。
リー軍曹は、昌子を訪ねることにした。
「こんばんは、リーですが・・こんばんは。」
ノックに返事はないので、家の周辺を見渡すと、裏手門の前で倒れている昌子を見つけた。
「大丈夫ですか?何があったのです!」
昌子を抱きかかえるようにして聞く。
「あそこに、健太が・・健太が殺されてしまう・・助けて下さい、リー軍曹。」
震える声で、昌子が訴える。
「とりあえず、家に戻ろう。ここにいても、王子を救うことは出来ない。」
リー軍曹は、昌子を抱きかかえるようにして家に連れ戻し、ベットにそっと寝かせた。
また、健太の悲鳴が聞こえてくる。
「あなた、話しがあって来たのですが、また後で伺います。取りあえず私は、王子の様子を見てきます。大丈夫です。拷問はやめさせますから。」
そう言い残すと、部屋から出て取調室に向かった。
ビシ!ビシ!容赦ないムチの音が響きわたる廊下に、佐助の姿があった。自分達のことが、バレていないか心配になり偵察に来たのだ。
「あっ・・」
扉の隙間からそっと中の様子をのぞき込むと、あまりの惨さに、思わず声が出てしまった。
「誰だ、誰かいるのか!」
憲兵が、扉の方に向かって走って来る。逃げるにも、身体が金縛りにあったかのようにその場から、動くことができなかった。
「お前誰だ。何しに来た。あやしいなあ・・中に入れ!」
と、佐助は中に連れ込まれてしまった。
「あれ、お前佐助だなあ。」
一人の憲兵が、佐助の顔を見て言った。知り合いの憲兵が一人いたのである。
(あ、助かった・・)
と、ほっと胸を撫でおろす佐助。
「佐助、何しに来たんだ、お前。」
知り合いの憲兵が聞く。
「いや、ちょっと俺、そいつの友達なんで・・心配で・・」
と、頭をかいて見せた。
「強情な奴だよ。こいつ小さいくせに。知らないの一点張りだよ。」
(この拷問に耐えているのか・・早く自分がやったと言え。)
「そうなんですか・・でも、よかった。火を使って拷問されてたら辛かったと思って・・」
「火・・火って何のことだ。」
「いや・・こいつ何より火を怖がるから、ちょっと心配で・・」
と、舌を出して見せた。
「いいことを、教えてくれて、ありがとうよ。じゃあ、お前は帰っていいぞ。」
佐助は、外に出された。
憲兵の一人が、ジッポーのオイルを、木に巻き付けた布切れに染み込ませていく。気化していくガソリンのニオイが鼻につく。
「へっへっへっ・・いいことを教えてくれた。」
ひげの憲兵が、薄笑いを浮かべながら火を点けた。炎が燃え上がり、憲兵の顔が赤く浮かび上がる。
「ほら、起きろ。お前の大好きな物。しっぽに押し付けてやるからな。」
ひげの憲兵の声に、意識が遠のく中振り返った。
「ぎぁ~、やめて・・助けて・・お願いだから・・」
悲鳴をあげる健太。
「そうか、そんなに好きなら、ほら、押し付けてやるよ。」
前に増して、大きな悲鳴をあげる。
その声を、耳にしたリー軍曹は、全力疾走になっていた。
(どうした・・何があった・・)
やっとの思いで、部屋の前に着き、重い扉に手を掛けようとして、覚えのある後ろ姿を、目にした。
(佐助だ。あいつが何故ここに・・あやしい・・)
でも、今はそれどころではない。
思い鉄扉を開け、中に押し入る。
「何やってるんだ!!火を使うなんて、やめろ。」
憲兵達をにらみつける。
「あっ、軍曹様。大丈夫ですよ。見せつけてるだけですから。」
ニヤニヤしながら一人の憲兵が言った。そんな言葉を無視するかのように、無言で健太のもとに歩みより、健太の顔を除き込んだ、
「何が大丈夫だ!意識がないぞ。こんな状態で何を取り調べられると言うんだ。」
周りの憲兵達を睨み、怒鳴った。
「お前たち、本当にこの子供が盗み食いしたと思ってるのか。どう考えたって、あの食い荒らされた量を見れば、一人の犯行ではないことなどすぐにわかるはずだ。早く犯人を捕まえないと、自分達の責任問題になり、処罰を受けるのが怖いのだろ。だからこんなになるまで拷問して自白させようとしているだ。」
普段は無口な彼が、まくし立てるように憲兵達に文句をつけた。
「何言ってるんですか、軍曹様。こいつが犯人ですよ。現場にこいつの包帯があったのは、あなたも知っていますよね。それに、こいつの家に踏み込んだ時に、フライドチキンが一本見つかりましてね。あと、ひげに、ケーキのクリームがついていたんですよ。」
と、ひげの憲兵は、自分のひげを自慢そうに触りながら言った。
「フライドチキンに、ひげにクリーム・・それに現場に包帯。あまりにも単純すぎる犯人の罠だ。ひげにクリームがついていたら、まず母親が変に思い、拭き取るはずだし、揃い過ぎてするんだよ、犯人に仕立てあげる証拠が。」
「まあ、軍曹様がそこまで言われるのであれば、今日はこのへんで止めときますよ。楽しみは明日にとっておきますよ。そいつ、ちゃんと牢獄に戻しておいて下さいね。」
捨てぜりふを残し、憲兵達は部屋を出て行った。
リーは、ピクリともしない健太をそっと包むように抱き上げた。軽かった。
「かわいそうに、こんなになるまで痛めつけるなんて・・」
このまま連れて帰りたい・・
しかし、今の立場上、国の法律を破ることはできない。彼は、断腸の思いで、健太を牢獄に運んだ。
床は、絶えず湿って氷のように冷たい。彼は、自分のコートを脱ぐと、健太の身体を包み込み、床に寝かせた。
「王子、必ず助けます。犯人を見つけ、無罪を晴らしてみせます。今しばらくお待ち下さい。」
小さな声でつぐない、水びたしの頭をそっと撫でると、
「おかあさん・・僕だよ・・お水が飲みたいよ・・おかあさん・・」
意識が乏しいのか、幻覚を見ているのか、目を閉じたままの健太が言う。
「水ですね。今、すぐに持ってきます。」
(このままではいかん・・一刻も早く手を打たねば・・)
焦るリー軍曹であった。
人の気配が無くなると、虫達が這い、健太に近づいて来る。見ているだけで、背筋が寒くなる気持ち悪い奴らだ。動かない健太の身体をいいことに、顔から、足から次々と這い上がってくる。あんなに気持ち悪く嫌がっていた健太は、ピクリともしない・・いや、しないのではなく、払いのけたくとも出来ないのだ・・
しばらくして、リー軍曹が戻ってきた。
「王子!!大丈夫ですか!」
群がる虫達を、すぐに払いのけながら、抱きあげた。
「さあ、お水ですよ。」
健太の小さな口に、そっと水を運んだ。ゆっくり、ゆっくり水を飲んでいく健太。
「おいしいね、おかあさん。このミルクね・・僕のマグカップも可愛いでしょう。」
可愛そうに・・心の中で呟いた。大きな男の目に涙が、溢れていた。人前で、初めてみせる涙だ。
この状態でまた明日も拷問を受けたら、殺されてしまうかも知れない、強引に自白させられたとしても、国王の料理を盗み食いしたのだから、多分極刑になるだろう。犯人を、探している時間などないのだ。
彼は、決断した。
健太を丁寧にコートに包み、顔は鼻と口だけを残しマフラーで優しく包んだ。
「王子、もうしばらくお待ちください。すぐに戻って来ますので。」
健太に、頭を下げるとリー軍曹は、昌子のもとへ向かった。
昌子は、ベットに運ばれたままの状態でいた。いわば放心状態というやつだ。
部屋の中は、憲兵達によって荒らされたままになっている。床はドロだらけ、洋服なども散乱していた。
そんな中、健太が毎日使っていたマグカップがテーブルの上に置いてある。手前には、足の長い椅子。
いつも、健太が短い足を伸ばしチョコンと座っていた椅子。視点の定まらない目で、そのマグカップと椅子を、ぽーっと見つめていた。今はいないはずの、健太の笑顔が浮かび、声が聞こえてくる。拭おうともしない涙が、何度も何度も頬をつたい流れた。
「私です。リーです。失礼しますよ。」
リー軍曹は、扉をノックして中に入ると、改めて部屋の中を見渡した。
「ひどい奴らですね。めちゃくちゃじゃないですか。」
彼の言葉に、昌子は何の反応も示さない。
時間がないので、リー軍曹は健太の今の状況を説明し、拷問の程度については、軽い取り調べなので心配ないと、うそをついた。本当のことを伝えたところで、何も意味もないし、心配が増すだけだと考えたからだ。
「健太は、あの子は無事なんですね。」
「はい、大丈夫ですよ。しかし、このままではいけない。もし仮に無理やり自供させられてしまったら、多分極刑は免れないと思います。」
「極刑!そんな馬鹿な。あの子は何もしていないのですよ。」
ベットから起き上がり、リー軍曹に向って声を荒げた。
「解っています。王子は犯人ではありません。自分が思うに・・」
と、これまでの自分なりに推理した内容を述べて聞かせると、
「包帯?包帯が落ちてたのですか・・それは、何かの間違いです。あの子の足の傷は治っています。あの晩も包帯などしていませんでしたよ。」
と、言い、
「あっ!」
何かを、思い出したのか、甲高い声をあげた。
「そう言えば、この前家を荒らされた時、あの子の包帯の代えがなくなっていたのです。」
「包帯が、と言うことは、ここに入った泥棒が、包帯を盗みそれを現場に置いた・・」
この家に入った泥棒が、あの三兄弟なら彼の推理が真相に近づくし、佐助を取調室の前で見かけたことも納得がいく。
自分達のことがバレていないか心配になって、あの部屋を覗いていたのだ。犯人達の目星はついたが、証拠は何もない。今は、犯人探しより健太を助けなければならない。リー軍曹は、ある決断し、そのことを告げに昌子を訪ねたのだ。
ある決断とは、健太を救出する作戦の実行である。彼は、自分が考えた救出作戦の内容を、昌子に伝えた。
「もちろんやりますよ。私の命に代えても、あの子を助けます。よろしくお願いします。」
と、昌子はリー軍曹に頭を下げた。
「いい話を、聞かせてもらったぜ・・」
その時、怪我で片耳を失ったのか、右耳のない男が二人の話を聞いていた。
リー軍曹は、昌子から健太の大好きなプリンや昌子が作ってくれたツナ入りのお粥などを受け取り、健太のもとに戻った。
マフラーから出ていた口のあたりに虫達が這っていたが、健太は、スースーと気持ちよさそうに寝息をたてて眠っていた。彼は、あぐらをかいた中に健太を抱き入れ、少しずつ水を与えた。
リー軍曹の救出作戦には、健太の意識が戻らないことには、始まらない。
リー軍曹の考えた作戦とは次のようなものだ。
次の取り調べまでに、健太の意識の回復が絶対条件であり、そこで自白をさせる。自白した健太は、これまでの前例により、すぐに国王の前に引き出され処罰が告げられる。判決は、極刑だろう。執行は、すぐその場で行われる。
彼は、いつもその場に立ち合い、犯罪者が暴れ、国王を襲ったりした時の護衛を任されている。つまり、今回は健太のそばにいるわけである。
国王から、処罰が言い渡された直後に作戦開始である。
ここ東国では、判決が決まると、城の鐘が打ち鳴らされるのだ。鐘の数が一つの場合は無罪、二つだと懲役刑、そして三つだと極刑である。この鐘を鳴らすことにより、専制君主たるを知らしめるためだ。今回は、この鐘の音が開始の合図となる。
昌子の役目は、この合図と共ににひと気のない国の数カ所に設置した爆弾に、次々火を点けていくことだ。敵国が攻めて来たと思わせるのだ。
爆弾は、軍曹ならいつでも出入り自由な弾薬庫から運び出し設置しておくことができる。まず間違いなく大混乱になるだろう。その隙に乗じて、健太を連れ出し昌子に引き渡し、東国の果てに逃亡させるのだ。
逃亡先は、すでに昌子と話し合い、決まっていた。
健太の意識は、なかなか戻ってこなかった。絶えず声を掛け、揺すったりもしたが、反応はなかった。
それでも、彼はあきらめることはなく、ただひたすら声を掛け続けた。すると、
「う~ぅ・・」
と、ひざの中の健太がうめき声をあげ、薄目を開けた。
「王・・じゃあない、ボウズだいじょぶか、おい。」
リー軍曹の腕に力が入り、健太を大きく揺り動かしながら声を掛けた。
「う・・ん、うぅぅ、痛たたぁ・・」
と、顔をしかめながら、ゆっくりと目を開けた。
「しっかりしろ。もう、大丈夫だぞ。目を覚ませ。」
さらに、大きく揺すり、怒鳴るようにして言った。
「だ・・大丈夫だよ、僕。おじさん、リー軍曹さん?だよね。」
暗闇の中、健太が目をこすりながら聞いた。
「あ、そうだ、よく知ってるなあ。」
「うん、おかあさんの友達でしょう。」
健太の顔に、初めて笑顔を見た気がした。
「リー軍曹さんは、僕を叩いたり、ひどいことしたりしないの?」
「どうして俺がお前を叩くんだ。お前何も悪い事してないんだろう。」
「うん、僕何もしてないのに、みんなでいじめるんだよ。ひどいよね。」
「ああ、確かにそうだなあ。そこで俺に一つ考えがあるんだ。」
「えっ、何、いいこと、ねぇ、なになに?教えてよ。」
健太は元気を取り戻してきた。
リー軍曹は、自分の計画を、丁寧にゆっくりゆっくり諭すように伝えていった。
「えっ、そんなこと無理だよ。絶対無理だよ。捕まって殺されちゃうよ。」
健太は、ブルブルと顔を震わせた。
リー軍曹は、それでも何度も何度も健太を説得し続けた。
「お前、おかあさんのこと好きだろ。じゃあ、やるんだ、おかあさんのために。そして、おかあさんを守ってやるんだ。やるんだ。いいな。」
おかあさんのために・・その言葉に、健太は小さく肯いてみせた。
リー軍曹は、部下の一人に取り調べを監視させ、自分は弾薬庫に向った。
ことが急速に展開していく。急がなければならない。
弾薬庫への出入りは自由だが、そんな簡単に爆弾は持ち出せない。しかし、彼は普通の兵士ではない、西国のスパイなのだ。日頃から、もしもの時のために、少しずつ弾薬を隠し、ためこみ、爆弾を製造していたのだ。
「やっと、役に立つ時が来たなあ。」
我が子の頭を撫でるように、優しく自家製の爆弾を撫でた。そして、仲間の兵士達に怪しまれないように、五個の爆弾を運び出し、昌子と一緒に各箇所に設置した。
点火するタイミング等、念入りに確認し、彼は城内に戻った。
健太は、牢獄から取り調べ室に移されていた。リー軍曹の部下が付き添っている。
「さあ、今日も始めるか。今日は何して楽しませてもらおうか。」
ひげの憲兵が、剣先を健太の喉元に着け付け、薄べ笑いを浮かべた。
