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目にしみる

 


 好きだと言ったら笑われた。

 そばにいたいと言ったらそっぽむかれた。

 だまっていたら帰れと怒鳴られた。


 それでも。

 

 水曜の夜はここへ来てしまう。

 深呼吸ひとつしてドアを開ければ。顔はちょっとこわいけどやさしいマスターの、いらっしゃいの声と。

 カウンターだけの店内でいちばん奥の席にすわる、彼の、姿。

 形のいい耳。ジャケットがちょっときつそうに見える肩から二の腕のあたり。あのときからずっと、わたしを拒絶しつづける背中。

 こみあげてくるものを呼吸でおさえつけ、いつものように彼からふたつあけてすわった。

「今日はいちだんとさむいね」

 マスターからかけられる小さな会話をたのしみながら。氷がたてるわずかな音にひかれたようにグラスをもちあげる手を盗み見た。

 今夜もまたむずかしい顔して呑んでるの?

 喉もとがゴクリとうごくにあわせて視線をもどした。

 あたらしいグラスにウィスキーが注がれる。カウンター内のせまさなんて感じさせないマスターの手さばきはいつ見てもすごい。腕なん本あるんだろ、なんて。

 グラスが彼の手につつまれる。

 昔なら。制服を着てたあの頃なら手だけじゃなく腕にだって抱きついてた。

 そうしたらいつだってあなたはわたしの甘えにあきれたようにしながらもやさしく笑いかけてくれた。

 うれしかった。

 同じふるまいはもうできない。

 自分のなかの思いに気づいたときから、わたしにとって彼は兄のように慕う存在ではなくなり、男、になってしまった。

 わたしの前にさしだされた細長いグラスには日の出の名をもつカクテル。マスターにお礼を言って、ひとくちふくむ。柑橘の香り、シロップの甘さ、テキーラのほのかな苦み。

 おいしい。おいしくてついふたくち目をいそぎたくなるけどグラスから手をはなす。胸の上くらいがカッってなってきた。

 アルコール耐性って遺伝しないのかな。

「留守番たのむね」

 マスターはわたしにひとつうなづき、彼のほうをちらりと見て店から出て行った。

 ふたりきりになった店内はますます音が減って。うすくかかる音楽と自分の息が耳につく。

 グラスの水滴がゆっくりとおちてコースターにしみこんだ。

 カチリ。と、ライターの音。彼の手にある煙草に火がついた。

 吐き出された煙の匂いがあたりに広がる。五感を刺す、焦げた刺激臭。

 彼はわたしを見ない。わたしも彼を見られない。

 煙だけがわたしたちのあいだをゆきかう。

 このいっときが。わたしが彼のそばにいることをゆるされた時間。

 わたしをさけるようになった彼のあとをつけてこの店を知った。大通りからはずれた裏路地にひっそりと、看板さえないバー。

 はじめておとずれたときは帰れ帰らないで彼と言いあいになった。恥ずかしいところを見せてしまったマスターにはそれ以来よくしてもらっている。

 いまはもう完全放置。

 水曜日、わたしはここへくる。

 なにも言わない彼と、買い出しだと言ってはこの場をあたえてくれるマスターに甘えて。

 赤と白のパッケージから一本取り出し、ライターで点す。ただそれだけの流れるような所作にすらわたしは見とれてしまう。

 彼が煙草を吸い終わるまで。

 一本で立ち去るときもある。三本のときはもううれしくて。

 なにをやってるんだろって自分でも思う。思うけど、それでも会いたい。会いたくてしかたない。

 ゆらぐ煙。かたちをかえて。すがたをかえて。

 父のことが大好きだった。母は早くに逝ってしまっていたからよけいに。

 父から同僚だと紹介された彼のことをわたしは最初、警戒していた。こどもの嫉妬で。だからずいぶんつっけんどんな態度をとってしまっていた。

 彼のほうも中学生だったわたしのあつかいに困惑していたように思う。

 思春期まっただなかの女の子と。社会人になりたての彼。

 たがいに自分のことに必死でまわりが見えず気づかいもできなかった。

 父をまんなかにして、彼とわたしはちょっとずつ近づいた。

 皮肉ばかりを言う彼にわたしはいつも噛みついた。大人げない彼と生意気なわたしの口喧嘩が、いつもは父との静かな生活がながれる家で繰り広げられた。

 無視することもできた。かかわらない方法だってあった。でも。

 やさしくされたら、うれしいと思う。笑顔をむけられたら笑顔をかえしてしまう。きっとだれだって。

 “アイツのまえだといろんな顔をするな、おまえは”

 そう笑っていた父は、いつかこうなることを。わたしさえ気づいていないわたしの気持ちを知っていたのだろうか。

 出会ったころの彼とかわらない歳になって働くようになって。彼はよくあんなにわたしをかまってくれてたなと思う。

 父との酒宴のあいまに勉強をみてもらった。友だちとの悩みを聞いてもらった日もあった。どちらも答えを先に提示するんじゃなく導くように。

 大人になると背負う責任で殺伐とした心持ちになるときがあることを知った。

 父も、きっと彼にも。そんなとき、彼の目にこどものわたしはどう映っていただろう。気晴らし、になれたとはとうてい思えないけれど。

 父のまえでの彼は、口数すくなく礼儀正しく、お酒はそんなに強くなかった。そして。なにかと世話をやく父のことを慕っていた。

 煙がわたしの視界をうすくおおっていく。焦げた匂い。

 流せばたやすく消えてしまう。もっと強く、髪にからだにのこればいいのに。

 父はもういない。わたしと彼をおいて、母のもとへ逝ってしまった。

 職務中の事故。彼をかばって。そう説明された。父らしいと思った。彼は声なく泣いた。わたしは彼のぶんまで大声をあげて泣いた。

 彼の悔やみはきっといまもつづいている。むしばむほどの痛みをきっと。

 好きだと言わなければ。そばに。あのころのままでいられただろうか。

 知らないままでいただろうか。

 あなたが煙草を吸うことも。

 ときどき、むちゃな呑みかたをしていることも。

 水曜日。この場所と時間を、あなたがマスターにたのんで空けてもらっていることを。

 彼は油断した。

 父に。わたしに。こころをあずけすぎた。

 それはわたしもおなじ。

 わたしをはねつけられないのはわたしが父の子だから?

 父を救えなかったわたしへの負い目?

 それとも。

 煙を毒だと知りながらからだにとりこむ。

 毒におかされ。やがて毒なしじゃいられなくなる。

 知っていて、わたしも彼からの甘い毒をもとめてる。

 ばかなひと。

 ばかなひと。

 ばかなわたし。

 ねぇ。いっそ、あなたを責めたててしまおうか。父をかえして、と、微塵も思ってない恨み言を。彼がのぞむように。彼をわたしにしばりつけるために。

 なみだがにじむのは煙がしみるから。目に。のどに。

 アルコールがまわって立つこともできない。

 あなたしか見えないようにしておいて。あなただけはだめだと。それをあなたが言うの。

「好き」

 どうしてそんな。

「なんども言うな」

 泣きそうな顔してるの。

 わたしもおなじか。


 なんどだって言うよ。


 好きだと言ったら。

 そばにいたいと言ったら。

 だまっていたら。



 あなたから吐き出された、煙が。











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