第七話 春日美月 後編2
ホームルームが終わり、放課後になる。左隣の列の最前列に座る櫻井が視界の隅で立ち上がった。目の前の席の柏原はいつも通りの調子で教室から出ていく。
二人は、昼休みが終わる少し前に何食わぬ顔で戻ってきた。櫻井は変わってないように見えたが、柏原は制服をだいぶ乱していたのを覚えている。
鞄を持って立ち上がろうとすると、男子の声がすぐ傍から聞こえてきた。顔を上げると、櫻井が私を見下ろしている。
「春日、ちょっといいか?」
断る理由はなかった。ただ、気まずいと言えば気まずい。私は、ほんの少しだけ不安そうに見える櫻井の瞳を見つめ返した。
「……うん、いいよ」
「サンキュー。えと、場所変えようぜ」
頷き、私たちは一緒に教室を出る。いつもだったら囃し立てそうな柏原がちょうどいなかったのは良かったことだと思う。少し安堵した。それは多分櫻井も同じだろう。
どこに行くのだろう。
黙々と私の前を歩く、高身長の櫻井を見上げた。櫻井を見るとまた昼休みの出来事を思い出す。
今思えば、櫻井の身体能力のおかげで私は怪我をせずに済んだのだろう。的外れかもしれないが櫻井のそれに感心する。櫻井は教室のすぐ側の、例の階段を今度は上がっていった。三階には主に一年生の教室があり、櫻井はそこを無視してさらに上がっていく。
(まさか……)
櫻井は上の階で立ち止まった。櫻井の目の前には重厚な扉があり、それは屋上へと続いている。
「屋上は鍵がないと入れないんじゃないの?」
そんなことも知らないのだろうか。いや、櫻井のことだ。そんなことはあり得ない。……はず。
「まぁな。けど、逆に言えば鍵があれば入れるだろ?」
何を言っているのだろう。櫻井は自分の鞄の中から鍵を取り出し、鍵穴に躊躇なく差し込んだ。聞こえてきた音は、解錠される音だった。
「え!? なんで櫻井がそれを持ってるの!?」
「昼休みに職員室で借りたんだ。まだ俺も生徒会のメンバーだし、簡単に借りられたんだぜ」
「……そ、そうなんだ」
「お先にどうぞ」
扉を引いた櫻井は、優しそうに微笑んでいた。
一歩一歩、恐る恐る、私は足を踏み出していく。足の裏が屋上の地面についた瞬間、視界いっぱいに茜色が広がっていった。春風が吹く屋上は、所々が古ぼけて見える。
「……綺麗」
感嘆の声を上げた。思わず数歩歩いてしまう。
「あー。マジだ」
櫻井も感嘆の声を上げていた。
「櫻井も初めて?」
「屋上に来たこと自体が初めて」
「へぇー」
扉を閉めて、私の背後で足を止める。私たちの正面には夕日があって、眩しくて、だから振り返る。私たちの影は重ならなかった。
しばらくの間沈黙が続く。私から用件を聞いていいのかわからなかった。けれど、なんとなく、答えは想像できる。
「…………あー……のさ」
言い難そうに櫻井の口が開いた。私のことを一瞥し、左手でぽりぽりと頬を掻く。
「な、何?」
緊張からか、手から変な汗が出てきた。
櫻井は思い切ったように、完全に私のことを見つめ。そこでやっと、私はちゃんと櫻井の顔を見ることができた。彼は、とても綺麗な顔だった。
「昼休みのことなんだけど……ごめん!」
櫻井が勢いよく頭を下げる。すると、はらりと色素の薄い髪が流れた。
「え、と、あの……?」
用件は予想通りだったけれど、こうもストレートに謝られるとは思わなかった。人と話すことが苦手で、そもそも話す相手もあまりいない私にとって、この状況は最悪だ。なんて返したらいいかわからない。
櫻井は、困惑する私を瞳で捉えて。
「本当は、昼休みに謝るべきだったんだけどさ」
無意識なのか、私から見れば不自然に右手を後ろに隠した。一瞬だけだったけれど、その右手に包帯が巻かれているのが見えて──罪悪感が混み上がる。自意識過剰かもしれないけれど。
「櫻井、それ」
右手を指で差すと、櫻井はここまで来てもなんでもないように笑っていた。