「ゴホン。」
仁王立ちのリー軍曹の部下が咳払いすると、
「何だ、何か文句あるのか、お前。軍曹さんの部下かなんか知らんが、おれ達には関係ないんだ。いるだけで目障りなんだ。」
ひげの憲兵が、睨みつけた。
「ところで、お前いやに元気だなあ。昨日は死にそうだったのに、おい。」
健太のアゴをしゃくり上げる。
「うん、これまでは隠そうとしていつもうそついてたから、疲れちゃったけど、今日は正直お話をしようと思ったら、何か元気になっちゃった。」
「話す?自分が盗み食いしたと認めるんのか?」
拍子抜けする憲兵。
「うん、僕が食べちゃったんだ。おなか空いてて、ごめんなさい・・」
ペコっと頭を下げて見せた。
憲兵達は、互いの顔を見合わせ、苦虫をかみ殺したような顔つきになっていた。昨晩の取り調べの後、彼らは一杯飲みながら、今日の拷問について花を咲かせていたのだ。昨日にも増して健太を拷問し、いたぶりつけることを、楽しみにしていたのだ。その証拠に、ジッポーのオイルは多量に用意されていたし、布切れが巻かれた棒も、数本用意してあった。
しかし、健太が自白した以上、もう取り調べを続けることはできない。それより、早急に調書を作成し、国王のもとに届けなくてはいけないのだ。拷問は得意な連中だったが、文書作成は大の苦手で、その仕事は、いつも決まって一番下っぱの憲兵の役割だった。
しばらくして、簡単な調書が出来上がり、健太は国王の前に引き出される時が来た。
「お前、ニコニコして何勘違いしてるか知らんが、まず極刑だぞ。じゃあな。」
と、ひげの憲兵が、健太の顔に唾を吐き掛け、高笑いしながら部屋から出ていった。最後の最後まで、嫌な奴だ。
城内のほぼ中央にある王室は、豪華絢爛な造りで、中央から伸びる階段を五段ほど上がると国王の小さな部屋がある。両脇には、レースのカーテン。中央には、黄金にきらめく椅子がある。その椅子まで゛伸びる真っ赤な絨毯の脇を、四人の兵士が護衛に立つ。もちろんその中の一人が、リー軍曹である。
健太は、全身に付着したドロ・血、汚れ・臭いを落すため。真冬の寒空の下、井戸水を頭から被せられていた。寒い・・氷つくように寒い・・でももうすぐ、おあかさんに会える!その気持ちだけが、小さな健太を支え続けていた。
両腕を縛られ、鉄の首輪を嵌められ、健太は王室に入った。国王の姿はまだない。正座し、憲兵に両脇を固められたまま、国王を待った。
(上手くうそが言えるかなあ・・大丈夫かなあ・・)
健太の心臓は、いつ飛び出してもおかしくないほど、ドキドキしていた。
しばらくすると、椅子の奥にある扉がゆっくりと開き、国王のシンが健太の目の前に現れた。かっぷくのいい体格に、長いヒゲを蓄えている。目つきが鋭く、見るからに独裁者である。
健太は、入口近くに座らされていたが、シン国王の登場により、階段下の位置まで連れてこられた。
心臓が破裂しそうだ。国王は、ゆっくり椅子に腰を降ろすと、憲兵から受け取った調書に簡単に目を通すと、言い渡した。
「極刑、ただちに執行するように。」
たったそれだけであった。
(よし、これで鐘の音が三回城下に鳴り響くぞ。作戦の始まりだ。)
リー軍曹は心の中で肯いた。
と、思った瞬間、椅子から立ち上がり、退席しかけたシン国王が、突然「振り返った。目つき鋭くにらみ付けたその先には、健太の姿があった。ゆっくり金のステッキを付きながら階段を降りてくる。そして、健太の前で仁王立ちになり、
「お前の、その左足にある星型の毛模様は生まれつきか?」
手に持ったステッキの先を、健太の足の星型模様に押し付けた。
「多分・・気が付いた時にはあったので・・」
何を聞かれているのか訳が解らなかったが、心臓が破裂しそうにドキドキしていた。
「母親は、手伝いの昌子だったな。」
健太を、何故かにらみつけて問いただすシン国王。
「はい」
ちいさな震える声で、健太が答えると、
「よし、一旦刑の執行は中止だ。すぐこいつの母を捕らえ、ここに連れてくるのだ。」
シン国王は、入口付近の憲兵達に命じた。
リー軍曹は、何がどうなったのか理解することが出来ず一瞬慌てたが、すぐに冷静になり、
(昌子は、今爆弾の設置場所に行って家は留守だ。まだ時間はある。何か手段を考えねば。)
「こいつの母親など捕らえて、どうされるおつもりですか。まず、今一番大切なことは、こいつの刑の執行だと思いますが。」
リー軍曹は、後先も考えず、思ったことを口にしてしまった。
「こいつの処罰などいつでも出来る。私はこいつの母親に用があるのだ。」
リー軍曹を怒鳴りつけるように言った。
「こいつの母親に・・何かあるのですか?今回の犯行には関係ないのでは。」
「事件など、どうでもいいことだ。お前も、母親を捕らえに行け。何をクズグズしているのだ!」
シン国王は、ステッキを、振りかざし命令した。
(仕方ない。落ち着いて後のことは考えよう。)
と、自分に言い聞かせるように、部屋を出ようとした時、一人の憲兵が帰ってきた。
「母親は家にいません。あたり周辺を探しましたが、まだ見つかりません。」
その憲兵は、息を切らしながら報告した。その報告を聞いたシン国王は、健太を指差し、
「本日の刑の執行は、ここではなく、城の前の広場にて公開処刑とする。こいつを公開処刑にすれば、必ず母親は助けに来るはずだ。そこを捕らえるのだ。」
健太は、広場の処刑台に吊るされ、処刑されることになってしまった。
国王の突然の指示に、リー軍曹は慌てて城を飛び出した。いかにも、昌子の捜索をするふりをして、爆弾の設置場所に走った。
昌子は、イライラしていた。なかなか鐘が鳴らないからだ。
「何かあったのかしら、あの子の身に・・遅すぎるわ。」
不安はつのるばかりだ。
それに、何か街全体が騒々しい。
「おい、子供の公開処刑が始まるらしいぞ。」
「子供って、あの国王の料理を盗み食いした奴か。」
(えっ!まさか、あの子・・間違いないわ、健太のことだわ!)
昌子は、一目散に広場に向って走り出した。野次馬が、同じ方向に走っていく。広場は、かなりの数の野次馬が集まっていた。怖いもの見たさというか、残虐な行為を見たいというか、人の心とは恐ろしいものだ。
健太は、広場中央付近の小高い丘に建つ十字架に、縛り付けられていた。意識がないのか、首をうな垂れてぐったりしている。
「健太!!健太!!おかあさんだよ。健太、今助けてあげるからね。」
昌子は、野次馬をかき分けながら必死に健太のもとに走った。やっとの思いで、丘の下までたどり着いた瞬間、
「その女を、捕らえろ。」
シン国王の声に、あっという間に数人の憲兵に囲まれ、その場で縛り上げられてしまった。
リー軍曹は、走っていた。ただ一人、野次馬達とは反対方向に。そして、走りながら思った。シン国王は、気がついたのかも知れないと。健太が、ヨミ国王の息子であることを。あの時、即座に極刑を言い渡し、席を離れ振り返る時に、あのアザと言うか、星型模様の毛並みに気がついたのだ。
ヨミ国王の左足にも同じ星型模様がある。以前に一度だけ、和平交渉の席でヨミ国王と顔を合わせたことがあり、多分その時に見たのを思い出したのであろう。恐ろしい記憶力である。
そこで健太を人質に、ヨミ国王の側室であった昌子を呼び出し捕らえ、西国の内部事情を聴き出すつもりなのだ。
健太はもともと極刑だから、昌子が捕まれば用なしだ。殺されてしまうだろう。早く昌子を見つけ、どこかにかくまわねばならない。
やっとの思いで、爆弾の設置場所に着いたが、昌子の姿はなかった。二発目、三発目とすべての場所を探したが、昌子はどこにもいない。
(しまった!行き違いになったんだ。もっと冷静になるべきだった。)
ここに来るまでに、どれだけの野次馬とすれ違ったであろうか。あの人の流れを見て、昌子が不思議に思わない訳がないし、野次馬達の会話を耳にしたに違いない。まずい流れだ。俺は何をする。今、何をしたらいい。彼は自問自答を繰り返した。
そして、突然懐からライターを取り出した。残った爆弾に点火し、敵国が攻めて来たと思わせ、混乱の隙に王子と昌子を助け出す。
「よし、いくぞ。」
と、ライターの着火部分をすり火を点け、長い導火線に近づけたが、そこで止めてしまった。爆発させ混乱を起こさせるのはいいが、自分が助けに行く前に、殺されてしまうかも知れない。冷静に考えれば、すぐ解ることなのだ。
「いかん。とにかく冷静にならなければ。」
リー軍曹は、とにかく一旦城に戻り、二人の生存を確認することにした。今走って来た道を、また走り戻る。野次馬達が、今度は逆に歩いて来る。
まずい・・王子の命は・・執行されてしまったのか・・
王子の死を、見学したこいつらが、帰って来る・・
広場は閑散としていた。十字架には、誰もいない・・
「刑は、執行されたのですか?子供は、あそこに縛られていた、子供は!」
近くにいた老人に聞く。
「あぁ・・母親が現れて二人とも城の中に連れて行かれたよ。」
「城の中にですか。刑は執行されなかったんですね。」
「ああ、何もなかったよ。せっかく見に来たのになあ。」
と、つまらなそうにその老人は言った。少し頭にきたが、何より二人が無事であることの方が数倍うれしかった。彼は、城の中に入って行った。
城内に戻り、部下の兵士に二人のことを訪ねると、健太は牢獄に、昌子はシン国王と二人だけでいると教えてくれた。彼は、まず健太に会いに行くことにした。
健太は、牢獄の隅でひざを抱え泣いていた。リー軍曹は、静かに健太のそばに近寄ると、ひざを着き、
「ボウズ大丈夫か、悪かったなあ。許してくれ。」
彼は、頭を下げたが、健太は背中を丸めたまま、しゃくり上げるように泣くだけだ。
「許してくれ。頼む、ボウズ。次の手を考えよう。」
「う~ん・・」
涙をぬぐいながら、小さく肯いて見せたが、しゃくり泣きは止まらない。
コツコツコツ、誰の足音が近づいてくる。そして、その足音は部屋の前で止まり、一人の男が入って来た。あのひげの憲兵だった。
「あ、軍曹様、いやにこのチビに気を掛けていらしゃいますね。」
ニヤニヤしなが声をかける。本当に嫌な奴だ。
「こいつの刑は、確定したはずだ。何しに来たのだ。」
リー軍曹は、腰を降ろしたまま睨み上げた。
「いや別に、こいつに会いたくなっただけですよ。」
と、ニヤニヤしている。
「会いたくなると、木に布を巻き付け、ジッポーのオイルを持って来るのか、お前は。」
と、さっきから後ろ手に隠した、道具を指差し、さらに眼光するどく睨みつけた。
「いやこれは、こいつが寒いといけないと思って・・持って来たんですよ。」
と、しらじらしい嘘を平気で言う。
「とにかく刑は確定している。憲兵のお前に用はない。」
リー軍曹は、ゆっくりと起ち上がり、ひげの憲兵を外に追い出した。
「ちぇ!馬鹿やろー、どうせ極刑なんだから、退屈しのぎに火あぶりにして楽しもうと思ったのに。」
閉めた扉に唾を吐きつけた。
「機嫌を直してくれ、頼む。次の手を考えようじゃあないか。」
リー軍曹は懐に隠し持ってきたフランスパンを手渡し、顔を覗き込むと、健太は小さく肯いた。涙混じりのパンは、しょっぱかった。
昌子は、シン国王と向き合ったいた。
「本当に、私の知っている西国のことを、すべてお話すれば、あの子と二人自由にして頂けるのですね。」
シン国王は、西国の情報が、喉から手が出るほど欲しかった。昌子は彼の言葉を信じ、自分の知っている西国のすべてを話し伝えた。何も隠す必要などないし、何より、健太を一刻も早くこの胸に抱きしめかった。
比較的東側の、山岳地帯の警備が手薄なこと、兵隊、憲兵などの大よその数や城の造り、間取りまで、知っていることはすべて話した。シン国王は、気になる点については、繰り返し訊ね、頭に刻み込んでいった。
「それでは、最後に聞く。お前の息子はヨミ国王の子、つまり西国の王子だな。」
昌子は、一瞬言葉に詰まったが、
「いいえ、健太は私だけの子です。確かに国王の血は流れているのかも知れません。でも、今のあの子は、ただの子供なのです。私達は、ただただ普通の親子なのです。」
訴えるように、目を潤ませながら伝えたが、
「やはりそうか、あの星型は親子の証。私の目に狂いはなかったのだ。」
昌子の訴えなど耳に届いていない。
「そこまで聞けば、もうお前には用はない。たまに食べるお前の料理は、美味しかったぞ。だが、それも、もう食べることもない。」
この言葉は、昌子の死を示していた。
「約束が違うではありませんか。正直にすべて話したら、私とあの子の命は助けて下さると・・」
昌子は大きな声で訴えたが、そんな声には耳も貸さず、
「もう一つ、聞き忘れていたことがあった。お前はリー軍曹の紹介で、私に仕えることになった。そして、息子がお前の家に住むことを私に頼みに来たのも奴だ、あいつとお前達との関係はなんだ。」
シン国王は、ステッキの先を昌子のアゴに押し付け問い正した。
昌子は、大きく顔を振り、ステッキの先を払い、
「ただの知り合いです。それだけの関係です。」
と、吐き捨てるに答えた。
「まあいいだろう。本人に問い正すだけのことだ。」
シン国王の指示で、リー軍曹が憲兵達に連れられ、部屋に入ってきた。
「お前に聞きたいことがある。そこにいる昌子のことだが、どういう関係だ。」
重く低い声でシン国王が問うと、ただ一言
「ただの知り合いです。」
と、答えた。
「ただの知り合いが、どうしてあそこまであの小僧にかかわる。お前のあいつに対する行動は、すべて憲兵達から報告を受けている。」
国王の問に、少しだけ言葉に詰まったが、
「あまりにも酷い仕打ちでしたのでつい・・でも特別扱いをしたわけではありません。」
直立不動で、リー軍曹は言った。
「まあいい。お前の話は後でゆっくり聞く。まずは、その女の首を撥ねよ!」
と、ひざまずく昌子を、ステッキの先で差し、憲兵に命じた。
「待って下さい、国王!何故首を撥ねる必要があるのですか。この女が何をしたと言うのですか。」
リー軍曹は、一歩二歩と国王に近付くと、大きな声で訴えた。
「そんなことをお前に話す必要はない。私はこの国の国王だ。私が決めたことに口を挟むな。」
一喝すると、立て続けに、
「この場で、その首撥ねるのだ。」
