幸せなこと
番外編・最終話になります。ここまでお付き合いくださった方、もう少しおつきあいください。
再び年末になり、宮廷内でちょっとした事件が起きた。副宰相であるフィアラ大公ウルシュラが、階段から落ちかけたのである。たまたま一緒にいた従弟のツィリルに支えられたため、幸い足をひねるだけで済んだ。
その情報を聞いた人々は、まさか過労でめまいがしたのか、と思ったが、違った。ちなみに、ウルシュラが副宰相となって一年弱がたち、だいぶ政治機構は出来上がってきているが、それでも、ウルシュラと宰相バシュタ公爵の処理能力に頼っているところはまだあった。
エルヴィーンが女王の執務室にいると言う彼女の様子を見に行くと、彼女はソファに座って「あら、いらっしゃい」などとのたまったので、気が抜けた。女王エリシュカが微笑んだ。
「遅かったわねぇ、エルヴィーン」
「今日は訓練場にいましたから」
25歳になったエルヴィーンは、最近は後進の指導に回ることも多い。そんなわけで、今日は訓練場にいたのだ。
たぶん、ひねったという足首はエリシュカが直したのだろう。つまり、聞くべきことは。
「過労か?」
「なんでみんな聞くことがそれなの」
すでに何度も聞かれたらしいウルシュラは少しうんざり気味だ。エリシュカはそれを見てコロコロと笑う。ウルシュラはそんなエリシュカを睨みつつ言った。
「オーバーワークをした覚えはないわよ。ちゃんと休んでるし。そうじゃなくて、身ごもっているらしいわ」
他人事このようにさらりと言われたので、少し、エルヴィーンの理解が追い付くのが遅れた。
「……は?」
思わず聞き返すと、「だから」、とウルシュラはゆっくりと言う。
「私と、あなたの子供が、私のおなかの中にいるらしいわ」
「三か月らしいわよ」
エリシュカが言い添えた。だがやはり、ウルシュラの言葉が他人事のようで、いろいろ確認したくなる。
「……妊娠しているということだよな? つわりは?」
妊娠初期症状として気分が悪くなる女性が多いと聞く。見ている限り、ウルシュラには気分が悪そうだったり、吐き戻したりといった症状がない。
「気持ち悪いっていうより、眠い」
「階段から落ちかけたのは眠かったせいか?」
「いや、それはめまいがしたの」
「……」
自覚症状がほとんどない。大丈夫なのだろうか、この女。うれしい、と思うより、心配になる。それはエルヴィーンだけでなく、エリシュカも同じだったようだ。
「自覚があまりないみたいでしょう? だから、危ないと思ってここに連れてきたんだけどね」
「どう自覚しろというの。実感もないのに……」
すねたような口調でウルシュラは言った。エルヴィーンが何か言う前に、エリシュカが言った。
「ダメよ! 自覚がなくても、あなた、母親になるのよ! 今のあなたは、二人分の命を預かってるのよ!!」
「エリシュカ、私たちより気合入ってるわね……」
「あなたたちの子供ならきっとかわいいし、好きなだけ構い倒せるわ!」
エリシュカが訴えた。頭のねじが数本緩んだような訴えだった。何となく、実の両親よりも子供をかわいがりそうな気がした。
女王の勢いに引き気味の夫婦であった。
ウルシュラが妊娠した影響が、徐々に行政に現れていた。とりあえず安定期に入るまでは休め、と女医に言われたらしいが、実際にはそうもいかなかった。
まず、ウルシュラが行っていた仕事の引き継ぎ作業がある。こちらは各省庁の長官や宰相補佐官たちに引き継げば何とかなる。問題は、ウルシュラが決定権を持っている事案だ。
ウルシュラは副宰相である。彼女の許可が得られないとなると、宰相のバシュタ公爵か、女王エリシュカの許可をもらうしかない。必然的に、2人の仕事が多くなっている。
「それに関しては私も悪かったわ……私がいるから大丈夫だと思って、後回しにしていたのよ」
「何を?」
「行政整備のこと」
そう言いながら、ウルシュラはふあ、とあくびをした。この頃のウルシュラはいつも眠そうだ。そう言うタイプのつわりらしい。
ウルシュラがどうしても宮廷に出てこなければならない仕事があるとき、エルヴィーンはウルシュラの側にいるようになった。すでに階段からの落下未遂が2回、何もないところで倒れかけたのが2回、昼寝をして夜まで起きなかったことが1回あったので、さすがのウルシュラも危機意識が生まれたらしい。必ず、(たいていエルヴィーンだが)誰かの側にいるようになった。
たいていはフィアラ大公邸に持ち込まれる書類を裁くだけになっているウルシュラだが、今日はどうしても宮廷に出てこなければならなかった。いつもは書類がつみあがっている副宰相の執務室であるが、今はほとんど資料が置かれていない。妊婦の所に仕事を持ち込む馬鹿がいないからだ。
「だが、今日で大体終わりだろう?」
「ええ。あとはエリシュカたちに任せる。……眠い」
ウルシュラが再びあくびをする。エルヴィーンは微笑み、ウルシュラの頬を撫でた。
「俺は夕方まで宮殿にいなければならないが、どうする? 先に帰るか?」
「んー。医務室で寝てるから、迎えに来て」
「わかった」
エルヴィーンはウルシュラを抱きしめると、彼女の腹にそっと触れた。ウルシュラは苦笑する。
「まだわからないわよ」
たしかに、まだふくらみは感じられない。しかし、ここに命が宿っていると考えると、とてもくすぐったく、いとおしい気がした。
生まれるのは来年の6月ごろだろうか。それまで、ウルシュラとおなかの中の子を守ってやらなければならない。エルヴィーンはそう決意し、まだ自覚の足りない母親の頬にキスをした。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
最終話と言いましたが、最後に特別編を三時ごろに投稿します。ウルシュラの母エレオノーラの話です。こっちも、よろしければ見てやってください。私の作品は基本的にそうですが、脈絡ないです。