第三話 一ノ瀬悠 前編
「……無視かよ、おい」
自分でもびっくりするような声を出していた。震えた子犬のような声。慌てて口を塞ぐが、あいつには聞こえていなかった上に俺のことを見てもいなかった。
あいつにとって俺はこの程度の存在なのだと嫌というほどに思い知った。項垂れ、感情のままに髪の毛を掻き乱す。そんなことをしても無意味だと知るまでに数秒を要した。鞄を持ち上げて歩き始める。
アイドルをやっている俺はあの日、元いた学校では活動に支障をきたすとして家が近いこの学校に転校してきた。そこで出逢ったのがあの憎たらしい春日美月だったのだ。
俺を睨んだ、そのたった一つだけの事実があまりにも衝撃的で忘れることができなかった。
子役として育てられていた俺は素質を見込まれてアイドルに路線変更し、今日まで生きてきた。甘やかされて育てられたわけではない。親が厳しかったからこそ、外では猫を被り続けていた。
周りに合わせなければならない。出る杭とならないように。なのに睨まれたのだ。出逢ったばかりの女に。
その日から俺は、あいつの前では猫を被ることを止めた。
「……ただいま」
「お帰りなさい、悠。夕方からきちんと事務所に顔を出すのよ」
「わかってる」
まるで俺が顔を出していないかのような言い方だ。だが、これが俺の母親でこれが俺の日常だった。
*
フードを深く被り、渋谷の街を歩く。行き交う人々は誰も俺に気づかなかった。みんなみんな自分のことで精一杯なのだろう。そんな顔をしていた。
所属する事務所の前に辿り着くと、待ち構えていたマネージャーが俺の服の袖を強く引っ張る。その気持ち悪さに一瞬眉を顰めたが、三十代後半のおばさんマネージャーは気づかない。俺はすぐに申し訳なさそうに眉を下げ──
「遅れてすみませんっ!」
──心にもない謝罪をした。
「本当よ。まぁ、五分だけだから今回は強くは言わないわ」
馴れ馴れしく背中を叩くマネージャーには、前を歩く俺の顔は絶対に見えない。見えたとしても──と、ガラス張りの壁に視線を移す。そこには自分でも一瞬怯むほど冷たい表情をした俺が映っていた。
(ムカつく)
行き場のない苛立ちを、俺はその場所できちんと殺した。今よりも幼い俺が、心の中で黙ってそれを見つめていた。
エレベーターに乗り込んで、目的の階まで上がる。俺は表情を作り、ずっと被っていたフードを外した。
「悠、遅いぞー!」
一番手前の会議室に入ると、一応このグループのリーダーである赤羽多月が注意をする。俺より二歳年上の大学生である多月の言葉と共に、他のメンバーの視線が俺に集中した。
いつも猫を被っている俺は、春日以上に連れ添っているメンバーに対してもそうしていた。自分で言うのも恥ずかしすぎるが、春日だけが特別だった。
静寂の会議室。俺はまた心にもない謝罪する。
「ま、次からは気をつけろよな」
「はい」
多月は俺を一瞥し、他のメンバーの顔をじっくりと見回した。
「で、今日話すのは次の新曲のことなんだけど」
しばらくして口を開いた多月の表情に、四人が真剣な表情で答える。俺は心の中で顔を顰めていた。
このグループは八人いるにも関わらず、歌うのは多月を含む五人のみ。俺を含む他の三人はただのバックダンサーで、歌わずにずっと踊るのみ。
(俺ら関係ねぇじゃん)
ボーカル組は新曲のイメージを好き勝手に言い合っており、ダンサー組は隅の方で黙ってそれを聞く。俺以外の二人はつまらなそうな表情をしていたが、俺は笑顔を貫いていた。
「……で、今回は三人にも歌ってもらおうかと思ってるんだけど、どう?」