と、命令を下した。
「私は命などいりません。でも、あの子の命だけは助けて下さい。お願いです。健太だけは助けて下さい。」
昌子は、後ろ手に縛られたまま、頭を床に押し付けた。
「心配するな、お前の息子は大事な人質だ。この後も、色々と使い道がある。いい宝物が手に入ったわ。はっはっはっぁぁぁ・・」
と、高笑いしながら、ステッキを振りかざし、昌子の処罰の号令を出した。一人の憲兵が、昌子の首を床に押し付けた。もう一人の憲兵が、腰の剣に手を掛けゆっくりと抜く。
もはや、この時点でリー軍曹は何もすることはできなかった。ただじっと、この地獄のようなシーンを黙って見ているしかないのだ。窓から差し込む太陽の光が、憲兵の剣先に反射した。
「やれー!!」
シン国王の声に、剣が昌子の首に振り下ろされた。
リー軍曹が、目を閉じ顔を背けた、その瞬間・・・
ドカーンという爆発音と共に、地響きがして、城が大きく揺れた。
「地震かあ・・」
剣を持ったままその場に尻もちを付き、憲兵が言った瞬間、
ドカーン・・
二度目の爆発音がした。
リー軍曹は、はっとした。そしてすぐに、
「敵国の襲来です!!先日あたりから、南国の動きが怪しいとの報告が、国境線の兵から連絡が届きました。」
と、うそを言い、何か言葉を続けようとした時、三度目の爆発音がして、城の壁の一部が崩れ落ちてきた。
「ここは危険です。早く国王を奥の防壁室へお連れしろ!」
憲兵に号令し、シン国王の姿が見えなくなると、
「何しているんだ!緊急事態だぞ。早く自分の持ち場に戻るんだ。敵がすぐ押しかけてくるぞ!」
リー軍曹のあまりの迫力に、数人いた憲兵達は、慌てて持ち場に走り出て行った。
「よし、今のうちだ。逃げるんだ!」
昌子を縛ったロープを、剣で切りながら言う。
「何が起こったのですか。」
昌子には、見当がつかなかった。
「あなたが仕掛けた爆弾を、誰かが爆発させたんですよ。」
「えっ・・あの爆弾を・・誰が・・」
「今は誰が火を点けたのかは関係ない。とにかく、この騒動に乗じて逃げるんだ。さあ行くぞ。」
昌子の腕を掴み、走り出す。
二人が向うのは、もちろん健太のいる牢獄である。早足ぎみだったのが、いつの間にか全力疾走になっている昌子。頭の中は健太のことで一杯だ。あの子に会いたい、笑顔が見たい、この胸に抱きしめてあげたい・・お願いだから、生きていて・・それだけを願い、走り続けた。
やっとの思いで牢獄の前に着くと、二人は立ちすくんでしまった。扉が開いているのだ。昌子はすぐに気を取り直すと、部屋に飛び込んだ。
「健太!健太!どこにいるの、おかあさんだよ、健太。」
昌子の願い空しく、返事はなかった。どさくさに紛れて逃げたのか、それとも誰かに連れ去られてしまったのか、どんな形でもいい、ただ生きてて欲しい、昌子の願いはそれだけだった。
その時、立ち尽くす二人の耳に四発目の爆発音が聞こえた。リー軍曹は、その音に後押しされたかのように、
「ここにいてもしょうがない。とにかく王子を探しましょう。」
と、昌子の肩に手をかけ声をかけた。昌子も気が強い女だ。
「はい、あの子は必ず生きています。どこかで私を待っているはずです。」
自分を励ますように、大きく肯き起ち上がった。二人が部屋を出た瞬間に、五度目の爆発音がした。最後の一発だ。
外は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。走り逃げ惑う村の民。兵隊の数も半端でない。どこをどう探したらよいのか、皆目見当もつかない二人だったが、とにかくこのどさくさに紛れ、城の外に通じる橋を渡ることにした。
城外はわりと静かだった。兵隊達がそれぞれの持ち場に向って、列を組んで走って行く。本来なら、リー軍曹はその軍隊の先導に立ち、指揮している立場なのだ。
しかし、今そんな考えは頭にはなかった。彼は、本来西国の兵士であり、スパイなのだ。ましてや、探す相手がその西国の王子なのだ。
別にこれといった当てもなく、二人は橋から続く農道を、小走りに上がって行った。その小道の端に、リー軍曹は地面に落ちているある物に目が止まった。それは、白っぽく小さな何かの欠片のように見えた。気になり手にとって見ると、それはパンのかけらだった。
「あっ・・」
すぐに、自分の渡したフランスパンだと思った。もう一度小道に目を向け先を追うと、その白いかけらは道に沿って落ちていた。
彼は、確信した。これは、王子が残したSOSなのだ。もしかしたら、これが最後の命のサインかも知れないと、彼の頭を不安がよぎった。
昌子にパンのいきさつを簡単に告げると、彼女の手を握り走り出す。誰かに連れ去られて行く健太の姿が、必死に走り続ける昌子の脳裏に浮かぶ。
(会いたい・・この胸にもう一度抱きしめてあげたい・・生きていて・・)
前が見えなくなってしまうほど、その目には涙が溢れていた。
パンのかけらは途中から脇道にそれて続き、やがて竹林に中へ続いた。
「止まって。」
何かに気付いたのか、リー軍曹が小声で昌子に告げ、腰をかがめた。自然に忍び足になる二人に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「とにかく、俺はお前のことが気にくわないんだよ。すぐ泣きわめくし、いい子ぶりやがって。」
あのひげの憲兵の声だ。
「刑が執行される前に、俺が楽にしてやるよ。今の騒ぎなら敵にやられたと思うしな。」
と、懐からジッポーを取り出し火を点けた。
叫び声を上げ、後ずさりしていく健太を見て、リー軍曹が、ひげの憲兵に飛び掛かろうとしたその瞬間・・
「ギァー!」
ひげの憲兵は、大声を上げ、頭を押さえその場に倒れ込んだ。
誰かに後頭部を、殴られたのだ。
(誰だ・・)
二人は、とっさに竹藪に身を隠した。
「と・・父ちゃん・・」
健太の目の前には、あの健太の父親として一緒に暮らしていた与作が、棒切れを持ち立っていた。ひどい怪我をしたのか、右目がつぶれたように落ち込み、左耳がなかった。
「父ちゃん、目どうしたの・・それに耳も・・」
と、健太が言いかけるのを、さえぎるように、
「どうしたんだって!?お前がやったんだろが!あの日、お前の掛けた灰のせいで、目が見えなくなったんだよ。この耳も倒れてきた材木でちぎれちまったんだよ!」
怒鳴りつけ、続けざまに、
「この手でお前をあの世に送るまでは、死んでも死にきれないからなあ。東国に逃げたとのうわうさを聞いて、何とか忍び込み、お前の母親を見つけたんだよ、その後は簡単にお前に辿りつけたよ。」
「父ちゃん、僕のお母さんのこと知ってるの?」
「ああ、知ってるさ、昔からな。でもそんなことは今更関係ない。俺をこんな身体にしやがって。さあ、あの世に行きな。」
と、手に持っていた棒切れを捨て、懐から短刀を取り出した。そして、ゆっくり健太に近づき、短刀を大きく振りかざした瞬間、
「そこまでだ。」
冷たい鉄の筒先が、与作の後頭部に押し付けられた。
「何・・誰だ!」
与作が振り向こうとすると、
「そのままだ。動くな。いいな、まずはその短刀を捨てろ。」
指示されるまま、与作はゆっくり腰を降ろし足下に短剣を置くと見せかけ、とっさに、身をひるがえすと、健太の背後に回り込み、首に腕を回し、短刀を首筋に押し付けた。
「やっぱりお前か、リー軍。、残念だが、俺の勝ちだ、ほら、銃を捨てろ!」
健太の首筋に、押し付けた短刀を喰い込ませながら伝えた。
「わかった、わかったから、短刀を首から離せ。」
「銃を捨て、こちらに蹴とばせ。そうしたら離してやるさ。」
「言われたとおり銃は渡す。だがその前に一つだけ聞きたいことがある。」
昌子が与作の背後まで回り込む時間稼ぎだ。
「何だ、早く言え。」
「いつから、私達のことに気が付いていたんだ。」
「東国に入るまでは、手間がかかったが、その後は簡単だったよ。城のあたりを調べていたら、知っている顔を見つけた。それが昌子さ。健太のことを何か知っているかも知れないと思い、後をつけたら、何と本人がいるじゃあないか。ビックリしたね。」
「どうして、そこですぐに健太を捕まえなかったんだ。」
「もちろん捕まえるつもりだったさあ、夜、寝静まるのを待ってね。そしたらどうだい、俺より先に、泥棒が入りやがった。だからその日はやめたんだよ。」
「泥棒を見たのか。」
「ああ、見たさ。三人組のコソ泥だったよ。それからもう一つ、いいこと教えてやるよ。城の食材泥棒も、そいつらの仕業だ。この目でみたから間違いないさ。」
(やはりあいつらだった。王子に罪をきせやがって。)
「俺に、そんなこと教えてもいいのか。」
「いいも悪いも、お前もここでこいつと一緒に死ぬんだよ。お前もこいつも、ここの国王に処罰されかけたのを、俺が爆弾騒ぎで助けてやったんだからな。」
「何、お前が爆発させたのか。どうして爆弾のこと・・いや設置場所まで知っていたんだ。」
「あいつが捕まった後、なんとか俺の手で始末したくって、何か策はないか、あの女の家を張り込んでいたのさ。そしたら、お前との会話を耳にして、爆弾設置の時、昌子を尾行したんだよ。さあ、話はここまでだ。早く銃を置き、こちらに向って蹴るんだ!」
リー軍曹はゆっくりと腰を降ろし、銃を足下に置くと、すでに与作の背後に回り込んだ昌子に、目で合図を送った。昌子の手には、林の中で拾った角材が握られていた。そして、その角材で、力一杯与作の腰を叩きつけた。
ガツン・・与作の腰に激痛が襲った。突然の激痛に、何が起こったのか訳が解らぬまま、与作はその場に倒れ込んだ。健太も、崩れ落ちるように倒れ込む。
昌子は角材を捨て、健太に駆け寄ると、力一杯抱きしめた。健太の身体の震えが、昌子の身体まで震わせる。
「ごめんね、辛かったね。もう大丈夫だからね。もう、何があってもお母さんは健太と一緒だから・・ごめんね。」
昌子は、何度も何度も同じ言葉を掛けながら、健太の頭を撫でた。その横で倒れ込んだ、与作が腰を押えながら、
「ぐぁ!何しやがる。こんなことして、どうなるか解ってるんだろうな!」
と、昌子の方を睨みつけたが、そこまでだった。
「どうなるのか解っていないのは、お前の方だ。」
リー軍曹は、銃口を与作の後頭部に押し付け、言った。
「おい、ちょっと待ってくれ。俺はお前達の命の恩人だぞ。俺が爆弾を爆発させたから、お前達は殺されずに済んだんだぞ。そんな俺を殺すのか。」
「確かに一度は、お前に助けられたが、その後お前に殺されたら、同じことだ。いや助けておいて殺そうとするお前のやり方は、絶対に許さない。」
と、ゆっくり引き金に指を掛け、
「その子に、殺すところを見られたくない。林の中に連れて行ってくれ。」
銃口を、頭に押し付けたまま、昌子に伝えた。
その言葉に動揺した与作は、身体を震わせながら、
「待ってくれ。頼む。命だけは助けてくれ。もう、二度とお前達には関わらないから。約束する。許してくれ。」
痛む腰に手をやりながら言った。
「別にお前を殺すために、俺もここに来た訳ではない。それに私がここで手に掛けずとも、お前はこの国の憲兵に捕まれば、東国への不法侵入の罪で処罰される。西国でも誘拐・横領の罪が待っている。お前に何か不信な動きや噂を耳にしたら、その時は犯罪者として、私の部下達が、地の果てまでも追いかけ、必ず逮捕する。」
「俺も馬鹿じゃあない。もう二度とあんた達の前には現れないし、おとなしくどこかの田舎で百姓でもして生きていくから、頼む、見逃してくれ。」
リー軍曹は、銃を静かに降ろし、
「早く立ち去れ。二度と顔を見せるな。いいな!」
と、どすの効いた声で言い渡した。与作は少しだけ頭を下げて見せると、その場から走り去って行った。
健太を抱き、泣き続けている昌子の肩に手をやり
「少し、見晴らしのいい場所に行こう。」
と、リー軍曹が優しく声を掛けた。来た道とは逆に伸びる小道を、ゆっくりとリー軍曹が登って行く。
昌子は、健太を抱いたまま、その後に続いた。
しばらく歩くと、見晴らしのいい小高い丘に出た。健太を挟むようにして三人は、腰を降ろした。
「よく頑張ったな。もう大丈夫だ。そろそろ、泣くのもやめたらどうだ。」
健太の頭を撫でながら、リー軍曹が声を掛けた。その声に健太は、涙を拭いながら、小さく頷いてみせた。丘の上は、城の回りの騒ぎがうそのような静けさだ。空は雲一つない青空だ。リー軍曹はそんな空を見つめていた。
横に座っている健太の、すすり泣く声が小さくなってきたのを見計らって、
「きれいな空だ。空気も澄んで美味しい。こんな時はうその話をしても楽しくない。私の正直な気持ちを聞いて欲しい。」
リー軍曹の言葉に、何を言ってるのか解らないといった感じで、健太はキョトンとしていた。健太を挟み、腰を降ろしていた二人は顔を見合わせ小さく頷いた。二人の思いは一緒だ。健太に、真実を伝える時が来たのだ。
リー軍曹は丁寧に、そして順を追って、健太に、自分が王位継承者であること、母親・昌子と国王との関係や与作の話を、健太が納得するまで、何度も丁寧に、そして時には、諭すように伝えた。
初めのうち健太は、驚く話ばかりで、二人の顔をキョロキョロ見たりして、落ち着かない様子だったが、次第に相づちも増え、顔には笑顔も浮かぶようになっていた。
「僕が王子なんて信じられないなあ・・王子でも何でもいいんだけど、僕はただ、お母さんと一緒に暮らしたいだけなんだ。」
甘えん坊の健太は、昌子の胸に顔を埋めながら言う。昌子は、そんな健太の頭を優しく撫でながら、
「そうだね、お母さんも健太と二人で暮らせるだけで幸せだよ。王子なんていらないよ。だから、どこかの田舎で二人で暮らしていこうね。」
二人にとっては、地位も国も関係ない他人事なのだ。ただただ再び巡り合えたこの時間が、いつまでも続いていくことだけが願いであり、最高の幸せなのだ。
「王子、私にはあなたをお守りする任務があります。そして王子、あなたには西国を守る使命があります。どうか自分と一緒に西国に戻り、国王様と共に西国をお守り下さい。お願い致します。」
リ-軍曹は、片膝を着き頭を下げた。
「王子なんて呼ばないでよ。僕は健太だよ。ただの健太。だから西国なんて関係ないし、リー軍曹さんも、変な言葉でお話しないでよ。」
