フォジュト子爵【1】
本編でウルシュラに片思いをしていたダリミル・オプレタル(=フォジュト子爵)の心の叫びをお楽しみください。説明文が多いです。
たぶん、一目ぼれだったのだと思う。
「そこの官僚さん! ちょっと待って!」
少々妙な呼び止め方をされ、フォジュト子爵子息ダリミル・オプレタルは振り返った。声から予測した通り、若い娘がこちらに向かって歩いて……いや、走ってきていた。
淡いブルーのドレスの裾をひらめかせて駆け寄ってきた少女の姿に、ダリミルは思わず見とれた。そばまでやってきた少女は10代半ばから後半ほど。女性にしては長身で、そこそこ背の高いダリミルの眼の高さほどまで迫っている。つややかな黒髪に、吊り上り気味の切れ目をした少女だ。意志の強そうな翡翠色の瞳をしており、左眼尻の泣きぼくろが何とも言えない色気を生み出している。
身なりからしてかなり身分の高いご令嬢のようだ。徽章をつけていないので宮廷官僚ではない。ダリミルもつけているが、レドヴィナの宮廷に官職を持つ官僚は襟元、もしくは、女性なら胸元でもいいのだが、徽章をつける決まりなのだ。部署ごとにデザインが違っており、知っているものが見れば、その人がどの省に属しているか、一目瞭然なのである。
そんなご令嬢が何の用だろう。そもそも、どうしてそんなご令嬢がここにいるのだ。そう思いながらまじまじと見つめていると、そのご令嬢は目を細めて微笑んだ。
「はい。これ、落としましたよ」
差し出された封筒を見てダリミルは目をむいた。たまたま預かった、内務省長官あての手紙だった。なくしたら怒鳴られるところだった。
「すみません。ありがとうございます……」
受け取ろうとしたが、備品の入った箱の上にさらに本を乗せて、それを抱えていたので手が空かない。すると、ご令嬢は「本の間に挟んでおきますね」と手を伸ばして手紙を本の表紙に挟んでくれた。
「すみません。ありがとうございます」
「いいえー。たまたま拾っただけですから」
こちらが手を使えないのを気遣ってくれたことへの感謝も含んでいたのだが、この令嬢は気づかなかったようだ。ニコッと微笑んでいた。名前を聞こうか一瞬悩んだところに、今度は令嬢を呼ぶ声が聞こえた。
「ウルシュラ様! 何をしていらっしゃるんですか! 置いて行きますよ!」
ウルシュラ、と言うらしいご令嬢は振り返って「はーい」と返事をする。立ち去る前に、ダリミルをもう一度見上げた。
「引き留めてしまってすみません。お仕事、頑張ってください」
彼女は洗練された動きでドレスを少しつまんでお辞儀する。それから背を向けて、また走って行った。一応言っておくが、身分の高い令嬢が走るのは上品ではない、とされている。ああ、彼女も年かさの夫人に怒られている。
彼女は『ウルシュラ』と呼ばれていた。レドヴィナでは珍しい名前ではないが、身分の高い貴族の女性で、『ウルシュラ』といえば1人しかない。
フィアラ大公令嬢ウルシュラ・ヴァツィーク。今年集められた、次の女王候補8人の中の1人で、次の女王の最有力候補。祖母に先代女王を持ち、母に隣国スヴェトラーナ帝国の皇女を持つ彼女は、このままいけば、女王選挙当選間違いなしとされていた。
彼女は未来の女王。そして、万が一女王にならなかったとしても、フィアラ大公家の一人娘だ。彼女は大公になる。
なんにせよ、伝統はあるもののしがない子爵家の跡取りに過ぎないダリミルには縁のない女性なのだ。
そう思うと、ぎゅっと心臓が握りつぶされるような感じがした。
フォジュト子爵子息ダリミル・オプレタル……のちに爵位を継いでフォジュト子爵と呼ばれるようになる彼の経歴は少々変わっている。