一生聞けるわけがないと決めつけていた台詞が聞こえてきた気がする。ただただ驚いていると、ニッと笑う多月と目が合った。
他のボーカル組もそんなのは初耳だと言わんばかりに驚いている。多月の単独行動か──俺は瞬時にそう思った。
「なんだそれ! 俺ら聞いてねぇぞ?!」
一番最初に声を上げたのは、ボーカル組の荒滝瑛斗だった。俺と同い年の瑛斗は、その荒々しい声からしても怒っているのがよくわかる。
「多月、きちんと説明してくれますよね?」
眼鏡のブリッジを上げた木崎良平は、同じくボーカル組で。冷静な声とは裏腹に眼鏡の奥の瞳には抗議の色が映っていた。
そんな二人に動じもせずに、多月は両手の甲で顎を支えて口を開く。
「俺らっていつも同じ感じじゃん。歌うメンバーも、踊るメンバーも、曲調だってそう。だったらいつかファンに飽きられる。それは目に見えてわかることだろ?」
多月の言うことは一理あった。瑛斗も良平も同感だったのか、口を閉ざしたままだった。多月はさらに続ける気なのか、「だから」と再び俺らを見回す。
「新しいことをやりたいんだ」
続けた割りには簡潔に終わった。ただ、多月の言いたいことはメンバーの心にきちんと届いていただろう。
さすがの俺もそう思った瞬間は多々ある。猫を被っていたから気づけたこと。何もかもを嫌い周りにまったく興味が持てない俺だったら気づけなかっただろう。
「……多月さんの言いてぇことはわかった」
瑛斗は後頭部に両手を回して、何もない天井を見上げる。良平も缶コーヒーを持ち上げて、「それならば異論はありませんよ」と言った後に飲み干した。
「悠たちも何か言いたいことはあるか?」
急に振られた話題に、ずっと言いたくてうずうずしていたのであろう島津明久が身を乗り出して食いつく。
「ないっす! つか、多月さん最高っすよ! 俺、歌うの頑張りますんでよろしくっす!」
やたらと「っす」を連呼する辺り、余程テンションが上がっているのだろう。
「僕もないですよ、多月さん。一つあるとするならば、もっと早く言ってほしかったくらいです」
十四歳の最年少、宮崎悠太がニコッと笑った。多月の視線が俺に来たのを肌で感じて、俺も悠太と同じような笑顔を作る。
「悠太の意見には激しく同意ですね。けど俺、そんな多月さん嫌いじゃないですよ」
最後のは嘘だ。人として多月みたいなのは好きじゃないが、仕事としてなら結構いい奴だと思う程度。
他のボーカル組二人もそんな多月の意見に賛成しており、多月は全員の同意を得られたことに満足していた。
「じゃあ改めて、今回の新曲を考えよう。先に言っとくが、今まで通りじゃダメだぞ」
人差し指を立てて注意する多月に、それぞれ異なった返事をする。
「……今まで通りって、逆に何歌ってたっけ?」
ぼそっと聞こえない程度に菅野武彦が発言した。
「言われれば……なんだっけ?」
瑛斗が首を傾げる。
「意味不明な愛の告白の羅列、ですね」
良平が顔を顰めてそう答えた。明久と悠太の表情を確認すると、「そうだっけ?」と書いてある。ダンス組とはいえ歌詞くらい覚えとけよとは思うが絶対言わない。
「まぁ、アイドルの曲ってほとんどがそんなんっしょ」
今泉翔平が、頬杖をつきながら眠そうに正論を言った。翔平は常にそうだから今さらその態度がどうとは思わない。全員の意見を聞いて何を思ったのか、瑛斗が急に後頭部に回していた手を下ろして──
「じゃ、意味不明じゃなきゃいいんだな!」
──と、解決になっていないことをドヤ顔で告げた。
「それこそ意味不明じゃないですかぁ?」