健太はニコニコして話す。
「それでは困るのです。西国の王位継承者は、あなたしかいないのです。王子、どうかこのまま私と西国へ帰って下さい。」
リー軍曹の説得は続いたが、結果は同じであった。
「解りました、王子の気持ちは。では最後のお勤めとして、お二人に危険が及ばぬ地まで一緒にお供させて頂きます。」
リー軍曹は、健太の強い意志と、母の愛に負け、東国の最南端に位置するさびれた港近くの村に、二人を連れて行った。この地は、彼がスパイとして東国に潜入した際、身を隠し暮らして場所である。年配の者が多く、閑散とした村である。
「さあ、どうぞ。ここは私が昔、この東国に潜入した時に、隠れ住んでいた小屋です。汚くって小さな所ですが、隠れて暮らすにはうってつけの場所です。」
村のはずれにある、小さな小屋に二人を連れて行った。
「この子と二人暮らせるのなら、どんな所でも幸せです。ありがとうございます。」
昌子は、頭を深々と下げ、リー軍曹に礼を言った。健太は、二人の会話などそっちのけで、部屋の中を走り回り
「ねぇ、お母さん、ここね僕のね、お部屋にしていいよね。」
ニコニコしながら小屋の隅に出来た、くぼみの中に入って言う。
「いいよ、健太の基地だね。その穴は。」
昌子も、笑顔で応えた。そんな親子の会話を微笑みながら聞いていた、リー軍曹が、
「それでは、私はまだやり残したことがありますので、失礼致します。」
軽く頭を下げた。そして、懐に手をやり、持ち金すべてを昌子に握らせると、小屋を出て行った。
やり残した最後の仕事のために、彼はある場所に急いでいた。城に向う道から、少し脇に道に沿って行くと、大小さまざまな石が並び見える場所に出た。墓地である。草が生い茂る荒れ果てた中に、石碑と呼ぶには、あまりにもみすぼらしい石が並んでいる。もちろん、石には名前など何も書かれていない。この地に眠るのは、戦争で亡くなった無縁仏の者達である。半月程前に、南国との国境線あたりで、小競り合いがあり、その時亡くなった者達もこの地に眠っていた。
彼は、ちいさな石の前に膝まづくと、手を合わせた。
「静かに眠りについているのに申し訳ない、ほんの少しの間私を助けて下さい。」
と、深々と頭を下げると、石をずらし小さな箱を掘り出した。そして、もう一度手を合わせ箱のふたを開けた。中には、子供の遺体が入っていた。健太と、同じ茶トラ系の子だ。大きさも、健太とほぼ同じぐらいである。土中深くに埋められていたおかげで、腐敗もせずその遺体は、ただ眠っているかのようであった。箱のふたを閉めると、その遺体を懐から取り出した麻袋に入れ、墓地を立ち去った。城に帰る途中、薬局に寄り、オキシドールを購入した。
城内の様子は、少しずつだが落ち着きを取り戻してきていた。戦闘態勢に入っていた軍隊の規模も小さくなり、兵隊達の数も次第に少なくなっていた。爆発音がした場所は解ったが、誰が何の目的で設置し、爆発させたのかは不明であった。そんな中、リー軍曹は人目を避けるようにして、健太が捕らわれていた牢獄に向かっていた。懐には、墓地から掘り出した遺体があった。牢獄の扉の前で、一旦立ち止まりあたりを確認した後、中に入った。いつ来ても冷たく、ただ寂しさだけが漂っている部屋だ。健太が捕らわれていた場所には、小さな虫達が這っている。
こんな所に、一人で・・・
さぞ辛く悲しく、そして寂しかったであろうと、虫達を見つめながら、改めて彼は、そう思った時だった、誰かの足音と共に話し声が聞こえてきた。
「王様は、何であんなチビのことを、あんなに気になさってるんだろうな。」
「ああ、俺もそう思ってたんだ、こんな時に連れて来いなんてなあ。」
彼は、慌てて懐から遺体を取り出すと、健太が捕らわれていた場所にそっと置き、手を合わせ、その場を急ぎ去った。
「いたいた。」
と、一人の憲兵が子猫を見つけると声に出して言った。
「起きろ。王様がお呼びだ。」
手に持っていた剣の先で突く。
「おい、こいつ死んでるぞ!息してない!」
「ほんとだ、飢えで息耐えたのかもなあ。」
二人は、小さな遺体を見下ろしながら、つぶやくように言った。遺体は布に包まれ、シン国王の待つ王室に運ばれた。
「その布を取れ。」
シン国王の大きな声が、部屋に響き渡った。
布が取られた茶トラ系の子猫の遺体を、椅子に座ったままじっと見つめていたが、しばらくすると、そっと起ち上がり、遺体の近くまで歩み寄り、手に持っているステッキで遺体を転がした。軽くステッキの先で、足の泥をよける。
「うむっ」
と、唸りながらステッキで数回遺体を突くと、
「もういい。こんな気持ち悪い物、すぐに捨ててしまえ。」
と、命令すると部屋から出て行った。
柱の陰から、その様子を見ていたリー軍曹は、シン国王の態度が、その遺体を、健太だと思ったのか、それとも偽物だと感づいたのか、解らなかったが、健太への捜索命令がなかったことに、ほっとした。
(オキシドールで、毛を脱色し星型模様を作っておいてよかった。)
自分の心の中でつぶやき、胸をなでで下ろした。
しかし、安心している暇はなかった。彼にはまだやり残したことがあった。それは、あの三兄弟を捕まえるこである。健太が、受けたあの惨い仕打ちは、みんなあいつらのせいなのだ。命が助かったからといって、許されるものではない。彼のはらわたは煮えくり返っていた。
「よかったなあ、戦争にならなくって、爆発音が何回もしたから、敵が攻めてきたと思ったよ。」
一番下の弟の金助が、銃を肩に担ぎ胸を撫で下ろしながら言う。
「あ愛用よかった、召集も解けたし、なんか腹減ったなあ。」
喜助が、少し丸く出た腹を摩る。
「もうすぐ城だ。帰ったらすぐに飯にしよう。」
佐助は、二人に声を掛け、城への道をゆっくりと歩いて行った。しばらく歩き続けると、やがて大きな城門が見えてきた。自然に足の運びも軽くなり、小走りになり、そして最後は走り出す。
後少しという距離まで来て、その足が急に止まった。誰かが城門の所に立っているのだ。
「誰だ?」
佐助が、目を凝らすようにして見つめる。
「リー軍曹だ。リー軍曹だよ。間違いないよ。きっと門番してるんだよ。」
金助は、別に大したことでもないといった口調で話すと、また小走りになった。兄達も、腹が空いているので、金助の後を追った。
城門まであと僅かの距離になると、リー軍曹が三兄弟の方に向って歩き始めた。そして、兄弟の前に立ちはだかり、大きく両手を広げ、
「ちょっと待。お前達に少し聞きたいことがある。」
と、威嚇するかのような大きな声で言った。
喜助と金助は、顔を見合わせ少し驚いた様子だったが、佐助は、何かまずいことになりそうだと感じていた。
「単刀直入に聞く。料理室に忍び込み盗み食いをしたのは、お前達だな!」
低い声で、脅すような口調で聞き、睨みつけた。その声に、喜助と金助は少し後ずさりしたが、
「そんなことをした覚えはないし、犯人は健太って解ってるじゃあないですか。」
佐助は、わざと胸を張り一歩前に歩み出て言った。
「健太のことを聞いてるんじゃない!お前達のことを聞いてるんだ。あの晩、お前達が盗み食いをしている姿を見ていた者がいたんだ。」
リー軍曹は、佐助を睨みつけた。
「そんなことうそだよ。じゃあ、その証人を連れてきて下さいよ。」
証人を連れてこられたらおしまいなのに、最後の抵抗か、佐助はいやに落ち着いた口調で言った。
「よし、今すぐに連れてこようじゃないか。そこでその者が証言したら、犯行を認めるんだな。」
佐助を睨みつけている目は、さらに鋭さを増す。
「認めるなんて言ってないですよ。証言した方に会って話を聞きたいだけです。」
どこか視線を合わせない感じの佐助だ。
「ところでお前、いつも首に付けてる鈴はどうした。」
と、視線を金助に向けた。
「う・・・ん、あ、鈴は、落としちゃたんだ。」
少しどもる金助に、
「落としただと!?うそを言うな!お前の鈴の跡がケーキに残っていたんだよ。お前が盗み食いしたケーキにな。だから、そのことに気が付き、どこかに捨てたんだよな。」
鬼のような形相で金助を睨みつけた。
「うそじゃあないですよ。いつの間にか落としていたんです。」
金助をかばうように、佐助が答えた。
「お前に聞いているのではない。こいつに聞いているんだ。さあ、鈴はどうした。」
金助の胸ぐらを掴む。
「落としたんです・・本当です・・」
金助は、必死にうそを続けた。
「まあいいさ。証拠も証人も本来必要ない。軍曹のこの俺が、お前達が真犯人だと国王の前に連れ出せば、それでおしまいだ。健太の犯行に見せるために、包帯とか裏工作もしているし、極刑は間違いない。」
と、彼はうそで脅した。いくら彼が軍曹であっても、何の証拠もない者が極刑にはならい。
「ちょ・・ちょっと待って下さい。やってもいないことで・・」
と、佐助が話すのを、
「うるさい!何をごちゃ、ごちゃ言ってるんだ!今すぐ憲兵達を呼ぶからな。外の景色もこれで見納めだ。」
と、腰にぶら下げている警笛に手をかけた。この笛を吹けば、憲兵や兵隊達がすぐに来ることは、佐助達も知っている。
「ま、待って下さい。もし、ここで犯行を認めたら、助けてくれるんですか・・」
佐助のその問いは、犯行を認めたのも同然だった。
「それはお前達の話しを聞いてからだ。とにかく何も隠さず話すんだ。」
当日、ものすごく腹が空いてたこと。警備が手薄だと知ってたこと。健太の犯行に見せかけるために、包帯を使用し、フライドチキンを持ち帰ったこと。など、佐助が当日の犯行について話した。リー軍曹は、じっと目を閉じたまま、その話を聞いていた。
そして、佐助が話し終えてもしばらく目を閉じていたが、突然かっと目を見開くと、腰にある剣を抜き、佐助の首めがけ振り下ろした。
「ぎゃー。」
兄弟同時に叫び声をあげ、両手で顔を覆った。
「ここから今すぐ立ち去れ。この国から出ていけ。この俺の前から消えうせろ!そして、二度とこの俺の前に現れるな。もし今度俺の前に現れたら、その時は容赦なくこの首を落としてやる。」
と、剣先を佐助に押し付けたまま押し殺すような声で伝えた。彼の毛は逆立ち剣を握りしめた拳は怒りに震えていた。その形相、怒りの様子に腰が抜けたのか、尻もちをついたまま、後ずさりをしている佐助を
弟達が脇を抱えるようにして、叫びとも悲鳴ともつかぬ声を上げ、逃げ去って行った。
今さら国王の前に連れ出しても仕方のないことだと思ったのか、それとも最後の優しさだったのか、彼の心中を知ることは出来ないが、彼のこの行為が、やがて健太を悲劇のどん底に突き落とすことになろうとは、彼が知る由もないことであった。
健太は幸せだった。
母親と食事をし、風呂に入り、買い物に出かける。このただただ普通の生活が幸せなのだ。乞食同然の与作との暮らし、残飯集めに虐待、腐った物も食べさせられていた。昌子と出会い、この幸せを手にしたと思えば、罪なき犯罪で牢獄され血屁度を吐くほどの拷問にさらされ、生死をさまよったこともあった。まさに、今思い起こせば、地獄の日々の連続であった。
でも今は、毎日が温かい。
健太にとって、母昌子と過ごす、すべての時間や空間、空気や匂いにさえも幸せを感じるのだ。昌子も、健太と暮らせることは、まさに夢のような時間であったが、彼女の心の片隅には、一抹の不安を残していた。孤独とは、一人でいる時間のことだと、彼女は思っていたが、愛する者との暮らしが幸せであればあるほど、孤独という恐怖が頭に浮かんでくるのだ。一人でいるより、二人の方が孤独な時もあるのだ。この幸せの時間は、永遠に続くのであろうか。また、健太がどこかにいってしまうのではないか。健太の笑顔を、見れば見るほど、そんなことを考えてしまう。
「お母さん、いつも何か僕を見てポーってしてるね。何考えてるの。」
くりくりした目で、健太が聞く。
「何にもないよ。今日の夕飯を、考えてたんだよ。何食べたいの健太は。」
前かけで手を拭きながら、昌子が笑顔で聞く。
「僕ね、カレーがいいなあ。」
「またカレー?お前はいつ聞いても、カレーだね。」
「うん、だってお母さんのカレーおいしいから、今日もカレーにしてよ。」
その晩の食卓には、カレーと小さなサラダが並んだ。健太は、ニコニコしながらスプーンを口に運ぶ。あきるほど見ている健太の笑顔が、昌子を幸せにしてくれる。しかし、そんな幸せを感じなからも、不安もある。リー軍曹が、生活の足しにとくれたお金も、残り少なくなってきている。そろそろ、仕事を見つけなくてはいけないのだ。しかし、健太を一人家に置いて仕事に出るのは、不安であった。何か、起こるのではないか・・また、離ればなれになってしまうのではないか・・このままの生活ではいけないと思いながら、行動を起こせない昌子であった。そんな不安を打ち消すのは、やはり健太との会話しかなかった。
「お前、運命っていう言葉知ってるかい。」
お絵かきをしている健太に話しかける。
「運命?知らないよ・・うんちなら知ってるけど、臭いやつだよね。」
と、花の絵を描いていたペン先が、何故かうんちの絵を描いている。
「馬鹿だね、何言ってるの。運命っていうのはね自分達の力では、どうにもならない神様が決めた道というか、人生、未来のことをいうんだよ。」
「へぇ~、神様が決めちゃうのかあ。つまんないね。僕はカレーばっかり食べてるから、うんちの色もカレー色になっちゃったのかなあー。」
と、今度はカレーライスの絵を描いている。
「本当に、お前は馬鹿だね。でも、そんなところが、母さん大好きだよ。」
と、笑顔いっぱいで健太を見つめたのち、
「でもね、母さんはね、運命っていうのは神様が決めるじゃなくって、自分で決めれるというか、自分で運んでくるもんだって思ってるんだよ。」
昌子は、語り聞かせるように話す。健太は、いつしかペンを止め聞き入っている。昌子は、そんな健太に目を向けながら話しを続ける。
「命を運ぶって書いて運命っていう言葉になるんだよ。母さんはね、その命を運ぶのは自分自身だと思うんだよ。それは、お前に教えてもらった気がするんだよ、母さんは。」
「えっ、僕がお母さんに教えたの?僕偉いじゃん。頭いいんだ。」
健太は、ニコニコしている。
