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遠く近く



 時は流れるという。

 凪ながら。荒れながら。

 ただ流れていく。





 ガキのころ、アホだった。これにつきる。いやこれしかない。学生時代も大差はなく。それはまぁアホな青春を謳歌させてもらった。

 オヤジが死んだ。

 アホにもかかわらず就職が決まって浮かれていたときだった。

 おふくろの小言をいつものように欠伸でやりすごしながら家を出たオヤジは、帰宅中に突然たおれ、そのまま逝った。

 ノンキが服着て歩いてるような、良く言えばおだやかなオヤジと、豪快が服着て歩いてるような、良く言えばおおらかなおふくろは、子から見てもうまくいってたように思う。

 黙って帰ってきた眠るオヤジのかたわらで。背中を丸めるおふくろの小ささを。ずっと忘れられずにいる。



 社会へほうり出されたアホは金を稼ぐことの厳しさに揉むに揉まれた。

 学校では味わえなかった人間関係の甘さと苦さ。だれかを憎んだり。また騙されたり。アホだからよくフラれもした。

 “最近どうなの”

 思い出したようにかまいだす俺をおふくろはちゃんと見抜いていて。そのたびに。

 “ほっとけ。精だして働け”

 軽くあしらわれた。

 仕事のおもしろさに気づきはじめたころ。おふくろに彼女を紹介した。アホな俺を好いてくれた変わり者。

 結婚する。ばっちりキメようとしたのに当のふたりは。

 “こんなアホでいいのか。本当にいいのか”

 “アホがいいんです”

 “物好きだねぇ”

 “よく言われます”

 失礼きわまりない会話を繰り広げていた。

 解せない。でもまぁいっか。

 ささやかな式の最中、おふくろが泣いている姿に気づいた。おふくろは大事に抱えたオヤジの写真になにか必死に話かけていた。それはうれしそうに。

 がんばろうと思った。

 それからは、がむしゃらに働いた。

 昔おふくろによく言われた。

 “おまえはデキがよくないから人の倍やれ。倍やってやっと人なみ。人より上手くやりたいなら、その倍やれ”

 つまり、そういうことだ。



 楽しいこと辛いことが半々くらいで過ぎていく。季節を何周もして。ちっとはマシになれたような気がしていた。

 でもどうやら生まれついてのアホは治らないらしい。

 忘れていた。自分が歳をとるということはまわりも等しく老いていくということを。

 おふくろの様子が変わっていた。

 いつもきれいに整頓されていたはずの家のなかが乱雑に。身なりにもうるさかったはずが着っぱなしのボサボサ頭。風呂にも入りたがらない。

 同じことをなんども言う。こっちが言ったことも自分が言ったこともすぐ忘れる。

 あれもこれも、ああ、おふくろも年だからめんどうになったんだろう程度で流していた。物忘れもよくあること。でもおかしい。

 小さな違和感をならべていけばいくほど、それは大きくなっていき。ジャッジがくだされるまでにそれほど時間はかからなかった。

 息子の自分より嫁である彼女のほうが事態への準備も覚悟も万端で。みるまに、おふくろのためのサポート体制が整えられていった。

 専門家たちを前にして俺が言えたことといえば。

 “おふくろと暮らしたい”

 それだけだった。

 根気との勝負がはじまった。

 こだわりが強くなったおふくろは、そこから少しでも外れるとひどく不安になったり怒りだすようになった。家のなかだろうと外だろうとおかまいなしに。

 昼間でもカーテンを閉めきる。ゴミでしかない菓子の空き袋を大事なんだと言ってためこむ。こだわりは様々。ダメだと言っても聞きやしない。

 会話にならない。

 いったいこのひとはだれなんだ。

 内にこもった生活は足にくる。一つ一つの動作、トイレに行って戻るだけでも相当な時間がかかるようになった。

 歩行、食事、排泄、入浴、着替え。

 それでも医者や専門家は。

 “ゆっくりいきましょう”

 そう、おふくろに、そばにいる俺たちに言う。

 これ以上まだ?

 かんべんしてくれよ。

 こんなんじゃ。こんなんじゃ。

 イライラがたまって怒鳴ってしまうことが増えた。できないのは本人のせいじゃないとわかっているのに、腹がたつのを抑えられない。

 怒り爆発と自己嫌悪の無限ループ。それでも日々は進んでいく。

 救いなのはひとりじゃないこと。彼女が。ともに向き合ってくれる相手がいることがどれほどの助けになっているか。



 おふくろはだんだん子どものようになっていった。機嫌が良いと屈託のない笑みで俺たちやまわりを和ませもする。

 おやつの時間は自分のぶんを、食えといわんばかりに俺の口に入れてくる。

 饅頭ならはんぶんこに、ミカンなら皮を丁寧にむいてひと房を。仕方なく食べる俺を見てからおふくろも残りを口にする。

 不思議とこれは俺にしかしない。怒りんぼの息子よりやさしくしてくれる彼女のほうが良いらしく、ふだんからよく甘えるのに。

 ありがとう。ある日なんの気なしにそう言った。

 “しっかりお食べ”

 おふくろの言葉が返ってきた。

 “お義母さんは、いつまでもお母さんなんだね”

 となりで彼女が笑った。出会ったころより若干ふくよかに育って笑うとシワが目立つようになった。俺も腹が出て、おふくろより白髪が多い。腕も細くなった。

 そうか。

 甘ったるいのどの奥がふるえる。

 そうか。

 苦しくて息を吐いたら、涙があふれた。




 夢にオヤジが出てきた。

 “いい歳して、まだかあちゃんかあちゃんいってんのかぁ”

 高みの見物きめこんで笑いやがって。こっちはこっちで大変なんだよ。だいたいオヤジひとり若いまんまって不公平だろ。

 悪態をつけばますますオヤジは笑う。

 “そろそろ迎えに行こうかと思ってなぁ”










「いち、に。いち、に」

 おふくろの手をとって日課の散歩に出る。イヤがるおふくろの腰を上げさせるのは毎回苦労する。

 秋の空が冷たい風を運んできた。家の周りをこうしてふたりで歩くのは子どものころ以来か。家も増えて田畑は減った。

 目についた、足元の小さな花。おふくろに名前をたずねてみた。立ち止まって、かわいいねと言いはしてもそれ以上は出てこない。

 おふくろは草花が好きでいろんな名を知っていた。この花のことも小さいころ聞いたおぼえがうっすらある。もっとちゃんと聞いておけば良かった。

 時は変わらず流れる。

 過ぎていくことに救われ。

 過ぎていくことを嘆きながら。

 たぶんなんとかなるさ。

 だからオヤジ。まだいいよ。そっちはさびしいだろうけど、そのうちまたイヤでもにぎやかになるだろうから。

「そろそろ帰ろう。今日は甘酒にしょうか」

「あまざけ。あまざけ」

 調子っぱずれな節にのせておふくろが唄う。ごきげんなのは甘酒がうれしいのか帰れることか。

 おふくろがつまずきかけて、にぎっていた手をひいた。折れそうに小さな指でつかまれる。薄い爪が肌に食いこむ。痛い、けど。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ」

 のんきな様子と、力強さにホッとする。

「ゆっくり。ゆっくり」

 そう。それでいいよ。急かすものはなにもないから。



 “しょうがねぇなぁ”

 夢でオヤジが笑った。





 

 

 

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