第六話 一ノ瀬悠 中編
一斉委員会が終わって、その余韻を感じながら帰路につく。瞬間に視界に入ったのは、俺と同じ通学路を歩いている春日だった。
そういえば前もそうだったな。ということは俺たちは近所に住んでいるんだろうか。
俺は歩く速度を上げた。このペースだったらいつかは追いつく。けれど、追いついたら何を話せばいいのだろう。顔を合わせれば嫌われるような台詞ばかり吐いているのに。
俺は速度を下げた。案の定、春日は俺の存在に気づいていなかった。少しくらい何かの切っ掛けで振り向いてはくれないだろうか。そんな淡い期待はしない方がマシで、春日は永遠に俺のことに気づかなかった。
しばらくして例の公園が見える。正式名称は知らないし、子供が遊んでいる姿を見たことは一度もない。俺は前と同じベンチに腰を下ろした。春日との距離はもうこれで縮まることがなくなったが、不思議とここにいる方が落ち着く。
ぼんやりと茜色の夕日を眺めているのも良かったが、不意に例の仕事を思い出して俺はメモ帳を取り出した。適当に買ったメモ帳はシンプルな作りになっており、俺の固定しないキャラにはこれで充分だろうと思う。
気づけば春日以外の人間にも素を見せるようになっていたが、まだどこか制御しているようで、やはり特別なのは春日だけなのだと思い知った。
頁を捲ると、真っ白な紙が数十枚続いていく。多月に押しつけられた新曲の歌詞を書くという仕事は、まったく進んでいなかった。
(……どうすっかな)
多月には手伝うと言われたが、そんなことをされると癪に障る。
俺はペンを取り出して、箇条書きで曲のイメージを書き綴った。イメージだけなら簡単に出てくる。問題なのは、これをどうするかだ。
──どくん
脈絡なく胸が早鐘を打つ。箇条書きをしたイメージに視線を落とす。意識したつもりはなかったが、そのイメージはどこからどう見ても〝初恋〟そのものだった。
そっと、自分で書いた字を指でなぞる。俺の初恋、さっきの感情は初恋のそれなのだろうか。
ペンを一回転させて次の頁へと進む。ない文才を絞り出して、真っ白なメモ帳にペンを走らせた。
これは不器用な初恋だけれども。俺らしさをちっぽけなメモ帳に込め続けた。
*
その日の夜は仕事が入っていた。
音楽番組の生放送で、いつも以上に気合いを入れなければならないとマネージャーから釘を刺されていたがそんなのは言われなくてもわかっている。楽屋で一人振り付けの確認をしていると、唐突にドアが開いた。
「おっ、悠。今日は早いな」
私服姿の多月が満面の笑みを浮かべてそこに立っていた。多月の利き手である右手には、差し入れだろうか。結構値段がありそうな紙袋が下げられている。
「でしょう? 今日の俺、一番乗りなんですよ」
前回が異例だったのではなくて、俺はいつもメンバーの中では一位二位を争うほどの遅さなのだ。前回のは完全に遅刻だが、他のメンバーが早すぎるだけなのだが。
「偉いなぁ! このまま続けたらきっと皆勤賞だぜ!」
どういう意味だ。
「……皆勤賞って、社会人にもあるもんなんですか? そんなのがあるの学生だけだと思いますけど」
多月の頭の弱さは今に始まったことではないが、よくこれで大学に入学できたなといつも思う。時々多月が裏口入学をしたのではないかと疑ってしまうくらいに。
「ん、そうなのか? 厳しいなぁ、社会は。労ってもいいだろうに」
「遅刻欠勤が社会人にあっていいわけないじゃないですか」
「そうだ、悠。この話は難しいから止めよう」
急にどうした。
止めた理由も理由なせいで、多月の将来が素直に心配になる。だが、このバカキャラで売れているのも否定はできなかった。アイドルを引退したら多月多分はバラエティー番組に引っ張りだこになるだろう。
「別にいいですよ」
「代わりにって言うのはアレだけど、例の歌詞はどうなった?」
返事の代わりに一瞬にして自分の体が硬直する。いつかは聞かれると思っていたが、これはあまりにも早すぎる。報告できることなんて何もない。
「微妙ですね」
少しの間を空けて答えた。
「というか、新曲のサンプルは? それがないと困るんですけど」
「ん? あぁ、そういえばあったなぁ……」
「そういえばって。しっかりしてくださいよ多月さん」
「悪い悪い。それは多分良平が持ってると思うから、後で聞いてくれ」
良平はこのグループ《Vivace》の副リーダーだ。多月と正反対の性格を持つ良平は真面目過ぎる節があるが、二人を並べると上手くバランスがとれていると思う。