「お前は命を運んで来た。何度も何度も辛いこと、苦しいこと、その命さえ奪われそうになりながら母さんに、その命を運んで来てくれた。命を運んだんだよ、お前は。」
と、健太を抱きしめた。まさに健太の人生は、昌子の言う通り、その小さな身体で命を運んできたのだ。
何度も何度も消えそうになる小さな光、命を、健太は運び続けたのだ。与作との貧困・虐待の日々、盗人にされ死の淵見た拷問、極刑の危機・・・いつ消えてもおかしくない命をつなぎ、生き延び、運んできたのだ。
健太を抱きしめながら、昌子は思った。
この小さな身体の中には、とてつもない力が潜んでいるのかも知れない。その力、いや血と言ったほうがいいのかも知れない、その血こそ王位継承の血なのだ。昌子は、そんな思いを振り払うかのように、さらに強く抱きしめた。
次朝、健太はいつものように台所から聞こえてくるリズムで目が覚める。
「おはよう。お母さん。」
昌子の、しっぽの横に顔を埋めるように飛びつく。
「駄目だよ、危ないから。顔洗っておいで。」
幸せな空気を、感じる毎朝の決まった光景だ。今朝のおかずは、味噌汁にシャケと佃煮。あとはご飯にかつを節をかけた猫マンマだ。笑顔一杯で、ご飯を欠き込むように食べる姿は、いつも同じだ。そんな健太を、見つめる昌子の顔も、笑顔一杯になる。
「おいしいかい、健太。」
独り言のように呟くように言うと、
「お母さんね、そろそろお仕事に出ないといけないの・・」
と、自分の食器を片付けながら、少し寂しそうに伝えた。
「えっ・・お仕事・・それって僕一人で、お留守番すること?」
ちょっと驚いた顔して箸を持つ手が止まった。
「最初はそう思ったけどね。やっばりお前一人置いて行くのは心配だから、お前を連れて働く所を探そうと思ってね。」
と、昌子は健太に心配かけまいと、そう答えたが、そんな都合のいい職場は簡単には見つからないと思っていた。
次の日から、昌子は健太を連れ職場探しに出かけ始めたが、昌子の思っていた通り、なかなか仕事は見つからない日々が続いた。小さな健太の手を握り、毎日街に出たが、師走の風は心にも身体にも冷たく感じた。初めのうちは、手に覚えのある調理の仕事を中心に尋ねていたが、最近は掃除婦・ゴミ処理などの
仕事も訪ね歩いているのだが、やはりどこも健太の存在がネックになっていた。体力に自信のない昌子であったが、そんなことも言ってはおれず、今日は日雇いの工事現場を尋ねてみることにした。面接の時は、いつも健太を連れて話を聞いてもらっていた。不利になることは、承知だったが、ありのまま姿を見て判断して欲しかったからだ。しかし、今回は大きな重機やトラックなどが、行き来する現場の中に健太を連れて行くのには危険を感じたので、少しの間外で待たせることにした。
これが、いけなかった。
初めのうちは、拾った小枝で地面に絵をかいたりして遊んでいたが、疲れていたのであろう、睡魔が健太を襲ってきた。無理もない、毎日毎日この冬空の下、昌子と二人で歩き続けてきたのだ。配達に来たのであろう、リヤカーの上で眠ってしまった。
面接を終えた昌子は、門に向って走った。不安だった。面接中も健太のことばかり考えていた。門を出た。
(いない!・・)背筋に冷たいものが走った。
「健太、健太!どこにいるの。返事をおし!」
出来る限りの、大声を何度も張り上げながら、走り探したが、健太の姿はなかった。首をたれ、力なく門の前に戻って来た。
(これは、あの子・・)
地面に書かれた絵を見つけた。
(ここで、遊んでいたのは間違いない・・一人でどこかに行くわけもない・・連れ去られた・・)
昌子の脳裏に、不安がよぎった。
(いったい誰が、何の目的で・・・)
昌子は、自分を落ち着かせるように心の中で問答をした。
一人にした時間は、長く見っ見積もっても15分ぐらいだ。面接官も乗気ではなかったし、自分も健太の事が心配だったので、早めに話を終えた。その間に誰に?顔見知りの誰か?
そんな問答をしながら、落書きに目やった。さっきは慌てて気づかなかったが、絵の少し先にわだちを見つけた。リヤカーものだと、すぐに、解った。誰かに無理やり乗せられ連れ去られたのではないか・・
昌子は、焦る気持ちを抑えて尋ね聞いてみることにした。15分という短さからか、なかなか健太の姿を見たという証言は得られなかったが、門の所に止まっていたリヤカーを見たという中年の男の話が聞け、そのリヤカーは週に一回工事現場で働く、工員達の作業着を回収に来たクリーニング業者のものだとわかった。昌子はすぐに思った。きっと、寝てしまったのだと。服が積んであればクッションのように柔らかいし、この寒さだ。地面に座って絵を描いているより、リヤカーの荷台の方が居心地がいい。連れ去られたにせよ、眠ってしまったにせよ、リヤカーの行き先を調べることにした。毎週定期的に回収しいる業者なのですぐに、会社の所在地は解った。
昌子は、走りに走った、爪が剥がれ血がにじむ痛さなど何も感じなかった。心の中にあるのは、また健太を失いたくないと言う気持ちだけであった。
「はぁ~・・あれ、僕・・」
健太は、荷台の上で目をこする。洗濯ノリの、乾いたいい匂いがする。クリーニングの店に着いたのだ。
「お母さんは・・僕、今どこにいるの・・」
自分に問い掛ける様に口にし、ニヤカーから飛び降りると、あたりを見渡した。知らない街並みが広がっている。急に心細くなってきた。風もやけに冷たく頬をさす。
「お母さん!ねぇ、お母さん、どこいっちゃったの・・ねぇ・・」
昌子が、今まさにこちらに向かっていることなど知らず、泣き叫びながら走り出す。走る健太の脳裏には、昌子の存在を知らず過ごした、辛い思いの日々が浮かんでいた。
「僕もう嫌だよ・・あんなに辛いのは、お母さん、ねぇどこに行っちゃったの・・」
走れば走るほど、母との距離は離れていく。
「ここだわ、間違いない。」
昌子は、店の名前を確かめると、前に止まってリヤカーの荷台を探したが、健太の姿はなかった。店の者も、健太のことは知らなかった。道行く者達に、尋ね歩いた。
何人目かの者が、西の方角に泣きながら走り去って行く子供を見たと教えてくれた。
毛の色も健太と同じ茶トラだったと話してくれた。
(間違いない!あの子だ!)
その者の伝え通りに西に向って走った。そして、願った・・お願い、あの子に合わせて欲しいと・・
「寒いなぁ・・」
「ねぇ、兄ちゃんお腹すいたよ。」
「うるせいなあ。仕事しないと親方にめし食わせてもらえねぇんだから、誰が売れそうな奴見つけるんだよ。いいな!」
佐助は、泣き言を言う喜助と金助を怒鳴りつけた。
リー軍曹に追放された、三兄弟は、流れ流れて、奴隷の売却元締めの、忠保親方の下で働いていた。働くといえば聞こえはいいが、悪の片棒をかつぐ、使い走りの最低の生活だ。仕事の内容は、捨て猫、野良猫を探し、肉体的にまだ仕事の出来そうな者を元締めの所に連れて行く。その猫達は安い値で奴隷制度のある国に売り飛ばされるのだ。冬の寒空の下、三兄弟はそんなチンケな仕事をしていた。
「あれ・・あいつ、健太だ。」
金助が、泣きながらとぼとぼと顔をうな垂れ歩いている健太を見つけた。
「あっ、間違いない。これで今夜は飯が食える。」
佐助は、ニタリとした。健太は子供だが、大人の奴隷より子供を欲しがる奴隷主もいるのだ。
「おい、久しぶりだなあ。」
佐助の声に、ビックリして顔を上げる健太。
「あ、みんな、丁度いい所で会えた。ねぇ、僕のお母さん見なかった。」
お人よしの健太が尋ねると、
「知ってるよ。お前の母ちゃんだろ。お前のこと探して、今俺の家にいるよ。」
取ってつけたようなウソ。でも、健太は信じてしまう。
「よかった。はぐれちゃって・・もう会えないかと思ってたんだ。」
お人よしの健太は、ニコニコしている。佐助の顔も、笑っていた・・違った意味で・・
健太は、佐助達に囲まれるようにして忠保親方のもとへ連れていかれた。薄汚い倉庫跡のような場所だ。
明らかに普通ではない雰囲気なのに、まだ健太はニコニコして
「ねぇ、僕のお母さんはどこにいるの???」
と、佐助に聞く。
「お前は、本当に馬鹿だよなあ。まだ解んないのか。、お前の母親なんて最初から知らないさあ。」
「えっ・・知らないの・・じゃあ、ここはどこなの・・」
不安そうに部屋の中を見渡していると、突然、目の前に大男が現れた。
「このチビかあ。高くは売れそうもないが、何もないよりはましだな。」
と、椅子に腰かけると、佐助達にめしを許した。
「ねぇ、ここはどこなの・・僕のお母さんは・・」
涙声で、大男に聞く。
「お前の母親なんて知るか。それにここがどこなのかも知らなくっていい。どうせ明日になったら、北国に奴隷として売られていくんだからな、はっはっはっはっは・・」
と、高笑いしながら、周りにいる手下に目で合図を送ると、健太はあっという間に縛り上げられ、そのまま檻の中に入れられた。
どこから連れてこられたのか、何人もの奴隷要員が縛りあげられていた。老いた者、若い者もいれば、健太と似たような歳の子供もいた。
「ねぇ、ここはどこなの・・僕どうなっちゃうの・・」
と、隣に座っている者に聞いたが、首を振るだけで返事はなかった。
「売られるんだよ、みんな・・明日、北国の奴隷船が来る。それに乗せられて、北国に連れて行かれるんだ、そして、二度と生きて帰ってくることはないんだよ・・」
年老いた者が、独り言をつぶやくように言った。奴隷船・・生きて帰れない・・北国・・なんで、また僕なの・・
健太は、心の中で泣き叫んでいた。お母さんに会いたい・・もう、離れたくない・・嫌だ・・しかし、何も解らないこの地で、縛りあげらた健太には、何もできなかった。
眠れない夜が明けた。
「おい、起きろ・・朝だ。」
手下の声と共に檻から連れ出されると、北国のものなのか、埠頭にはすでに大きな船が横着けされていた。
「ほら、さっさと、乗り込め、早く歩くんだ。」
船に乗り込むための板橋を、みな首をうな垂れ歩いて行く。
やがて健太の番がきた。鉄の塊のような船に、鉛色の冬の海と空、そして健太の心も鉛のように重く冷たかった。
「ほら、チビ、さっさと歩け!」
手下の声が、容赦なく飛んでくる。後に続く者達に、押し込められるように船に乗り込む。甲板は高く、陸に比べさらに風が冷たく強い。健太は、言葉もなく、ただ茫然と埠頭を見つめいた。
昌子は、走り続けた。西に向けて、ただひたすらに・・冬のアスファルトに、足の剥がれた爪のにじんだ血の痕が続いていた。港が近いのか、海のにおいが漂い、船の汽笛が聞こえてくる。健太は、ただ西に向向かって走って行ったとの、話だけで、他には何のあてもない。不安と恐怖だけが、交互押し寄せてくる。
すると、そんな昌子の目の前を三兄弟が横切った。
(あの兄弟だ。何か知ってる。)
それこそ、何のあてもなかったが、直感した。
「お前達、健太をどこに連れていったの!」
尋ねるのではなく、確信した口調で問い詰めると、
「船に乗りたいって頼んできたから、ただで乗せてやったよ、この先の埠頭にある船だよ。」
と、佐助は何のためらいもなく、西の方角を指示し教えた。
「うそじゃあないだろね。もし、うそだったら、ただじゃあおかないよ。」
と、睨みつけると
「うそなんか言ってないよ。ほら、早く行かないと船出ちゃうよ。」
と、昌子の目をそらすかのように、港の方を見て言った。
うそでもいい、とにかく行ってみようと、昌子はまた走りだした。
「兄ちゃん、教えちゃっていいの・・船のこと。」
と、走っていく昌子の後姿を見て、金助が聞いた。
「船なんて、とっくに出航しちゃってるさ。今さら追いかけたって間に合わないんだよ。」
と、佐助は笑って見せた。
健太を乗せた奴隷船は、碇を巻き上げ汽笛を鳴らし出航した。埠頭には、他にも漁船などが停泊していたが、昌子は港を離れていく奴隷船に向かって走った。
(あの船だ、あの船に乗せられているに違いない・・助けないと・・)
理屈ではなく、母親の感がだ。
「健太!!健太!!お母さんだよー、健太ー」
走りながら、出来る限りの声を張り上げた。昌子の張り上げる声も、むなしく船は埠頭から遠ざかり小さくなっていく。それでも、昌子は健太の名前を叫び続けた。
師走の風は冷たい、肌を刺すようだ。しかし、その風が奇跡を起こした。冷たい海を、その風が昌子の叫びを運んだのだ。
「うん・・何?・・お母さん・・どこ・・」
健太の耳に、微かな声が聞こえた。幸いにも拘束はされていなかったので、すぐに健太は甲板に出た。埠頭を、見ると母の姿がある。
「お母さ~ん、僕だよ、僕ここにいるよ!!」
と、健太も張り裂けるように大声で叫んだかと思った瞬間・・(バシャン)
何も迷わず健太は、鉛のような海に飛び込んだのだ。泳ぎは、得意でない。一旦深く沈んでしまった健太は、死に物狂いで水面に顔を出すが、その泳ぎはぎこちない。
「健太、お母さんが今行くからね。待ってなよ。」
昌子も飛び込んだ。海は、氷のように冷たかったが、必死に健太を目指して手足を動かした。
(健太・・今行くからね・・必ず母さんが助けてあげるから・・)
次第に、海水の冷たさが手足の感覚を奪っていく。健太も、必死に泳いでいるというよりは、浮いているのが奇跡といったひん死の状態だ。昌子は、あせった。早く行かないと、沈んでしまう。そんな昌子の思いとは、裏腹に力つきゆっくり沈んでいく健太・・もがいていた小さな手が、海面から消えていく。
(だめ・・あの子が死んじゃう)
昌子は、とっさに潜った。感覚がほとんどない身体で潜水し、健太の手を握りしめた。必死に、もがくようにして海面に出る。
「健太!!母さんだよ!!健太、しっかりしなさい!!」
健太を抱きかかえるようにして、叫び続けるが反応はない。意識はないが、息はあった。
(陸に帰れば、何とかなる。この子とまた幸せに暮らせる。)
昌子のそんな気持ちが、力尽きていた冷たい身体に再び熱い血を蘇らせた。意識のない健太の全体重が、昌子に襲い掛かる。そんな重さも、近づいてくる埠頭を見ると、逆に幸せを感じさせるのだ。
(あと少し・・もう少しだ。あそこまで泳ぎつけば、またこの子と二人で・・)
と、思った瞬間。
ドカーン!ドカーン!