「あぁ、これ。さっき転んだんだ」
「そんなの嘘!」
反射的に叫んでしまった声量に自分自身が驚いて、慌てて口を両手で塞ぐ。櫻井はバツが悪いような表情をして、後頭部を掻いた。
「……ま、バレバレだよな」
苦笑して、後頭部を掻いていた左手を下ろす。
「…………う、うん」
私も両手を下ろして、前で組んだ。そして無意識に指先を動かす。そんな私を見てか、櫻井は不満げな表情を浮かべた。
「でもさぁ、これ大袈裟なんだよな。先生が必要以上に包帯巻いてきてさぁ」
私に見せつけるように、手首を回したり、握り締めたり、開いたり──そんな日常的な動作をする。
「だからさ、春日がそんな心配そうな表情しなくていいんだよ」
「櫻井……」
弄っていた指先を止め、再び組む。
春風が再び吹いて、私と櫻井の髪を靡かせた。春風特有の香りは不思議と私を幸せな気分にさせてくれる。
「……〝つっきー〟でいいよ。他の奴らもそう呼んでるし。ていうか、俺のこと〝櫻井〟って呼ぶの春日とか先輩とか先生くらいだよ」
「そ、そうなの?」
その事実を知って一気に恥ずかしくなった。私は髪を耳にかけながら、視線を伏せる。
「あぁ」
夕日が私たちを温かく照らしていた。笑みを零す櫻井の頬は、だからだろうか。赤かった。
「じゃ、じゃあ、つっきー」
誰かを渾名で呼ぶのはいつ以来だろう。相手が男子というのもあって、気恥ずかしさが私を襲う。けれど、櫻井は純粋に嬉しそうな反応を私に見せていた。
「……ッ!」
瞬間に私は言葉を失った。これが世に言う見惚れたというものだろうか。黙ったまま突っ立っていると「どうした?」と尋ねられてしまう。
「なんでもない」
なるべく平静を装って視線を逸らした。逸らした先にあった給水塔は無の表情を私に見せている。ところどころペンキが剥がれていて、錆びついていた。
「話ってのはこれだけだ。聞いてくれてサンキューな」
「え?」
私の返答が意外だったのだろう。櫻井も「え?」と目を見開く。
瞬時に気まずい雰囲気が流れた。あぁ、何か言わないと駄目だ。二人っきりなのだから思い切って聞いても大丈夫だろうか。聞いてみよう。
「……あのさ、つっきー。生徒会に立候補しないの?」
一瞬だけ、櫻井が苦々しそうに顔を歪めた。
「ご、ごめん。この質問嫌だった?」
「い、いや。違う。大丈夫」
否定する為に手を横に振っていたけれど、櫻井はなかなかこっちを見てくれない。こんな時、私はどうしたらいいのだろう。
「……迷ってる……」
絞り出すように櫻井は言って、力強く自らの手を握り締めた。
「迷ってるって、どうして?」
「嫌なんだよもう。仕事を押しつけられるわ、先輩はくだらねぇ意地を張るわ、自分の時間を取られるわ」
それは最早ただの愚痴だ。櫻井はそのことに気づいているのか、見られたくない、と言うように元から伏せてある顔を手で隠す。
「でもさ、二年って俺だけなんだよ。他は全員三年で、当然だけど今年は立候補できない。だろ?」
心做しか、櫻井は苦しそうな声で私に同意を求める。
「…………うん。卒業しちゃうから」
ははっと櫻井はおかしそうに笑って、間髪を入れずにこう言った。
「だからさ、立候補しなくちゃっていう使命感? っていうか責任感? みたいなものが……」
そう続けて。
「……俺の中にあるんだ」
顔を上げた。苦しくて、だけど、愛しいから守りたくえ。そんな感情を綯い交ぜにした表情をしていた。
「ごめん。この話はもう少しだけ考えさせてくれ」
そう言い残して、櫻井は屋上から出ていった。一人だけとなった屋上にいると、急に虚無感のようなものが混み上がってきて身震いをする。
しばらく呆然と突っ立っていると、誰かの足音が聞こえてきた。その足音は走っているようで、すぐさま屋上の扉を開ける。
「美月!」
それは、櫻井ではなくまさかの人物で。
「り、六花?」
私は彼女の名を呼んだ。