ついでにそれも《Vivace》が人気の理由の一つだったりするのだが、俺はそれを認めたくなかった。
「りょう……」
再びドアが開かれる。遮られた台詞をもう一度言う必要はなかった。
「おぉー良平! ちょうど良かった!」
「……なんですか、多月」
同期の多月にも敬語を使う副リーダーは、眉間に皺を寄せてブリッジを上げる。
「そんな顔すんなよ。悠にさ、新曲のサンプル渡してほしいって言おうとしただけだぜ?」
「あぁ、あれですか。すっかり忘れてましたね」
「忘れてたって。止めてくださいよそういうの」
良平は俺を無視して鞄の中に手を入れる。きちんと整理整頓されている鞄の中身のように見えたが、良平がいくら探しても見つからなかった。
「……な、なくしたのか?」
不安と焦りを綯い交ぜにした声色で、多月が良平に声をかける。
「そんなわけないでしょう。すみません悠、どうやら自宅に置いてきたようです。また今度でもいいですか?」
「あぁ、いいですよ」
良平はようやくドアの付近から離れて近くのソファに腰を下ろす。CDを探したせいで散らかってしまった鞄の中身を整理整頓している良平を眺めていると、悠太と明久が二人揃って顔を出す。
「あっれー?! 悠さんじゃないすか! 今日は早いんすね!」
「こんばんは、悠さん」
俺よりも年下の二人は俺を〝悠さん〟と呼んでいる。《Vivace》のメンバーは全員年上の相手には〝さん〟を付けているのだが、何が良かったのかそれさえも女子から人気だった。
「今日は遅れたらシャレにならないからな」
そう言い訳をしたが実際の理由は異なっていた。
メモ帳に書き綴ったイメージや単語があまりにも幼稚で恥ずかしかったから、一刻も早くあの公園から逃げ出したかっただけなのだ。行動したらしたでその要因でもある《Vivace》のメンバーと早々に面を合わせることになったのだが、何もかも後の祭りだった。
「当たり前でしょう」
良平の苛立ちが込められた台詞は悠太と明久を苦笑いさせる。
リハーサルまであと少しになるとやはりメンバーは揃うもので、次は翔平や武彦が到着する。
「今日の最下位は瑛斗だなぁ」
武彦が来た時点で確定していることだったが、多月がわざわざそれを言う。いや、多月のことだ。もしかしたら素で言ったのかもしれない。
俺といつも最下位争いをしているメンバー──同い年で同期の瑛斗は、リハーサル直前になってやってきた。瑛斗は俺を見て驚いていたが、さすがの俺だって歌詞の件がなくても瑛斗より先に来ていた自信がある。
「ちくしょー!」
「まぁまぁ元気出せって。生放送終わったらみんなでこれ食べようぜ」
多月が例の紙袋をメンバー全員に見えるように持ち上げた。すると、主に瑛斗から歓声が上がった。
*
リハーサルも終わり、番組の時間が着々と近づいて来る。《Vivace》の出番はありがたいことに一番最後で、出番はまだ先ということになっていた。
ステージ裏では瑛斗がいつも通り忙しなく動き回っており、今回も良平に叱られている。瑛斗は学習能力はあるのだが、やはりどうしても本番前は緊張で動き回ってしまうらしい。それは、どうにもならない人間の本質的な部分だった。
「つかさ、なんでお前らは平気なんだよ。意味わかんねぇよ」
瑛斗は俺と悠太と明久を見回して、苦々しそうな表情をする。理由は単純明白で、俺が同級生で二人が年下だったからだ。
高一の明久は馬鹿だが《Vivace》の体育会系担当をしており、その点では多月と差をつけている。中三の悠太は最年少のくせに大人びており、瑛斗や明久や多月の馬鹿さ加減もそのおかげで際立っていた。
「平気というか、俺、緊張あんましないんすよね!」
「僕もです。一応子役もやっていたので、そのおかげでもあると思いますけど」
二人の反応は性格からして予想通りだった。瑛斗は悔しそうに顔を歪め、縋るように俺を見る。
「俺も子役はやってたな。でも、緊張は普通にする。だから瑛斗、あんま気にすんなよ」
本当に思っていたことを口にしたが、やはり口調は偽りの自分だった。素の俺ならば数倍は口が悪くなっているはずだ。
「悠、あんがとな! やっぱ悠の言葉が一番いいぜ!」
瑛斗がバシバシと俺の背中を叩いて笑った。ということは、もう緊張はなくなったということだろう。
「けどなぁ、やっぱお前らが羨ましいよなぁ」
なぁ、瑛斗。本当に悔しいのは誰だかわかるか?