ダリミルは、フォジュト子爵家の長男として生まれた。長男と言っても、上には年の離れた姉が2人おり、三人兄弟の末っ子でもある。レドヴィナでは女性も爵位が継げるが、姉2人は弟が生まれたことで、これ幸いとばかりに後継ぎをダリミルに譲った。
そんな彼は20歳で大学までの教育課程をすべて終えた秀才であった。母の従弟であるオルシャーク大公に、「官僚になる気はないか?」と言われていたダリミルは、まず、国家官僚試験を受験した。
これにはみんなが驚いた。オルシャーク大公の思惑としては、貴族の特権を使い、官職を与えてやる、と言うことだったのだが、ダリミルは斜め上に解釈したのである。ちなみに、試験は落ちた。
そもそも、レドヴィナの官僚試験は先代女王ヘルミーナが改訂したもので、平民が宮廷官僚になるための制度である。平民だけでなく、ダリミルのように貴族でも受ける者はいるが、貴族はコネで官職が得られるため、よほど頭がよくないと試験に通過しないと言う裏事情があった。
何となく初めから結果が見えていたのだが、試験結果を見てダリミルはちょっと落ち込んだ。自信があったのに……。
しかし、それでも貴族特権で官僚となったダリミルが配属されたのは大叔父オルシャーク大公が長官を務める内務省だった。子爵家の出だが頭のいいダリミルは、仕事を初めてすぐに頭角を現していった。
とはいえ、若年であることには変わりないダリミルは、率先して雑用もこなすようにしている。そのため、ほかの官僚からの評判も良かった。
そして、その雑用の途中でウルシュラに遭遇したのである。
女王候補は3年間、女王教育を受ける。教育係が付き、いくつか宮廷にも関わる研修内容もある。そのため、ダリミルは時折ウルシュラの姿を目にすることがあった。
彼女の姿を見るたびに、ダリミルの心音は跳ね上がる。これは疑いようもなく彼女に恋をしているのだと自覚したころ、その事件は起こった。後に言う、『赤の夜事件』である。
当時の女王シルヴィエに対する反乱の首謀者はウルシュラの父、当時のフィアラ大公だった。その父を、ウルシュラは自ら殺したのだと言う。
本当か嘘かはわからない。ただ、ダリミルは嘘だといいな、と思った。
事件後、ウルシュラは女王候補を辞退し、フィアラ大公位を継いだ。当時、若干18歳である。
彼女は聡明だった。シルヴィエ女王の任期中は、貴族議会でもかなりうまく立ち回っていたようである。書記官として議会に参加することがあったダリミルは、ポーカーフェイスを保つ彼女をちらりと見て、ため息をつくこともあった。
初めて会った時の、あの朗らかな表情はもう見られないのだと思うと悲しかった。おそらく、あの時、ダリミルと出会ったことをウルシュラは覚えていないと思う。この思いは一方的だ。完全にダリミルの片思い。子爵家と大公家であれば、結婚することは不可能ではないが、ウルシュラは大公であり、ダリミルはいずれ子爵を継ぐ。爵位もち同士が結婚することは、現実的に不可能なのだ。
ウルシュラが抜けたことで混迷を極めるかと思われた女王選挙であるが、圧倒的得票数で、ソウシェク大公令嬢エリシュカが新女王として即位した。シルヴィエ女王の引退に伴い、ダリミルの父も引退し、ダリミルはフォジュト子爵となった。
新女王エリシュカがまず行ったことは、官僚の配置換えである。最も驚きだったのは、若干19歳であるフィアラ大公ウルシュラを教育省長官に据えたこと。それに、彼女よりは年長であるものの、26歳であったフォジュト子爵ダリミルを筆頭宰相補佐官に据えたことだろう。ちなみに、宰相はニェメチェク公爵からバシュタ公爵へと変わった。
宰相補佐官はエリートが多い。難しい国家試験を突破してきたものばかりで構成されており、ダリミルはなじめるかびくびくしていたのだが、親類たちに驚かれた国家試験受験の経歴が功をなした。試験には受からなかったものの、試験を受けるだけの能力がある人間として、補佐官たちに慕われたのである。これにはほっとした。