「どうして私がここにいるってわかったの?」
「さっきつっきーとすれ違ったの。あたしが美月の居場所を聞いたら屋上って言われてさぁ」
六花は躊躇なく屋上に入ってきて、「ほい!」と私に鞄を差し出す。
「ありがとう」
「一緒に帰ろ! ここの鍵はつっきーが後で閉めるからいいって!」
「あ、そっか。鍵……」
「美月鍵持ってないじゃん。だからつっきーに任せて早く帰ろーよ」
しばらく考えて、六花の言う通りだと納得する。あの話もあったのだから、櫻井も私に帰ってもらった方がいいだろう。
「ん、そうだね」
名残惜しいけれど屋上を後にして、私は六花の隣を歩く。
「で? わざわざ屋上の鍵を開けて、二人きりで何してたのさ」
「んな! そ、そんなのじゃないから!」
ニヤニヤと笑う六花に、私は慌てて言葉を返す。
「ほんとかなぁ?」
六花の誤解はしばらく解けそうにないだろう。私は諦めてため息を吐いた。
*
何故か翌日も遅刻をした一ノ瀬は、さっさと席に座ってしまった。選挙管理委員会の委員長として副委員長に何個か話すことがあったのだけれど、私は結局話せずにいる。
委員長の私一人でなんとかなりそうだったから。副委員長が一ノ瀬だから。言い訳が何個か出てきて、だけどどれも私の勝手な我儘のように思えて悩む。
(……なるべく早く話さないとな)
自席でそう考えていても、答えなんて見つかるはずがない。授業の内容が右から左に流されていく。
黒板の方を眺めていると、櫻井──つっきーの色素の薄い髪が視界に入った。昨日のことだけれどついさっきあったことのように感じるあの件は、まだ頭から離れない。
『ごめん。この話はもう少しだけ考えさせてくれ』
そう言って悩んでいたつっきーだったけれど、私も何か彼の力になれないだろうか。
役員の締め切りが刻々と近づいている中、全体的な立候補者の数は驚くほどに少なかった。そういう下心もあったのだけれど、つっきーを見ているとやはり放っておけないものもあった。
授業はあっという間に終わり、放課後になる。結局私は、一ノ瀬にもつっきーにも、何も言えなかった。
「……はぁ」
自然と溜め息が漏れる。こんなモヤモヤとした気分の時は屋上に行って気分転換をしたいのだけれど、行っても開いていないだろう。
とりあえず教科書を鞄にしまい、顔を上げる。一ノ瀬もつっきーもいなかった。二人ともさっきまでここにいたのに、もう帰ってしまったのだろうか。不審に思って立ち上がる。けれど、いなくなってしまったものはどうしようもない。私は鞄を掴んで教室を出た。隣のクラスに顔を出すと、顔を歪めた六花が大量の紙を持って立ち尽くしていた。
「六花? 何持ってるの?」
「あ、美月ぃ~!」
今にも泣き出しそうな声で、六花が大量の紙を叩く。
「掲示係になっちゃったから押しつけられた〜! こんなにたくさんの掲示物貼れないんだけど~!」
「もう一人はどうしたの?」
「そこで貼ってる!」
「じゃあ六花もやらなきゃ」
「酷い! 美月もあたしを見捨てるんだ!」
「見捨ててないよ。一人でできなかったら手伝うし。けど、ちょっと今委員会の方でゴタゴタしてて今すぐは無理なんだ。ごめん」
すると、ぴたっと六花の手が止まった。嫌われたのだろうか。それとも本当に泣くのだろうか。
「うぅー……頑張る。美月よりはマシだと思うから」
私よりマシってどういうことだ。本当にそうだと思うけれど。
「じゃあもう行くね。私の用が終わってもまだ終わってなかったら手伝ってあげる。先に終わったら先に帰ってて」
「えぇっ?!」
今のどこに不満げな声を出す理由があったのだろう。私は軽く手を振って、教室の目の前にある階段まで移動する。無意識なのか足は階段を上っていて、気づけば屋上の扉の前にいた。
重厚な扉にある窓から見える外の景色はどこまでも遠くに広がっている。開いているはずがないのに、私は駄目押しで取っ手に手をかけた。
(え?)