本当に羨ましいって思っている奴がいること、お前は知ってたか?
俺とお前は同い年で同期だけど、なんでお前だけボーカルなんだ?
なんで俺たちはバックダンサーなんだ?
悠太と明久は新曲の件を素直に喜んでいたが、俺は同情されたような気がしていた。
「……お前ら、そろそろ本番だ」
唇の前に人差し指を立てて、武彦が注意をする。隣の翔平は今日も眠そうだ。
大学一年の二人が大学三年の多月と良平の背中に視線を向ける。俺たちの間にも、ある程度の緊張が走った。
「お前ら、行くぞ」
多月は本番直前になると決まってそう言う。良平曰く多月なりの励ましの言葉らしいが、俺にはかっこつけているようにしか見えなかった。
俺たちはいつも返事をする暇もなくステージに飛び出す。眩しいスポットライトが俺を、《Vivace》を、照らしていた。
*
汗だくのまま楽屋に戻る。派手すぎる衣装は吸水性があまりなく、暑くて暑くて死にそうになる。だが、瑛斗や明久がそれに関してぶつぶつと文句を聞く方が嫌だった。
「ほらほら。終わったんだからパーっと行こうぜ!」
手を叩いて多月が珍しくリーダーらしいことをする。
「そういや多月さん! 差し入れ差し入れ!」
「あぁ、そうっすね! 差し入れってなんなんすか?」
つくづく思うが、この二人は意地汚くやはり馬鹿だ。
「意地汚いですよ、瑛斗、明久」
良平が、俺が思ったことをそっくりそのまま口にした。だが、俺と違って良平はなんでもかんでも言葉にして相手に伝える鬼だ。
「うぃーっす」
明久は口をへの文字に曲げて気のない返事をした。良平は肩を竦めて、多月は苦笑した。
「ほら」
紙袋から取り出されたのはゼリーだった。色とりどりのそれは、八つある。俺たちにイメージカラーなんてものはないが、どれもが違う色をしていた。
「おぉー!」
瑛斗が瞳を輝かせて真っ先に手を伸ばす。その手を掴み、瑛斗を制した。
「なんだよ、悠」
瑛斗はあからさまに唇を尖らせて不満を漏らす。
「こういうのは年上か年下からだろ、普通」
「あぁ、そっか。悪い」
あっさりと瑛斗は手を引っ込めて、眉を下げた。
「すんませんでした! どうぞ。えーっと、多月さんと悠太?」
「……なんで疑問系なんですか、瑛斗さん」
悠太が頭を抱えて瑛斗を見上げる。そのまま瑛斗から視線を逸らして多月を見た。
「どうぞ、多月さん」
「え、いいのか?」
「そもそも多月さんが持ってきたんしょー」
真っ先にソファに座っていた翔平が手をひらひらと振る。
多月はしばらく逡巡して、「じゃあ」と手を伸ばした。多月が手にとったのは、赤色のイチゴ味だった。
「おぉ、ヒーローカラーじゃん! 多月さんも赤色好きなんですか?!」
「いや。俺、イチゴ味が好きなんだよ」
多月が嬉しそうにイチゴ味の良さを語る。最後の方は誰も聞いてなかったが。
「じゃ、次、良平さんな!」
良平は迷わずコーヒー味を選んだ。平然とブリッジを上げてすぐに場所を空ける。間髪を入れずに翔平と武彦が中を覗いた。
「翔平、お前は?」
「んー……? じゃあこれで」
翔平は自分の位置から一番近い場所にあったブルーハワイ味を、武彦はブドウ味を選ぶ。
「じゃ、俺たちだな!」
屈託なく笑う瑛斗に引っ張られ、俺は視線を箱に落とした。残っているのは、オレンジ味とピーチ味とキウイ味──そしてレモン味だ。
「じゃあ俺オレンジ!」
「じゃあ、レモンで」
照明に照らされた黄色いレモンのゼリーは、妙にキラキラと輝いている。瑛斗はオレンジのゼリーを見つめて、瞳の方を輝かせていた。
