燃える紙
「かわいいのね」
艶のある飴みたいな唇を左手のひとさしゆびでなぞるように滑らせながら彼女は言った。合わせて、手首と同じ華奢なブレスレットが誘うようにゆれる。
ああ。いいね、その表情。
「動かないで」
命じれば、彼女はまたさっきまでの澄まし顔に戻った。惜しい。悪巧みを企ててそうなとこ、そそるのに。
ページをめくって脳裏に残る笑みを紙に写していく。消えゆくものを必死につなぎとめるように。
本と音楽に埋もれた部屋に見事なほど似つかわしくない彼女のたたずまい。安物のソファーも、背筋を伸ばした女王様が座ればそれは玉座に、は言いすぎか。
これ以上ないバランスで配置された目鼻口。愛撫するように鉛筆を走らせた。
「ああ。かわいいひとだったよ」
悪友がセッティングしたゆうべの食事会の顛末。彼女には健全で品行方正だけど物足りないと添削された宴で紹介された女性は、目の前の彼女とは真逆のタイプだった。初対面で猫かぶってるってトコをさっぴいてもマジメそうでおとなしそうで。
紳士ぶって品行方正を装ってたわけじゃない。メンドーだった。やさしくするのが。
たいしておもしろくもない俺の話をほほえみながら聞いていた“かわいいひと”からは、ひだまりの匂いがしていた。
鉛筆でスケッチブックをこする音に彼女の笑い声が重なる。
「ちがう。かわいいのはあなたのほう」
それこそちがう。でもまぁそう否定しても彼女には効力がない。降参の意をこめて肩をすくめた。
おなじようなほほえみなのに彼女は例えるなら夜に輝く蒼白い月。美しさでひとを惑わす。惑わせられるほうはたまったもんじゃないし、これで中身はイタズラっ子だからほんとタチ悪い。
ヤキモチ、ね。
俺が昨日の女性とどうにかなったとして。それで彼女から嫉妬心をひきだせるとは思えない。
恋愛のかけひきのひとつ、スパイスやエッセンスとしてじゃれあうようにたのしむことはしても、心を乱すまではきっといかない。
彼女ははじまりのときから主導権をにぎりたがった。
会うも会わないも彼女しだい。こっちが焦れて苛立てばその様子すらおもしろがられ。そっちがそうならとこっちもおなじことをすれば激しくすねてしまう。
でも手をのばされれば取らずにおれない。
自分を描いてほしい。そう請われれば。しまいこんでたスケッチブックを取り出して開いてしまう。人物画はあまり得意じゃないってのに。
似せようと思って描くな。技術じゃない。モデルと誠実に向き合え。うんざりするほど聞かされた。見たままを受け入れ、描ききる。言うはたやすい。
俺は変わったろうか。
友人が紹介してきた女性を見たとき。なにが最近の俺を毒しているかを知られているんだとわかった。
俺は変わったんだろう。
ひとのものの女を。
ダンナの目を盗んで。
安いゴシップ記事まんまを、まさか自分でやるようになるとは思いもしなかった。
「見せて」
そばまで来ていたらしい彼女がスケッチブックを取り上げる。馴染みのある痛みを感じて鉛筆を転がした。
遊びだろ、遊び。いまさら熱くなってどうする。
イビツなままの利き手の中指のへこみを親指でさする。長い時間、何年も何枚も筆を握りしめてきたことで爪もゆがんでしまった。身のほど知らずの夢をみていたころのなごり。
「わたしって、あなたにこう見えてるのね」
「なかなかの美人だろ」
澄まし顔。笑う顔。企み顔。髪をかき上げたとき。本棚を物色してる横顔。窓からの風に身をゆだねている姿。
どんなときも美しい。
「なんか、妬ける」
苦々しげに彼女は言う。ほかの女のことより自分の絵姿に嫉妬するってどうなの。
「ぜんぶキミだ」
抱えるようにしてじっくりと鑑賞して。スケッチブックを閉じて机に置く動作が。芝居がかったひどくゆっくりなものに映る。
イスに座る俺から見上げた先の彼女は、まだご機嫌ナナメのよう。こういうときはこちらから先にしかけない。彼女のいいように、したいようにさせる。
髪に彼女の指先がさし入れられ。なでるような。すくように。頬をかすめ。
「ご褒美あげないとね」
「依頼主の満足を得られなかったのに?」
頬から首筋へ、ネイルで線を引く。
「満足してる。腹が立つくらい。だから」
すくい上げた俺の手のひらに頬をすりよせながら。
「しましょう。火遊び」
飴を舌でころがすように彼女は言った。
あの日、仕事帰りにふらりと立ち寄ったギャラリー。幻想的な世界観、水彩画の繊細な筆使いと彩りに夢中になった。
だから。いつから見られていたのか気づけなかった。
涙に濡れた大輪の華のまえに立つ女、に。
――うらやましい。
女が俺に向かって放ったその言葉。カッとなった。バカにされたような気がして。俺のなにがうらやましい? 受けた不快感そのままに問い返した。会ったばかりの人間に感情をあらわにすることなどそれまでなかった。
気にするふうもなく女はゆるく微笑んでから、非礼の詫びをさせてほしいと言ってきた。笑みに毒気をぬかれてつきあったコーヒー一杯。あれで終わるはずだった。
――あんな目で。わたしも見つめられたいと思ったの。
既婚者だと知ってから手を出した。
夫の誕生日プレゼントに絵を探していると幸せそうに笑うおなじ唇で自分を誘う彼女を抱いた。
ただれた味はやみつきになる。
舌がしびれるほどの甘露を。もっともっとと、たがいにせがんだ。
じりじりと焦げていく。理性も身体も。熱が高すぎていつ発火してもおかしくないほど。
火遊び。
と、あなたが口ずさむたび身体の奥はこわばる。冷や水を浴びせられた熱。よりいっそう勢いを増す。
わざと。わざとあなたはそうやっておもしろがって俺を焚きつける。すべてをくれないくせに。
あなたは知らない。
すこしでも風がさらえば、煙からでも火は立つことを。それはたやすく広がり。やがて。あなたと俺を。スケッチブックを。
すべてを焼きつくす業火となる。
――――っ。
あなたの汗が鼻先からつたい落ちて。目尻ににじんでしみた。
つめていた息を解放したらつられて笑いが出た。それを見とがめた彼女がなにかを言うまえに、あやすように貪るようにふさいだ。
そうさ。
遊びだろ。いまさら本気になってどうするよ。
了