瞬間、取っ手が驚くほどに滑らかに回る。力を加えるとぎぃという音がして、あっさりと開いた。
(つっきー、昨日鍵をかけ忘れたのかな)
つっきーに限ってそんなことはあり得ない、そう思っているけれど実際扉は開いてしまった。
(……ちょっとくらい、いいよね)
昨日以上に恐る恐る片足を踏み出して地面を踏む。すると、扉の隙間から男の人の歌声が聞こえてきた。
その人は歌を口ずさんでいるようで、それだけなのに上手いとわかる歌声にしばらく聞き惚れる。だが、それはあっさりと終わってしまった。
「……これじゃねぇ」
その声には、嫌というほどに聞き覚えがあった。
……どうして一ノ瀬がこの屋上にいるのだろう。鍵は職員室にあるはずで、一ノ瀬は生徒会のメンバーじゃないから借りれないはずで。
私がこんなにも困惑しているのに、一ノ瀬はそれを嗤うようにまた口ずさんだ。さっきと同じメロディーだけれど、歌詞が違う。二番だろうか。いや。
『……これじゃねぇ』
彼は作詞をしているのだろうか。だとしたら余計に私がここにいることは知られたくない。なのに、半開きになった扉を支えていた腕はもう限界だった。
(でも、これってある意味チャンスだよね。教室に戻ったら絶対に話しかけられないもんね)
決意を固め、今来たような素振りで扉を開ける。予想通り歌声が途切れ、緊張で心臓が跳ね上がる。数歩歩いて辺りを見回すと、一ノ瀬と目が合った。
一ノ瀬がいる場所は、あの給水塔の上だった。
「おまっ……!」
目が合って、パクパクと口を開けたり閉めたりを繰り返すおかしな一ノ瀬を内心で笑う。それが伝わってしまったのか、一ノ瀬がむすっとした表情で何かを自分の後ろに隠した。
「何しに来た、春日」
「そっちこそ。この屋上には鍵がかかっているはずよ」
茜色のせいだろうか。いつもより強気な姿勢で一ノ瀬と話している自分に驚く。そんな私に一ノ瀬が見せびらかしたのは、鍵だった。
「屋上のスペアキーだ。学校が芸能活動をしている俺に気遣って作ったヤツなんだよ」
この驚きは顔に現れてしまったのだろう。自覚するくらいに表情筋が動いた私を、一ノ瀬は苦々しげな表情で見下ろしていた。
「……そうなんだ」
私も一ノ瀬もそのスペアキーを見つめていた。その先にいるお互いを見つめるようにそうしていた。
先に動いたのは一ノ瀬で、スペアキーを胸ポケットに隠す。相変わらず意地悪だ。
「で? お前も俺の質問に答えろよ」
いや、意地悪だったのは私の方だった。
「うっ……」
確かにそうなのだ。私が言葉を詰まらせたのを確認して、「なんなんだよお前」と一ノ瀬が呆れる。あの一ノ瀬に呆れられた。最悪だ。
「なんとなくよ。私、ここから見える景色好きだから」
一ノ瀬の目が見開かれた。彼はその場で辺りを見回して、ゆっくりと、一つずつ、何かを確認するように見つめて。
また春風が吹いた。どうして今だったのだろう。どうして今じゃなきゃ駄目だったのだろう。一ノ瀬の癖のある黒髪が靡く。手摺も何もない給水塔の上。茜色の空に囲まれ、夕日を背負った一ノ瀬は──悔しいくらいに美しかった。
「……綺麗だな」
彼が目を細める。それでもわかった。彼の目の中には煌めきがあると。
「けどお前、馬鹿なのか? ここには鍵がねぇと入れねぇだろーが。俺がいなかったらお前はここにいねぇんだぞ、馬鹿」
二回言われた。
「知ってるわよそれくらい。馬鹿にしないで一ノ瀬のくせに!」
「はっ?」
ぎょっとした表情で一ノ瀬が何度かまばたきをする。そうだよね。私もそう思う。なんで私、こんなにも強く言い返しているのだろう。こんな態度を取ったらもっといじめられるかもしれないのに。なのに一ノ瀬は、心做しか嬉しそうな表情を──一瞬だけ私に見せた。
「俺のくせにってなんだよ、俺のくせにって」
「そのままの意味よ! 馬鹿に馬鹿って言われたくないし!」
「俺は馬鹿じゃねぇっての!」
「馬鹿よ! 成績悪いし!」
「学力はしょうがねぇだろ! 授業聞いてねぇし! ってかなぁ、馬鹿っつーのは多月とか瑛斗のことを言うんだよ!」
