第五話 櫻井翼 中編
委員会には入らなかった俺は進路係になっていた。選んだ理由は特にない。強いて言うなら余っていたからだった。
係になったからといって、今年も生徒会に立候補するつもりはない。俺は生徒会に飽き飽きしていたのだ。思い返してみれば、一年だった俺は右も左もわからないまま雑用を押しつけられていた。その時に春日と出逢ってしまったから必ずしもそれが嫌だとは言い切れないのだが、生徒会のおかげで奪われた時間はほんの少しどころでは済まなかった。
別に達成感がなかったわけではないが、心の底からやって良かったとは思えない。そもそも立候補した理由が親からの期待と友達からの推薦だったのだ。当然そこに俺の意思はなく、生半可な気持ちでやっていたのだ。
だから俺は、生徒会には立候補しない。
そう決めて、一斉委員会がある今日はさっさと帰ろうと思っていた。
「櫻井」
教室から出た瞬間、誰かの声に引き止められて足を止める。腕を組んで不機嫌そうに立っていたのは、生徒会長の山南一先輩だった。
「なんですか?」
通行人の邪魔にならないよう廊下側に移動しながら言葉を返す。瞬間に出てきた春日と一ノ瀬が纏う雰囲気はあまりにも近寄りがたく、俺は一瞬怯んでしまった。
「お前、生徒会に立候補しないって本当か」
俺より少し背の低い山南先輩は、咎めるような口調の声を出していた。立候補はしないと決めていたが、現役の山南先輩に面と向かって聞かれると答え辛くて仕方がない。喉に何かが引っかかったような違和感を覚えた。
「…………はい」
やっと出てきたそれが裏声ではないだけまだマシだろう。山南先輩は眉間の皺をさらに寄せて、言葉を探しているように口を開けたり閉めたりを繰り返した。
「……何故だ?」
ようやくそれだけを絞り出して、山南先輩は口を閉ざす。
俺は山南先輩の問いかける瞳を直に浴びながら、迷った。けれどそれは一瞬のことで、俺は初めて他人に自分の不満を漏らすことにした。
「仕事が嫌だからです」
「それは」
「勘違いしないでください。……正確に言えば、俺が嫌なのはそれを押しつけられたことですから」
山南先輩が何を思ったのかはわからない。視線を落として、考えるように、腕を組んでいる。
「俺の学年の生徒会メンバーが俺しかいないのはわかっています。だから仕事が俺に集中していたのも」
わかっていて俺は生徒会を拒んだのだ。理由の中には子供のような意地もあったのかもしれない。
「悪かった、櫻井」
山南先輩は頭を下げて謝った。上げた時の表情は、山南先輩にしては珍しく苦汁に満ちている。
「もう終わったことですし、止めてください」
頼まれたら断れない性格が自分の首を絞めたのだ。だから、山南先輩を責めるつもりも謝罪を求めるつもりもまったくなかった。
山南先輩は視線を窓の外に向けてため息を吐く。
「終わったこと、か」
再び俺に戻したその瞳には、新たな疑惑が生まれていた。
「櫻井がそう思うなら立候補しないのを納得することはできないな。だって矛盾しているだろ?」
俺には返す言葉がなかった。山南先輩に痛いところを突かれて黙っていた。
「……自分でもそう思ってるみたいだな」
自分からは何も言うことはないと悟ったのか、山南先輩は言葉を繋げる。自分の心情を代弁された気になってなんだか落ち着かなかった。
「立候補までまだ時間はある。……考えといてくれ」
それは、山南先輩の切実な願いだった。俺は言葉にならない声を漏らして、立ち去る山南先輩の背中を見送った。
*
俺たち二年の教室がある二階から、三年の教室と下駄箱がある一階まで下りていく。一斉委員会中ともあり、三年の教室のいくつかは生徒が議論する声が聞こえていた。
「櫻井じゃん」
意外そうな声が後ろからかかって振り返る。そこには生徒会メンバーの一人、副会長の木倉紗幸先輩がいた。
六人いる生徒会メンバーのうち二人とたった一日で出会うなんてどんな偶然だろう。
「こんにちは、木倉先輩」
木倉先輩は長い髪を揺らして、くるくると指先で弄っていた。
「ねぇあんた、一から聞いたんたけどさぁ」