銃声のような音と共に、昌子の回りに水しぶきが上がった。健太が逃げたことを知った奴隷船から、狙い打ちが始まった。次々と銃声が響き、銃弾が飛んでくる。昌子は、健太の身を包み込むようにして、泳ぎ続ける。しかし、容赦なく撃ち込まれる銃弾が、ついに昌子の身体を貫いた。
「あっ!」
突然の衝撃と激痛が、昌子の身体を襲う。宝石のように光輝く水疱が、二人の周りを包み込んでいく。
「健太・・健太・・ごめんね・・母さんもうだめかもしれないよ・・」
海水に濡れた、健太の顔に涙が落ち、昌子は力なく沈んでいく。意識のない健太も一緒に沈んでいく。氷のように冷たい鉛色の海が、二人の命を飲み込んでいく。
(健太・・健太・・ごめんね、辛い思いをしてきたお前を幸せにしてやれず。母さんを許して・・)
銃弾を受け溢れる血で、回りの海水が赤く染まる中昌子は、力尽きた。
二人が海面から消え、浮かんでこないのを確認すると、船は動き始めた。始めから、逃げた健太を取り押さえるためではなく、他の奴隷の見せしめに殺したのだ。逃げた者は、こうなるのだと。
ほんのりと赤く光るものが、ぼんやりと見える。
「むっ・・・むっ・・」
健太は、目をこすりながら、ゆっくりと起き上りあたりを見渡した。そばに焚火の火があったが、何故か怖くはなかった。
「ここどこ?おじさんだあれ・・」
「おじさんとは、ひどいなあ。お兄さんさんだろ。」
健太に背を向け、漁師網の綻びを直しながら、その男は言った。
「ごめんね、お兄さん。ねぇ、ここどこ?お母さんはどこにいるの?」
健太は、回りをキョロキョロ見渡しながら聞く。
男は手を止めると、ゆっくりと振り返った。
「ぼうず、ここはな、小さな漁師町さ。」
と、小さな声で言った。
「ねぇ、お母さんは、どこにいるの。」
自分が今いる場所より、母のことが気になる。
「死んだよ、お前の母ちゃんは。」
その男は、昌子の死を呆気なく伝える。その言葉に、しばらく無言で焚火の火を見つめていた健太であったが、
「うそだ・・そんなのうそだよ・・」
蚊の鳴くような声で独り言のように言う。
「うそなんか言ったって仕方ないだろう。お前の母ちゃんは海で死んだんだよ。」
「海で・・」
「あぁ・・海で溺れた、お前を助けようとして死んだんだよ。」
「僕を・・そんなのうそだ。みんなうそだ!ねぇ、早くお母さんに会わせてよ。」
涙声で、鼻をすすり
「ねぇ、早く。僕、お母さんに会いたいんだよ。」
と、男に歩み寄り体を揺すり泣きじゃくる。男は、しばら黙っていた。
「そうか、じゃあついてこい。」
と、背を向け歩き出す。
「えっ、会わせてくれんだあ、やっぱりお母さんは生きてるんだあ。」
鼻水を拭い、急に笑顔になる健太。ニコニコしながら、男の後をついて小屋の外に出ていく。
「こんな寒いのに・・どこにいるの・・なんで外にでるの・・ねぇ・・」
健太は、何も答えない男の背中に話しかけながら、寒風の中をついていった。
しばらく砂浜を歩くと、小さな丘に出た。
「こんな所に、お母さんがいるの?どこ・・早く会わせて。」
と、回りをキョロキョロしている健太に、
「あそこに、お前の母ちゃんは、眠ってるんだ。」
と、男が指差す先には、小さな石が見えた。説明するまでもなく、墓石だ。多分、この男が建てたのであろう。しばらく茫然と、男の指差す石をみつめていたが、
「違うよ!違うんだよ。僕はお母さんに会いたいの!」
と、身体を震わせながら大声で叫んだ。そして、男の方に振り向くと、
「お母さんに会いたいの。あんな石じゃあないんだよ。」
大人しい健太にしては珍しく、男の足にしがみ付き、叩く様にして叫んだ。少しの間、男は無言であったが、
「掘り返したりするなよ。あの石の下には、骨しか埋まっていない。母ちゃんは天国に行ったんだ。」
と言うと、健太をその場に残し立ち去った。
健太は、泣いた。寒風吹きすさぶ海浜の上で泣いた。泣いて、泣いて、そのまま眠ってしまった。
「おい、めしの時間んだ。いつまでメソメソしてるんだ。」
墓石を抱くように眠っている健太に、男が声を掛ける。
「僕、ご飯なんていらないもん・・ここでお母さん待ってるんだ・・」
と、墓石の横にチョコン座り、涙を拭う。
「まあいい。好きにしろ。」
一言だけ声に出すと、男は背を向け帰っていった。
日が暮れると、ただでさえ冷たい海風が強さを増し、肌を刺すように痛い。悲しくって辛いのに、お腹は減ってくる。シッポが垂れ、うな垂れながら健太は浜を歩き小屋に帰ってきた。焚き木あり、暖かい。料理の名前はわからないが、飯もある。健太は、焚き木の横にチョコンと腰を降ろした。この小屋で意識が戻った時もそうであったが、何故か火に対して恐怖感はなくなっていた。
「さあ、食え。何でもいいから腹に入れろ。」
男の言葉に小さく肯き、少しずつだが、飯を口に運び始めた。その姿を見て、少し安心したのか、男が
「うまいか、沢山食べろよ。」
焚火の火を突きながら、さめた口調で言う。
「お前、火はもう怖くないのか。」
と、独り言のようにつぶやいた。
健太には、聞こえなかったのか聞いていなかったのか、何も答えなかったが、何故、この男は健太が火に怯えることを知っているのであろうか。
来る日も来る日、健太は昌子の墓石の横に座っていた。日が昇れは現れ、日が暮れれば帰って行く。母昌子が、死んでしまったことが、どうしても信じられず、受け入れることが出来なかった。食欲も落ち、見るからに痩せて元気もない。膝を抱え、今日も墓の横に座っている健太に、男が近づいて来る。手には釣り竿を持っている。
「おい、今日からお前にも働いてもらぞ。いつまでもただ飯食わしておくわけにはいかないからな。」
と、手に持った竿を突き出して言った。
「釣りなんて嫌だよ、僕。」
「嫌とか、きらいとかじゃないんだ。仕事なんだよ。」
と、顔に釣竿を突き付け、首根っこを掴むと、近くの堤防まで連れて行った。
「俺のやり方を見て、お前も同じようにして釣るんだ。いいな。」
と、男は手際よく餌を付け、糸を海に投げ入れて見せた。健太は、膝を抱え、ぼーっと海を見つめている。釣りをする気配などない。
「何してるんだ。遊びに来てるんじゃないぞ。早く釣れ。」
と、浮の先を見つめたまま、男が強い口調で言うが、健太は海を見つめたままだ。男は、その後無言のまま釣りを続け、しばらくすると竿を上げ、何も告げず帰っていった。健太は、しぱらく海を見つめていたが、日が沈むと帰って行った。次の日も、その次の日も何日も同じことを、男は繰り返した。前にも増して小さな健太の身体は、やせ細っていく。男は、何も話さなかった。
「腹減ったなぁ〜・・」
金助が腹をさすりながら歩く。
「健太の馬鹿が、逃げたせいで、なんで俺達がクビになるんだ、チキショウ!」
喜助が砂を蹴り上げる。
「生きていやがったら、ただじゃあおかないぞ、あのチビ。」
冷たい海風に、佐助の声が震える。
三兄弟は、自分達が捕らえた健太が逃げたせいで、奴隷商人の忠保の所をクビになっていた。ハラが減り、兄弟は海岸端に流れ着く死に魚を目当てに歩いていた。
「あれ・・あの丘に座ってる奴、健太じゃないか。」
佐助が、丘を指さして言う。
「違うよ。よく似てるけど、あんなに痩せてないよ。」
金助は、目を擦りながら丘に近づいて行く。
「いや、痩せてはいるが、あいつに間違いない。あの足のアザをよく見ろ。」
と、佐助は目を光らせながら言った。何の因果か、またもや健太に不幸の風が押し寄せてくる。
「おい、チビ。」
佐助が、声を掛けながら近づいてくる。
健太は、声のする方に目をやったが、何一つ表情は変わらなかった。ただ茫然と海を見つめていた。その態度が気にいらなかったのか、佐助は近く落ちていた棒きれを手にすると、
「お前のせいで、俺達はひどい目にあったんだ!この馬鹿やろー。」
と、思いっきり健太の頭を殴りつけた。健太の額から血が流れ、その血が砂浜を赤く染める。額に手をやるが、悲鳴さえも上げず、健太は座ったまま海を見つめたままだ。
「てめぇー、馬鹿にしてるのか!ぶっ殺してやる!」
佐助は、何度も何度も殴りつける。健太は、一言も声をあげることなく、倒れ込んだ。
「兄ちゃん、こんないい物あったよ。ほら。」
と、金助が松明を持って来た。漁師が暖をとるために、焚火をしていたのだ。ニコリと微笑むと、佐助は松明を手に取り、
「おい、見ろ、お前の大好きな火だ。今、温めてやるからな。」
と、火を顔に近づけるが、何の反応も示さない、健太であった。
「お前、頭おかしくなっちゃったのか。火が怖くないのか。」
ジリジリっと音がして、毛が焦げる臭いがする。
「頭ににきた!焼き殺してやる!」
佐助が健太の顔に、火を押し付けようとした瞬間。
「ぎゃあー。」
それこそ火がついたような叫び声を上げたのは、健太ではなく佐助の方だった。釣り針が、火を持っていた手に刺さっている。
「そのへんにしておくんだ。」
釣り竿を持ったあの男が現れた。
「いてぇじゃあねぇか。馬鹿やろう。お前は誰だ。」
刺さった針を必死に抜きながら、佐助が睨みつける。
弟達も佐助に駆け寄り、男を睨みつける。
「俺が誰なんて関係ない。すぐここから立ち去れ。」
目で殺すように睨みつけ、ドスの効いた声で言う。
「立ち去れだと!?生意気な奴め。おい、やっちまえ!」
佐助の掛け声と共に、三兄弟が一斉に襲いかかる。三人共、手には拾った松明や角材を持ち、思いっきり殴りつける。ところが、一瞬にして男は、三人の攻撃をかわしたかと思いきや、足蹴りと手刀で次々と叩き付けた。
「いてて・・」
倒れたまま、腰を抑える金助と、喜助。そんな二人を佐助にらみつけ、は立ち上がると、
「ちきしょう!おい、立て、何してる!」
松明を拾い、男に向っていく。弟達も続く。男は、またもやさらりと身をかわすと、今度は容赦なく兄弟達を叩きのめした。そして、佐助の落とした松明を拾いあげた。
「おい、最後の忠告だ。今、ここから立ち去り、二度と俺達に近づないと約束しろ。」
燃え盛る火を、佐助の額に近づけた。腰を落としたまま、後ずさりする佐助。
「焼き殺されたいのか。俺は本気だぞ。」
顔面を蹴とばし、這いつくばらせると火を顔に押し付けた。ジリジリ・・毛の焦げる・・
「ぎゃあ〜!!」
広い砂浜に、佐助の叫び声が響く。男は容赦なく今度は、腹に押し付けようとする。
「解った、二度と近づかない。約束するから、許してくれ。」
火傷した頭を押さえながら、泣きながら訴えた。
「今度現れたら、殺す。」
男は低ドスの効いた声で言うと、健太を背負い帰って行った。悪ガキ三兄弟の運も尽きた。佐助の両肩を抱えるようにして、金助達も浜辺を去っていった。