年齢順だと次は明久だが、明久は瑛斗が俺にしたのと同じように悠太を引っ張る。
「悠太、俺キウイでいいか?」
「いいですよ」
明久が気を利かせてピーチのゼリーを悠太に渡すと、悠太は薄桃色のゼリーを眺めて微笑んだ。
「よし。これで全員貰ったな」
「おう!」
瑛斗の返事に多月は笑い、ゼリーを掲げた。
「じゃ、かんぱーい!」
「……乾杯?」
良平が眉を顰める。
「細かいことは気にすんなって!」
俺も含めた全員が苦笑した。多月はいつも適当なことを言うが、それは今さらだ。
結成二年目の俺たち《Vivace》は、多月に倣ってゼリーを掲げる。
「かんぱーい!」
そして、瑛斗と明久が多月に続いた。
掲げられた色とりどりのゼリーは、ありもしない俺たちのイメージカラーのようで。多分俺は、今日という日ほど《Vivace》で良かったと思った日はないだろう。
蓋を開けて、プラスチックのスプーンを柔らかいゼリーに沈める。レモンの香りが広がって、他のゼリーの香りと混じった。
「めっちゃ上手いっすね、これ!」
「だな! 一個じゃ足りねぇよ!!」
「だろー」
《Vivace》の馬鹿組が、次々に好き勝手な感想を述べる。まだ食べていない俺は内心で毒を吐き、ゼリーを口に運んだ。
酸っぱすぎず、甘すぎない。その絶妙なレモンの味が口内に広がる。
不意に、初恋はレモンの味だとどこかで聞いたことがあるのを思い出した。
*
その日の帰りは良平に車で送ってもらうことになった。ついでに良平の自宅にあるサンプルCDを受け取って来い、と多月に言われたせいなのだが。
他人の車に乗るのも良平と二人きりになるのもどちらかと言えば苦手な部類に入るのだが、そんなことも死んでも言わない。だが、良平には勘づかれていたようだった。車内にはなんとも言えない沈黙が続く。だから良平と二人きりは嫌なのだ。
「もうすぐつきますよ」
プライベートでも敬語なのだろうか。良平は事務的にそう告げた。
「わかりました」
釣られて俺も必要最低限のことしか返さない。
車内から見える窓の外を景色を眺めると、日は随分と前に暮れていて、都会の夜景が遥か遠くまで広がっていた。
「ここです」
良平は車を車庫には入れず、すぐに戻ってくるとだけ告げて自宅に入る。良平は実家で暮らしているようで、いくつもの窓から明かりが漏れているのが見えた。
しばらく車内で待っていると、良平が車の窓を軽く叩く。右手にCDを持っていた良平は軽く手を上げ、そのまま運転席に身を屈めて入り、それを俺に手渡した。
「ありがとうございます」
「いえ、忘れていたのはこちらなので。すみません」
良平はブリッジを上げて、車を発進させる。
「良平さん?!」
「なんですか。言ったでしょう? 送っていくと」
「え、あ、あぁ。はぁ……じゃあ、お言葉に甘えて」
助手席の俺は正面を向いた。
今日の生放送はどうだっただろうか。俺は相変わらず踊ってばかりだったけれど。鞄に入れた新曲のサンプルが、俺をどんな未来に連れていくかわからないけれど。
「……悠、何かいいことがありましたか?」
「別に?」
窓に映った俺は、少しの微笑みを湛えていた。偽りではなくて、心の底からの笑みだった。
「良平」
「はい?」
「俺、やってやるよ」
良平はしばらくの間黙っていた。その沈黙で、俺が素を出してしまったことに気づく。
「すみません! 聞かなかったことに……」
「ようやく本心を見せましたか」
「……え?」
思わず運転席の良平を見ると、良平も珍しく微笑んでいた。