「多月って誰よ!」
「おまっ、そんなことも知らねーのかよ、馬鹿! 多月は《Vivace》のメンバーだよ!」
「なら尚更知らないわよ! わかってるでしょ?! 私貴方のことが嫌いなんだから! 貴方のことなんて何も知らないんだから!」
瞬間に一ノ瀬が息を呑んだ。一ノ瀬からの返事はいくら待っても返ってこない。言い過ぎただろうか、そう思うけれど先に私のことを嫌いになったのは一ノ瀬だ。多分そう。そうだったはず。そうでなくても傷つくはずはない。
……なのに、なんでなの。なんでそんなに苦しそうなの。星屑のような瞳は傷ついていた。表情だけは、そんな感情を一つも見せてないのに。
「ははっ。それもそうだな……」
最後は笑って、泣きそうな瞳で私を見ていた。
「悪い」
呟きが春風に乗って私の鼓膜に届く。その言葉には、本当にいろんな意味が込められているような気がした。
本当は選管の話をしたかったのだけれど、もうそんな雰囲気ではない。私は諦めて、屋上を後にした。
*
あれから数日が経過した。一ノ瀬は遅刻をしなくなったけれど、代わりに早退をよくするようになって。気がつけば、立候補者の締め切りは明日となってしまっていた。
つっきーとはあの日以降話しておらず、どうするのかは把握していない。時が無情にも過ぎ去っている、私はそう実感し始めていた。
今日はなんとなく屋上に行きたい気分だった。一ノ瀬が早退してしまったから開いているとは思っていなかったけれど、景色は窓からよく見える。ぼーっとその景色を眺めていた。終わらないでほしいと思っていた。地平線が群青色に染まるのを見てしまうと帰らなければとも思ってしまう。私はようやく階段を下りた。
すると、部活着姿の柏原が廊下の奥から歩いてくるのが視界に入る。私は思わず足を止めた。柏原も、あの日以降……というか彼と私が話した日は今までで一度でもあっただろうか。
柏原も私に気づいたらしく、「あ」と小さく声を上げる。柏原と一緒にいるとろくなことがない、そう学んでいたから素早く爪先を階段の方へ向けて逃げる機会を伺った。
「ちょちょちょ、待てって!」
慌てた様子で柏原が言う。両手を上げて降参のポーズをとっているけれど、人間不信の私にそれが効くはずもなく。
徐々に近づいてくる柏原。近づいてほしくない私。一気に蹴りをつけたかった私は階段を全力疾走で駆け下りた。
「あっ、ちょっと! だから待てってば!」
逃げるが勝ちだ。一瞬だけ振り返ると、ぶんぶんと両腕を振り回した柏原が私のことを追っている。
「ッ!?」
運動不足な私が、運動部で男子の柏原に勝てるはずもなく──
「よし、捕まえた!」
「あ」
──あっさりと捕まってしまった。
「な、な、なんですか」
落ち着け私。と言っても無理な話で頭が混乱する。ついでに変な汗も出てきた。
「いや……その……」
自分から話しかけておいて、何を話すか決めていなかったらしい。私より頭一個分背が高い柏原は目を泳がせていた。
「用がないなら私はこれで」
「いやいや、ごめん! ある! あるから!」
意地でも私を行かせたくないのか、柏原は私の両肩を掴んで離さない。
「い、一体なんなんです……」
「ごめん!」
「……か、え?」
私は動きを止めて、まじまじと柏原を見た。完全に信用しているわけではないけれど、話だけは聞いてあげようと思える。
「だからさ、いつだったか忘れたけどあれだよあれ! なっ!」
「……はぁ」
「え、まさか覚えてねぇの?!」
それは重症だ、そう言いたそうに柏原が唖然と私を見つめている。
「覚えてますよ」
その動作に腹が立って棘を含める。柏原は安堵したみたいだけれど、私はなるべく冷めた目をして──
「……骨の髄まで」
──そう言い放ってやった。ぴたっと柏原の表情が固まるけれど、一瞬にして笑い出した彼は頭がおかしいのだろうか。
「なっ……!」
「ギャハハッ! 美月ちゃん面白い! マジやべぇ!」
(美月ちゃん?!)