薄暗い小屋の中で、炎の灯りに照らされた健太が小さな声で呟いた。
「僕のお母さんは、本当に死んじゃったの?・・」
男は健太の頭に包帯を巻きながら、
「ああ、お前の母ちゃんは、もうこの世にはいない。」
「海で、溺れちゃったの?・・」
健太は、初めて昌子の死を受け止めようとしている。
「海岸に、お前と一緒に倒れていたんだ。」
「じゃあ、やっぱり、溺れちゃったんだね。」
炎を見つめながら言う。男は、黙ったまま包帯を巻いていたが、その包帯を巻き終えると、
「違う。殺されたんだ。」
と、言った。
「えっ!殺されたの・・本当?・・誰に殺されたの?・・」
健太は男の方に振り返り聞く。
「銃弾に打ちぬかれた痕があった。」
男は呟くように言う。
「撃たれたの・・えっ、なんで、誰に、ねぇ!?」
矢継ぎ早に聞く。男は、黙っていた。何かを考えているのか、炎をじっと見つめていたが、
「俺には、解らん。今、解っていることは、お前の母ちゃんは死に、お前は生きていると言うことだ。」
と言い、小屋から出て行った。健太は、一人燃え盛る炎をじっと見つめていた。
風は冷たいが、晴れわたる青空が気持ちいい海岸線だ。
「どこか、釣りに連れて行ってよ。」
釣り竿を手に持った健太が、干物を干している男に言った。
健太の中で、何かが少しずつ変わろうとしていた。
「釣りを教えてよ。僕も釣りがしたくなってきた。」
男は手を止めると、何も言わず釣りの支度をしに小屋の中に戻って行った。そして、すぐに竿を手にして出てくると、
「いくぞ。」
と、一言健太に声を掛けると歩き出した。
無言で歩く二人。男は波打ち際の岩場まで来ると、腰を降ろす。健太も、横にチョコンと座る。手際よく仕掛けを作っていく男の手元を見ている健太は、見よう見真似で餌をつける。まさに、糸を引くように、シューッと気持ちいい音を残し、男の浮は、遥か彼方まで飛んでいった。
健太も、思いっきり投げた。ポシャン!浮はすぐ近くの足下で浮いている。
「あっはっはっは・・」
男が笑った。初めて見せた笑顔だ。
「えっへへへ・・・」
健太も、始めて笑顔見せた。一時間、二時間。あたりもなく何も釣れなかった。
「坊主、今日はボウズだ、帰るぞ。」
と、男は変なことを言うと、さっさと帰って行った。
「坊主が、ボウズ?・・俺、お寺のお坊さんじゃないのに、何言ってるんだろう。」
先に帰って行く男の背中を見ながら、首をかしげた。別に魚を釣りたくて、粘っているわけではなかったが、ただぼんやりと糸を垂れていた。
鳥の巣でもあるのか、時折「チュン、チュン」と、囀りが聞こえる。
風は相変わらず強いが、海はどこまでも広く、空は底抜け青く気持ちがいい。そんな風景に取り込まれ、ウトウトしていると、突然ガサガサと大きな音がして、海の上に突き出た木の枝から、一羽のヒナが海に落ちた。海面から吹き付ける強風に煽られたのだ。
「あっ!大変だ!溺れちゃうよ。」
健太は、慌てて腰を上げたが何もできない。心のどこかに、溺れ死にかけたトラウマがあるのだろうか、海に入れないのだ。冷たい海水がヒナの力を奪っていく。
「あ・・だめだよ・・死んじゃうよ・・」
男を呼んでくる時間はない。
健太は、あせったが、釣りに使うタモを持ってきていることに気がつくと、手に取り、必死に手を伸ばした。
「全然だめだ。届かないよ・・」
柄が短すぎるのだ。
その時だ、突然背後から健太の顔をかすめるようにして、何かがヒナのもとに飛来した。
「おっ、あれ、きっとお母さんだ。」
餌でも採りに行っていたのであろうか、海に落ちたヒナを見つけた親ツバメが、急ぎ帰ってきたのだ。
ヒナは、かなり弱っていた。羽全体が、海水に濡れ身体自体が小さく見える。親鳥は、必死になって足で掴もうするが、なかなか上手くいかない。掴み上げようとすると、スルッと爪の間からヒナが抜け落ちてしまう。海の中で、何か藻のような海藻がヒナの足に絡まっているのだ。このままでは、ヒナは助からない。
「がんばれー、お母さーん、がんばれー。」
何も出来ない健太は、必死に叫ぶ。
その時だ、親鳥が一瞬高く飛び上がったかと思うと、そのまま海に突っ込んだ。
「えっ、何!、お母さん、えっ・・」
唖然とその光景を、見ている健太。
しばらくすると、親鳥が海の中から飛び出してきた。羽が濡れて、完全には飛べないが、必死で飛び上がると再び海に飛び込んだ。ヒナの足に絡んでいる海藻か何かを、口ばしで解き、切ろとしているのだ。
そんな光景が、二度、三度と繰り返され、ヒナの身体が自由になると、今度はまた爪で掴み必死に飛ぶ。
羽は濡れ、飛ぶというよりは、もがいているように見える。
「もうちょっとだよ・・がんばって・・あと少しだよ。」
健太は、叫びながら海岸を走る。二羽のツバメが、力なく岸辺に打ちあげられた。ヒナは、ピクピクと小刻み震えているが、親鳥の方はピクリともしない。
健太は、静かにそっと手を伸ばした。
ヒナを包み込むようにして懐に抱いた。そして、親鳥の身体を何度も何度も優しく撫でた。
「起きて・・ねぇ・・目覚まして・・お母さん!ねぇ・・」
まるで、自身の母、昌子に対して声を掛けているようにみえた。
「だめだよ・・死んじゃったら・・ねぇ、ねぇってば・・」
海水に濡れ、抜け殻のようになった、その母を摩り続けた。
「あきらめな、ボウズ、可愛そうだが、死んでる。」
いつのまにか、男が立っていた。健太の帰りが、遅いので見に来たのだ。
「そんなことないよ。さっきまで元気に、空を飛んで・・この子を助けようとしてたんだから。」
と、濡れた羽を擦る。
「お前の、気持ちはわかるが、もうその親鳥は無理だ。それより、早くその子の手当てをするんだ。」
と、親鳥を抱きかかえると、ヒナの手当てをするように命じた。健太は、小さく肯くと優しくヒナを抱き上げた。男は、親鳥を健太の母の墓地の隣に葬るのだと告げ、立ち去っていった。
健太は、ヒナを抱き走った。涙が、溢れてくる。何を叫ぶのではなく、ただ泣きながら走った。ヒナの姿に、自分を重ね、母鳥の姿に昌子の姿がたぶるのだ。
小屋に戻ると、焚火の近くで濡れた羽を拭いてやる。身体が、小刻みに震えている。
「大丈夫だよ。すぐ温かくなるからね。」
優しく撫でるようにして声を掛けるが、ヒナは目を閉じたまま震えていた。
「元気出して。ねえ、目開けて。、もう大丈夫だから。」
泣きながら声を掛ける健太。
そこに、男が戻って来た。
「どうだ、意識はあるのか。」
と、ヒナの姿を覗き込むと、
「こいつ、左目をやられてるな。きっと母親が助けようとした時、口ばしが刺さったんだ。」
男の言葉に、ヒナの目を見ると確かに血が滲んでいる。気か動転していて、健太は気が付かなかったのだ。
「本当だ。大変だ、目が見えなくなっちゃうよ。ねえ、どうしょう。」
男の方を振り向き、泣きながら言い、血を拭う。男は、ヒナを受け取ると、しばらく怪我した左目を見つめていたが、
「俺は医者じゃないからよく解らないが、今は、目より命を助ける方が先決だ。」
と、言い、とにかく水分を与え、身体を温めるのだと伝えた。
健太は、必死に看病した。こよりにした和紙の先に、水を染み込ませ口に吸わせ、絶えず焚火のそばで寄り添い身体を擦った。
初めのうちは、吸う力もなかったが、日に日にその力は強くなり、元気を取り戻していったが、左目は、回復はしなかった。
「おかゆ作ってあげようか。」
健太は、母親きどりだ。ヒナは、食欲も戻り元気になった。そんなヒナの姿から何か勇気を得たのか、ある日、健太は男に話し掛けた。
「僕ね、強くなりたいんだ。」
膝の上に抱く、ヒナの背を撫でながら、ポツリと言った。
「もう、泣くのは嫌なんだ。強い男になりたいた。ねえ、僕に拳法教えてよ。」
男は、しばらく魚の網を繕いながら黙っていたが、
「駄目だ。」
と、言った。
「えっ、何故?・・教えてよ、ちゃんと稽古するから。」
男に近寄り、のぞき込むようにして訴える。
「強くなって、あの三兄弟に仕返しがしたいのか。」
「違うよ、あんなの関係ないよ。僕、あの時このまま殺されたら、お母さんに会えるって思ってた。
もう、生きてても仕方ないと・・でもあの時、何かを感じたんだ。何かは僕にも解んないんだけど。」
男は、魚の網の繕いの手を止め、炎をじっと見つめ黙っている。
「それと、この子のお母さんが自分のことなど考えず、何度何度も海に飛び込んでいく姿を見て・・
僕も強くならなきゃあって、強くなりたいって・・僕のお母さんのためにって思ったんだ。」
炎を見つめ話す健太の目は、あの弱々しい目ではなく、しっかりと何かを見つめいた。
男は、その目をじっと睨みつけるにしていたが、しばらくすると、口を開いた。
「わかった。明日の朝から、俺の知っていることは、すべて教えてやる。」
と、健太に声をかけ、出ていった。
「ひゃー、こりぁー大変だ。よくこんな重いの毎日運んでたよなあ。」
朝早くから、健太は海岸の反対側にある川に水を汲みに行き、坂道を降りてくる。男が行っていた仕事の半分を健太が受け持つことになった。特に水汲みや畑仕事などの肉体労働は、健太の受け持ちになった。それこそ朝から晩まで、泥と汗まみれになって働いた。
「おい、チビ、ぬるいぞ!もっと薪くめ。」
風呂だきも、健太の仕事だ。
「チビじゃあないのに・・早く拳法とか教えてほしいよなあ・・」
薪をくめながら、肩に乗るツバメの子・チュンに愚痴をこぼす。拳法を教えてくれると約束してから、早三ケ月になろうとしていた。
「おい、チビいつまで寝てるんだ。早く起きろ。今から釣りに行くぞ。」
まだ夜中だというのに、男が大きな声で怒鳴るようにして健太を起こす。
「えっ・・何、こんなに早く・・まだ、眠いよ。」
健太は、目を擦りながら男の姿を見上げる。
「すぐに準備しろ。外で待ってるからな。」
男は、吐き捨てるように声を掛けると、竿を手にさっさと出て行った。健太も眠い目を擦りながら嫌々起き上がると、釣り支度をして小屋から出て行った。もちろん、チュンも一緒だ。外は、まだ暗い。
「ねぇ、何でこんなに早く釣りに行くの・・ねぇ・・」
健太は、しきりに目を擦りながら男の後を歩く。男は、相変わらず無言のまま歩いて行く。いつもの釣り場とは違う方向に向かうと、急な斜面の丘が現れた。男の足が、その下で止まった。
「この丘を走って登るんだ。」
と、丘のてっぺんを指さす。
「えっ・・こんな急な坂を・・釣りするんじゃなかったの・・」
健太は、薄暗い中、男の顔を見上げながら言う。
「いいから、走れ!」
男は、少し命令するように強い口調で言った。健太は、竿を置くと、走って坂を登って行く。
(あれ、全然大丈夫だあ・・楽に登れるぞ・・!)
