雨の残り香
「わたし、すきよ」
聞き逃してしまいそうな声音で。
「──雨」
彼女は言った。
さむそうにうなじを晒すひとのむこうは濡れる街。
春のカラッとした空気を一変させたこの雨。無遠慮に部屋まで入りこんだ湿気のせいで、いつもより鼻は敏感に匂いを拾うし、いつもより彼女の髪も濃く映る。
ゆうべ見下ろした目も濡れた黒だった。
つい吐いた舌打ちに気づかれていたらしい。
コーヒーだけの遅い朝食。これから買い物へ行こうと思っていた。彼女と。短くなっていた煙草を灰皿へ押しつけた。
「どこが」
彼女はふりかえって俺を見て。また窓へ視線を投げた。口もとに笑みをのせたまま。
「ないしょ」
わがままを言わない女。
それは都合がいい。正直なところ。
ねだらない。なにも。
二ヶ月前に誕生日はすんでいたと昨日、知った。
精神的、そういう意味での金銭的な依存をよしとせず、男とは対等でいたい。とか、は、ちがうな。そんなカンジじゃない。
甲斐性のないヤツとでも思われているのだろうか。
わからない。
でもそう。いまみたいに。会話がとぎれても居心地は悪くならない。悪いどころか。
雨といっても音はなく。彼女と俺がたてるそれもわずか。少し薄暗い部屋のなかで。ふたりで外を見ている。
白くうっすらと、もやは街の風景に紗をかける。遠くは飲まれてよく見えない。
ただそれだけのことを見ていた。
ゆうべは。
無理をさせた自覚はある。
どこまでゆるしてくれるのか。受け入れてくれるのか。
試してみたかった。
なれてないのは最初のときにわかっていた。そんな彼女が、つたなげにも従順に必死に俺の求めにこたえようとするものだから。
追いたてた。
濡れた目。濡れた唇が声にならない声で形づくった、それを。目覚めたいまは思い出せない。
とにかく。無理をさせた自覚はある。調子にのったせめてもの詫びに、遅くなった誕生日プレゼントとしても。服でも靴でも彼女の気にいるものを贈りたい。なんとか好みを聞きだして。
どこぞの小金持ちの色ボケジジイみたいなことを言ってしまいたくなるくらいには、きっとハマっている。
横顔のうしろを線が落ちていく。いくつも引かれる滴の線。
「すきって言ったら、あなたもすきになってくれるかな、て」
ネックレスがいい。
華奢なチェーンに、小さな雨粒の宝石を。
それで、折れてしまいそうな夜によく映える首もとを隠してしまおう。ほかの男から。俺からも。
距離をつめて。手をついて囲うようにしても彼女は俺を見ない。
シャワーで消し去ったはずの夜のなごりが湿った香りにのってまたたちのぼる。
息が。苦しい。
だから抱きしめた。彼女のカップがゆれた。身体が冷えてる。窓辺なんかにいるからだ。腕に力をこめると、細い指先がカップをにぎりしめた。
彼女からもれた息が甘い。
このままこうしてたら雨をすきになるときもくるかもしれない。
「煙草、きらい」
きみがどれだけ顔をそむけても。
「ごめん」
「やめる気なんてないくせに」
ああ。やめる気なんてさらさらない。
煙草も。
ネックレスも。
その首筋を味わうことも。
了