鳥肌が立った。慌てて両腕を擦りそれを抑える。柏原はそれを見てさらにおかしそうに笑い出した。
「さっ、さっきから失礼ですよ!」
「わりぃわりぃ……!」
ひぃひぃとお腹を抱えた柏原は一息をついて、自分で自分の両頬を引っ叩く。
「なぁなぁ、俺とトモダチにならね?」
そして、こう言い放った。
「…………は?」
「いやだって、美月ちゃんおもしれーもん! 六花が言ってた通りだわ!」
「……六花の知り合いなんですか?」
「ん? 六花も俺のトモダチだよ、トモダチ!」
トモダチと言われて、やっぱりと思う。
六花の顔の広さは私には計り知れなかった。六花は凄い。尊敬する。けれど、友達がまったくと言っていいほどにいない私の親友なのだから、第三者から見たら私が思っている以上に凄いと思われているに違いない。
「嫌です」
「即答?!」
「嫌です」
「二回も言わなくていいって!」
柏原は大袈裟な身振りで私に訴えた。
私はこれ以上この場所にいたくなくて、「じゃあ」とだけ告げて残りの階段を下りていく。柏原は今度は追ってこず、柏原の足音が遠ざかる音を聞いていた。
翌朝いつものように通学路を歩いていると、六花が私に向かって突進してきた。
「おはよ!」
「おはよう」
「ねぇねぇ、聞いたよ美月! 夏と友達になったんだって?」
夏? と首を傾げたけれど、夏というのは柏原の下の名前だ。思い出した。
「違う」
そもそも、なんで六花はそう思ったのだろう。六花の無垢な瞳に映った私は、不愉快そうに眉間に皺を寄せていた。
「あれ? でも……」
六花は何故か鞄のポケットをあさり、スマホを取り出す。「ほら」と出された画面に出たのは、柏原からのメッセージだった。
『俺、美月ちゃんとトモダチになった☆』
(……なんでメールの文章でこんなにイラッとするんだろ)
六花が本気で不思議そうに画面を眺めている。そんな六花を見て、私はため息を吐いた。
なんとか六花の誤解を解こうと悪戦苦闘し、気づけば教室の前まで来てしまう。六花と別れて教室に入り時計の針を確認すると、チャイムが鳴る五分前だった。
「おはよう、美月ちゃん!」
わざとらしい声が聞こえてきて。視線を向けるとそこには柏原がいた。
柏原を蹴りたい衝動を抑えてじりじりと下がる。周囲の目は一気に私と私の肩を抱く柏原に向いていて、そしてざわつき始めていた。
チャイムが鳴る五分前とあってかクラスメイトはほとんど教室の中にいて、慣れない注目の浴び方をしているせいか焦ってしまう。変な汗が体中から出てくるのがわかる。
「……何してんの、夏」
鋭く冷たい声を発したのは高木さんだった。彼女は呆れと憐れみさを含んだ目で、柏原のみを見る。
「何って花梨、トモダチとスキンシップを」
「だからちが……」
不意に真後ろに人の気配を感じた。それは柏原も同じのようで、私と同じタイミングで振り返る。クラスメイトの視線もその人に逸れて、そしてまた別の意味でざわついた。
「悠!」
高木さんの言う通り、そこに立っていたのは一ノ瀬だったのだ。
「お前ら……」
疲れたような表情をする一ノ瀬は、私と柏原を見ていた。その証拠に、一ノ瀬の瞳には密着した私と柏原が映っている。みるみるうちに見開かれるその瞳は、顔と共に伏せられた。