健太は、自分自身の身体の身軽さに驚き、つぶやきながら駆け上がって行った。毎朝の水くみが、知らず知らずのうちに、健太の身体を鍛えていたのだ。そして、坂を下りてくると、
「はぁ・はぁ・どう、早かったでしょう、ねえ。」
と、少し自慢げに男に言った。
「何を言ってるんだ、一回ぐらいで。ほら、あと20回だ。」
健太はその言葉に少し驚いたが、今走った感覚なら、いける気がした。5回、10回と回が増すごとに息が上がってきたが、なんとか20回走り終えた時には、真っ暗だった地平線に日が昇り始めていた。
「ハァ・ハァ・・綺麗だなあ・・」
健太は、膝に手をつき朝日を見つめた。
「よし、次は砂浜だ。」
男は、竿を担ぐようにして朝日に向って歩きだす。
「えっ・・ちょっと待って・・また、走るの・・」
健太は、驚き後を追った。
砂浜に付くと、竿の先で線を引き、
「ここからスタートして、あの松まで走り戻って来い。ここは10回だ。」
男の言う松までは、軽く見ても200メートルはある。
健太は、丸い目をより大きく丸くして
「えっ、無理だよ、そんなことしたら、死んじゃうよ。」
と、首を振って見せた。
「無理かどうか、やって見ないと解らないじゃないか。ほら、ぶつぶつ言ってないで走るんだ。」
と、大きな声で怒鳴りつけた。
健太は、走り始めた。砂の上はきつい。丘を登るより、遥かに足にくる。
「ひぇ~、思ったりより厳しいなあ・・これ10回も走ったら、ホント死んじゃうかも・・」
一本目・二本目・三本目・・口数も減り、ただひたすらに走り終えると、その場に倒れ込んでしまった。
「大丈夫・・ねぇ・・健太君・・」
チュンが、顔に乗り声をかける。
「ハァ・ハァ・まいったなぁ、目回ちゃった・・」
真っ青な空を見上げながら、健太が息を切らせ言う。チュンは、激しく上下するお腹が、楽しいのか上に乗り、
「ねぇ、帰りに、魚釣ってこいって言ってたよ。釣れるまで帰ってくるなって。」
と、チュンは男の言付けを伝えた。
「魚釣ってこいって・・もう、フラフラなのに・・」
健太は、ブツブツ文句を言いながらも立ち上がると、渋々釣り竿を拾い、釣りを始めた。疲れた身体には、海風が心地よかった。しばらく糸を垂れていると、あたりがあり、立て続けに5~6匹吊り上げると、小屋に戻った。
「早かったな。ほら、すぐに焼いて食べたら、続きをやるぞ。」
火を焚きながら男が言う。
「えっ、まだやるの・・僕、疲れちゃった・・」
うなだれながら、健太が言うと、
「お前、強くなりたかったんだよな。拳法、教えて欲しいんだろ。」
火を鉄箸で突きながら男が言った。
「拳法、教えてくれるの!」
その言葉に、大きな目をクリクリさせながら男を見上げた。
「約束だからな。めしを食ったら浜辺で教えてやる。」
男はそう言うと、めしをかき込む様にして食べると、さっさと出て行った。
健太も、後を追う様にして、急いでごはんを食べると、小屋を出て走って行った。
浜に立つと、風が強く感じられたが、何故か心地よかった。健太は、うれしかった。何か、自分の中で変われる気がするのだ。
「さぁ、いくぞ、型や突き方など関係ない。ただ俺の真似をして突きまくり、蹴り上げろ。」
と、男は海風を切り裂くように、突きや蹴りを始めた慌てて健太も、拳を突き、足を上げる。何か、こっけいだ。
「声を、出せ!海に向かって張り上げろ!」
男が怒鳴るように言う。健太は、海に向かって叫んだ。拳を突き上げ、足を蹴り上げ叫び続けた。母を亡くした悲しみ、辛かった与作との暮らし、いじめや拷問・・その悲しかったすべての思い出を、突き上げる拳と共に、大海原に叩きつける様に叫び続ける健太であった。
「たくましくなったなあ、もう、立派な青年王子だ。」
「ああ、あの日お前に担がれ運ばれてきた時からは想像できないだろ。」
男達の目線の先には、見違えるほどたくましく成長した健太の姿があった。
大柄で軍服を身にまとった男は、あの、リー軍曹であり、その相手は拳法を教える、あの男だ。二人の会話から、健太を運んで来たのはリー軍曹になる。あの日とは、つまり健太と昌子が海で銃撃された日である。健太が、行方不明になり、昌子が探し回っていたあの日、リー軍曹は健太の家を訪ねていたのだ。そろそろ、持ち金も底をついているのではないかと思い、気持ち程度の金ではあるが、持参し訪ねたのだ。
初めは、何の疑いもなく、二人で買い物にでも出ているのだろと待っていたのだが、なかなか帰宅しない二人のことが心配になり、近辺を探しに出た時、遠方の港で、母子が奴隷船から逃げ、銃撃されたと話を聞いたのだ。不安に駆られたリー軍曹が、馬を走らせたが、港は何事もなかったかの様に静かだった。あたりの住民、街行く者に母子のことを訪ね回ると、確かに母子らしき者達が狙撃されたと教えられた。彼は、焦りと不安に駆られながら、辺りの海辺をしらみつぶしに探し周り、健太と昌子を見つけたが、すでに昌子の息はなく、死んでいた。
すぐに、健太の蘇生をはかり、僅かではあるが意識を取り戻した健太と昌子を馬に乗せ、走らせた。リー軍曹が向った先には、海岸沿いの小さな小屋があり、一人の男が暮らしていた。その住民こそが、今、リー軍曹と一緒に健太を見つめている、あの男なのだ。
男の名は、ブルース。
リー軍曹と同じ西国の兵士であり、他国の動きを海岸線から監視、警戒する潜入の情報部員であった。
銃や拳法、護身術等にもすぐれた西国の兵士なのだ。同僚のリー軍曹から健太の素上を伝えられ、己の身分を隠したまま、健太を見守り、そして立派な青年に、育てあげたのだ。
「リー、お前がここに来たということは、いよいよ大戦が始まるのか?」
ブルースは、健太を遠くに見つめ、聞く。
「ああ、そうだ。わが国は平和主義国家だが、回りの国すべてが開戦をした。」
と、返事の後、リー軍曹は、今現在西国が置かれている立場、戦禍の状況を説明した。西国王は、東国と北国に対する総指揮官を務めるため、南国に対する戦場が手薄になっていた。そこで、立派に成長した、王子・健太に南国に対する総大将を任せることになったのだ。
「えぃ、やあ!えぃ、やあ!」
突きと共に掛け声をかけ、稽古をしている健太に、リー軍曹が声を掛けた。
「王子、たくましくなられましたなあ。」
どこか聞き覚えのある声に、健太は振り返った。
「あっ、リー軍曹、リー軍曹だよね。」
「はい、リー軍曹です。王子。」
「会いたかったよ、もう、会えないと思ってたよ。」
そう言って、彼に抱き着く健太の笑顔は、小さかった頃のままだ。
「リー軍曹と、師匠は知り合いなの?」
二人の顔を見つめ、聞く。小さく男達は頷くと、これまでの経緯を健太に語った。
「僕は、行かないよ。」
遠く海を見つめ言った。
「王子、それは駄目です。あなたは西国の王子なのです。国のために戦かわないといけない。」
リー軍曹が言う。
「国のため。違うよね、ただの殺し合いじゃないか。僕は行かないよ。」
「殺し合いではありません。戦わないと、ただ殺されるのを待つだけなのです。」
リー軍曹が説得を続ける。
「王子、母さんが命をかけて守ってくれたその命、ここも攻められ失うかもしれないのですよ。」
初めてブルースが、健太のことを王子と呼び、口を開いた。
「ブルースは、僕に言ったよね。拳法はケンカするためのものじゃないって。」
海を見つめたまま、話す健太。
「そんな話より、リー軍曹、久しぶりに会ったんだから、お酒でも飲んで昔話でもしよう。」
健太は、そう言うとさっさと小屋に向かって歩きだした。その後を追う様にして、二人は無言でついていった。
久しぶりの再会に、食も話も進んだ。辛い思い出が多かったが、それでもリー軍曹に会えたことは、うれしかった。健太が釣った魚や、山の山菜、畑で採れた野菜の煮物などを囲み、酒を酌み交わした。腹も満足し、酔いが回り始めた三人は、その場で眠りについた。
「チュン、チュン・・もう朝だよ、起きなよ・・」
健太の頬を、チュンがつつき起こす。
「むむん~、もう、朝かあ、よく飲んだなあ・・・頭痛いや。」
「飲みすぎだ、チュン」
肩に止まり、チュンがチョンチョンしている。二人の会話に、リーとブルースも眼を覚ます。
「久しぶりに飲んだなあ。」
「ああ、俺もだ。」
大きく伸びをしながら、会話する。
「酔い覚ましに、散歩にで行こうよ。」
健太は、すくっと立あがると、二人を誘い外に出た。二日酔いの顔には、太陽がまぶしい。でも、ヒゲを揺らす海風は心地よかった。三人は、海岸沿いに風を楽しみながら歩いた。
「裏手の山に登ってみよう。」
と、健太が細い山道に入り、しばらく歩いて行くと、バキューン、バキューンと、銃声が山に響きわたった。
「隠れて!」
リーが健太の肩に手を掛け、三人は草陰に身を潜めた。銃声は、その後も数回続き、男達の声が聞こえてきた。
「おい小僧、お前西国の者だろ。どうやってこの東国に来た。」
男の声の先には、酷い拷問を受けたのか、顔から血を流し木に繋がれた子供の姿がある。
「お前も、あの仲間の様に殺されたいのか、おい。」
今度は、違う男が銃口をアゴに押し付ける。ぐったりして動かない。
「寝るのはまだ早いぜ。起こしてやろうぜ。」
と、男達は焚火の中から、真っ赤に焼けた鉄の棒を取り出した。
「あっ!」
健太が、思わず叫びそうになるところを、慌ててブルースが口を押える。
「王子、こらえて。」
小声でつぶやくブルース。
「火は駄目だ。あの子殺される。」
健太も小声で応える。
「ぎぁー!」
容赦なく焼き鉄が押しけられ、悲鳴を上げる。
「助けよう。相手は二人だ。」
という健太に、リーが目で合図をする。その目線の先には、林の影に腰をおろしている男達がいた。その数は、30人はくだらない。今、助けに出たら、健太達は間違いなく殺されるだろう。健太はじっと我慢した。断腸の思いだった。あの時の、拷問が頭をよぎり、焼けた鉄棒の熱さが、まるで自らの身体を焼かれている感触を覚えた。その子供は、悲鳴をあげた後は、首をうなだれたまま動かなかった。男達は、銃口で子猫を突く。
「死んだか。まあいいさ、このあたりを探せば、また仲間が見つかるさ。」
と、男達は山を降りていった。
健太は、子供のもとに走った。抱き上げたが、息はなかった。健太の身体が震えている。怖くって震えているのではない。押さえきれない怒りが、身体を震わせるのだ。
「おーい、ここにも!・・・ひどい事しやがって。」
と、数人の男達が、座っていた先には、西国の者達と思われる遺体が転がっていた。リーとブルースは、声を失い、ただ茫然とその光景を見つめている。
「やってやる・・僕が指揮をとる。すぐに海を渡り西国に戻る。」
健太は許せなかった。なんのために戦争などするのか、何故、殺し合いをしなければならないのか・・
自分でもよく解らなかったが、ただただ、涙が溢れた。
三人は、遺体を丁寧に葬ると、ブルースの用意した船で、西国に向った。漆黒の闇の中、三人を乗せた船は、幸いにも敵国に見つかることもなく西国に入った。三人は、健太の父、ヨミ国王の待つ城に急いだ。
いたるところで戦火があがり、銃声の音も聞こえてくる。
「急ごう、思っていた以上に戦火が広がっている。」
リー軍曹の言葉に、三人は三日三晩走り続けた。
山の高台に建つ城が見えてきた。幸いにも、襲われた形跡もなく、まずはほっとした。城に入ると、健太とブルースを小部屋に残し、リー軍曹は、ヨミ国王に会いに行った。接見を許されると、これまでの経緯を説明した。
「その健太とかいう兵士が、私が昌子に産ませた子に間違いないのだな。」
貫禄のある声で、ヨミ国王が聞き返す。
「はい、間違いありません。足のアザに星形。これが何より継承の証。」
「まじめで、忠誠心があるお前の言葉だ。信じよう。」
健太は、ヨミ国王に接見した。しばらくの間、沈黙が続き、国王が口を開いた。
「我が息子、健太よ、息災でなりより。若きその力で、この国を守ってほしい。」
何も問うこともせず、健太を息子と呼ぶ。
「はい、争い事は好きではありませんが、この国の為に戦う決意です。」
健太は、檀上の国王を見つめる。
二人の間に、親子関係を問う会話はない。血が血を知るのであろうか、すでに認め合っているのだ。
「ひとつ、お願いがあります。」
健太が一歩前に出る。
「何を望む。」
「はい、私に東国攻めを、お申しつけ下さい。」
「東国・・いや、お前には、比較的手薄な南国の総指揮を任せる。」
「初陣のための心配ならいりません。是非、東国攻めを・・」
と、嘆願するとともに、これまでの経緯を伝えた。しばらく沈黙が続き、国王が健太を見据え、
「お前の気持ちはよく分かった。よし、東国を任せる。」
その、言葉に健太は深く頭を下げた。そして、もう一つの願いを伝えた。リーとブルースの両軍曹を、自分の家臣にと、願い出た。こちらの願いは、あっさりと受け入れられた。
健太には、三千の兵が与えられた。もちろん若き総大将の脇には、リーとプルースと名参謀がいる。
「さあ行こう。目指すは東国との国境線。殺し合いに行くのではない。国を守る為のに行くのだ。」
馬上から、三千の兵に号令するその姿は、もうあのお人よしの健太の姿ではない。
手綱引き、馬を走らせようとした。が、その瞬間、
「あっ!」
と、兵隊達が叫ぶ。ドスーン!!健太が、勢い余って馬から落ちたのだ。
「王子、大丈夫ですか。」
「しっかりしてください、王子。」
リーとブルースがすぐに駆け寄り、声を掛け身体を揺する。
「王子・・」
「健太王子・・」
「健太、健太、いつまで寝てるの・・もう誰もいないよ。みんなお家に帰っちゃったよ。」
「ZZZ・・敵は東国じゃ~・・」
「何、寝ぼけてるんだよ、この子は。ほら、かくれんぼしてまた寝ちゃったんだろ。」
「う~ん・・かくれんぼ・・あれ??兵隊は・・」
「この子はまだ夢見てるよ。ほら、お家に帰るよ。」
と、健太の母、百恵が笑っている。
「あっ、そうだ、豊君達とかくれんぼしてたんだ、また、寝ちゃった・・へへ」
いつもの隠れ場所からひょっこり顔を出す健太。
「あ~あ~、よく寝たなあ~」
と、大きく伸びをし、
「ねぇ、お母さんの名前って昌子じゃないよね?」
と、歩き出す。
「何、馬鹿のこと言ってるんだよ、この子は。お母さんの名前は百恵、山ノ下百恵だよ。」
「ふ~ん、じゃあお父さんは、与作だっけ。」
「お前、頭どうかしちゃったのかい。お父さんは、友和だろ。」
「ふ~ん・・じゃあ耳ある?」
「馬鹿だね、あるに決まってるよ。ははははっ。」
「そうだよね、あるに決まってるよね。」
「きっと怖い夢見てたんだろ。」
と、百恵が健太の頭を撫でる。健太は、ニコニコしながら、百恵の手を握る。境内に貼られた映画のポスターが半分に剥がれ、風に吹き飛ばされそうになっていた。
「ブルース・リーか、この映画って軍隊の映画だよね。」
クリクリした目で、健太が聞く。
「そうじゃないよ。これはカンフー映画だよ。拳法の。有名な俳優さんなんだよ、この人。」
破れかけたポスターを、手で押さえ直す様にしながら百恵が言った。
*悪三兄弟・佐助・喜助・金助の運命やいかに・・*の見出しが大きく書かれている。
「ふ~ん・・拳法かあ・・軍曹さんのお話かと思った。」
手を引かれ、歩きながら、何となく気になり、ポスターを振り返る健太。
二人が去った境内には、豊が落としていった鈴が残され、そして眼に怪我を負ったツバメが一羽、空を舞い、さらには耳を失った老人が、その姿を見つめていた。
完
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