びくっと肩が勝手に跳ねる。木倉先輩は山南先輩から一体何を聞いたのだろう。
「生徒会に立候補しないってマジ?」
特に責めるわけでもなく、木倉先輩は世間話としてそう尋ねた。山南先輩はそういうことにうるさいが、木倉先輩にとってはたいしたことではないのだろう。
「はい。そうですよ」
「へぇー。まぁ、生徒会ってだるいもんね」
木倉先輩がそう思っているから余計な仕事が俺に回ってきたのだろうと今だから思う。山南先輩はこの人が副会長でよく今までやって来れたな。やって来れなかったのかもしれないが。
「木倉先輩はなんで生徒会に入ったんですか?」
「ん? 私? そんなの内申点を稼ぐ為に決まってんじゃん」
当たり前のような表情で木倉先輩が言い放った。
木倉先輩の性格を考えて、誰かの為にという類いのものはないと考えてはいたが──そう来たか。
「木倉先輩らしいですね」
「おう」
俺は決して先輩を褒めているわけではない。けれど先輩は、ニカッと笑って俺に答えた。
「……あ、紗幸と櫻井君だ。珍しいね、二人一緒だなんて」
階段を下りてきたのは同じ生徒会メンバーの青柳玲奈先輩で。彼女は会計として俺たちと共に仕事をしていた仲間だった。
「たまたまここで会ってさぁ」
木倉先輩は青柳先輩の顔を仰いで説明する。
「それ以外で俺が木倉先輩と会うわけないじゃないですか」
「おい、さりげなく失礼じゃね?」
青柳先輩はくすくすと笑って、階下にいる俺たちと並ぶ。背の高い木倉先輩よりも頭一個分背が低い青柳先輩は、儚げな雰囲気を纏う唯一無二の生徒会メンバーだった。
「立ち話でもしてたの?」
「まぁ、そんなところです」
青柳先輩からも生徒会のことを話されたくなかったせいで曖昧に答える。が、空気が読めないのがこの人で。
「櫻井の立候補の話だよ」
青柳先輩は「あぁ」と木倉先輩を見上げて声を漏らした。どうやら彼女もその話を知っているらしい。
「じゃあ、やっぱり噂は本当だったんだ」
責めるわけでもなく、驚くわけでもなく、青柳先輩は申し訳なさそうにそう言って。
「……はい」
俺は青柳先輩からも木倉先輩からも視線を逸らしてしまった。
「櫻井君、そんな顔しないで」
頬に温もりを感じた。俺の頬に触れたのは青柳先輩だった。青柳先輩は俺の顔を無理矢理自分に向けさせる。
そんな顔って、どんな顔だ。俺は目を細めた。
「櫻井君は悪くないわ。悪いのは私たち三年よ。……ごめんね、先輩なのに、なんにもできなくて」
「玲奈……」
「言い訳に聞こえるかもしれないけど聞いてくれる? 実はね、私たち三年も初めてだったのよ」
「は、初めて?」
その事実は俺に小さな衝撃を与えた。木倉先輩は気まずそうにそっぽを向いている。
そうだ。木倉先輩はずっと、前もやっていた素振りをしていたではないか。あれは、要するに知ったかぶりだったということなのだろうか。
「私たちも櫻井君と同じ。右も左もわからなくて、自分のことで精一杯で、後輩の櫻井君に教えることなんて何もなくて。それで、追い詰めちゃったのよね。本当にごめんなさい」
頭を下げられたわ。木倉先輩は逡巡して、「悪かったな」と言葉を絞り出す。
「……青柳先輩、木倉先輩。謝らないでください。というか、それに気づけなかった俺にも責任ありますし、そうならそうと言ってくだされば……」
「言える訳ないだろ、バカか」
防ぐ暇もなく木倉先輩にデコピンをされた。
「……先輩の、くだらない意地だよ」
彼女は顔を伏せて逃げるようにこの場から去る。青柳先輩はその後ろ姿を見届けて、再度俺に視線を戻した。
「がっかりした?」
その瞳に後悔なんてものはなかったが、青柳先輩は後ろめたさを感じているのか、なかなか視線が合わなかった。
「…………いいえ」
俺はそれだけを言葉にして、青柳先輩に一礼する。青柳先輩も何も言わなかったが、俺の中に何かを感じたのだろう。顔を上げると彼女が少しだけ安堵していた。
「お疲れ様でした」
つい癖で出てきてしまった、決まり文句のような言葉で俺たちは別れた。
三人の先輩に会って。
事実を知って。
俺はふと、自分が立候補しなければ同じことが今年度も起こるのだと思ってしまった。