「よぉ、悠!」
一ノ瀬の普段とは違う雰囲気に気づいているのかいないのか、柏原がいつもと変わらない調子で笑う。
「……おー」
その一ノ瀬は無気力ながらも声を出して、私たちを押し退けて自席に座った。誰も何かを言うタイミングを掴めないままチャイムが鳴って、私たちも自席に座る。
柏原が作った誤解に不満を抱きながらも、解くに解けなくなってしまった。人の噂も七十五日という感じになればいいのだけれど。
「おはようございます」
松山先生が教室に来て号令がかかる。松山先生は一ノ瀬を見て驚いたように目を見開いた。それもそうだろうと私は思った。
「一ノ瀬君、今日も早いですね」
一ノ瀬は軽く頭を下げただけで何も言わない。松山先生はそんな一ノ瀬を見ていなかった。見ていたのは小さな紙切れで、私と一ノ瀬の名前を呼ぶ。仕方なく二人で教壇の前まで歩いていった。
「今日は生徒会立候補者の締め切りなんだけど……」
「締め切り?」
眉間に皺を寄せた一ノ瀬は何も知らなかったようだ。私が教えなくてもそのくらいは配られたプリントに書いてあったはず。だから私の責任じゃない。
「あれ、プリントに書いてなかったっけ?」
松山先生は純粋な人で、自分に不手際があったのかと顔を青ざめさせた。さすがに罪悪感を抱いたらしく、一ノ瀬が「いやあの」と慌て始める。
「ちゃんと書いてありましたよ」
言うと、「あぁ良かった」と松山先生が微笑んだ。
「すみません、見てませんでした」
一ノ瀬は素直に謝った。
「それでね、集まってほしいの」
渡された紙切れには詳細が書いてあった。「はい」と私と一ノ瀬の台詞が被り、一ノ瀬はまたむすっとそっぽを向く。私だって一ノ瀬のことはもう見たくなかった。
席が近い一ノ瀬はさっさと座り、席が最も後ろにある私は大きな一歩を踏み出す。瞬間につっきーと目が合った。
『ごめん。この話はもう少しだけ考えさせてくれ』
またあの台詞が脳内で再生される。つっきーも同じだったのか、気まずそうに──そして申し訳なさそうに私から目を逸らして俯いた。
ショートホームルームが終わると、話し声や椅子を引く音で溢れる。
「おい」
「え?」
一時間目の準備をしていると、一ノ瀬が私に声をかけてきた。私は顔を上げ、気まずさを隠しもせずぶっきらぼうに「何」と返す。
「これ」
一ノ瀬が差し出したのは、さっきの呼び出しの紙だった。
「これがなんなの?」
「俺、出れねぇから」
「え?」
一ノ瀬にしては珍しく必要最低限のことだけを伝えてきて、踵を返そうとする。そんな一ノ瀬のシャツの袖を私は咄嗟に摘んでいた。
「なんで……」
手を振り払われ、見下ろされる。見下ろすというより見下すという表現の方が正しいその瞳は、ちょっとだけ泣きそうで。
一ノ瀬は無理矢理、私の手にくしゃくしゃにさせた紙を握らせて。
「……仕事だ」
と、そんな瞳で私を睨んで自席へと戻っていった。
なんでそんな瞳をするの? だって貴方はあの一ノ瀬悠でしょう? 意地悪で、猫を被っている、最低最悪の一ノ瀬悠でしょう? そんな一ノ瀬でも、仕事に熱心な一ノ瀬でもない今の一ノ瀬は一体誰?
私の知らない一ノ瀬がまだいることを、私は知った。