大帝国の皇太子【5】
本日2回目の投稿です。
「ああ~。頭痛ぁ……」
つぶやきながらウルシュラは宮廷内を歩いていた。寝る前に教育省に向かうためだ。明日の学校訪問の件で返事が来ているか確認するためだ。
「おぉ……? 大公。どうなさったんですか」
「こんばんは、閣下。返信ならきてますよぉ」
寝ぼけているのか机に突っ伏している官吏と、まじめに机に向かっている官吏が答えた。
「ありがとう。お疲れ様。後で差し入れでも持ってこさせるわよ」
「おおっ。大公太っ腹ぁ」
「はいはい。頑張るのよ」
ウルシュラは適当に受け流し、机に腰かけて手紙を開いた。了承の手紙を読んでから、ウルシュラはまばらに残っている教育省の官吏に言った。
「じゃあ、明日も午前中に来るから。書類は優先順位の高い方から順番に並べておいてね」
「わかりました。大公も頑張ってくださいね」
「あら。ありがとう」
ウルシュラは思わぬ激励にひらひらと手を振って教育省の執務室を出た。ちょっとだけ気分がよかった。教育省の官吏たちは、ウルシュラを認めてくれている。
宮廷から女王の居室のある宮殿への道を歩いていると、唐突に声をかけられた。
「オリガ様」
ウルシュラは足を止めたが振り返らなかった。ウルシュラを『オリガ』と呼ぶ人間は、現在の所スヴェトラーナ帝国人だけだ。ウルシュラという発音も、スヴェトラーナ帝国にないわけではないはずだが、彼らはウルシュラをかたくなに『オリガ』と呼ぶ。
「申し訳ありません。オリガ様」
仕方なく、ウルシュラは振り返った。声で分かっていたが、いたのはロジオン皇太子の側近のオレクだ。
「何か用かしら? それと、私のことはフィアラ大公、もしくはウルシュラと呼んでいただけると嬉しいのだけど」
ウルシュラは尊大に言い放ったが、オレクは気を悪くした様子もなく微笑んだ。
「あなたはスヴェトラーナ帝国の皇位継承権を持つれっきとした皇族です。そんな方をレドヴィナ王国の名でお呼びすることはできません」
「……あなたたちがどう思っていても、私はレドヴィナ王国の人間よ。それで、何の用?」
「皇太子殿下がお呼びです」
オレクの言葉に、ウルシュラは「そうよね」とため息をついた。断る理由も思いつかず、ウルシュラは王立書庫近くの部屋に連れて行かれた。
中ではロジオン皇太子が1人で待っていた。王立書庫付近の部屋には、本を読むための机や写本の入れられた本棚、ペンとインクに紙、それに鏡が用意されている。微妙に用途のわからない部屋ではある。
「何かご用でしょうか」
「ああ。君と話がしたくてね、オリガ。オレク、さがれ」
ロジオン皇太子に命じられ、オレクは一礼すると部屋の前に控えた。ウルシュラとロジオン皇太子は2人っきりで向き合う。
「オリガ。君は結婚する気はあるかな?」
なんだか最近、似たようなことをよく聞かれるが、ウルシュラの答えは決まっている。
「ありません」
これに尽きる。ウルシュラが未婚のまま死ねば、フィアラ大公の爵位は父の弟であるイルコフスキー男爵の系統に移る。ウルシュラはそれでもいいと考えていた。下手にウルシュラの子供が爵位を継ぐよりもいいのではないだろうか。
「以前に会った時も、君はそう言っていたね。そんなに大公になるのが嫌だった? ……いや」
ロジオン皇太子はウルシュラの方に一歩近づいた。ウルシュラは逆に一歩さがりそうになったが、踏みとどまった。ロジオン皇太子を睨み付ける。
「もしかして、女王になりたかったのかな?」
「そうであるならば、私は『赤の夜事件』のあとに女王候補を降りていないでしょうね」
「それもそうだね」
ロジオン皇太子はにっこり笑って言った。その嘘くさい笑みに、ウルシュラは思わず一歩後ろに下がってしまった。ロジオン皇太子は一歩前に踏み出す。
「じゃあ質問を変えようか。君は、レドヴィナの女王になる気はあるか?」
ウルシュラはロジオン皇太子を睨みあげた。
「愚問です。私は女王になる気はない」
うぬぼれるわけではないが、この国は女王エリシュカとフィアラ大公ウルシュラの存在で均衡を保っているきらいがある。なんと言えばいいのだろうか。そう、ウルシュラが敵役である限り、この国は平安だろうということだ。
「オリガ。君はスヴェトラーナ皇族の血を引いている。君はスヴェトラーナでも、この国でも敬われるべき人間だ。なのに、この国では軽んじられている。悔しくはないのかい?」
「私のことはウルシュラ、もしくはフィアラ大公とお呼びください。私はこの国のためになすべきことをやっているだけ。悔しくなどありません」
話が見えてきたな、と思いながら、ウルシュラはそう言った。ロジオン皇太子は「そう?」と首を傾けて微笑むと、ウルシュラの手首をつかんだ。ウルシュラはびくり、と体を震わせ、足を後ろに下げたが、腕はびくともしなかった。
「は、放してください」
「君がうなずいてくれたら放すよ。君は女王になる。そして、レドヴィナにスヴェトラーナ皇族の血を引く女王が生まれるんだ。君はうなずくだけでいい。今も、この先も」
見るものを魅了するような笑みを浮かべ、ロジオン皇太子はそう言った。ウルシュラはもう一度捕まれた右の手首をぐっと引っ張った。
「この私に、帝国の言いなりになれというのですか。レドヴィナ王国を売れと?」
「レドヴィナを売るなど。君は初めからこちら側の人間だろう?」
ウルシュラは目を見開いてロジオン皇太子を見つめ返した。
「本気で言っているの、そんな……」
「君は私の従妹だ。私の血族から、レドヴィナ女王を輩出する。スヴェトラーナ帝国にとって喜ばしいことだ……」
「……そんなにうまくいくとは思いませんが。私は貴族に支持されていない。私が玉座を奪えば、貴族たちが反乱を起こすでしょう」
「わかっていないのは君の方だよ。君が女王となれば、帝国が君を支援する」
「……力で、人を従わせようというのですか」
ウルシュラはキッとロジオン皇太子を睨みあげた。彼は微笑んだまま、空いている手でウルシュラの頬に触れた。ウルシュラはびくっと体を震わせる。
「いっそのこと、私と結婚してしまおうか。私はスヴェトラーナ帝国の皇帝になる。君はこの国の女王になる。いい案だろう?」
そんなわけあるか、馬鹿野郎!