呆れた顔で悠太がつっこむ。素直な瑛斗は苛立ちをまったく隠さなかった。
(子供かよ)
悠太の方がよっぽど大人に見える。
良平に止められるまで瑛斗はずっと不満そうだった。止められて不満がなくなるというのもおかしな話だが単純な瑛斗らしい。
「つか、やっぱ今回もラブソングなんすか?」
明久が多月を見ながら尋ねる。多月は一瞬迷った後、「どうする?」と俺らを見て頬を掻いた。
「そこは断言するっしょ、普通」
さすがの翔平も目を見開きながら多月につっこむ。普段無口な武彦は数回頷いて反応を示す。
「えぇ……だって、俺だけで決めていいのかなぁって」
「今さら何を言ってるんですか」
そう、今さらだ。多月は物事を今さらやるということに長けているのかなんなのか。俺のため息混じりの台詞に全員が頷くと、多月はわざとらしい笑い声を上げた。
「あ、そうだ。悠はどうしたいんだ?」
「え? 俺?」
「だってお前、あんま意見を言わないからさ」
「そうですね……」
初めて歌うことになって、俺はどうしたいのだろう。先ほどから脳裏に映っていた春日が、俺をじっと見つめていた。
「……歌うなら、ちゃんとしたやつがいい、です」
あ、ヤバい。顔が熱い。
無意識に利き手である右手で口元を隠すが意味はなかった。というかこれじゃあ、瑛斗の意見と何も変わらない。
「そりゃみんなそうだろーが」
瑛斗が小指で耳を掻きながら全員の言葉を代弁した。「何言ってんだコイツ」という表情をあの瑛斗にされて屈辱に近い感情を味わう日が来るなんて。最悪だ。
「要するに、悠さんが言いたいのは真っ直ぐな愛の告白ですか?」
座っている悠太が、まだ立っていた俺を見上げる。
「んなわけ……!」
反射的に反論しようとして素が出てしまった。
慌てて唇を噛むが、多月が「俺、お前の言いたいことわかったから」と今にも言いそうな笑みを浮かべていることに気づいてさらに苛立つ。
「違うよ」
「悠、その顔は説得力がありませんよ」
またもブリッジを上げる良平は、眉を八の字に下げて笑みを零した。瑛斗に明久、悠太に加えて翔平までニヤニヤと口角を上げながら俺を見ていた。
「……まぁ、頑張れ」
「は?!」
さらにあの武彦が意味不明なエールを俺に送る。何なんだ今日のメンバーは。いつも以上に息ぴったりで気持ちが悪い。
「じゃあ、歌詞は悠で決まりだな」
「さんせー!」
「ちょ、待ってください! なんで俺なんですか?!」
必死になって反論するが、悠太がきょとんとした表情で首を本当に不思議そうに傾げた。
「なんでって、言い出しっぺだからに決まってるじゃないですか」
「言い出しっぺって言われるほど意見出してねぇよ!」
「諦めなさい、悠」
良平の一言が皮切りとなったのか、武彦が立ち上がり鞄を持って帰っていく。
「じゃ、お先にっす!」
「お疲れ様でした~」
次いで明久と悠太が。そして翔平と瑛斗が会議室から出ていき、すぐ傍のエレベータが彼らを階下に連れ去る音を聞いた。
「じゃあ、頑張ってください」
本当にそう思っているのだろうか。無表情の良平が出ていった直後に缶コーヒーがゴミ箱の中に捨てられる音がする。
「頑張れよ、悠。俺も手伝うからさ」
屈託なく笑う多月にだけ、俺は内心で悪態をついた。これだから多月は嫌いなんだと。
「遠慮します」
鞄を肩にかけ、なるべく乱暴に扉を閉めた。良平と一緒のエレベータに乗るのは気が引けて、近くにある自販機の隣のソファに腰を下ろす。
フードを再び目深に被り、無意識に胸の辺りを鷲掴んだ。どうすれば良いのかわからなくなるのは春日美月で充分だった。