そして、同じく若年でありながら高官となったウルシュラもうまくやっているようだった。次々に教育改革を行い、閑職と言われていた教育省の官僚たちをまとめ上げていた。
だが、彼女の評判はあまりよくなかった。かつては女王になるだろうと言われていた彼女だが、親殺しであるという不名誉な評判と、聡明さゆえに新女王エリシュカの政策に口を出すことが、貴族の間で不評だった。
貴族たちに陰口をたたかれながらもちゃんと仕事をこなす彼女を見つめていたのはダリミルだけではなかった。彼女の友人でもある女王エリシュカも切なげに彼女を見つめていることがあった。
だが、女王はフィアラ大公を助けなかった。それは政治的に正しい判断だったと思う。ダリミルも仕事以外で彼女に話しかけることはなかったし、周囲もそれを当然のものとして受け取っていた。
エリシュカ治世が2年目に入ろうかというころ、ウルシュラに向けられる目の数が増えた。女王の近衛騎士エルヴィーンである。当初はただ眼で追っている程度だったが、スヴェトラーナ帝国から訪れたロジオン皇太子事件のあと、衝撃の情報がダリミルの耳に入ってきた。
女王命令で、ウルシュラとエルヴィーンがお見合いをしたらしい。婚約までは至らなかったそうだが、とりあえず保留なのだそうだ。
この縁談がまとまる可能性は高かった。エルヴィーンはカラフィアート公爵の三男であり、やたらときれいな顔立ちをした青年である。フィアラ大公であり、少々きつめではあるが美人なウルシュラと並べばお似合いである。それは、ダリミルも認めざるを得なかった。
フォジュト子爵であるダリミルと、フィアラ大公であるウルシュラの運命が交わることはない。
……自分で言ってて泣きたくなってきた。
そして、その衝撃がまだ抜けない頃に、大叔父であるオルシャーク大公にとんでもない計画を聞かされた。
「は? 大公閣下、今何と?」
自分の耳がおかしくなったのかと思い、一応聞きかえしてみる。だが、オルシャーク大公は同じ言葉を繰り返した。
「王位を簒奪する。準備を手伝え」
「……えー。念のため、何故そんなことをなさるのか聞いてもいいですか?」
理解が及ばずにダリミルは尋ねた。オルシャーク大公は不愉快そうに眉根を寄せた。
「この国は、女によって支配されているのだぞ。男は王になることがかなわん。おかしいとは思わないか」
「……」
仕方がないじゃないか。女王の国なんだから。
ダリミルは心の中でそんなことを思っていたのだが、オルシャーク大公はその沈黙を肯定として受け取ったらしい。
「もう我慢ならん。ただの小娘に支配されるなど、私の矜持が許さん」
「……」
少々優しすぎるきらいはあるものの、エリシュカは女王として有能である。そもそも、選挙で選ばれた女王に、今のところ外れはいない。だからこそ、今までこの制度が続いてきているのだ。
結局のところ、オルシャーク大公は権力が欲しいだけなのだ。ため息をつきたいところだが、ぐっとこらえる。ここでオルシャーク大公の機嫌を損ねれば、ダリミルの家族にも累が及ぶ。
「フィアラ大公を主犯に仕立て上げる。手伝えよ」
自分を駒としか思っていない大叔父に、背筋が震えた。
もう、本気で泣きたい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本当は1話で終わらせようと思ったんですが、長くなりそうだったのでふたつに分けました。
まず、フォジュト子爵がウルシュラに片思いするに至ったわけ。ばっちり一目ぼれでした。初恋かもしれません。
この人、いろいろとかわいそうな人です。苦労性と言うか、とばっちりと言うか……。正直、書いてて楽しい男でした。