とは言わずに、ウルシュラはできるだけ冷静に言葉を返す。
「君主同士の結婚はうまくいかないと思いますが。そもそも、私には女王になるつもりがないと何度言えば分るのですか」
「うん。私と結婚しようというのは冗談。君とは友人でいるくらいがちょうどいいからね。でも、スヴェトラーナ皇族と結婚してほしいとは考えているよ」
「私は結婚も考えていません」
ウルシュラのきっぱりとした言葉に、ロジオン皇太子は目を細めた。
「あれもこれも『考えていない』。なら君は、何を考えているのかな?」
つかまれた手首が痛む。ウルシュラはそれに耐え、顔をゆがめないように表情筋に力を入れた。
「私は、この国が平和なら、それでいい。みんなが笑って暮らすことができれば、それで構わない」
「そこに、君の幸せはあるのかな?」
ウルシュラは思わず黙り込んだ。返答できなかったのではなく、言ってもこの男には理解されないだろうと思ったのだ。しかし、ロジオン皇太子はウルシュラが『答えられなかった』と判断したらしい。
「もしも、エリシュカ女王が亡くなれば、君は女王になれるんじゃないかな? レドヴィナの女王は、爵位を持っていても構わないはずだ。それに、エリシュカは女王の器ではないね。君こそが、女王にふさわしい」
ロジオン皇太子はウルシュラの耳元で、まるで愛をささやくような甘い口調でそう言った。
もしも、ウルシュラに野心があったら、この言葉でエリシュカの排除を試みようと考えたかもしれない。しかし、それ以上にウルシュラはエリシュカを信頼していた。ロジオン皇太子ではなく、エリシュカ女王を。
「残念ですけど、私はエリシュカが女王にふさわしいと思う。だから、王位を彼女に譲ったのよ」
傲慢な口調だが、こういえばロジオン皇太子が引くかもしれないと思ったのだ。ウルシュラが女王に『なれなかった』のではなく、『ならなかった』のだと思わせることで、引かせることができると考えた。
だが、こんなところで言うのもおかしいが、世の中そんなにうまくいかないものだ。
あろうことか、ロジオン皇太子はウルシュラの首に手をかけて、ぎゅっと握ってきた。
「な、にを……っ」
息が苦しい。ウルシュラが尋ねると、ロジオン皇太子は酷薄な笑みを浮かべて、両手で首を絞めてきた。
「かわいくない娘だな。これだけお膳立てしてやっても、うなずかない。こうも私の思う通りにならない人間は初めてだよ」
気道が締め付けられて、ウルシュラは目がかすんできた。頭に酸素が行かず、ぼうっとしてくる。それでも、ウルシュラは言葉を絞り出した。
「力と権力に、だれもがなびくと思わないで」
「!」
ロジオン皇太子が手に力を込めた。本格的に息が詰まったが、すぐに手は放された。ウルシュラは、ロジオン皇太子にとって、レドヴィナ王国における手ごまだ。そう簡単に殺されるはずはないと思っていたが、さすがにビビった。
「……悲鳴も上げないか。つくづくかわいくない娘だな」
ロジオン皇太子は吐き捨てるようにそう言った。その足元に崩れ落ちたウルシュラは、のどをおさえて咳き込んだ。一気に酸素が肺に入ってきて苦しい。
出ていきかけたロジオン皇太子は、一度ウルシュラを振り返ると、見惚れるような笑みを浮かべた。
「私はあきらめないよ、オリガ。君がうなずいてくれるまで、あきらめるつもりはないからね」
聞き方によってはロマンチックだが、今のウルシュラには戦慄を覚えさせた。要するに、ロジオン皇太子は手段を選ばず、ウルシュラを女王にしようとすることだ。そんなことをしてどうするのだと思う。
もしかしたら、ウルシュラが女王になってから、自決するかもしれないとは考えないのだろうか。ああ、これも考慮に入れておこう。
考えるのに必死で、ウルシュラは自分の目がうるんでいることに気付いていなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ロジオン皇太子来訪事件はまだまだ続きます。女性にこんなことをする人が本当にいたら最低ですね~。
遠まわしな謀反計画。このあたりに関しては、ロジオン皇太子来訪事件終盤に解説が入る予定です。