スーパーマンと呼ばないで
エリカがキレた。ただキレたのではない。それならいつものことなので。原因は今朝こっそり食べたあんぱんか、昨夜摂りすぎた水か――今は真夏なので暑いのだ――…それとも、昨日久々に一人暮らしの女のアパートへやってきた母親と食べたランチビュッフェ…うん、間違いなくこれだ。
[てめえ、なめてんのか!全部許せねえ、ぶっ殺す!!マジ殺す!!死ね死ね死ね!!!]
バチン、バチン!と顔を容赦なく自分の手で叩かれ、無意味とわかっていても隠してたカッターナイフを取り出してきて、左手首に新しい傷を作ろうとする。せっかく前回の傷が薄くなってきたのに、やめてやめてと理性ある女の主人格が止める。すると、怒りの持って行き場がなくなってきたのか、部屋中をぐるぐるドタバタと徘徊し、壁などを殴りだしたが、うん、結構これも痛いから。あと、一階下と両隣に生活してる方うるさくしてすみません。
女が心の中でいろんな人に謝ったり、痛みに悶えたりしていると、救世主は現れた。
「ただいま~!って、あんたまた暴れとんの?今はレイカか?取り敢えず、ここじゃご近所に迷惑やから、散歩行こう。気分も晴れるで」
娘の冷蔵庫の中身に危機感を感じ、近くのスーパーまで食材の買い出しに行っていた救世主こと、母の登場である。
女は暴れるのを停止し、じろりと母を白目で睨みつける。衣服は乱れ、口は半開きでまるでゾンビだ。しかし、母はどうどうと言わんばかりに娘に近づき、「はい、没収!」と未だに握りしめていたカッターナイフをさっと取り上げて、優しく語りかける。
「今のあんたは本来の自分と違う。別人格や。でも、お母さんの子にかわりない。気に入らんことは怒鳴らんでもちゃんと聞いたるから、気分転換しようか。お母さんと散歩は嫌か?」
[……今、誰かに会ったら、何するかわからん。部屋におる]
「そうか、じゃあ、落ち着くまでお母さんと話さんか、な?」
目をそらさず、じっと自分を見つめてくる眼差しに嘘はないとわかると、イライラとしていた気持ちが急速に静まっていくのがわかった。それがなんだか悔しくて、母を睨み付けながら、じりじりと部屋の隅に後退してうずくまり、顔を俯けた。母にはいつも敵わない。悔しくて、恥ずかしくて、申し訳なくて、一緒にいてくれるのが嬉しくて…でも、母の思いどおりになることが嫌で、最後の悪あがきとして、耳をふさぐ。すると。
<うえ~ん、お母さん、お母さん、寂しいよう。辛いよう>
≪あ~あ、僕ちゃん泣いちゃった。レイカのせいだからね。母さんが帰ってきて、緊張ゆるんだみたいだから、母さんのせいでもあるのかな?ま、毒気は抜けただろうから、いっぱい泣いていいよ≫
[…うるせえ、タカシ]
≪はいはい。レイカもいい歳して母親に甘えるのは抵抗あるだろうけど、今俺たちは病気だから、ちょっと退行してても許されるよ≫
母は女が一人で別人格たちとぶつぶつ会話し始めて、落ち着こうとしているのがわかったのか、そっとしておこうとばかりに、買ってきた物を袋から冷蔵庫へと移していた。
「タカシが出てきたなら、取り敢えず安心やね。僕ちゃんも泣いていいから、言いたいことあったら、お母さんに言ってな」
≪あ、言いたいことあるよ、俺≫
「ん?なになに??」
≪せっかく今体重落とすの順調になってきたのに、ここで母さんが食べ物買ってこられると元の木阿弥なんだけど。あと、レイカがキレたのは、母さんが昨日俺らに食べさせたのが一因でもあるからな≫
「あ~、ごめんごめん。先生からも、無理に食べないことって言われてたんだっけ。でも、あんた、随分ガリガリになってきたから、見てられなくて。親心やで」
≪ほとんど食べてこなかった人間に、いきなりランチビュッフェはきついと思う。いろんな意味で≫
「まあ、そうか、そうやね。でもお母さんも学習してるから」
あははと笑ってごまかしながら、さっき買ってきた物を広げて見せてきた。
「ゼリー、ざるそば、そうめん、ところてん、おかゆ、小魚、冷奴、水。あんたが食べれそうってメモしてたもんから、考えて買ってきた。どれもそんなに高カロリーじゃないから、ちょっとずつでも食べな」
「うん、ありがとうお母さん」
「お?今のは主人格のあんたやね。他の子らとの話し合いは落ち着いたか?」
「別に話し合いしてたわけじゃないけど、お母さんの能天気さとタカシのおかげで落ち着いてきたみたい。ほんま、毒気抜かれた気分」
「ほんなら。良かった。…でもあんた、そろそろ一人暮らしやめて、実家に戻っておいでよ。一人じゃ心配やわ」
「うん…そろそろ限界かなぁとは思ってる。でも、実家って田舎やん?いろいろ噂になったら、家族に悪いし」
「あほやなぁ、家族やで。家族に気遣ってどうするん?今、精神患ってる人なんて珍しくないんやから、どーんと構えとき。誰にも会いたくないなら、家に引きこもっててもいいし」
母の器が大きいのはこういう時助かる。でも、それでも老い先短い祖父母とか神経質な父がいるので、つい世間体を気にしてしまう。
「まあ、考えとく」
娘の怯える気持ちが分からないでもない母は、追い詰めるのも良くないと思ったのか、話を変えた。
「そうか…さ、暴れてお腹空いたやろ。何か食べるか」と、さっき見せてくれたものをもう一度見せながら聞いてくる。確かにお腹は空いているので、それらを改めて見てみると、異質なものを発見した。
「お母さん、この上握り寿司詰め合わせと、プチケーキは何?」
「え、お母さんの分」
「え?」
「え、だって、あんたに付きあっとったら、空腹に耐えられへんもん」
もんって…。まあ、そうなんだけど。娘がゼリー一個だけ食べてる横で寿司とケーキ食うんかい。
母、御年60歳。常に前向きで細かいことは気にしない、器が大きいのが美点だが、ときどきイラッとさせられる。
でも、そんな母は女の救世主ではあるものの、万能ではない。スーパーマンではないという証明でもあるのだ。
母の場合、スーパーウーマンでしょうが、一度精神科の担当医から「お母さんはスーパーマンじゃないよ」と言われたのを思い出して。




